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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第一章「素描」
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 朝から、教室の音の作りが昨日と違っている。扉を開けた瞬間に話し声の音量がひとつ下がって、僕が席へ向かうあいだだけ薄くなり、座るとまた元の厚みへ戻る。机の列を三つ横切るあいだに、話していた二人が黙り、椅子の脚が床を擦り、後ろで小さな笑いが上がってすぐに引っ込んだ。


 笑ったのが誰なのかも、何を笑ったのかも、僕には掴めない。掴めるのは、その笑いが引っ込んだという一点だけだ。放っておかれるより、引っ込まれるほうがずっと居心地が悪い。顔が見えないぶん、僕はこういうものにばかり敏感になってしまって、想像だけが際限なく膨らんでいく。


 昼休みに女子が二人、僕の机まで来た。一人は腕を組み、もう一人は細長い水筒を握っている。腕を組んでいるほうは声が低くて語尾を短く切り、水筒のほうは早口で語尾が上がる。どちらも記憶にはない声だった。


「なんで(しずく)のこと振ったの」

「昨日、ずっと泣いてたんだけど」

「……ごめん」

「いや、そういうんじゃなくて」

「理由聞いてんの。呼び出されて、ちゃんと来たんでしょ。じゃあ話くらい聞いてあげてよ」

「顔も見ないで返事したって聞いたけど」


 水筒が机に置かれる硬い音がした。顔を見なかったんじゃない。見ても分からなかっただけだ。そう言ったところで、この場の何ひとつ変わらないし、たぶん明日の教室がもっと面倒になる。


「ねえ、聞いてんの」


 聞いている。聞こえすぎるくらい聞こえている。頭の中でだけ言葉が(あふ)れて、口の外へは何も出ていかない。呼吸が浅くなって、脳の奥が熱を持ち始めた。


「おい、(さく)。何ボーッとしてんだよ、早く飯行こうぜ」


 後ろから、場違いに軽い声が差し込んだ。聞き間違えることのない声だ。幼馴染(おさななじみ)杉本奏多(すぎもとかなた)。長身の彼が前に出ると、息巻いていた二人が反射的に一歩下がる。


「腹減ったんだよ。早く行かねえと焼きそばパン売り切れる」

「ちょっと、今それどころじゃ」

「わりぃな。俺らの飯のほうが大事なんで」


 行くぞ、と有無を言わせず肩を組んでくる。


「は? 逃げんの?」

「最低」


 背中に刺さる声を置き去りにして、僕たちは教室を出た。階段の踊り場まで来たところで、奏多がその場に崩れ落ちる。


「あーーー! クッソ怖かったわ! なんだよあれ、貫禄ありすぎだろ。般若かよ」

「さっきまでの余裕は」

「あんなもん演技に決まってんだろ。心臓耳から出るかと思った」


 大げさに胸を叩いている奏多を見て、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。吸い込む空気が冷たくて痛い。


「ありがとう。奏多がいなかったら八つ裂きにされてた」

「気にすんな。絵描いてる時以外、基本ポンコツなんだから仕方ねーよ」

「……それ、慰めてる?」

「おうよ。親友特製の最高級のやつだ。ウジウジしてないで行くぞ」


 購買は、いつも通り階段の途中まで列が伸びていた。二階にひとつしかない売店に全校の生徒が押し寄せるのだから、少しでも遅れるとこうなる。釣り銭を数えるおばちゃんの声と、生徒のざわめきが混ざり合って、吹き抜けに反響していた。おにぎり一個とお茶を取る。


 具が何なのかは見ていない。胃に入れば何でもよかった。隣を見ると、焼きそばパンが売り切れていたと騒いだ奏多が、カレーパン、カツサンド、ジャムパン、いちごミルク、コーラと迷いなく抱え込んでいる。炭水化物と砂糖ばかりで、見ているだけでこちらの胃が重くなる。


 小学生の頃から、漫画みたいな盛り方の飯を三杯平らげるようなやつだった。おかげで、気がついた時には僕より頭ひとつ分背が高くなっている。あの量で蓄えたエネルギーの使い道は、いまだに謎のままだ。


「お前、それで足りんの」


 僕の手元を見て言う。ありえねえ、という声だ。いや、どう考えてもそっちのほうがおかしい。


「……まあ」

「だから朔はもやしなんだよ」

「もやしにも栄養はあるらしいけど」

「知らね。俺は肉の側だから」


 わざとらしい言い方に、少しだけいつもの調子が戻ってくる。会計を済ませて列から外れると、廊下はパンの袋を抱えた生徒でごった返していた。まだ春だというのに、空気が人肌の温度をしている。奏多はそちらを一瞥しただけで、反対側へ曲がった。


「学食は」

「今から行っても席ねえだろ。うるせえし」


 人気の少ない特別教室棟まで来ると、さっきまでの喧騒(けんそう)が遠のいた。窓から差し込む昼の光が、誰もいない廊下に長く伸びている。奏多が扉をつま先で押し開けた。中には誰もいない。ここを選んだのは、たぶん偶然じゃない。何も気にしていないような顔をして、この男は人のことをよく見ている。


「で? 昨日、雫ちゃんと何があったんだよ」


 椅子にどかっと座り、抱えてきたパンを机に並べていく。どれから食べようかと手を擦り合わせるのは、こいつの昔からの癖だ。


「告白されて、振った」

「……いや、端折りすぎだろ」

「これだけなんだよ。話したこともないし」

「一日で起きたこととしては濃すぎるって」


 奏多が(あき)れた声でカレーパンの袋を開ける。僕もおにぎりの包みを剥がした。


「なんて言われたとか、なんて返したとか、あるだろ普通」

「好きです、付き合ってくださいって」

「うっわ。直球だな」

「それで、付き合えないって」

「お前もだいぶ直球じゃねえか」


 黙るしかなかった。何も考えられなくなって、口から一番先に出た言葉がそれだったのだ。少し待ってほしいとか、急で驚いたとか、ちゃんと話したいとか。今ならいくつも浮かぶのに、あの場では一つも浮かばなかった。


「で、雫ちゃんは」

「理由聞かれて、答えたら、走っていった」


 答えた瞬間、昨日の光景が戻ってくる。途中で途切れた僕の言葉。遠ざかる足音。追いかければまだ間に合ったかもしれないのに、僕はその場から動けなかった。何も伝えられないまま、傷つけただけで終わった。


「ほらな。色々あんじゃねえか」

「……うん」


 どうして人は他人の恋愛をそんなに知りたがるのだろう。姉の怜奈(れいな)が一時期見ていた恋愛リアリティショーなら、まだ分かる。あれはフィクションだと、業界にいる怜奈本人が言っていたのだから。


「でもさ、学校一可愛いって言われてる子を振るのはねえよ。女優もやってんだぞ」


 中原(なかはら)さんのことを、僕は何も知らない。学校一可愛いと言われている相手を振ったのなら、噂になるのは当然なのかもしれない。いや、待て。


「今、女優って言った?」

「言ったけど。学校じゃ誰も騒がねえけど、知ってるやつは知ってる」

「知らなかった」

「嘘だろ」


 同じ学校に芸能人がいて、それを知らない。人に興味がなさすぎると言われても、返す言葉がない。


「この前も深夜ドラマ出てたな。おっさん刺し殺してた」

「情報の出し方が最悪だろ」

「いや、マジで演技上手かったんだって。無表情で刺しまくるの。こう、グサグサって」


 奏多がカツサンドを片手に上下運動を始めたので、僕はそれを押さえた。


「再現するな。昼飯時にする話じゃない」

「芸術は爆発なんだろ」

「……そういう意味じゃないから」


 多分、こいつの食欲は多少の流血表現では揺るがない。


「で、タイトルは」

「知らん」

「知らないのかよ」

「母ちゃんが見てたの横で見ただけだしな。でも雫ちゃんってのはすぐ分かったぞ。超可愛いし目立ってるから、学校でも」


 そこで奏多はカツサンドを机に置いた。声が少しだけ真面目さを帯びる。


「で、なんで振ったんだよ。性格もいいって有名だし」

「……分からないんだよ」

「何が」

「中原さんのこと」


 言葉が続かなかった。欠けているという事実を音にしたくなくて、僕は椅子にもたれて顔を手で覆う。


「……ああ、そういうことか」


 奏多は短く、納得したように言った。それ以上踏み込んでこないところが奏多らしい。普段は土足で人の会話に入ってくるくせに、こういう時だけ勘がいい。


「小四のときに一回聞いたな。お前がそれ言ったの」

「覚えてたんだ」

「忘れるかよ。あんとき俺、嘘だと思ってお前泣かせただろ」


 カツサンドの残りを口に押し込みながら言う。あれから奏多はその話を一度も持ち出さなかったし、僕に説明を求めたこともなかった。


「まあ、聞いたところで俺、何すりゃいいのか分かんなかったしな」

「別に、何もしなくていいんだよ」


 奏多は少しのあいだ黙って、それからストローの袋を几帳面(きちょうめん)に折り畳んだ。


「一個だけ聞いていい」

「うん」

「俺の顔、ほんとに見えてねえの」

「見えてない」

「……えぐいな」


 それだけ言って、カレーパンに戻る。可哀想とも、大変だなとも言わない。この男はいつもそうだ。感想を言うだけ言って、勝手に納得して、次の話に移る。その雑さが、僕にはちょうどよかった。だからこいつは、いつも僕の名前を先に呼ぶ。教室でも、廊下でも、後ろからでも。


 声さえ聞こえれば僕は迷わない。たぶん、意識してやっているわけじゃない。


「仕方ねえか。でも、もうちょい話してからでも良かったんじゃね」

「……そうかも」


 それきり、会話が途切れた。各々の口を動かす音だけが響いている。しばらくして、奏多がいちごミルクを軽く押し出してきた。


「これ、やるよ。恵んでやる」

「恵むって、言い方」

「あるだろ。俺は寛大だから」


 戸惑いながら受け取る。ジュースを飲むのはいつぶりだろうか。ストローを差して吸ってみると、思っていたより甘さは控えめで、牛乳のまろやかさの中にいちごの香りがある。


「……美味しい」

「うまいだろ。いつもはすぐ売り切れんだけど、運良く残ってた」


 奏多はコーラのキャップを回して、炭酸の抜ける音を立てた。最初から僕に渡すつもりで買っていたのかもしれない、と思ったのは、それから少し経ってからだ。本人に聞けば、余ってたからとでも言うのだろうけど。

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