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朝から、教室の音の作りが昨日と違っている。扉を開けた瞬間に話し声の音量がひとつ下がって、僕が席へ向かうあいだだけ薄くなり、座るとまた元の厚みへ戻る。机の列を三つ横切るあいだに、話していた二人が黙り、椅子の脚が床を擦り、後ろで小さな笑いが上がってすぐに引っ込んだ。
笑ったのが誰なのかも、何を笑ったのかも、僕には掴めない。掴めるのは、その笑いが引っ込んだという一点だけだ。放っておかれるより、引っ込まれるほうがずっと居心地が悪い。顔が見えないぶん、僕はこういうものにばかり敏感になってしまって、想像だけが際限なく膨らんでいく。
昼休みに女子が二人、僕の机まで来た。一人は腕を組み、もう一人は細長い水筒を握っている。腕を組んでいるほうは声が低くて語尾を短く切り、水筒のほうは早口で語尾が上がる。どちらも記憶にはない声だった。
「なんで雫のこと振ったの」
「昨日、ずっと泣いてたんだけど」
「……ごめん」
「いや、そういうんじゃなくて」
「理由聞いてんの。呼び出されて、ちゃんと来たんでしょ。じゃあ話くらい聞いてあげてよ」
「顔も見ないで返事したって聞いたけど」
水筒が机に置かれる硬い音がした。顔を見なかったんじゃない。見ても分からなかっただけだ。そう言ったところで、この場の何ひとつ変わらないし、たぶん明日の教室がもっと面倒になる。
「ねえ、聞いてんの」
聞いている。聞こえすぎるくらい聞こえている。頭の中でだけ言葉が溢れて、口の外へは何も出ていかない。呼吸が浅くなって、脳の奥が熱を持ち始めた。
「おい、朔。何ボーッとしてんだよ、早く飯行こうぜ」
後ろから、場違いに軽い声が差し込んだ。聞き間違えることのない声だ。幼馴染の杉本奏多。長身の彼が前に出ると、息巻いていた二人が反射的に一歩下がる。
「腹減ったんだよ。早く行かねえと焼きそばパン売り切れる」
「ちょっと、今それどころじゃ」
「わりぃな。俺らの飯のほうが大事なんで」
行くぞ、と有無を言わせず肩を組んでくる。
「は? 逃げんの?」
「最低」
背中に刺さる声を置き去りにして、僕たちは教室を出た。階段の踊り場まで来たところで、奏多がその場に崩れ落ちる。
「あーーー! クッソ怖かったわ! なんだよあれ、貫禄ありすぎだろ。般若かよ」
「さっきまでの余裕は」
「あんなもん演技に決まってんだろ。心臓耳から出るかと思った」
大げさに胸を叩いている奏多を見て、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。吸い込む空気が冷たくて痛い。
「ありがとう。奏多がいなかったら八つ裂きにされてた」
「気にすんな。絵描いてる時以外、基本ポンコツなんだから仕方ねーよ」
「……それ、慰めてる?」
「おうよ。親友特製の最高級のやつだ。ウジウジしてないで行くぞ」
購買は、いつも通り階段の途中まで列が伸びていた。二階にひとつしかない売店に全校の生徒が押し寄せるのだから、少しでも遅れるとこうなる。釣り銭を数えるおばちゃんの声と、生徒のざわめきが混ざり合って、吹き抜けに反響していた。おにぎり一個とお茶を取る。
具が何なのかは見ていない。胃に入れば何でもよかった。隣を見ると、焼きそばパンが売り切れていたと騒いだ奏多が、カレーパン、カツサンド、ジャムパン、いちごミルク、コーラと迷いなく抱え込んでいる。炭水化物と砂糖ばかりで、見ているだけでこちらの胃が重くなる。
小学生の頃から、漫画みたいな盛り方の飯を三杯平らげるようなやつだった。おかげで、気がついた時には僕より頭ひとつ分背が高くなっている。あの量で蓄えたエネルギーの使い道は、いまだに謎のままだ。
「お前、それで足りんの」
僕の手元を見て言う。ありえねえ、という声だ。いや、どう考えてもそっちのほうがおかしい。
「……まあ」
「だから朔はもやしなんだよ」
「もやしにも栄養はあるらしいけど」
「知らね。俺は肉の側だから」
わざとらしい言い方に、少しだけいつもの調子が戻ってくる。会計を済ませて列から外れると、廊下はパンの袋を抱えた生徒でごった返していた。まだ春だというのに、空気が人肌の温度をしている。奏多はそちらを一瞥しただけで、反対側へ曲がった。
「学食は」
「今から行っても席ねえだろ。うるせえし」
人気の少ない特別教室棟まで来ると、さっきまでの喧騒が遠のいた。窓から差し込む昼の光が、誰もいない廊下に長く伸びている。奏多が扉をつま先で押し開けた。中には誰もいない。ここを選んだのは、たぶん偶然じゃない。何も気にしていないような顔をして、この男は人のことをよく見ている。
「で? 昨日、雫ちゃんと何があったんだよ」
椅子にどかっと座り、抱えてきたパンを机に並べていく。どれから食べようかと手を擦り合わせるのは、こいつの昔からの癖だ。
「告白されて、振った」
「……いや、端折りすぎだろ」
「これだけなんだよ。話したこともないし」
「一日で起きたこととしては濃すぎるって」
奏多が呆れた声でカレーパンの袋を開ける。僕もおにぎりの包みを剥がした。
「なんて言われたとか、なんて返したとか、あるだろ普通」
「好きです、付き合ってくださいって」
「うっわ。直球だな」
「それで、付き合えないって」
「お前もだいぶ直球じゃねえか」
黙るしかなかった。何も考えられなくなって、口から一番先に出た言葉がそれだったのだ。少し待ってほしいとか、急で驚いたとか、ちゃんと話したいとか。今ならいくつも浮かぶのに、あの場では一つも浮かばなかった。
「で、雫ちゃんは」
「理由聞かれて、答えたら、走っていった」
答えた瞬間、昨日の光景が戻ってくる。途中で途切れた僕の言葉。遠ざかる足音。追いかければまだ間に合ったかもしれないのに、僕はその場から動けなかった。何も伝えられないまま、傷つけただけで終わった。
「ほらな。色々あんじゃねえか」
「……うん」
どうして人は他人の恋愛をそんなに知りたがるのだろう。姉の怜奈が一時期見ていた恋愛リアリティショーなら、まだ分かる。あれはフィクションだと、業界にいる怜奈本人が言っていたのだから。
「でもさ、学校一可愛いって言われてる子を振るのはねえよ。女優もやってんだぞ」
中原さんのことを、僕は何も知らない。学校一可愛いと言われている相手を振ったのなら、噂になるのは当然なのかもしれない。いや、待て。
「今、女優って言った?」
「言ったけど。学校じゃ誰も騒がねえけど、知ってるやつは知ってる」
「知らなかった」
「嘘だろ」
同じ学校に芸能人がいて、それを知らない。人に興味がなさすぎると言われても、返す言葉がない。
「この前も深夜ドラマ出てたな。おっさん刺し殺してた」
「情報の出し方が最悪だろ」
「いや、マジで演技上手かったんだって。無表情で刺しまくるの。こう、グサグサって」
奏多がカツサンドを片手に上下運動を始めたので、僕はそれを押さえた。
「再現するな。昼飯時にする話じゃない」
「芸術は爆発なんだろ」
「……そういう意味じゃないから」
多分、こいつの食欲は多少の流血表現では揺るがない。
「で、タイトルは」
「知らん」
「知らないのかよ」
「母ちゃんが見てたの横で見ただけだしな。でも雫ちゃんってのはすぐ分かったぞ。超可愛いし目立ってるから、学校でも」
そこで奏多はカツサンドを机に置いた。声が少しだけ真面目さを帯びる。
「で、なんで振ったんだよ。性格もいいって有名だし」
「……分からないんだよ」
「何が」
「中原さんのこと」
言葉が続かなかった。欠けているという事実を音にしたくなくて、僕は椅子にもたれて顔を手で覆う。
「……ああ、そういうことか」
奏多は短く、納得したように言った。それ以上踏み込んでこないところが奏多らしい。普段は土足で人の会話に入ってくるくせに、こういう時だけ勘がいい。
「小四のときに一回聞いたな。お前がそれ言ったの」
「覚えてたんだ」
「忘れるかよ。あんとき俺、嘘だと思ってお前泣かせただろ」
カツサンドの残りを口に押し込みながら言う。あれから奏多はその話を一度も持ち出さなかったし、僕に説明を求めたこともなかった。
「まあ、聞いたところで俺、何すりゃいいのか分かんなかったしな」
「別に、何もしなくていいんだよ」
奏多は少しのあいだ黙って、それからストローの袋を几帳面に折り畳んだ。
「一個だけ聞いていい」
「うん」
「俺の顔、ほんとに見えてねえの」
「見えてない」
「……えぐいな」
それだけ言って、カレーパンに戻る。可哀想とも、大変だなとも言わない。この男はいつもそうだ。感想を言うだけ言って、勝手に納得して、次の話に移る。その雑さが、僕にはちょうどよかった。だからこいつは、いつも僕の名前を先に呼ぶ。教室でも、廊下でも、後ろからでも。
声さえ聞こえれば僕は迷わない。たぶん、意識してやっているわけじゃない。
「仕方ねえか。でも、もうちょい話してからでも良かったんじゃね」
「……そうかも」
それきり、会話が途切れた。各々の口を動かす音だけが響いている。しばらくして、奏多がいちごミルクを軽く押し出してきた。
「これ、やるよ。恵んでやる」
「恵むって、言い方」
「あるだろ。俺は寛大だから」
戸惑いながら受け取る。ジュースを飲むのはいつぶりだろうか。ストローを差して吸ってみると、思っていたより甘さは控えめで、牛乳のまろやかさの中にいちごの香りがある。
「……美味しい」
「うまいだろ。いつもはすぐ売り切れんだけど、運良く残ってた」
奏多はコーラのキャップを回して、炭酸の抜ける音を立てた。最初から僕に渡すつもりで買っていたのかもしれない、と思ったのは、それから少し経ってからだ。本人に聞けば、余ってたからとでも言うのだろうけど。




