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それから数日後の昼休み。僕たちはいつもの特別教室棟の空き教室に集まっていた。
同じ席についたからといって、同じものを食べるわけではない。奏多は購買のパンを三つと牛乳を並べ、僕はおにぎりとお茶。隣では中原さんが、鶏胸肉とブロッコリーだけの弁当を黙々と口に運んでいる。午後まで持つのか心配になる量だ。
彼女は購買のパンには手を伸ばさない。そういうところまできっちりしている。修行僧、という言葉が浮かんできた瞬間に考えるのをやめた。
「俺、購買のおばちゃんに名前覚えられたわ」
ふいに奏多が牛乳を置き、腕を組んで言った。
「なんで」
僕と中原さんの声が重なる。トーンから喋り出すタイミングまで同じで、なんだか恥ずかしくなった。
「なんでって、毎日行ってりゃ覚えるだろ」
「いや、なんでそんな得意げなのって意味」
「得意だろ。杉本くん今日カレーパンないよって、わざわざ教えてくれんだぞ」
「それ、在庫の話じゃん」
「言い方が違うんだって」
中原さんが小さく吹き出した。奏多は反論の中身を用意しないまま、焼きそばパンの残りを口へ押し込む。
「……いいなあ」
中原さんが箸を止めた。
「私、そういうの一個もない」
「行きつけ作んねえの?」
「うーん、作らないっていうか。同じ店に二回行くと、覚えられるから」
「覚えられんのが嬉しいって話してたんだけど」
「私のは、ちょっと種類が違うんだよね」
軽く言って、彼女はブロッコリーを一つ口に入れた。
「あ、でもコンビニの人なら覚えられてる。三人いるんだけど、夜の人がいちばん袋詰め早いんだよ」
「そんなとこ見てんの」
「……なんでだろ」
僕はおにぎりを齧りながら、二人のやり取りを聞いていた。
「杉本くんって、科学部なんだよね」
「おう」
「何するの、科学部って」
「なんもしねえ」
「なんもしない部活あるんだ」
「文化祭前だけ働く。あとは寝てる」
「じゃあ美術部と一緒だ」
「一緒にしないでほしいな」
僕が口を挟むと、二人が同時にこちらを見た。視線は分からない。でも、二対一の空気になったのは伝わってくる。
「朔さあ、部活で真面目にやってんのお前だけって自分で言ってたじゃん」
「言ってない」
「言ってた。この前言ってた」
中原さんが笑う。教室の空気が緩む。こういう時間が僕には慣れない。誰かと三人で昼を食べるという状況そのものが、去年までの僕には存在しなかった。奏多と二人なら気を張らずに済む。中原さんと二人でも、この一ヶ月でなんとか呼吸が合ってきた。けれど三人になると、会話が三方向に飛び交って、どこに相槌を置けばいいのか分からなくなる。
それでも、嫌ではなかった。
中原さんが奏多と話すときの声は、僕に向けるものより少しだけ音が高い。相手によって、声の高さが少し違う。器用さというより、たぶん、癖のようなものだ。彼女がそれをどこで身につけたのかは、まだ知らない。
♢♢♢
退屈な午後の授業が二つ過ぎるころには、教室全体が眠っていた。机の上には皺の寄ったプリントと、半分だけ閉じた筆箱。黒板の文字はもう誰も見ていない。
チャイムでようやく空気が動き始める。鞄を肩にかけて廊下に出ると、笑い声と足音が飛び交っていた。その中をぼんやりした頭で美術室へ向かう。日はすっかり長くなって、踊り場に落ちる影も短くなっていた。
扉を開けても誰もいない。いつも通りだ。開け放たれた窓から初夏の風が入り、カーテンを揺らしている。机の上には、先生が置いたのだろう、クチナシの鉢植えがあった。深い緑の葉の先に、雪のように白い花が咲いている。甘くもったりとした香りが室内に満ちていた。
自分の席で頬杖をつくと、隣の空いた椅子が目に入る。中原さんは最近、撮影が立て込んでいて忙しそうだった。連ドラの脇役と、その合間にオーディションがいくつか入っているらしい。昼に会っても眠たげだったし、午前で早退したり、そもそも来ない日もあった。
……今日は、来ないのかな。
机の細かい傷を、指でなぞった。待っているよりも、やるべきことがある。デッサン帳を開いて、クチナシを描くことにした。ねじれて重なった白い花びらは、影も形も取りにくい。だからこそ練習になる。
鉛筆を持って、花の中心を軽く決めてから外側の花びらを追う。手前の一枚は縁が内側に巻いていて、隣の花びらに潜り込んでいる。そこまでは拾えるのに、その先で形が途切れた。
白い花びらは光で縁が溶けている。だから縁ではなく、重なった部分の影で取るしかない。付け根に落ちる影をなぞる。線を一本置くたびに、そこが花びらの縁になっていく。
描いていると、時間の感覚がなくなる。窓の外の音も、廊下の足音も、聞こえてはいるのに意味を持たなくなる。人と話しているときの、常に何かを照合し続けている感じが消える。
僕が描けるのは、いつもこういうものだ。光の当たり方と、影の落ち方。物の側にある事実。この花は明日には少し萎れて、来週にはたぶん枯れている。それでも、今日この角度で光が当たっていたということは、紙の上に残る。
残せるものと残せないものの区別を、僕はずいぶん早い時期につけてしまった。線を重ねていると、また隣の椅子が目に入った。一瞬だけ意識が引かれて手が止まりそうになる。それでも紙へ戻る。
右腕に疲れを感じ始めた頃、廊下の向こうで足音が止まって、扉が開いた。足音が近づいてくる。すぐ後ろで止まった。振り返ろうとすると、肩を軽く押さえられる。
「そのまま」
「……何」
「目、つぶって」
「なんで」
「いいから」
言われるままに目を閉じる。何も起きなかった。それから、耳のすぐ後ろで声がした。
「……誰か分かる?」
声だけを聞かせている。そういうことか。
「中原さん」
「なんで分かったの」
「なんでって」
答えようとして、詰まった。声が少し高いとか、語尾が跳ねるとか、そういう言い方はできる。でも実際に働いていたのはもっと手前で、名前は考えるより先に出ていた。
「……分かるよ、それくらいは」
背後で、息を吸う音がした。それから椅子が引かれる音がして、彼女は何も言わずに隣へ座る。
「よかった」
小さすぎて、独り言なのか僕に向けた言葉なのか判断がつかなかった。
目を開けると、彼女の手に細いパウチのゼリーが握られている。コラーゲンとビタミンなんとかが入ったやつだ。前に勧められて食べてみたら、信じられないくらい苦かった。
人の声は、僕にとって情報だ。高さ、速さ、語尾の癖。それを束ねて名前に結びつける。中原さんの声も、同じように束ねているはずだった。なのに、束ねたあとに何かが余る。余ったものの置き場所が分からなくて、僕はいつもそれを、机の隅に押しやるみたいにして忘れることにしていた。
「今週はもう来ないのかと思ってた」
「撮影終わったの、この間の日曜で。しばらく休み」
中原さんはそのまま机にべたっと突っ伏した。顔だけこちらへ向けてくる。
「だから、やっと普通の高校生に戻れます」
「数日だけでしょ」
「そういうこと言わないの」
ばしばしと机を叩く彼女に、思わず笑ってしまう。中原さんは起き上がって、少しだけ伸びをした。
「あ、でも来週おっきいオーディションある」
「何の」
「……まだ言わない」
「言わないんだ」
「受かってから言う」
「落ちたら?」
「墓まで持ってく」
冗談めかしているけれど、指先が机の縁を細かく叩いていた。本人は気づいていない。
「でも、今日休みなら家で寝てたほうがいいんじゃない。最近、寝れてないでしょ」
「やだよ。せっかく自由なんだから」
「美術室来るのが自由なの」
「うん」
中原さんは小さくあくびをして、書きかけのデッサンに顔を向けた。
「仕事してるとさ、思ってるように青春できないんだよ」
「青春って、例えば」
「友達とカラオケ行くとか、クラスのみんなで文化祭の準備するとか」
「普通だな」
「その普通が私にはむずかしいの」
外を歩いていると結構バレるのだと彼女は言った。写真を撮られたり、声をかけられたり。気をつけていないと変な記事が出て、世間から色々言われる。起きてから寝るまで、ずっと誰かに見られているような生活。考えるだけで全身がむず痒くなる。
「だから、こうやって美術室でだらだら喋ってるだけでも青春なんだ」
「それは、流石に基準低くない?」
「うるさいなー。楽しいからいいの」
そう言って中原さんは立ち上がり、棚に飾られていた仮面を手に取った。先生がアフリカで買ってきたという、どの民族のものかも分からない仮面だ。獣のような顔に尖った嘴が付いていて、目のところがくり抜かれている。神様を模しているらしいけれど、どう見てもゲームに出てくる敵にしか見えない。
「はい、これでバレませーん」
中原さんがふざけてそれを顔に当て、こちらを向いた。
仮面のくり抜かれた穴。その奥に、色があった。
光に透かした琥珀。細い金の筋が散っていて、瞬きのたびに縁が揺れる。睫毛の一本一本まで見えた。
「え……」
「え?」
僕が声を漏らした瞬間、その色は黒に飲み込まれた。仮面が下ろされて、また何もない場所に戻る。今のは気のせいだ。そういうことにしたほうが楽だった。
「もしかして、呪いの仮面とかだったりする……?」
中原さんが怯えた声で言う。仮面を持つ手が小さく震えていた。冷えていた心の底が、一瞬で温かくなる。突飛な勘違いをする彼女を、なぜだか無性にからかいたくなった。少し間を置いてから、僕は口を開く。
「それ、下手に触ると祟られるって先生が言ってた」
「……ほんと?」
「全然嘘」
「ちょっと! 本気で信じたんだけど」
「ごめん。でも騙されやすすぎだって」
「もう。神崎くんが真顔で言うからでしょ」
中原さんは仮面を棚にそっと戻した。位置を直して、もう一度だけ触れてから手を離す。声のトーンが少し落ちた。
「……責任取って」
「何の」
「びっくりしたダメージの回復。甘いもの補給したい」
「購買行けば」
「違う」
そこで彼女は一瞬黙った。肩まで垂れた黒髪を、指先でくるくると巻きつける仕草が見えた。ゆっくり息を吸って、もう一度口を開く。
「喫茶店、付き合って」
返事をしながら、僕はまだ棚のほうを見ていた。仮面は元の位置に戻って、ただの木の塊に見える。さっきそこにあった琥珀色を、何度も思い出そうとした。思い出そうとするほど崩れて、最後にはただ「明るい茶色だった」という認識だけが残る。
こういうことが、たまにある。視界の端で一瞬だけ何かが見えて、確かめようとすると消えている。小学生の頃は、そのたびに治りかけているのだと期待した。中学に上がる頃には期待するのをやめた。期待して消えるほうが、最初からないよりずっと堪えると分かったからだ。
だから今日のことも、なかったことにする。
そう決めたはずなのに、鞄を掴んで立ち上がるまでのあいだ、僕はもう一度だけ棚を振り返った。




