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ベンチに戻ると、彼はまだ机に突っ伏していた。私が近づくと、気配で分かったのか、少しだけ顔を上げる。そして、すぐにまた伏せた。私の顔は見えていないはずなのに、何かを察したのだと思う。声を出す前の呼吸か、足音の乱れか。
「……見た?」
机に額をつけたまま、彼が言った。
「見た」
腕の隙間から、言葉になりきらない呻きが漏れてくる。
「なんも言わないで。今日はやめて。ほんとに。ここ、人いるし」
人がいることと私が感想を言うことにどんな関係があるのか分からなかったけれど、彼にとっては死活問題であるらしい。私は机に投げ出された彼の手を見ていた。指先が細かく震えている。
「分かった。今日はやめとく。でも、いつか言うからね」
背中の力が抜けて、それからまた少し強張るのが、伏せた背中越しに分かった。
「……お手柔らかに」
顔を伏せたまま返ってきた声があんまり弱々しかったので、私はまた笑ってしまった。
「帰ろっか」
彼はゆっくり顔を上げて、こくりと頷いた。
♢♢♢
出口の手前で、美術部の顧問が彼を呼び止めていた。
「神崎。さっき審査員の先生と話したんだが」
白髪混じりの、線の細い先生だった。声が思ったよりも真剣で、私は少し離れたところで足を止める。
「大学の推薦の枠がある。実技試験の内容も、ここ数年で変わってきていてな。お前が思っているような形とは限らんぞ」
彼は何も答えなかった。ただ、小さく頭を下げる。先生は少しのあいだ待って、それから、資料だけ渡しておくと言って封筒を差し出した。彼はそれを、両手で受け取る。鞄に入れる手つきが、丁寧すぎるほど丁寧だった。
ガラス扉を抜けると、空はすでに深い藍色に沈みかけている。ひんやりとした秋風が肌を撫でた。私は無意識に肩をすくめて、小さく息を吐く。吐いた息が、夜の空気にゆっくり溶けて消えていった。どこからか、落ち葉の乾いた匂いがする。
「……結構、長居しちゃったね」
「そうだね」
神崎くんはゆっくり瞬きをしてから、そう答えた。それから、ずいぶん間を置いて付け足す。
「……来てくれて、ありがとう」
駅へ続くイチョウ並木の通りを、私たちは並んで歩き始めた。等間隔に並んだ街灯がオレンジ色の光を灯し始めて、黄色く色づいた葉を照らし出し、アスファルトの歩道に細長い影を二つ落としている。
彼と並んで歩く。それだけのことが、私にとっては特別だった。今、私の隣にあの十メートルはない。どちらから一緒に帰ろうと言ったわけでもなく、展覧会を終えて、同じ方向へ向かって歩き出しただけだ。
話すことは、たくさんあるはずだった。絵の感想も、金賞のことも、この三ヶ月のことも、白嶺のことも、母のことも、あの喫茶店のことも。それなのに、私は何も切り出せずにいた。
これまでの沈黙とは、質が違う。美術室の沈黙は、埋めなくていいものだった。彼が鉛筆を動かして、私が台本を読んで、それで一時間が過ぎる。あれは心地よかった。今は違う。この沈黙は、何かを待っている。
彼が何かを言おうとしているのが分かる。歩幅がときどき乱れるし、息の吸い方が普段と違う。役者を何年もやっていると、他人が言葉を出す直前の気配が分かるようになる。
私は待った。彼の歩くペースは少しだけ遅い。私の歩幅に合わせてくれているのか、彼自身のペースなのかは分からない。急かされることのないそのリズムが、秋の夜と合っている。たまに車のエンジン音が通り過ぎて、遠くで踏切の警報音が鳴った。二人の足音が重なっている。
それでも、彼は口を開かなかった。街灯がまた一つ、後ろへ流れていく。
ふと、視界の端で揺れる彼の左手に目がいった。少し長めの袖口から、白い指先が覗いている。歩くリズムに合わせて、私のすぐ横を前へ後ろへと規則正しく揺れていた。
触れたい。
唐突に、そんな感情が湧き上がってくる。彼の体温を知りたい。やめておけ、と警告する声はあった。急に手を繋ごうとしたら困惑させてしまう。せっかくの関係が壊れるかもしれない。軽薄な女だと思われたらどうする。それなのに、身体はブレーキを完全に無視していた。
街灯と街灯の間の、少し暗くなった場所で、私は右手を伸ばした。揺れる彼の左手に向かって、私の指が吸い寄せられていく。そして、そっと指先が彼の手に触れた。布越しではない、直接の接触だった。秋の冷気に晒されていた指先は想像よりずっと冷たくて、けれどその芯には、消えかけた熱のようなものがある。
触れてしまった。途端に、怖くなった。反射的に手を引っ込められて、戸惑った顔をされるかもしれない。無言のまま距離を取られて、見えない壁が立つかもしれない。自分の行動を激しく後悔して、すぐに手を離して、ごめん、当たっちゃったと笑って誤魔化す準備をした。
でも。
神崎くんは、立ち止まらなかった。歩調を変えることも、振り払うこともなく、今までと同じリズムで歩き続けながら、少しだけこちらへ顔を向ける。街灯の光が、彼の横顔を照らし出した。
その顔を見て、私の息は完全に止まった。
泣いていた。神崎くんはこっちを見て、声も立てずに泣いている。表情はいつものように穏やかなままで、眉をひそめることも、唇を震わせることもしていない。嗚咽も、鼻をすする音もなかった。ただ、瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。光を反射した透明な雫が頬を伝って、顎先で光ってから、夜の闇へ落ちていった。瞬きをするたびに新しい涙が溢れて、睫毛を濡らしている。
悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、私には見分けがつかなかった。ただ、彼がずっと一人で抱えてきた何かが溢れてしまったのだということだけは理解できた。
「ごめん、嫌だった?」
喉に張り付いたような声で、私はようやくそれだけを絞り出す。私が急に触れたせいで、開けてはいけない扉を開けてしまったのかもしれない。罪悪感に押し潰されそうになりながら、指先を離そうとした。
しかし、私が手を引こうとしたその瞬間、彼の指が動いた。滑り落ちようとしていた私の手を包み込むように動いて、そのまま、そっと繋ぎ直す。少しでも抵抗すれば簡単に解けてしまうような、ふわりとした握り方だった。けれど、彼は離さなかった。
「嫌じゃ、ない。……びっくりしただけ」
夜の空気に溶けてしまいそうな、吐息のような声だった。繋がれた手から、確かな重みと熱が伝わってくる。胸の奥が締め付けられて、私まで泣きそうになった。




