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壁に掛けられた絵画を視界の端に捉えながら、展示室の最奥へ向かう。風景画も、静物画も、抽象画も、県内から集められた高校生たちの力作が並んでいた。どの作品も素晴らしい。それでも私の目は、彼が放つ独特の空気を探していた。
空気、というのが正しいのかは分からない。ただ、あの美術室で何度も見てきたものがある。彼の絵はいつも静かで、いつも少しだけ寂しい。人が一人もいないからだと、私はずっと思っていた。
そして、展示室の突き当たり。A棟の中で最も広く、最も強い照明が当てられている特設の壁面。そこに、その絵はあった。
額縁の横には、赤いリボンと金色のリボンが二つ下がっている。
『金賞』
『審査員特別賞』
その文字を見た瞬間、胸が熱くなった。受賞したんだ。
神崎くんは無理だと何度も言ったし、他の学校にはもっと上手い人がいるとも言った。それでも私は、できると言い張った。根拠なんてどこにもない。ただ、そう思っただけだ。その根拠のない言葉に、彼は応えた。
視線を下げると、リボンの下にタイトルプレートがあった。
『君の顔が描けたら』
そのタイトルを見た瞬間、心臓が変な打ち方をする。
「君の顔が……」
無意識のうちに、声に出してその文字をなぞっていた。私はゆっくり視線を上げて、キャンバスの全体像を捉える。
最初は、何も考えられなかった。
そこに描かれていたのは、桜の木の下に立つ、一人の女子高生だった。紺色のブレザーに赤いリボン、少し短く直されたプリーツスカート。彼女は散りかけの桜の下で、春の柔らかな光の中に立っている。
背景の桜は、本物の花びらがキャンバスから零れ落ちてきそうなほど緻密に描き込まれていた。ピンクと、白と、微かな紫。幾重にも重ねられた色が、春の生ぬるい風や、花の甘い匂いまで錯覚させる。木漏れ日が彼女の髪に落ちて、肩を撫でて、足元の影へ溶けていった。
彼女は走っていない。逃げてもいない。ただ、そこに立っている。
その女子高生に、顔はなかった。目も、鼻も、口も、何ひとつ描かれていない。桜の花びらが舞っていた。白くて、薄くて、儚い花びらが、そっと彼女の顔を覆い隠すようにキャンバスに舞っている。
私は一歩、絵に近づいた。
顔のあたりだけ、絵の具が異様に厚い。まわりは丁寧に薄く重ねられているのに、そこだけ何度も置き直されて、表面が細かく波打っている。その下から、消しきれなかった線が透けていた。
この凹凸を、私は知っている。輪郭を閉じると中が黒くなること、目のところには何も置けないこと。あの夏の喫茶店で私が聞かされたのは、そういう話だった。美術室で、途中で止まった手を、私は隣で見ている。引き出しの中の、ひょっとこみたいな石膏像の顔を、私は何度も開いている。
この厚みは、彼が失敗した回数だ。その全部を残したまま、最後に花びらを置いたのだ。
気づくまで、少し時間がかかった。
これは、私だ。
顔が描けなかったんじゃない。描こうとして、私という人間の顔をどうにかして捉えようとして、必死に手を伸ばして、何度も何度も描き続けた。その全部の失敗の上に、花びらを降らせた。隠すためじゃない。覆うためだ。彼は最後まで、私の顔を諦めなかった。諦めないまま、諦められないという事実ごと、この一枚に閉じ込めたのだ。
絵の横に、講評パネルが掲示されていた。読むべきかどうか迷って、結局読んだ。背景の描き込みの密度や、光源処理の一貫性や、油彩の層の厚みが生む物質感について、技術的な評価が並んでいる。そして、最後にこう書かれていた。
『人物の顔を花弁で覆うという選択が、この作品を凡庸な写実から引き離している。描かないことによって、描く以上のものを見せる。若い作者の、極めて理知的な判断である』
私はその文章を二度読んで、それから目を逸らした。
違う。選択なんかじゃない。判断でもない。彼は、描けなかったのだ。ずっと描けなくて、それでも描こうとして、最後に花びらを置くしかなかった。審査員は、その結果だけを見て理知的だと言う。
世界はいつもそうだ。結果だけを見て、名前をつける。私が空っぽの人形だと言われたときと、同じやり方だった。この絵の前で、それを知っているのは私だけだ。
気づいたとき、私は泣いていた。呼吸をするたびに熱い塊が込み上げてきて、肩が震える。涙が出ていることに気づいたのは、キャンバスの桜のピンク色が視界の中で歪んでからだった。
こんな公の場で泣き出すなんて、芸能界に身を置く者として、いや、一人の高校生としても馬鹿みたいだ。でも、止まらない。両手で顔を覆っても、指の隙間から涙が溢れて、床に小さなシミを作る。嗚咽が漏れないように歯を食いしばるけれど、胸の上下を抑えられない。
私は、ずっと見られてきた。カメラにも、観客にも、母にも、事務所にも、すれ違う知らない人にも。見られるたびに、私は成瀬雫になった。上手く笑って、綺麗に映って、はみ出さないようにした。誰も、その裏側を見なかった。
神崎くんだけが、私の顔を見られない。その人が、私を描こうとして、失敗し続けて、金賞を取った。
涙でぐしゃぐしゃになった視界の中で、春の光に包まれた私は、微笑んでいるように見えた。顔なんて、描かれていないのに。




