表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第六章「逆光」
PR
29/40

25

 (まぶた)を持ち上げると、見慣れた自室の白い天井がある。枕元のスマホに手を伸ばして時間を確認した。数字はすでに昼の十二時を告げている。頭の芯が重い。手のひらで触れた頬は熱くて、目尻にカサカサとした感触が残っていた。


「……また、あの夢だ」


 夢だと知っていたなら、覚めなかったのに。


 いつからか、私は何度もこの夢を見る。神崎くんと私しかいない昇降口。周りの雑音も、大人も、カメラのレンズも何ひとつない、雨音だけの世界。あの日から、私は彼のことが好きになった。


 今思えば、ありふれた少女漫画みたいだ。雨の日に傘を貸してくれた、名前も知らない男の子を好きになるなんて。あの時の私にとって、彼は成瀬雫という虚像を求めなかった。ただ泣いている一人の人間としてそこにいることを、許してくれた。


 それなのに、私たちは同じクラスになることさえなかった。


 二年生の始業式の朝、昇降口の前に人だかりができていた。クラス分けの紙が模造紙(もぞうし)に貼られて並んでいる。一組から八組まで、名前がびっしりと縦に並んでいた。私は人の輪の外側に立っている。中心に入っていくと、誰かが道をあけてくれる。あけてくれること自体が、いつも少しだけ息苦しかった。


「雫、クラス分け見た?」


 同じクラスだった子が振り返って聞いてくる。


「まだ」

「三組だよ。私も一緒」

「ほんと? よかった」


 私は笑った。上手に笑えたと思う。自分の名前は、その子が教えてくれた時点でもう分かっている。それでも私は掲示板から目を離せずにいた。探していたのは、自分の名前ではなかったからだ。


 か、で始まる名字を順番に追う。加藤、金子、川島。一組にはいない。二組も、三組も。自分の欄をもう一度通り過ぎて、四組へ移る。そこで視線が止まった。


 神崎朔(かんざきさく)


 息を吐いた瞬間に、自分がずっと息を止めていたことに気づく。別のクラスだ。当たり前だった。八分の一の話なのだから、外れるほうが普通なのだ。分かっていて、それでも私は始業式の朝に人だかりの外から模造紙を眺めていた。


「誰か探してるの?」


 隣の子が言った。


「ううん。全部見とこうと思って」


 嘘は滑らかに出た。仕事で使っている技術だ。こういうとき、私の声はいつもよりわずかに高くなる。自分でも分かっている。それを聞き分けられる人間は、たぶんこの学校に一人もいない。


 教室へ向かう途中、四組の前を通った。中は見なかった。見てしまったら、目的が全部知られてしまう気がする。窓の外では、桜がもう散り始めていた。


 彼の少し眠たそうな目や猫背気味の背中を、私は違う教室の窓から、人混みの向こうから、いつも無意識に追いかけていた。一年近く、私はそうやって、ただ見ているだけだったのだ。


 それが限界に来たのが、四月の終わりだった。


 あの日のことを思い出すと、いまだに吐き気がする。三十分早く起きて作ったものも、五年ケーキを我慢して守ったものも、あの桜の下には一つも存在していなかった。私が持ち込んだ武器は、彼の世界には最初から一本もなかったのだ。振られたことより、そのことのほうが堪えた。生まれて初めて、私は自分の顔が一円にもならない場所に立っていた。


 顔を取ったら、私には何も残らない。一年生の初夏に言われたことは、正しかったのだ。正しすぎて、私はいまだにその言葉を、自分の中から追い出せずにいる。


 彼は最後に一度だけ、私のほうへ顔を向けた。何も見えていないと分かっていて、それでも見た。そういう向け方だった。その直後に、付き合えないと言われた。理由を聞いて、謝って、それでも彼が何か言いかけたところで、私は走り出していた。あのとき最後まで聞いていれば、と思うようになったのは、ずっと後だ。


 それから、私たちの関係は(ゆが)んだ。同じクラスではないという距離があるのに、周囲の憶測と噂は二つの教室を跨いで広がっていった。神崎くんはクラスで悪者にされて、もともと狭かった彼の居場所が、さらに狭くなる。私のせいで、彼はまた世界との距離を狂わされたのだ。


 それでも、彼は私を切り捨てなかった。美術室という、私たちだけの場所があったから。友達から始めようと言ってくれた、照れくさそうな、まっすぐな声があったから。


 私はまだ、神崎くんのことが好きだ。諦めるなんて、最初からできっこなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ