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ベッドの上で涙を拭っていると、枕元のスマホが震えた。驚いて顔を上げる。滲む視界の中、震える手で画面を見た。担当マネージャーの名前が表示されている。一気に頭が冴えた。
この数週間、生きた心地がしないほど張り詰めて挑んだオーディション。今の小さな事務所から、業界最大手の白嶺へ移籍するための、特別な審査だ。合格すれば、私は本当の意味での役者としての第一歩を踏み出せる。落ちれば、移籍の話は立ち消えになって、私はこれからも顔が綺麗なだけの女として消費され続ける。あの監督の言葉が、一生の呪いとして刻みつけられる。
通話ボタンを右にスライドさせて、スマホを耳に押し当てた。声が掠れないように、喉の奥を引き締める。
「……もしもし、中原です」
『雫! やったわよ!』
その声で、思考が真っ白に弾けた。
『最終審査、通過よ! 満場一致で移籍が決定したわ!』
「……え」
情けないほど小さな声が漏れる。
『本当に凄いわよ。さっき白嶺の代表と、審査員をしていた映画監督から直接連絡があったの。監督ね、雫の審査での演技を大絶賛だったのよ。……雫? 聞いてるの? 雫!』
興奮気味に捲し立てる声が、遠くの波音のように聞こえる。
合格。あの白嶺に行ける。ずっと憧れていた場所へ、手が届いた。あの監督が、私の演技を褒めた。つまらないと言った人が、今度は褒めた。
けれど。
私の胸を最初に満たしたのは、達成感でも歓喜でもなかった。神崎くんに会いたい、という一点だった。
涙が目尻から溢れて、顎の先から落ちる。あの審査室で私が使ったものを、あの人は知らない。知らないまま、たぶんこれからも知らないままだ。
「あ……、ありがとうございます。ありがとう、ございます」
私は口を手で押さえて、こみ上げてくるものを抑え込もうとした。
『本当におめでとう、雫。明日、さっそく白嶺のスタッフとの顔合わせがあるから、体調を整えておいてね』
「はい。分かりました。本当に、ありがとうございました」
通話を切って、静まり返った部屋の真ん中に立ち尽くす。涙の跡が乾いて、皮膚が突っ張るような感覚があった。
「……神崎くんに、会いたい」
声に出した瞬間、その名前が部屋の中に落ちて、そのまま消えた。返事をしてくれる人は、ここにいない。
♢♢♢
次の日、私は母の運転する車の助手席に座っていた。高く澄んだ青空も、信号待ちで横断歩道を渡っていく人たちも、フィルムの向こうで再生されている映像みたいで、何も入ってこない。
「雫、忘れ物はないわよね。印鑑もちゃんと持った?」
ハンドルを握る母が、上擦った声で確認してくる。
「持ってる」
短く答えて、窓枠に頬杖をついた。
「よかったわねえ。あのオーディション、受けさせてもらえてよかった」
受けさせてもらえて。その言い方が、耳の内側に引っかかる。
「……お母さん。あれ、事務所が持ってきた話だよね」
「そうよ。私が社長さんにお願いしたの。雫にも一度、大きいところを見せてあげたくて。知らなかった? 言ってなかったかしら」
母は前を向いたまま、当たり前のことのように言った。
知らなかった。私はてっきり、事務所が推薦してくれたのだと思っていた。滅多に募集しない枠に、なぜ自分が入れたのか、少しだけ不思議に思ってはいたのだ。思ってはいたけれど、聞かなかった。聞けば、こういう答えが返ってくると、たぶんどこかで知っていたからだ。
窓の外を、灰色のビル群が流れていく。
選んできたのは私だ。けれど、並べたのは私じゃない。あの日、駅の反対側のベンチで考えたことが、そのままの形で目の前に置かれていた。あの喫茶店で、彼の言い分に違うと返せなかったのは、半分だけ当たっていたからだ。私の前にいつも用意されている選択肢は、たしかに、私が用意したものではなかった。
審査室で自分を剥き出しにしたのは私だ。それだけは本当だ。でも、その部屋の扉を開けたのは、母だった。
母が上機嫌でウインカーを出す。私は頬杖をついたまま、膝の上の鞄の留め具を、意味もなく開いたり閉じたりしていた。




