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すべての手続きを終えて、白嶺のビルを後にした。再び助手席に座る。ドアが閉まって外の音が遮断された瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
「いやあ……凄かったわね。本当に凄かった」
エンジンをかけて車道に出しながら、母が興奮冷めやらぬ様子で話し始めた。
「白石小春さん。生で見ると、テレビより何十倍も綺麗なのね。顔なんて私の拳くらいしかなかったんじゃない。あんなに綺麗な人が、同じ人間でいるのねえ」
まるで、遊園地で憧れのキャラクターに会ったみたいな声だった。
「しかも、雫のこと覚えててくれたなんて。すごいじゃない、あんなトップ女優に。これで雫も大きなドラマや映画にバンバン出られるようになるのね」
私は窓の外を流れるビル群を見つめたまま、何も答えなかった。
帰りの車の中、母はずっと白石さんの美しさの話を繰り返していた。助手席で俯いている私の顔を、一度も見なかった。
私を祝う言葉は、一言もなかった。移籍が決まったことへの労いも、明日から新しい環境で戦う娘への言葉も、審査でどんな演技をしたのかを尋ねる質問も、何ひとつ。
母は十分ほど同じ話を続けた。私が一度も返事をしていないことに、最後まで気づかなかった。
母にとって、私は娘である前に、成瀬雫という企画なのだと思う。
白石小春というブランドと同じ棚に並べられたことを喜んでいるだけで、私が抱えている不安や、醜い感情には興味がない。
みんなそうだ。
みんな、私が作り上げた綺麗な人形のことしか見ていない。上手く笑って、画面の中で愛想を振りまく虚像。そこから少しでもはみ出せば、興味を失うか、批判の言葉を投げつける。
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
完璧なメイク。完璧な髪型。非の打ち所のない成瀬雫の顔。
かつて、私はこの顔で勝てると思っていた。
この顔の裏側にいる中原雫を、世界中の誰も知らない。
いや、違う。たった一人だけ。
♢♢♢
家に帰って、部屋の電気もつけずにベッドに座った。制服ではなく、よそ行きのワンピースを着たままだった。着替える気力がなかった。
しばらくして、私は立ち上がって机に向かった。一番上の引き出しを開ける。参考書の下に、四つ折りにした画用紙が入っている。取り出して、慎重に開いた。折り目が二本、十字に白く走っている。
歪んだ石膏像の顔。目は左右で高さが違う。唇はあらぬ方向を向いていて、鼻のラインは途中で途切れている。
初めて見た時、私は声を上げて笑った。ひょっとこみたいだと言って、お腹を抱えて笑った。
それから半年、私はこれを何度も開いている。
線を指でなぞる。額から、鼻のところへ。頬の高いところで一度止まって、顎へ落ちていく。
あの日、私はこの順番で彼の手を動かした。
彼はずっと目を閉じていた。だから知らないと思うけれど、途中で一度、私は手を止めた。唇のところだった。
止めた理由は、その時は自分でも分からなかった。
今なら分かる。あそこで、私は自分が何をしているのかに気づいてしまったのだ。好きな人の手を握って、人の顔の形を教えている。教えているふりをして、触っていた。
あの絵は、彼が私に触ろうとした記録じゃない。私が彼に触った記録だ。
だから返さない。返してと言われても返さない。
彼は笑っていた。
紙の上に、水滴が落ちた。私は慌てて袖で拭った。慌てたせいで、鉛筆の線が少しだけ滲む。それを見て、余計に涙が出た。こんなものまで、私は自分の手で汚してしまう。
私は画用紙を元通りに折り畳んで、引き出しに戻した。
会いたい。
彼が私の顔を見られなくてもいい。のっぺらぼうでも、歪んでいても、それでいい。
私が見てほしかったのは、外側じゃない。
いつからそう思うようになったのか、自分でもよく分からない。あの桜の下では、私は自分の外側だけを持って立っていたのに。
白嶺という城に足を踏み入れて、白石小春という本物を前にして、自分の空っぽさを思い知らされた私にとって、神崎朔という人はもう、恋という言葉では足りなかった。
あの人がいないと、私は成瀬雫に押し潰されて、呼吸の仕方を忘れてしまう。
それでも、私からは連絡できなかった。
彼はコンクールの結果を待っているんだろう。私の弱音を送っていい時期ではない。
それに、あの喫茶店以来、私は彼に何かを頼むことが少し怖くなっていた。
そうしているうちに、十月が終わった。
♢♢♢
木曜日の朝のことだった。
ベッドの上で天井を見つめていた私は、手元で鳴った振動に弾かれたように飛び起きた。
画面に表示された送り主は、待ち焦がれていた人だった。
震える指でメッセージを開く。そこにあったのは、位置情報を示すURLと、たった一言だった。
『土曜日、ここに来てほしい』
土曜日。明後日だ。
彼のコンクールの結果がどうだったのか、そこには何も書かれていない。受賞したのか、落選したのか。
彼らしい、言葉の足りないメッセージだった。
けれど、その短い文字列を見た瞬間、張り詰めていた氷のようなものが、じんわりと溶けていくのを感じた。
「行く……絶対に行くから」
独り言のように呟いて、私はスマホを胸に抱きしめた。
♢♢♢
待ち焦がれた土曜日。
出かける準備をするため、クローゼットを開けた。
今日は白嶺の成瀬雫としてではなく、中原雫として会いに行く。ブランド物の服を避けて、着慣れた淡いブルーのブラウスと、歩きやすいプリーツスカートを選んだ。
鏡の前に立って、いつもの作業を始める。ファンデーションで肌の質感を隠して、アイラインで目の形を補正する。
ポーチの底から、いつものリップを取り出した。三年前に発売されて、私が四本買い替えてきた色だ。
キャップに指をかけたところで、手が止まった。
──もう三年も前のものなのに。ありがとうね。
あの声が、耳の奥で鳴った。
優しい声だった。優しかったから、逃げ場がなかった。
私はリップをポーチに戻した。
それから、コットンにクレンジングを取って、引いたばかりのアイラインを拭った。
鏡の中の顔が、少しだけ間の抜けたものになる。
あの日の私は、三十分早く起きて、いちばん自信のある顔で校舎裏へ行った。今日は、その逆をやる。
誰かの真似をした顔で、あの人に会いに行きたくない。
どうせ彼には見えない。見えないと分かっていても、今日だけは自分の顔で行きたかった。
仕上げに香水をつけて、部屋を出た。
いつもの、柑橘に似た匂い。この香水だけは変えられなかった。
彼が私を見つける手がかりを、私は一つも減らしたくなかった。




