23
締め切りまで、あと五日。
誰に見せたいのかは分かっている。それでも、何を描けばいいのかは分からないままだった。白いキャンバスは、二日経っても白いままだ。顔を描こうとすれば指先が強張り、輪郭を閉じれば内側が黒く沈む。あの夏の夜と、何ひとつ変わっていない。
その二日のあいだに、彼女のオーディションは終わっていた。届いたのは、終わった、あとは待つだけ、という短い一文だけだ。どうだったのかは書いていない。結果が出るのは十日後らしい。彼女は待つ側に立って、僕はまだ白い布の前に立っている。同じ日に線を引こうと言ったのに、僕だけが一本も引けていなかった。
僕は自分の部屋の真ん中で、床に転がった何冊ものデッサン帳を見下ろしていた。一冊を拾い上げて、悪あがきのようにページをめくる。どのページにも、僕の視界が捉えた風景が記録されている。誰も入れない絵だと奏多に見抜かれたのは、こういうことだった。ここには僕しかいない。僕が立って、僕が見て、僕が写した。それだけの記録が何冊も積み上がっている。
胸の奥で、何かが音を立てて焦げていく。デッサン帳の端を両手で掴んだ。バリッ、という乾いた音が深夜の部屋に響く。紙が中央から引き裂かれた。次のページも破って、その次も破った。手が動くあいだ、何も考えていなかった。バリ、バリ、バリ、と一定のリズムで紙が割れ、白い欠片が床に落ちていく。
気が済むまで破いて、手を止めた。床一面に、白い紙の切れ端が散らばっている。窓から入る夜風が、そのうちの一枚をそっと動かした。
ふと、視線が一点で止まる。照明の下、一枚の破片の縁が薄く光を帯びていた。不規則に千切れていて、白くて、軽くて、頼りない。
……花びらみたいだ。
その思考が浮かんだ瞬間、僕の意識は半年前のあの日へ引き戻された。四月の校舎裏に立つ、大きな桜の木。散った花びらが絨毯のように敷き詰められていて、僕はその、薄桃色に霞む光の中に立ち尽くしていた。風が吹くたびに花びらが降り注ぎ、視界を白く染め上げていく。彼女の顔は霞んでいて、どんな表情をしているのかは分からない。世界からそこだけが切り取られたような欠落。僕は自分の障害を言い訳にして、彼女を拒絶した。
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女は小さく息を呑んで、弾かれたように走り去っていった。薄桃色の光の中を遠ざかっていく背中。その足元で、地面に落ちた花びらが踏みつけられて、泥に汚れて、黒ずんで、原型を失っていく。その光景を、僕は追いかけることもできずに見つめていた。散っていくものの美しさと、それを踏み越えていく彼女の生々しさ。あのとき、僕の胸の奥は名前のつかない震えで満たされていたのだ。
あの瞬間の、何か。
僕が描きたかったのは、正しい配置の風景ではなかった。誰かの顔を穴に嵌め込んで、それで一枚を完成させることでもない。言葉にすれば嘘になり、静止画にしようとすれば指の隙間からこぼれ落ちていく、あの瞬間の衝動だ。風景に穴を空けて、そこに誰かを配置しようとする試みは、あの光景を無理やり再現しようとする、あまりに幼い執着だった。
それを見せたい相手がいる。中原雫。僕の欠落を埋めようとしてくれた人。彼女がいま、誰にも見えない場所で結果を待っているように、僕もまた、このキャンバスに向き合わなければならない。僕が見てきた世界がどんなに歪んでいて、どんなに不完全なものでも、それを彼女にだけは、一枚の絵として届けたかった。
これで、最後にしよう。
僕は床に転がっていた筆を拾い上げる。手の震えは、もうない。恐怖もなかった。パレットを取り出して、絵の具のチューブを思い切り絞り出す。記憶の中の桜の木を見上げた。あの日の光も、湿った土の匂いも、すべてを一つの画面に凝縮させるために、僕は真っ白なキャンバスに向き直る。
太い筆にたっぷりと絵の具を含ませ、最初の一筆を置いた。鋭く色が走る。記憶の破片が、手を通って流れ込んでくる。顔のことは、まだ考えなかった。ただ自分の内側にあった、あの美しくも汚れた記憶を刻み込んでいく。描くたびに記憶が減って、そのぶんキャンバスへ移っていく。色が濃くなるたびに、身体が軽くなっていくようだった。僕を縛り付けていた呪いさえ、この絵の中では、必要な光と影の一部として飲み込まれていく。
描いてみせる。ただ、あの日を。
時が過ぎるのを忘れていた。蛍光灯がちかちかと不規則に明滅している。夜明け前の青く冷たい光が、カーテンの隙間から差し込み始めていた。筆を動かすたびに、パレットの上で絵の具が擦れる音が響く。窓から吹き込む風が、床に散らかった紙の切れ端をカサリと揺らした。その音さえ、あの日の砂の音と重なっていく。
中原さんに会いたい。彼女の焦燥も、彼女が守ろうとしている日常も、僕が直接この手で守ることはできない。けれど、この絵に閉じ込めた、あの日の震えなら、届くかもしれない。
部屋の時計が朝の六時を回った。外ではもう誰かが歩き出しているのだろう。筆の重みと、指先にこびりついた絵の具の感触だけが、今の僕には確かなものに思えた。僕は、僕の見ている世界を描く。
空が白みきるころ、桜と、光と、地面に積もった花びらは、ほとんど描き終わっていた。キャンバスの上に定着した色は僕の記憶そのものであり、僕たちだけの四月だった。
残っているのは、真ん中だけだ。僕はそこに、彼女を置いた。肩の線を引いて、ブレザーの襟を引いて、少し短く直されたスカートを引く。首の下までは、迷わなかった。そこから先に、二日かかった。
学校の準備室にキャンバスを運び込んで、鍵をかけて、僕は顔のところだけを描き続けた。置いては黒くなり、ナイフで削って、また置く。目のあたりに点を打つと、その瞬間に何も見えなくなる。輪郭を閉じると、内側が沈む。削るたびに麻布の目が潰れて、削りきれなかった線が下に残って、絵の具の層だけが厚くなっていった。室井先輩が何度か覗きに来て、そのたびに追い出した。見せられるものではなかったし、見せたくもない。
提出の前日の夜、僕はようやく手を止めた。顔のところだけが、周りより高く盛り上がっている。触ったらざらざらしそうな厚みだった。何度置いて、何度削ったのかは数えていない。数えなくても、盛り上がりがそのまま残っている。
どうしても、描けなかった。それでも、そこを空けたままにはしなかった。
最後の仕上げのために、強く筆を握り直す。筆先に、混じり気のない白を取った。パレットの上で、他のどの色とも混ざらずに孤立していた白だ。息を整えて、画面の中央にそっと筆先を触れさせる。まだ湿っている層の中に、一点の白が吸い込まれるように沈んでいった。
キャンバスの上に、一枚の花びらが落ちた。




