幕間 四
『うまくいくといいね』
布団の中で何度も読んだ。既読をつけてしまったから、もう戻せない。返す言葉を探しているうちに、時計の針が回っていった。ありがとう、でよかったのだと思う。頑張るね、でもよかった。打てなかったのは、その言葉が他人のものだったからだ。
あなたならできる、という種類の言葉を、私は彼に渡した。無責任だと分かっていて渡した。根拠なんてどこにもなかったし、絵のことなんて何も分からない。それでも渡したのは、そう言われたことのある人間の言い方を、私が持っていなかったからだ。誰も私に、そういうことを言わない。可愛いね、綺麗だね、カメラ映えするね。母も、事務所も、現場の大人も、私の外側だけを褒めて、中身については何も言わない。だから私は、自分がいちばん言ってほしかった言葉を、そのまま彼に渡した。返ってきたのが、うまくいくといいね、だった。
仕方ない。私は結果を出していない。結果を出したら、神崎くんは違う言葉をくれるだろうか。そう考えてしまった自分が嫌になった。
当日の控え室は静かだった。全国から集められた候補者が三十人ほど、壁沿いのパイプ椅子に等間隔で座っている。誰も喋らない。台本を睨んでいる子がいて、ずっと口の中で何かを繰り返している子がいて、天井を見上げて呼吸を数えている子がいる。私はいちばん端の席で、膝の上に手を置いていた。
審査室に入ると、長机の向こうに五人の大人が並んでいた。真ん中に座っている人を見て、息が浅くなる。一年生の初夏、私につまらないと言い放った、あの映画監督だった。向こうは私を覚えていないだろう。覚えているとしたら、それは私ではなく、使えなかった役者だ。
「では、始めてください」
課題は、恋人に別れを告げられる場面だった。指定はシンプルで、相手役の台詞を聞いて、動揺して、引き止める。それだけだ。私はいつもの手順を頭の中に並べた。ここで息を吸って、ここで目線を落として、ここで声を掠れさせる。何十回も練習した組み立て。綺麗に泣ける組み立て。
相手役の男性が台詞を読み上げた。その瞬間、私の身体は審査室ではなく、あの喫茶店の奥の席に戻っていた。柱時計の音と、溶けていくアイスと、こちらを見ようとしないつむじと、私を選べる側へ置いたあの言い方が、いっぺんに戻ってきた。喉が塞がった。悔しかった。悔しくて、悲しくて、それ以上に、彼に分かってもらえないことが痛かった。いちばん近くにいるのに。いちばん近くにいると思っていたのに。
組み立てが全部飛んだ。私は台詞を言った。台本の通りの言葉を、台本にない声で言った。目線を落とすタイミングも、息を吸う位置も、何ひとつ守らなかった。守れなかった。醜い顔をしていたと思う。鼻の頭が赤くなって、声が割れて、綺麗なところはひとつもなかった。
言い終えたとき、審査室は静まり返っていた。真ん中の監督が、しばらく私を見ていた。
「……今の、どこから持ってきた?」
低い声だった。私は答えられなかった。答えられるわけがない。好きな人に傷つけられた気持ちを、そのまま使いました。言えるわけがない。
「ありがとう。もういいよ」
廊下に出て、非常階段の踊り場まで歩いて、そこでしゃがみ込んだ。膝を抱えて、しばらく動けなかった。鞄の中でスマホが震えている。母だ。私は通話ボタンを押さずに、画面を伏せた。
帰り道で、ようやく短いメッセージを打った。
『終わった。あとは待つだけ』
どうだったかは書かなかった。書けなかった。すぐに返事が来た。
『おつかれさま』
その短い返事を、私は改札を抜けるまでずっと見ていた。彼が私を傷つけてくれたから、私は今日、生まれて初めて綺麗じゃない芝居ができた。彼は自分が私に何をしたのかを知らないまま、おつかれさま、と打っている。
言えば、彼は謝るだろう。ごめん、と言うだろう。あの優しさを引き出すために自分の惨めさを差し出すのが、どうしても嫌だった。だから私は黙る。黙って、彼を悪者のままにしておく。
たぶん、一生。




