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二学期が始まってからの校舎は、季節の変わり目の天気のように、どこか落ち着かない空気が漂っていた。その喧騒から切り離されたように、僕と中原さんの距離はまた離れつつある。あれほど毎日のように放課後の美術室で言葉を交わし、時に沈黙を共有していたはずなのに、九月に入ってからはほとんど顔を合わせることがなくなっていた。理由は明白だ。彼女は白嶺のオーディションに向けて、一学期とは比較にならないほど多忙な日々を送っている。足早に昇降口へ向かっていく白いブラウスの後ろ姿を、遠くから見かけることが数回あっただけだった。
一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。九月の半ば、四時間目が終わって移動教室から戻る途中のことだ。向こうから来る人影が、歩幅と鞄の持ち方で彼女だと分かった。周りには生徒が何人もいる。彼女はマスクをしていなかった。校内ではしない。ここでは彼女はただの中原雫だ。
距離が縮まる。僕は口を開こうとして、何を言えばいいのか分からなくなった。おつかれ、でよかったはずだ。それだけでよかったはずなのに、出てこない。
すれ違う。肩がぶつかりそうな距離だった。
「あ」
彼女が小さく言った。僕も同じくらいの音量で何か言った気がする。振り返らなかった。彼女が振り返ったかどうかも分からない。教室に戻ってから、僕は自分の手を見ていた。何を掴もうとしたわけでもないのに、指が半分開いたままになっている。
彼女はもう、僕の足の届かない場所へ進んでいる。そして僕自身も、美術室のイーゼルの前に縛り付けられていた。提出期限が近づく中、放課後のすべての時間をキャンバスに注ぎ込んでいる。奏多に指摘されて以来、僕の制作は完全に迷走していた。床に積み上がるボツ作品の山は、頭の中の混乱をそのまま体現するように、その高さを増していくばかりだ。
僕と中原さんの繋がりをかろうじて維持していたのは、短いメッセージだけだった。
『セリフ頭に入らなくて、先生にめちゃくちゃ怒られた』
『こっちはまたキャンバス塗り潰した。どうしても気に入らなくて』
『根詰めすぎ。ちゃんとご飯食べてる?』
『そっちこそ。サラダだけで乗り切ろうとしないで』
互いの状況を報告し合う。そこには夏休み前の名付けようのない気まずさはもうなかった。けれど、文字だけの会話は、彼女の声を伴わない。液晶のフォントはどこまでも平坦で、彼女が今どんなふうにその言葉を打っているのかを、僕が推し量る手立てはなかった。それでも、一日の終わりに届く通知が救いになっていたのは事実だ。
♢♢♢
ある夜のことだった。時計の長い針が十二を指し、日付が変わったことを告げる。窓を少し開けると、外からはすっかり鈴虫の声が聞こえるようになっていた。昼間の暑さは影を潜め、流れ込む風には肌寒さを覚えるほどの冷気が混じっている。
机の上のスマホが短く震えた。画面を点灯させると、中原さんの名前が表示されている。いつもより少しだけ遅い時間だった。
『明後日のオーディション、緊張してる』
これまでどれだけ弱音を吐くようなことがあっても、彼女の言葉の裏には、自分の未来を自分で掴みに行くという意志があった。その彼女が、ただ一言だけを送ってきている。
明後日。ついに、その日が来る。
親指をキーボードの上に置いた。けれど、そこから先が動かない。文字を入力しては消し、また別の言葉を打っては消す。頑張って、という言葉は無責任に思えた。彼女はもう、言われるまでもなく限界を超えて頑張っている。僕のありふれた一言が、その背中を余計に重くしてしまうのではないか。
迷ったあげく、僕は結局、誰の傷にもならない無難な言葉を選んだ。
『うまくいくといいね』
送信ボタンを押す。画面の端に、僕の打った文字が吸い込まれていく。既読はすぐについた。返事は来なかった。
これでよかったのだろうか。液晶を消して、机に伏せる。静まり返った部屋の中で、自分の手のひらを見つめた。
思い出すのは、二学期の最初の日、西日の差し込む美術室での記憶だ。無理だと並べ立てて逃げようとしていた僕の手に、彼女は自分の手を重ねてきた。指先は冷たいのに、その中心からは熱が伝わってきて、僕はそれ以上、無理だと言えなくなった。あの温度が、どれだけ深く僕の中に打ち込まれていたか。あの日から今日まで、どれだけボツを量産しても筆を折らずにいられたのは、間違いなくあれのせいだった。
彼女はあんなにも真っ直ぐ踏み込んできたのに。僕はどうだ。彼女が一番弱音を吐きたいかもしれないこの瞬間に、他人事のような言葉で済ませようとしている。
僕は弾かれたように立ち上がった。今更メッセージを送り直したところで、言葉の軽さは変わらない。今の僕が返せるものは、言葉の羅列ではないはずだ。
部屋の隅に置かれていた描きかけのキャンバスへ歩み寄る。パレットを取り出し、チューブから油絵の具を絞り出した。マゼンタと、ウルトラマリンと、バーントシェンナ。独特の酸化臭が、一瞬で部屋の空気を塗り替える。筆を握ると、手のひらの筋肉が緊張して強張るのを感じた。言葉で返せないのなら、描くしかない。
最初に描こうとしたのは、花の絵だった。彼女がいつも身にまとっている、柑橘と白い花が混ざったような匂い。あれを視覚のイメージとしてキャンバスに固定できないかと考えた。けれど、筆を動かし始めてすぐに手が鈍くなる。パレットの上でどれだけ白や薄紫を混ぜても、ただの植物の写生にしかならない。花びらの脈も、茎の曲線も、どれだけ精密に描いても、僕が求めている空気はどこからも立ち上がってこなかった。
違う。これではない。
ペインティングナイフを握り直して、まだ乾いていない層を掻き落とす。麻布の白い地肌が露出した。
次に描いたのは、喫茶店の絵だ。二人で歩いた路地の突き当たり。コンクリートの壁に埋もれるように佇む白い木のドアと、カウンターの奥で響いていた氷の音。技術的には、今までのどれよりも上手くいっているように思えた。店内の薄暗さと、ペンダントライトが作るコントラスト。一枚の絵として、十分に成立している。けれど、数歩下がって眺めた瞬間、虚しさが襲ってきた。
その絵にもやはり、あの余白があった。二人が座っていた席の周辺には誰もいない。空っぽの椅子と、主を失ったグラスが描かれているだけだ。
同じ場所ばかり描いていると奏多に見抜かれた日から、僕は一歩も前に進んでいない。彼女と過ごした過去の記憶に閉じこもって、その心地よさを反芻しているだけだ。そんな後ろ向きな絵で、明後日の未来へ向かおうとしている人に、何を返せるというのか。
太い筆に濃いグレーを浸して、その風景を上から塗り潰した。
夜が更けていくのも忘れて、次に取りかかる。今度は、美術室の絵だった。毎日、嫌というほど時間を過ごしているあの場所。削りたての鉛筆の匂いも、床の傷も、窓から差し込む西日の角度も、全部この手に入っている。そして、彼女がいつも座っている席。
狂ったように筆を動かした。腕の筋肉が悲鳴を上げ、視界の端がちかちかと明滅し始める。窓の外が、微かに白み始めていた。濃い紺色だった空が、東からゆっくり薄い灰色へ溶け出していく。鳥の声が遠くから聞こえ始めた。
僕は筆を握ったまま、描き上げたばかりの絵の前に立ち尽くす。画面の中の美術室は、今までで一番正確だった。窓枠の金具の錆も、壁に掛かった歴代の部員のデッサンも、僕の持つ最高の技術で再現されている。けれど、その絵を見つめる僕の心は冷え切っていた。どれだけ精密に描いても、どれだけ陰影を正しく配置しても、そのキャンバスからは何の気配もしない。そこにあるのは、ただの無人の部屋だった。
なぜ、描けない。
僕は頭を抱えるようにして、その場にへたり込んだ。髪に絵の具が付いたけれど、もうどうでもよかった。賞が欲しいわけではない。押し付けられたから、という理由も、もう僕を動かす力にはなっていない。誰かに勝ちたいわけでもない。じゃあ、なんでだ。
静まり返った部屋に、自分の浅い呼吸の音だけが響いている。
誰かに、見せたい。
その思考が浮かんだ瞬間、全身の力が抜けていくような感覚がした。審査員でも、美術部の仲間でも、学校の生徒でもない。展覧会行くよ、と言ってくれた彼女に、僕の描いた絵を見せたかった。僕の絵が壁に掛かった時、彼女がその前に立って、僕の描いた世界をその目に映してくれる。
自分の描いた絵を見せるのは、自分の中身をそのまま人の前に置くのと同じだった。だから僕はずっと、誰にも見せないための絵を描いてきた。その壁を、彼女はあの日、僕の手を握るだけで軽々と跨いできてしまった。
僕はゆっくりと顔を上げる。薄明かりに照らされた絵を見つめた。窓際の席の周辺に、やはり残されている空白。そこに描くべきなのは、風景ではない。
僕はパレットの上の絵の具をすべて掻き取った。そして、まだ何も汚されていない、純白のキャンバスをイーゼルにセットする。
手の震えは、いつの間にか止まっていた。




