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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第五章「補彩」
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 締め切りまで、あと三日。


 誰に見せたいのかは分かっている。それでも、何を描けばいいのかは分からないままだった。


 白いキャンバスは、二日経っても白いままだった。


 顔を描こうとすれば、指先が強張る。輪郭を閉じれば、内側が黒く沈む。あの夏の夜と、何ひとつ変わらなかった。


 その二日のあいだに、彼女のオーディションは終わっていた。


『終わった。あとは待つだけ』


 届いたのは、それだけだ。どうだったのかは書いていない。


『おつかれさま』


 僕が返せたのも、それだけだった。結果が出るのは十日後らしい。彼女は待つ側に立った。僕はまだ、白い布の前に立っている。同じ日に線を引こうと言ったのに、僕だけが一本も引けていない。


 僕は自分の部屋の真ん中で、床に転がった何冊ものデッサン帳を見下ろしていた。


 一冊を拾い上げて、悪あがきのようにページをめくる。どのページにも、僕の視界が捉えた風景が記録されていた。


 誰も入れない絵、と奏多は言った。


 その通りだった。ここには僕しかいない。僕が立って、僕が見て、僕が写した。それだけの記録が何冊も積み上がっている。


 胸の奥で、何かが音を立てて焦げていく。


 デッサン帳の端を両手で掴んだ。


 バリッ、という乾いた音が深夜の部屋に響いた。紙が中央から引き裂かれる。破る。次のページも。その次も。


 手が動くあいだ、何も考えていなかった。音だけがあった。バリ、バリ、バリ。一定のリズムで紙が割れ、白い欠片が床に落ちていく。


 気が済むまで破いて、手を止めた。


 床一面に、白い紙の切れ端が散らばっている。窓から入る夜風が、そのうちの一枚をそっと動かした。


 ふと、視線が一点で止まった。


 照明の下、一枚の破片の縁が薄く光を帯びている。不規則に千切れた縁。白くて、軽くて、頼りない。


 ……花びらみたいだ。


 その思考が浮かんだ瞬間、僕の意識は半年前のあの日へ引き戻された。


 四月。校舎裏の、大きな桜の木。


 散った花びらが絨毯のように敷き詰められていた。僕はその、薄桃色に霞む光の中に立ち尽くしていた。風が吹くたびに花びらが降り注ぎ、視界を白く染め上げていく。


 彼女の顔は霞んでいて、どんな表情をしているのか分からない。世界からそこだけが切り取られたような欠落。


 僕は自分の障害を言い訳にして、彼女を拒絶した。


 僕の言葉を聞いた瞬間、彼女は小さく息を呑んで、弾かれたように走り去っていった。


 薄桃色の光の中を遠ざかっていく背中。その足元で、地面に落ちた花びらが踏みつけられていく。泥に汚れて、黒ずんで、原型を失っていく。


 その光景を、僕は追いかけることもできずに見つめていた。


 散っていくものの美しさと、それを踏み越えていく彼女の生々しさ。


 あの数秒間、僕の胸の奥は、名前のつかない震えで満たされていた。


 あの瞬間の、何か。


 僕が描きたかったのは、正しい配置の風景ではなかった。そこに佇む特定の人物の顔でもなかった。


 言葉にすれば嘘になり、静止画にしようとすれば指の隙間からこぼれ落ちていく、あの瞬間の衝動。


 風景に穴を空けて、そこに誰かを配置しようとする試みは、あの光景を無理やり再現しようとする、あまりに幼い執着だった。


 それを見せたい相手がいる。


 中原雫。僕の欠落を埋めようとしてくれた人。


 彼女がいま、誰にも見えない場所で結果を待っているように、僕もまた、このキャンバスに向き合わなければならない。


 僕が見てきた世界がどんなに歪んでいて、どんなに不完全なものでも、それを彼女にだけは、一枚の絵として届けたい。


 これで、最後にしよう。


 僕は床に転がっていた筆を拾い上げた。手の震えは、もうなかった。恐怖もない。


 パレットを取り出して、絵の具のチューブを思い切り絞り出す。


 記憶の中の桜の木を見上げる。あの日の光。湿った土の匂い。それらすべてを一つの画面に凝縮させるために、僕は真っ白なキャンバスに向き直った。


 太い筆にたっぷりと絵の具を含ませ、最初の一筆を置いた。


 鋭く色が走る。記憶の破片が、手を通って流れ込んでくる。


 彼女の顔を想像することなく、ただ自分の内側にあった、あの美しくも汚れた記憶を刻み込んでいく。


 描くたびに記憶が削られ、キャンバスへ移っていく。色が濃くなるたびに、身体が軽くなっていくようだった。僕を縛り付けていた呪いさえ、この絵の中では、必要な光と影の一部として飲み込まれていく。


 描いてみせる。ただ、あの日を。


 時が過ぎるのを忘れていた。蛍光灯がちかちかと不規則に明滅している。夜明け前の青く冷たい光が、カーテンの隙間から差し込み始めていた。


 筆を動かすたびに、パレットの上で絵の具が擦れる音が響く。窓から吹き込む風が、床に散らかった紙の切れ端をカサリと揺らした。その音さえ、あの日の砂の音と重なっていく。


 中原さんに会いたい。


 彼女の焦燥も、彼女が守ろうとしている日常も、僕が直接この手で守ることはできない。けれど、この絵に閉じ込めた、あの日の震えなら、届くかもしれない。


 部屋の時計が朝の六時を回る。


 外ではもう誰かが歩き出しているのだろう。手にした筆の重み。指先に残る絵の具の感触。今の僕には、その汚れが何よりも確かなものに思えた。


 僕は、僕の見ている世界を描く。


 描き終えた画面を前にして、僕は空っぽになったような感覚に包まれていた。キャンバスの上に定着した色は僕の記憶そのものであり、僕たちだけの四月だった。


 最後の仕上げのために、強く筆を握り直す。


 筆先に、混じり気のない白を取った。パレットの上で、他のどの色とも混ざらずに孤立していた白だった。


 息を整えて、画面の中央にそっと筆先を触れさせる。


 まだ湿っている層の中に、一点の白が吸い込まれるように沈んでいった。


 キャンバスの上に、一枚の花びらが落ちた。

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