20
放課後のチャイムが鳴って、周囲の生徒たちが一斉に席を立ち始める。
カバンに教科書を詰め込む音。廊下へ向かう足音。それらを背中で受け止めながら、僕はゆっくり立ち上がった。
美術室の前に立つ。躊躇いはなかったけれど、心臓がいつもより少し速い。金属の冷たさを手のひらに感じながら、扉を開けた。
中原さんはすでに、いつもの席に座っていた。
夏服の白いブラウスの背中が、傾いた西日に照らされて浮かび上がっている。机の上には冊子が広げられていた。
僕が中に入ると、椅子が小さく鳴って彼女が振り向く。
「あ、神崎くん」
届いた声は、いつもの柔らかさを帯びていた。旧校舎の階段で交わした、あの消え入りそうな声とは違う。
「おつかれ。杉本くん、休みなんだね」
「うん。馬鹿は風邪引かないはずなんだけど」
「え、杉本くんって成績いいんじゃなかった?」
「……学年二位。中学からずっとそう。本人は絶対に自分から言わないけど」
「なんで言わないの」
「ダサいと思ってるらしいよ」
僕は隣に腰を下ろした。広げられていたのは台本らしき冊子で、何箇所か蛍光ペンが引かれている。
彼女がそれを静かに閉じて、机の端へ片付ける動きを、僕はぼんやり見つめていた。
二人の間に短い沈黙が広がる。気まずいわけではなかった。それでも、何か言わなければという焦りが、僕の口を動かした。
「中原さん」
「ん」
「……夏休み、何してたの」
「スイカ食べて、宿題して……人殺した」
平然としていた。まるでコンビニに行ってパンを買った、とでも言うように。
「……え」
僕の掠れた声を聞いて、彼女の肩が細かく揺れた。クスクスと笑い声が聞こえてくる。
「映画の中でだよ。びっくりした?」
少しおどけるように、首を傾げてみせる。
その瞬間、僕は思い出した。四月、あの空き教室で、奏多がカツサンドを頬張りながら話していたことを。
無表情で刺しまくるのがやばかった、と奏多は言った。あの時は実感が湧かなかったけれど、目の前にいる彼女は、誰かの命を奪う役を演じている。
「びっくりするよ、普通に言われたら」
「あはは、ごめんごめん。でも本当にそんな感じだったんだよ。夏休みの前半はずっと撮影で地方の山奥に行ってて。ロケバスの中で宿題して、現場に入ったら無表情でナイフ振り回す、みたいな」
中原さんは自分の指先を見つめながら話していた。
「大変、だったんだね」
「まあ、それが私の普通だから」
そこで一度、言葉が切れた。
僕は膝の上で手を握った。
二ヶ月間、ずっと打っては消していた言葉がある。今言わなければ、たぶん一生言えない。
「……ドラマ、見た」
彼女の指が止まった。
「え」
「八月の。第一話から」
空気が動かなくなった。遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
「……いつ知ったの」
「放送で。テレビで、たまたま」
嘘だ。たまたまではない。麦茶を取りに降りて、そのまま一時間動けなかった。でも、そこまでは言えなかった。
「そっか」
小さな声だった。
「……おめでとう」
言った瞬間、自分の声がひどく間の抜けたものに聞こえた。二ヶ月遅れの、伝えたかったこと。
中原さんはしばらく黙っていた。
「遅い」
「……うん」
「ほんとに遅い」
「うん」
「ばか」
最後の一言だけ、声が揺れていた。
彼女は顔を横に向けて、しばらくそのままでいた。ブラウスの肩が一度だけ大きく上下する。
僕は何も言わずに待った。
待ちながら、この人はいま泣いているのだろうか、と考えていた。
考えても分からない。分からないことに、僕はもう慣れている。それでも、こういう時だけは慣れたくないと思う。
やがて彼女は袖口で目のあたりを押さえるような仕草をして、それから元の姿勢に戻った。
「言おうと思ってたの、あの日」
「……知ってる」
「知ってるの」
「後から。ずっと考えてたら、分かった」
あのさ、と三回言った人のことを、僕は八月のあいだずっと考えていた。
「決まったのは春なんだけどね。解禁が七月の頭だったの」
「……解禁」
「発表までは誰にも言っちゃだめってこと。事務所以外には」
だから七月だったのか、と思った。四つ受けて全部落ちたと言っていたあの時期に、彼女はもう主演の座を持っていた。持っていて、言えないでいた。
「順番、決めてたんだよ。神崎くんが一番」
彼女はそう言って、机の上で指を折った。
「一番が神崎くんで、二番が優子と美奈で、三番が学校の先生。事務所とお母さんは、その前にもう知ってるから」
「なんで」
「なんでって」
「なんで、僕が」
彼女は少し黙ってから、指を折るのをやめた。
「決まってるでしょ」
それ以上は言わなかった。
「私が悪いんだよ。ちゃんと言えばよかったのに、順番とか気にして」
「違うよ」
「違わない」
「違う」
珍しく、僕のほうが言い張った。中原さんは少し笑って、それ以上は争わなかった。
「まあ、もう終わったことだし」
彼女はいつもこうやって、僕が背負うべきものを引き取っては、終わったことにしてしまう。僕はそれに甘えて、今日までここに来た。
♢♢♢
「あのね、神崎くん」
しばらくして、彼女の声からおどけた響きが消えた。机の上に置いた自分の手を、ぎゅっと握り締める。
「十月にね、またオーディションを受けることにしたの」
「オーディション」
「うん。『白嶺』っていう事務所の」
その名前は僕でも聞き覚えがあった。テレビを見ない僕でも、広告やニュースで何度も目にする、国内最大手の芸能事務所だ。
「前に話した、白石さんとか黒川さんとかが所属してるところ。知ってる?」
「名前くらいは」
「そこがオーディションやるの。滅多に募集しないのに」
声が微かに震えていた。恐怖ではなく、大きな波を目の前にした人の震え方だった。
「事務所も、私を大切にしてくれてる。でも、もっと上に行きたくて。たくさんの人に、私の演技を見てほしい」
そこで、一度息を継いだ。
「……見られないと、生きていけない気がするから」
それは彼女が、うっかり本当のことを言ってしまった瞬間だった。
「自信はないよ。全国からものすごい数の人が応募するだろうし、私なんて足元にも及ばないかもしれない。でも、やるしかないの」
そう言いながら、彼女は冊子を引き寄せた。
「もう、応募は済ませちゃったんだ」
済ませちゃった、という言い方が引っかかった。
相談する前に自分で決めた人の口ぶりではない。決められてしまった人のそれに近かった。
その時、彼女の鞄の中でスマホが震えた。中原さんは画面を見て、一瞬だけ動きを止める。
「……ごめん、出るね」
立ち上がって、廊下へ出ていく。扉が閉まる。
声は聞こえない。ただ、扉の向こうで話している時間の長さだけが分かった。二分か、三分。
戻ってきた彼女は、椅子を引く音までいつもと同じだった。
「ごめん。事務所」
「そっか」
「うん」
嘘だ、と思った。根拠はない。ただ、事務所からの電話で、あんなふうに声の温度が全部抜けた状態で戻ってくるだろうか。
僕は聞かなかった。聞ける立場ではなかったし、聞いたところで彼女は同じ答えを繰り返しただろう。
「神崎くんは。夏休み、どうだったの」
僕は自分の手元に視線を落とした。机の表面には、歴代の部員が残していった絵の具の跡と、無数の傷が刻まれている。
「何もしてないよ。絵描いてただけだし」
「それなら、十分立派だよ」
僕は夏休みの終わりに起きた、小さな出来事について口を開いた。
「……十月に、県のコンクールがあるんだ」
「コンクール」
「夏休み前、三人に押し付けられちゃってさ」
美術部のグループラインを思い出す。僕より描ける三人のこと。
「受賞者の作品だけが、展覧会に飾られるんだって」
中原さんはオーディション。僕はコンクール。
規模も、賭けているものの重さも違う。彼女は役者人生のすべてを懸けて広い世界へ飛び込もうとしていて、僕は押し付けられた役割を果たすためにキャンバスに向かっているだけだ。
それでも僕たちは二人ともこの季節に、何かしらの線を引こうとしている。
自分の現状を説明したかっただけで、慰めてほしいわけでも、応援してほしいわけでもなかった。
なのに中原さんは、机を小さく叩いて身を乗り出した。
「じゃあ、展覧会行くよ」
迷いのない声だった。
「え」
「神崎くんの絵が飾られる展覧会。私、絶対に行くから。日程決まったら教えて」
まるで、僕の絵がそこに飾られることが最初から決まっている未来であるかのような言い方だった。
僕は慌てて首を振った。
「絵が飾られるのは受賞者だけだよ」
「うん。だから」
「僕の絵が飾られるわけないよ。何百人も応募するんだから」
現実を突きつけるように、少しだけ声を尖らせた。自虐ではなく、事実として。
自分の実力は分かっている。部室内での評価だって、先輩たちに比べれば線は荒いし、影の取り方も未熟だ。風景だけなら、あの二人には負けない。それも分かっている。
でも、風景しか描けない人間の絵が、美術館の壁に掛かるとは思えなかった。
「じゃあ、受賞して」
静かで、拒絶を許さない声だった。そして、あまりに勝手な要求だった。
「無理だよ」
即座に答えた。苦笑することもできず、自分の無力を認めるように声を落とす。
「簡単に言うけど、本当に無理なんだ。他の学校にはもっと上手い人がたくさんいるだろうし」
自分の限界を自分で決める。そうしなければ、期待して傷つくのが怖かった。
それでも、中原さんは諦めなかった。
彼女は僕の手に、自分の手をそっと重ねた。指先は冷たかった。それなのに、その中心からは確かな熱が伝わってくる。
「できるよ。神崎くんなら」
なぜ、彼女がそこまで僕を信じられるのか、僕には分からなかった。
「私もオーディション頑張るから。二人で勝とうよ」
重ねられた手の力が、少しだけ強くなる。無理だ、という言葉は、もう喉まで上がってこなかった。




