幕間 三
事務所に寄る用事なんて、本当はなかった。私は駅の反対側まで歩いて、誰も来ないベンチに座って、日が落ちるまでそこにいた。
私を選べる側へ置いた、あの言い方。言葉の形だけが先に入ってきて、中身は少し遅れて届いた。届いた瞬間、喉が塞がった。違う、と言えばよかったのだ。私だって選ばれなかった側だよ、四つ落ちたって言ったばっかりじゃん、と。言おうとして、言えなかった。あの言い方のどこかが、たしかに当たっていたからだ。どこが当たっているのかは、そのときの私にはまだ形にできなかった。
私は受けられている。呼ばれて、席に着いて、そこで落ちる。彼は、席に着くことすらできないと思っている。私の前にはいつも選択肢が用意されていて、ちゃんと並べられている。誰が並べたのかを、私は一度も考えたことがない。考えないでいられること自体が、たぶん、彼の言う選べる側なのだ。
だから黙った。黙ったら、彼まで黙ってしまった。
言うつもりだったのに。七月に解禁されたばかりの連続ドラマの主演が、私にはあった。決まったのは春で、そこから何ヶ月も、事務所以外の誰にも言えないまま抱えていた。誰から先に伝えるかを私は勝手に決めていて、その一番はずっと彼だった。筆を持っていようが、絵の具が垂れていようが、あの日、美術室であのまま言ってしまえばよかったのだ。ちゃんと言いたい、なんてものを待っていたら、いつまでも来ない。役者のくせに、私はいつも肝心なところで台詞を落とす。
ベンチの前を、制服の子たちが自転車で通り過ぎていく。誰かの部活のかばんが揺れて、笑い声が遠ざかっていった。街で声をかけられたあと、私がどんな顔で立っているのか。写真は駄目だと断った直後に、自分の言い方が正しかったかどうかを何度も反芻していること。いえ、違いますよ、と迷わずに言えるようになるまでに何年かかったのか。彼には、そのどれも見せていない。見せていないのだから、伝わらなくて当たり前だった。
顔を見られない人の隣を選んだのは、私だ。見せなくて済むから選んだくせに、見てほしいと思っている。どこまでも身勝手だと思う。
日が落ちて、ベンチのコンクリートが冷たくなってきた。鞄の中で、スマホは一度も震えなかった。今日はごめん、の一言でもあれば、私はすぐにで返信を打っただろう。打って、それから、ずるいのは私のほうだと思っただろう。
立ち上がって、改札へ向かった。もうすぐ夏休みが始まる。彼に会わない日が続く。




