16
乾いた鈴の音が、静まり返った店内に響いた。カウンターの奥からマスターが顔を出して、僕たちを見ると、拭いていたグラスを置いた。
「いらっしゃい。……おや、雫ちゃん。今日はまた、アイスコーヒーかい」
明らかにからかいのニュアンスが含まれている。いつぞや背伸びをして注文して撃沈したことを指しているのだ。
「……今日は、そういう気分じゃないので」
中原さんの声は低かった。マスターは「そうかい」と笑って、手際よく準備を始める。僕たちは窓からの光が届かない、奥の席に座った。
「ラムネフロート二つと、クロックムッシュも二つで」
彼女はメニューを広げもせずに注文した。マスターがキッチンへ消えると、店内に静寂が戻ってくる。
「クロックムッシュって何」
沈黙を埋めるように聞いた。
「ここの名物。食べれば分かると思う。ほんと美味しいから」
「へえ」
運ばれてきたラムネフロートは、切り取られた夏空そのものだった。グラスの底に水色のシロップが沈み、その上を透明な炭酸水が満たしている。頂には入道雲みたいな少し崩れたアイスが浮かんでいた。後からクロックムッシュが届く。
厚切りのトーストの表面を、焼き固められたベシャメルソースと溶けたチーズが覆っている。その上に粗挽きの黒胡椒が散らされていた。添えられたナイフを入れると、ザクッ、という音がして熱い蒸気が立ち上る。一口運ぶと、濃厚なコクとチーズの塩気、黒胡椒の刺激が口の中に広がった。
ジャンクなのに、どこか上品だ。気がつけば、二人とも無言で口を動かしている。いつもなら、この沈黙は気にならない。彼女といるときの沈黙は、埋めなくていいものだった。美術室でそれを覚えた。僕が鉛筆を動かして、彼女が台本を読んで、それで一時間が過ぎる。
今日のは違った。どちらかが何かを言うのを待っている沈黙だ。待たれているのが自分だということは分かる。何を待たれているのかが分からない。皿を空にする頃には、額に滲んでいた汗もすっかり引いていた。夏でも袖を下ろしたままの腕が、冷房でようやく冷えていく。
熱を持った口の中を落ち着かせるように、僕はラムネフロートへ手を伸ばす。青いシロップと炭酸が混ざりきらないまま、下のほうだけが濃い。かき混ぜるのを忘れていた。
「……ちょっと、疲れた」
中原さんの声から刺々しさが消えて、代わりに頼りなさが覗いている。
「ここに来ると、外のこと忘れられるの」
そう言って、細いストローから青い液体を吸い上げた。店の奥で柱時計が時を刻む音が、僕たちの沈黙を埋めていく。
「あのさ、神崎くん。さっき、言いかけたやつなんだけど」
グラスを置く音がした。彼女は一度息を吸う。吸って、少し止めて、それから吐いた。
「……その前に、聞いてもいい」
「なに」
「神崎くんって、進路どうするの」
順番を作ったのだと、今なら分かる。自分の話をする前に、相手の話を聞く。そういう入り方をする人だった。台本を読むときと同じで、必ず相手の台詞から入る。僕は、その入り口に座り込んで動かなかった。
「……まだ、迷ってる」
「そっか」
「中原さんは」
「私は事務所の方針もあるから、たぶん進学はしない」
言い方が、軽かった。軽くして、次に繋げようとしていた。
「でもさ、神崎くんなら美大行けると思う」
「無理だよ」
遮るつもりはなかった。ただ、その言葉を聞いた瞬間に口が動いていた。
「なんで。才能あるのに」
「……試験に、人物デッサンがあるから」
空になった自分のグラスを見つめたまま答える。
「顔が見えるなら、たぶん選んでたよ」
「でも、慣れれば描けるようにならないの。この前だって」
あの日の光景が浮かんだ。放課後の美術室。彼女は僕の左手をゆっくりと導いて、石膏像の額に触れさせた。ひんやりとした感触。額の広さ。鼻梁の線。唇の起伏。見えないものが、ゆっくり形になっていった。彼女に左手を預けたまま、僕は右手の鉛筆を走らせた。
あの瞬間だけ、僕は顔を描くことができた。あれは、僕の絵だったのか。
「……あれ、中原さんが描かせたんだよ」
「え」
「僕の手を動かしてたのは中原さんでしょ。僕が描いたわけじゃない」
言った瞬間に、しまったと思った。思ったのに、口は止まらなかった。
「中原さんも言ってたじゃん。動かしてたのは自分の手だって。次は自分で触ってって」
「……それは」
「やったよ。あの後、一人で。何回も」
グラスの中で氷がひとつ崩れた。
「全部だめだった。輪郭を閉じたら中が真っ黒になるし、目のところに何も置けないし。俯かせて前髪で隠そうとしたときは、途中で自分が何やってるのか分かんなくなった」
中原さんの側から、物音が消えた。
「あの絵、中原さん大事にしてくれてるでしょ。……大事にされてるって思うたびに、僕は自分が何もできてないことを確認するんだよ」
言い切ってから、店の空気がまるごと硬くなったのが分かった。柱時計の音が、急に大きくなった気がする。
「……そんなつもりで、もらったんじゃないよ」
「分かってる」
「分かってないでしょ」
初めて、彼女の声が尖った。
「私、あの絵の話、一回もしてない。持ってるって言っただけで」
言葉が速くなっている。
「神崎くんが気にするだろうなって思ったから、ずっと言わないようにしてたの。触らないようにしてたの。
それを、そっちから持ち出して、それで責められるの、意味分かんない」
彼女はあの日から一度もあの絵の話をしていない。していないことに、僕は今この瞬間まで気づいていなかった。僕は、彼女の配慮を一度も数えていなかった。
「ごめん」
「謝んなくていい」
「……ごめん」
「だから」
彼女はそこで言葉を切って、深く息を吐いた。吐いてから、声の高さを元に戻す。
「……分かろうとはしてるよ、私」
消え入りそうな、それでいて重たい声だった。
「全部は無理でも、一緒に考えたいと思ってる」
一緒に考えたい、と彼女は言う。考えるも何も、答えなんてない。生まれてから死ぬまで、僕の目にはこの世界のいちばん大事な部分が映らない。それは考えて解けるものじゃない。その事実の前で、彼女の言葉は、優しくて、無力で、僕にはただ眩しかった。
眩しいものを見せられて、僕は目を逸らす代わりに、それを汚した。
「中原さんは、選べる側の人だから」
「……え」
「オーディション落ちても、次があるでしょ。落ちるってことは、受けられてるってことだし」
言葉は、口から出た瞬間に自分でも聞こえた。聞こえたのに、戻せなかった。
「……僕は、受けることもできないから」
中原さんの指先が、グラスの縁で止まる。止まったまま、動かない。
「……そう思う?」
「……」
「私が、選べる側だって」
二度目の問いは、少しだけ声が低い。僕は答えなかった。というより、答えられなかった。
「そっか」
彼女は反論しなかった。怒ってくれたほうが、まだよかったのだと思う。違うよと言ってくれたら僕は謝れたし、今のは間違ってると言ってくれたなら、間違ってましたと返せた。中原さんは溶けかけたアイスを崩すこともなく、視線を落としたまま動かない。
アイスがすっかり崩れて青に混ざりきってしまうくらいの時間、僕たちはそうしていた。グラスの中で、入道雲だったものが形をなくしていく。やがて、彼女は鞄を膝の上に引き寄せた。
「あのさ」
「……うん」
顔を上げると、彼女は鞄の持ち手を両手で握っている。美術室でしていたのと、同じ握り方だった。
「……なんでもない」
持ち手から手が離れた。彼女は立ち上がって、伝票を取る。
「今日は私が出す」
「いや、いいよ」
「いいから」
押し問答にはならなかった。彼女はレジへ歩いていく。マスターが何か言いかけて、やめたのが分かった。あの様子だと、全部聞いていたんだろう。店を出ると、外はまだ西日が暮れないまま、淀んだ熱を帯びていた。冷房で鈍っていた汗が一気に吹き返してくる。
ドアのすぐ脇で、中原さんが足を止めた。僕のほうを見ようとはせず、自分のつま先を見つめている。
「ごめん、事務所寄らなきゃだから」
「……うん」
それだけ告げると、彼女はいつもとは逆の方向へ歩き出した。三歩ほど行ったところで、一度だけ立ち止まる。背中がこちらを向いたままだった。何か言うのかと思って、僕は待った。やがて、足がまた動いた。振り返ることはない。僕はその背中を引き止めなかった。
喧嘩をしたわけでもないのに、僕たちは互いに背を向けて歩き出した。路地を出るまで、僕は一度も振り返らなかった。振り返ったところで、顔なんて見えないのだから。そう自分に言い聞かせるのが、その日いちばん惨めだった。
その夜、僕は何度もスマホを開いた。今日はごめん、と打っては消し、さっきのは違うんだ、と打っては消した。違わない。全部、僕が思っていたことだ。思っていたことを言っただけだから、取り消せない。取り消したいのは言葉じゃなくて、それを思ってしまった自分のほうだった。
夜中の一時を過ぎたころ、通知が来た。心臓が跳ねて、僕は画面を開いた。美術部のグループラインだった。安田さんがスタンプを誤爆したらしい。誰も反応しないまま少し間があって、室井先輩が「深夜テンションで名画を送るな」とだけ返していた。送られていたのは、たぶんモナリザだった。
そのまま朝まで、通知は来なかった。




