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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第四章「剥落」
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16

 乾いた鈴の音が、静まり返った店内に響いた。カウンターの奥からマスターが顔を出して、僕たちを見ると、拭いていたグラスを置いた。


「いらっしゃい。……おや、(しずく)ちゃん。今日はまた、アイスコーヒーかい」


 明らかにからかいのニュアンスが含まれている。いつぞや背伸びをして注文して撃沈したことを指しているのだ。


「……今日は、そういう気分じゃないので」


 中原(なかはら)さんの声は低かった。マスターは「そうかい」と笑って、手際よく準備を始める。僕たちは窓からの光が届かない、奥の席に座った。


「ラムネフロート二つと、クロックムッシュも二つで」


 彼女はメニューを広げもせずに注文した。マスターがキッチンへ消えると、店内に静寂が戻ってくる。


「クロックムッシュって何」


 沈黙を埋めるように聞いた。


「ここの名物。食べれば分かると思う。ほんと美味しいから」

「へえ」


 運ばれてきたラムネフロートは、切り取られた夏空そのものだった。グラスの底に水色のシロップが沈み、その上を透明な炭酸水が満たしている。頂には入道雲(にゅうどうぐも)みたいな少し崩れたアイスが浮かんでいた。後からクロックムッシュが届く。


 厚切りのトーストの表面を、焼き固められたベシャメルソースと溶けたチーズが覆っている。その上に粗挽きの黒胡椒(こしょう)が散らされていた。添えられたナイフを入れると、ザクッ、という音がして熱い蒸気が立ち上る。一口運ぶと、濃厚なコクとチーズの塩気、黒胡椒の刺激が口の中に広がった。


 ジャンクなのに、どこか上品だ。気がつけば、二人とも無言で口を動かしている。いつもなら、この沈黙は気にならない。彼女といるときの沈黙は、埋めなくていいものだった。美術室でそれを覚えた。僕が鉛筆を動かして、彼女が台本を読んで、それで一時間が過ぎる。


 今日のは違った。どちらかが何かを言うのを待っている沈黙だ。待たれているのが自分だということは分かる。何を待たれているのかが分からない。皿を空にする頃には、額に(にじ)んでいた汗もすっかり引いていた。夏でも袖を下ろしたままの腕が、冷房でようやく冷えていく。


 熱を持った口の中を落ち着かせるように、僕はラムネフロートへ手を伸ばす。青いシロップと炭酸が混ざりきらないまま、下のほうだけが濃い。かき混ぜるのを忘れていた。


「……ちょっと、疲れた」


 中原さんの声から刺々しさが消えて、代わりに頼りなさが覗いている。


「ここに来ると、外のこと忘れられるの」


 そう言って、細いストローから青い液体を吸い上げた。店の奥で柱時計が時を刻む音が、僕たちの沈黙を埋めていく。


「あのさ、神崎(かんざき)くん。さっき、言いかけたやつなんだけど」


 グラスを置く音がした。彼女は一度息を吸う。吸って、少し止めて、それから吐いた。


「……その前に、聞いてもいい」

「なに」

「神崎くんって、進路どうするの」


 順番を作ったのだと、今なら分かる。自分の話をする前に、相手の話を聞く。そういう入り方をする人だった。台本を読むときと同じで、必ず相手の台詞から入る。僕は、その入り口に座り込んで動かなかった。


「……まだ、迷ってる」

「そっか」

「中原さんは」

「私は事務所の方針もあるから、たぶん進学はしない」


 言い方が、軽かった。軽くして、次に繋げようとしていた。


「でもさ、神崎くんなら美大行けると思う」

「無理だよ」


 遮るつもりはなかった。ただ、その言葉を聞いた瞬間に口が動いていた。


「なんで。才能あるのに」

「……試験に、人物デッサンがあるから」


 空になった自分のグラスを見つめたまま答える。


「顔が見えるなら、たぶん選んでたよ」

「でも、慣れれば描けるようにならないの。この前だって」


 あの日の光景が浮かんだ。放課後の美術室。彼女は僕の左手をゆっくりと導いて、石膏(せっこう)像の額に触れさせた。ひんやりとした感触。額の広さ。鼻梁(びりょう)の線。唇の起伏。見えないものが、ゆっくり形になっていった。彼女に左手を預けたまま、僕は右手の鉛筆を走らせた。


 あの瞬間だけ、僕は顔を描くことができた。あれは、僕の絵だったのか。


「……あれ、中原さんが描かせたんだよ」

「え」

「僕の手を動かしてたのは中原さんでしょ。僕が描いたわけじゃない」


 言った瞬間に、しまったと思った。思ったのに、口は止まらなかった。


「中原さんも言ってたじゃん。動かしてたのは自分の手だって。次は自分で触ってって」

「……それは」

「やったよ。あの後、一人で。何回も」


 グラスの中で氷がひとつ崩れた。


「全部だめだった。輪郭(りんかく)を閉じたら中が真っ黒になるし、目のところに何も置けないし。(うつむ)かせて前髪で隠そうとしたときは、途中で自分が何やってるのか分かんなくなった」


 中原さんの側から、物音が消えた。


「あの絵、中原さん大事にしてくれてるでしょ。……大事にされてるって思うたびに、僕は自分が何もできてないことを確認するんだよ」


 言い切ってから、店の空気がまるごと硬くなったのが分かった。柱時計の音が、急に大きくなった気がする。


「……そんなつもりで、もらったんじゃないよ」

「分かってる」

「分かってないでしょ」


 初めて、彼女の声が尖った。


「私、あの絵の話、一回もしてない。持ってるって言っただけで」


 言葉が速くなっている。


「神崎くんが気にするだろうなって思ったから、ずっと言わないようにしてたの。触らないようにしてたの。

 それを、そっちから持ち出して、それで責められるの、意味分かんない」


 彼女はあの日から一度もあの絵の話をしていない。していないことに、僕は今この瞬間まで気づいていなかった。僕は、彼女の配慮を一度も数えていなかった。


「ごめん」

「謝んなくていい」

「……ごめん」

「だから」


 彼女はそこで言葉を切って、深く息を吐いた。吐いてから、声の高さを元に戻す。


「……分かろうとはしてるよ、私」


 消え入りそうな、それでいて重たい声だった。


「全部は無理でも、一緒に考えたいと思ってる」


 一緒に考えたい、と彼女は言う。考えるも何も、答えなんてない。生まれてから死ぬまで、僕の目にはこの世界のいちばん大事な部分が映らない。それは考えて解けるものじゃない。その事実の前で、彼女の言葉は、優しくて、無力で、僕にはただ(まぶ)しかった。


 眩しいものを見せられて、僕は目を()らす代わりに、それを汚した。


「中原さんは、選べる側の人だから」

「……え」

「オーディション落ちても、次があるでしょ。落ちるってことは、受けられてるってことだし」


 言葉は、口から出た瞬間に自分でも聞こえた。聞こえたのに、戻せなかった。


「……僕は、受けることもできないから」


 中原さんの指先が、グラスの縁で止まる。止まったまま、動かない。


「……そう思う?」

「……」

「私が、選べる側だって」


 二度目の問いは、少しだけ声が低い。僕は答えなかった。というより、答えられなかった。


「そっか」


 彼女は反論しなかった。怒ってくれたほうが、まだよかったのだと思う。違うよと言ってくれたら僕は謝れたし、今のは間違ってると言ってくれたなら、間違ってましたと返せた。中原さんは溶けかけたアイスを崩すこともなく、視線を落としたまま動かない。


 アイスがすっかり崩れて青に混ざりきってしまうくらいの時間、僕たちはそうしていた。グラスの中で、入道雲だったものが形をなくしていく。やがて、彼女は鞄を膝の上に引き寄せた。


「あのさ」

「……うん」


 顔を上げると、彼女は鞄の持ち手を両手で握っている。美術室でしていたのと、同じ握り方だった。


「……なんでもない」


 持ち手から手が離れた。彼女は立ち上がって、伝票を取る。


「今日は私が出す」

「いや、いいよ」

「いいから」


 押し問答にはならなかった。彼女はレジへ歩いていく。マスターが何か言いかけて、やめたのが分かった。あの様子だと、全部聞いていたんだろう。店を出ると、外はまだ西日が暮れないまま、(よど)んだ熱を帯びていた。冷房で鈍っていた汗が一気に吹き返してくる。


 ドアのすぐ脇で、中原さんが足を止めた。僕のほうを見ようとはせず、自分のつま先を見つめている。


「ごめん、事務所寄らなきゃだから」

「……うん」


 それだけ告げると、彼女はいつもとは逆の方向へ歩き出した。三歩ほど行ったところで、一度だけ立ち止まる。背中がこちらを向いたままだった。何か言うのかと思って、僕は待った。やがて、足がまた動いた。振り返ることはない。僕はその背中を引き止めなかった。


 喧嘩をしたわけでもないのに、僕たちは互いに背を向けて歩き出した。路地を出るまで、僕は一度も振り返らなかった。振り返ったところで、顔なんて見えないのだから。そう自分に言い聞かせるのが、その日いちばん惨めだった。


 その夜、僕は何度もスマホを開いた。今日はごめん、と打っては消し、さっきのは違うんだ、と打っては消した。違わない。全部、僕が思っていたことだ。思っていたことを言っただけだから、取り消せない。取り消したいのは言葉じゃなくて、それを思ってしまった自分のほうだった。


 夜中の一時を過ぎたころ、通知が来た。心臓が跳ねて、僕は画面を開いた。美術部のグループラインだった。安田(やすだ)さんがスタンプを誤爆したらしい。誰も反応しないまま少し間があって、室井(むろい)先輩が「深夜テンションで名画を送るな」とだけ返していた。送られていたのは、たぶんモナリザだった。

 そのまま朝まで、通知は来なかった。

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