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駅へ続く緩やかな坂道。白く灼けたアスファルトの上を、いつものように十メートルの距離を保って歩いていく。中原さんの細い肩と黒髪が、歩調に合わせて一定のリズムで揺れていた。この距離が一度だけ消えた夜のことを思い出す。
あれから何度か二人で帰ったけれど、あの夜のようにはならなかった。僕はもう、その背中を追いかけるだけの歩き方にすっかり慣れている。並んで歩くという選択肢を、いつの間にか考えなくなっていた。夏の駅前は、肺の奥まで焦がすような熱気と喧騒に満ちている。
息を吸うたび、埃っぽい空気とアスファルトの焼ける匂いが混ざった熱い塊が喉を通っていった。制服姿の生徒。買い物帰りの人。足早に通り過ぎる会社員。蝉の声に負けじと交わされる話し声と、遠くの踏切の警報音。その中で、僕は彼女の背中を見失った。
ほんの一瞬、信号待ちの車列に視線を逸らしただけのつもりだった。それなのに、再び前を向いたとき、その姿はどこにもない。視線を彷徨わせて、反射的に名前を呼びそうになる。けれど、この雑踏の中で大声を上げることなんてできない。
人波に肩をぶつけられながら、僕はその場に立ち尽くした。彼女はすぐに見つかった。駅ビルの巨大な日陰。ガラス張りのエントランスに沿って落ちる濃い影の一角に、小さな人だかりができている。中原さんはその中心にいた。数人の女子高生に半ば囲まれるような形になって、浮き足立った歓声を浴びている。
「あれ、成瀬雫じゃない?」
「えっ、マジじゃん。顔ちっさ」
若いカップルが声を潜めて、僕の横を通り過ぎていった。中原さんは詰め寄る相手に対して、丁寧で、それでいて一定のラインからは踏み込ませない立ち方をしていた。差し出された手には無駄のない動作で応じ、よく通る声で言葉を返している。
「あの、写真いいですか」
その声が、こちらまで届いた。
「ごめんね。事務所から止められてて」
申し訳なさそうな声の高さ。少しだけ傾けた首。断られた側が悪いことをした気にならないための、全部が計算された動き。
「ですよね。すいません」
「全然。声かけてくれてありがとう」
女子高生たちは、断られたのに嬉しそうだった。僕は街灯の影で立ち止まったまま、その光景を眺めている。数メートルしか離れていないはずなのに、彼女の周りだけが透明な膜で隔てられているように見えた。そのうちの一人が、ふと顔をこちらへ向ける。
僕は目を逸らすのが遅れた。見ていたことが、それで分かってしまう。
「あの人、お連れの方ですか」
黒い靄が四つ、一斉にこちらを向く。僕は動けなかった。
「いえ、違いますよ」
迷いも、ためらいも、その言葉の前後にはなかった。考える時間も、息を吸う間も要らないくらい、彼女の中ではその答えがとっくに用意されていたのだ。用意しておかなければならない答えなのだと思う。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
黒い靄が向きを変えて、僕から離れていった。そのあとしばらく、僕は自分がどこに立っているのかよく分からなくなった。足の裏の感覚だけが妙に遠い。嘘ではない。離れて歩く人間を、連れとは言わない。それは僕たちが二人で決めたことで、彼女はただ事実を答えただけだ。
女子高生たちは何度も振り返りながら雑踏へ消えていった。駅前に、何事もなかったかのように日常の音が戻ってくる。彼女たちの姿が完全に紛れた途端、中原さんの肩からふっと力が抜けた。張っていた背筋がわずかに丸まって、首の角度が下がる。彼女はスニーカーのつま先を見つめたまま、動かなくなった。
ポケットの中でスマホが短く震える。
『ごめん。待った?』
ごく普通の、待ち合わせに少し遅れただけの友人が送るようなメッセージだった。
『大丈夫だよ お疲れ』
送信すると、すぐに既読がついて、クマのスタンプが送られてくる。顔を上げると、彼女がゆっくり歩き出すところだった。僕もそれに合わせて足を踏み出す。十メートルが、また僕たちの間に生まれた。さっきまでの光景が同じ場所で起きた現実なのか、僕には曖昧なものに思えてくる。
今の彼女の背中は小さくて、どこにでもいる少女のそれと変わらない。それなのに、胸の奥で打っている鼓動が、さっきの数分を忘れさせてくれなかった。あの子たちは今頃、友達に報告しているだろう。成瀬雫に会った、写真は駄目だったけど優しかった、と。
そこに僕は出てこない。出てくる必要がない。角を曲がると、音がふっと弱まった。閉まったままのシャッターが続く路地に入る。前を歩く中原さんの歩幅が、少しずつ短くなっていく。疲れているのだと思う。それでも『大変だったね』なんて、僕には言えなかった。
結局、店の前に着くまで、僕たちは一言も交わさなかった。




