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打ち下ろすような蝉時雨が、規則的な波になって鼓膜の奥へ突き刺さってくる。思考の端にまで滑り込んでくるから、たちが悪い。開け放たれた窓から流れ込む風は、涼しさを運んでこない。代わりに、運動場から舞い上がる乾いた砂の混じった熱風と、プールの塩素の匂いを教室に充満させていく。
クラスメイトたちは机に突っ伏したり、下敷きで生ぬるい空気をかき回したりして、時間が過ぎるのを待っている。窓の外では陽炎が揺れていて、世界そのものが歪んで溶け出しているように見えた。怜奈は一週間の帰省を終えて、数日前に仕事へ戻っていった。
滞在中は昼夜逆転で家中を散らかし、洗面所に髪のピンクを移し、梓さんに「これは血じゃないのね」と確認されながら、嵐みたいに去っていった。あの夜以来、父の夢は見ていない。代わりに、黒い靄は密度を増している気がした。
中原さんの顔も、怜奈の顔も、朝起きて洗面台の鏡に映る自分の顔でさえも。墨だまりみたいに、そこにあるべきものを侵食し続けている。濃くなったのか、僕がよく見るようになっただけなのかは分からない。今まで、僕は靄をあまり見なかった。
見ても仕方がないからだ。人の首から上には何もない。それは空が青いのと同じ、確認する必要のないことだった。この夏、僕はそれを毎日確認している。確認するようになったのがいつからなのかは、自分でもよく分かっていた。
「進路希望調査票、配るぞー」
朝のホームルーム。担任が教卓を叩いて、気怠さに沈んでいた教室に声を張り上げた。前列から後ろへ、乾いた音を立ててプリントが回ってくる。
「金曜の放課後が最終提出期限だ。三者面談前の大事な資料になるからな。親御さんとよく話し合って、第一希望から第三希望まで、ちゃんと埋めてこい。適当に書くなよ」
僕の机に回ってきたプリントは、真夏の光を反射して目に痛いほど白かった。第一希望。第二希望。第三希望。三つの四角が横に並んでいる。三つも書かせるのは、最初の欄に嘘を書く人間がいることを学校が知っているからだろうか。シャープペンシルを持ったまま、その空白を見つめる。
美大。一瞬だけ浮かんだその言葉を、僕は無意識に塗り潰した。付属の大学の名前で、三つの枠を順番に埋めていく。学部の名前だけ変えて、三回。怜奈は「学費なら私が出すから、好きなとこ行きな」と言ってくれた。彼女がどれだけのものと引き換えに稼いできた金なのか、僕は知っている。
人の顔が見えない僕が美大に行く。キャンバスに向かって人物を描く。四年間、毎日それをやる。想像しただけで、指先が冷たくなった。夏休みの前に一度だけ、予備校の資料を取り寄せたことがある。受験科目のページに「人物デッサン」の文字を見つけて、その日のうちに捨てた。
読んだのは、たぶん一行だけだ。その未来を書かせようとする紙を折り畳んで、カバンの底に押し込んだ。
「なあ、朔」
昼休み、いつもの空き教室で奏多がパンの袋を破りながら言った。今日も中原さんの席は空いている。撮影が入っているのだと、そう聞いた。
「なに」
「進路、どうすんの」
「……付属で出した」
「へえ」
奏多は焼きそばパンを一口齧って、それから長く咀嚼した。
「奏多は」
「親父が医者だから、そっちの流れ」
「やりたいの」
「別に。でも嫌でもねえし」
牛乳のパックにストローを刺す音がした。
「嫌でもねえって、結構でかいと思うんだよな。世の中、嫌なことやってる人のほうが多いだろ」
「……そうかも」
「だろ」
それから、奏多はパンの袋の端を几帳面に折り込んだ。
「……聞かないんだ」
僕のほうから言った。
「何を」
「なんで美大じゃないのかとか」
「聞いてほしいの」
「……別に」
「じゃあ聞かねえよ」
そのまま話は終わった。この男は昔からそうだ。踏み込むべき線を、たぶん僕より正確に知っている。ただ、その日の奏多はいつもより食べるのが遅かった。三つ目のパンを開けようとして、途中でやめて、鞄に戻している。この男が食べ物を鞄に戻すところを、僕は初めて見た。
♢♢♢
退屈な授業を終えて、いつもの美術室。古びたエアコンが唸り声を上げているだけで、室温を下げる役目をほとんど果たしていない。窓からは角ばった強い光が差し込んでいた。室内には、僕と中原さんの二人だけだ。安田さんも室井先輩も、夏休み前は部誌がどうとかで別の教室にこもっている。中身を見せてもらったら、半分が漫画の感想だった。
強い光が、僕たちから黒い影を切り出して床に並べている。筆を動かす僕の影と、椅子に深く腰掛けて項垂れる彼女の影。無心にキャンバスの地色を殺していると、隣で小さく溜息が聞こえた。
「……ねえ、神崎くん。私、向いてないのかな」
声のトーンがいつもの快活さを失って、沈んでいる。
「何が」
筆を止めずに応えた。
「オーディション。また落ちた。最終まで残るとさ、勝手に期待しちゃうじゃん」
「……そっか」
「監督さんの反応、悪くないと思ってたんだけどな」
椅子がぎしりと鳴った。彼女がどんな顔をしているのかは分からない。掠れた声の響きと、衣擦れの音だけが伝わってくる。
「今月、いくつ受けたの」
「四つ。ぜんぶだめ」
「……四つも」
「言っとくけど、これでも少ないほうだからね」
軽く言おうとしているのが分かった。分かったのに、僕はそこで止まった。四つ落ちたということは、四回、自分を見せて、四回、要らないと言われたということだ。僕は絵の具のチューブを握ったまま、何を言えばいいのか分からなくなる。
「そういうものなの」
「そういうものだよ。慣れる」
小さく笑う音がした。
「……やっぱり、慣れたふりが上手くなるだけ」
僕はキャンバスに視線を戻して、筆を動かした。
「……昨日のドラマ、見たよ」
昨晩放送された、彼女が端役で出ていた恋愛ドラマだ。
「え、見たの」
声が少しだけ小さくなった。
「うん。たまたまだけど」
「最悪。……きもかったでしょ。自分でも見てられなかったんだけど」
ヒロインの友人という立ち位置で、画面のどこにいても愛想を振りまく、クラス中から好かれる役柄だった。
「いや、大変そうだなと思って」
「大変?」
「声のトーン、いつもよりずっと高かったし。息の吸い方とか、笑い声の立て方とか、全部決めてるみたいだったから。わざとあざとくやれるのって、たぶん難しいよね」
隣から、しばらく返事がなくなった。
「神崎くんの感想って、ときどき変」
やがて、小さく笑い声が漏れる。声にいつもの張りが戻った気がした。
「ごめん。変なこと言ったよね」
「ううん、ありがと。みんな可愛かったとしか言わないから。……ちゃんと見ててくれたんだなって、なんか安心した」
上履きが床を叩く音がして、彼女が立ち上がる。
「あーあ。夏休みか」
窓の外で白く輝く積乱雲を見上げていた。
「嬉しくないの」
「レッスンとかオーディションばっかりだしね。周りが遊んでるの見ると、羨ましいんだよね。神崎くんは?」
「家で絵を描くくらい。いつもと変わらないよ」
「いいな。そういうのが一番羨ましい」
彼女は窓に深く寄りかかって、溜息を吐いた。ドラマの中で演じていた女の子のものではない、等身大の女子高生の、疲れ切った声だった。
「一日くらい、夏っぽいことしたいな……。あ、あの喫茶店、夏だけラムネフロートやってるんだって。グラスの中が真っ青で、上にアイスが乗ってるやつ」
彼女はこちらを向きながら言った。黒髪がふわりと揺れる。
「……今日この後、付き合ってよ。二人で夏休みの作戦会議」
「作戦会議って、何を決めるの」
「夏っぽいことリスト」
「絶対に消化できないやつだ」
「作るのが大事なの」
逆光の中で、細いシルエットが眩しく縁取られていく。光の加減で、黒い靄が一層濃く浮き上がった。
「……いいよ。ラムネフロート、飲もう」
まっすぐ彼女のほうを見ることができなくて、視線を窓の外の空へ逃がした。筆を洗いに立ち上がったとき、彼女が言った。
「あのさ、神崎くん」
「うん」
振り返ると、彼女は鞄の持ち手を両手で握っている。そこで、一度だけ小さく息を吸った。言葉が出てくるのを、僕は待たなかった。筆から絵の具が垂れそうだったから、反射的に手を下げて、視線を筆先に落としてしまったのだ。顔を上げたときには、間が抜けていた。
「……ううん。やっぱ、あとで言う」
「なにそれ。今言えばいいのに」
「だめ。ちゃんと言いたいから」
ちゃんと、という言葉に力が入っていた。
「今じゃダメなこと?」
「うん。筆持ってるし」
「置くけど」
「いいの。あとで」
彼女は笑って、それで終わりにした。僕はそれ以上聞かずに、絵の具のついた筆を持って流しへ向かう。水道の水が、白い絵の具を溶かして排水口へ流れていく。水音の向こうで、彼女がまだ何か言おうとしている気配があった。あのとき振り返っていれば、と後で何度も思うことになる。




