13
水音が止まると、心細い静寂が降りてくる。鏡は結露で真っ白に曇り、僕の顔も水滴の中に隠してくれている。それを拭う勇気はなく、逃げるように脱衣所を出た。湿った髪をタオルの上から適当に揉んで、半乾きのまま部屋に戻る。ドアを開けた瞬間、僕は足を止めた。
「……え、何してんの」
思わず声が漏れた。画材や本が積み上がっているはずの床が綺麗さっぱり片付いていて、そこに二組の布団が隙間なく並べて敷かれている。シーツの皺を豪快な手つきで伸ばしていた怜奈が振り返った。
「今日はこっちで寝るの。あんなヤバい感じでうなされてたら、放っておけないし」
「大丈夫だって。だいぶ落ち着いたし。それに狭いし」
「ダメ。またあんな叫び声出されたら、隣の部屋で私が寝れないっしょ。ほら、四の五の言わずにさっさと入る」
床の紙片は、いつの間にか片付けられていた。どこへやったのかは聞かなかったし、怜奈も何も言わなかった。なかば強引に布団の端へ追いやられ、彼女は隣に潜り込んだ。Tシャツから香水の匂いがほのかに香る。
「またうなされたら、ビンタして起こしたげるからさ。なんなら、トイレも一緒に行ってあげよっか」
「いいよ、それは。逆に出なくなるから」
「あはは、ウケる。冗談だって。そんな顔しないでよ」
ケラケラ笑いながら、枕元のスイッチに手を伸ばす。照明が消えて、部屋は一気に濃い闇に包まれた。静寂が戻ってくると、冷水で洗い流したはずの悪夢が、足元からじわりと這い上がってくる。暗闇の中で、怜奈が口を開いた。
「ねえ。さっき、どうしたの」
ふざけたトーンが消えている。湿り気を帯びた、夜の底に沈んでいくような低い声だった。
「……あいつの夢」
隣で、息を呑む気配が伝わってきた。
「最悪じゃん。よりによってあいつなの」
「はっきり見えた。目も、口も鼻も全部」
僕は自分の顔を両手で覆った。乾ききった皮膚の感触がする。
「……でもさ、おかしいんだよ。目が覚めたら、怜奈の顔は見えなくて」
見えるのは、消し去りたい過去の顔だけだ。僕を育ててくれた人も、僕が守りたいと思った人も、その中心にはいつも底なしの闇が居座っている。
「絵を描こうとしたんだ。……この間のドラマの子」
少しの間があった。
「へえ」
その一音に、いろいろなものが詰まっていた。
「へえ、じゃなくて」
「いや、へえ、だよ」
怜奈は続きを待っている。僕は暗闇に向かって話した。紙の上に、彼女の周りにあるものは全部組み上がったこと。グラスも、制服も、影も。中心だけが空いていること。そこへ鉛筆を向けた瞬間に、全部が崩れたこと。喉の奥が、じわりと熱くなった。
「……もう、壊されたままなんだよ」
自嘲気味に零した言葉が、暗い部屋に消えていく。外を走る車の音が遠くで響き、時計の秒針が僕たちの間に滑り込んできた。
「さくさ」
「うん」
「あの子、これから忙しくなるよ」
思っていたのと違う方向から来た。
「……なんで」
「見れば分かる。ああいう子は、ある日いきなり持っていかれるから」
布団の中で寝返りを打つ音がした。
「私、そういうの何回も見てるんだよ。現場で会って、次の年には全然会えなくなってる子。悪い意味じゃなくてさ、単純に、住む場所が変わるの。時間の使い方。会う人。眠る時間。全部変わる。本人は変わってるつもりないんだけどね」
怜奈の声は淡々としていた。
「だからまあ、今のうちに描いといたほうがいいんじゃない」
「描けないって言ってるんだけど」
「知ってる。でも、そういうもんだから」
それきり、どちらも何も言わなくなった。やがて衣擦れの音がして、怜奈がこちらへ身体を向ける。
「あのさ、さく。今まで言わなかったけど。っていうか、言う必要ないと思ってたんだけどさ」
どこか遠くを見つめているような響きだった。
「私も同じだったんだよ」
顔を覆っていた手を、ゆっくり下ろす。暗闇に慣れた目が、彼女のいるはずの場所を探した。
「……怜奈も、見えなかったの」
「うん。誰の顔を見ても、のっぺらぼうっていうかさ、ただの肉の塊にしか見えなかった。コンビニの店員さんも、学校の先生も、さくの顔だって。マジでこの世の終わりだと思ったよ」
いつも強気で、何でも笑い飛ばしている姉の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。髪を明るく染めて、派手な爪と香水で自分を飾るようになったのは、この世界に自分を繋ぎ止めるための何かだったのかもしれない。
「いつから」
「あんたと同じ頃」
あの夢の中で、僕と父の間に割り込んできた小さな背中を思い出す。あれは記憶なのか、夢が作ったものなのか、僕には判別がつかない。聞こうとして、やめた。
「なんで言わなかったの」
「言ってどうすんの。あんたが小四で、私が高二。その時点で、二人とも顔が見えませんって梓さんに言えると思う? あの人、絶対自分のせいだと思うでしょ」
「……そうかも」
「でしょ。だから黙ってた。私が黙ってれば、一人分で済むから」
僕の分は勘定に入っていない。あの頃の怜奈にとって、隠すべきものは自分のことだけで、僕のことは最初から隠す対象ですらなかったのだと思う。
「それに、あんたのは治んなそうだったし」
「ひどいな」
「事実じゃん」
少し笑って、それから声が低くなった。
「……それだけじゃないし。今だって、完全に治ったわけじゃないんだよ」
「え」
「ストレス溜まったり限界きたりすると、信号の赤とか、コンビニの看板とか、全部灰色になるんだよね。色がどっか行っちゃうの」
怜奈の声は震えていなかった。
「完全に元通り、なんて嘘。私は今でも、そういう無理を抱えたまんま、毎日笑って生きてるから」
暗闇の中で、彼女の存在がいつもより大きく、そして脆く感じられた。映画を撮る人が、色を失うことがある。その事実の重さを、僕はこの瞬間まで想像したこともなかった。僕だけが閉じ込められていると思っていた。僕だけがあの男の呪いに縛られているのだと。
「だからさ、わかるよ。どれだけさくが不安で怖いのかも、知ってるよ」
怜奈の手が布団の上から僕の腕を探して、見つけると、痛いくらいの強さで握りしめた。指先は少し冷えている。
「でもね、さくは幸せになっていいんだよ。全部が完璧に治らなくたって、人生は続くんだし」
握る力が、少しだけ強くなる。
「人の顔が見えなくたって、ちゃんと心を通わせることくらいできる。顔が見えないから描けないなんて、そんなの誰が決めたわけ? さくが感じてるその熱とか、匂いとか、声とか、全部ぶつければいいじゃん」
怜奈の言葉は乱暴だった。ずっと閉ざしていた場所を、土足のまま踏み抜いてくるみたいに。心が弱りきった今は、その荒々しさが心地良いと思ってしまう。
「あのくそったれに壊されたまんまで人生終わるとか、だるいじゃん」
その言葉と一緒に、握る力がまた強くなった。
「絶対、さくも前に進めるから。私が保証する。……だからさ、もう安心して寝な」
僕は何も答えられなかった。しばらくして、怜奈がもう一度だけ口を開く。
「さっきの話だけどさ」
「うん」
「忙しくなるって言ったやつ。あれ、脅かすつもりで言ったんじゃないよ」
声が眠そうに崩れ始めている。
「間に合わないかもしれないから、始めたほうがいいって話。……描けるようになってから描こうとしたら、たぶん一生始まんないよ」
返事をする前に、隣から寝息が聞こえてきた。早い。怜奈は、寝るのだけは異様に早い。左手にまだ微かに残っている、中原さんの熱。右腕を掴んでいる、姉の不器用な熱。夜が明ければ、また靄の支配する世界が始まる。それでも、この暗闇の中でだけは、明日という時間を拒絶せずにいられる気がした。
「……ありがとう、怜奈」
小さく呟くと、寝言のような、おやすみ、という声が返ってきた。
♢♢♢
目が覚めたとき、隣の布団はもう畳まれていた。枕元にペットボトルの水が一本と、走り書きのメモが置いてある。
『撮影入った 冷蔵庫にプリンあるよ』
身体を起こして、部屋を見回した。昨日の紙片は、机の上に重ねられている。捨てずに置いていったらしい。一枚ずつ広げていく。皺だらけの紙が、机の上に積み重なっていく。どれも中心が黒く潰れていて、見られたものではなかった。周りだけを見れば悪くない。
グラスの結露も、制服の襟の影も、髪の毛先も、ちゃんと描けている。僕はずっと、こういうものを描いて生きてきたのだ。中心を空けたまま、その周りだけを丁寧に。最後の一枚を広げたところで、手が止まった。破り取ったつもりで、途中でやめていたページだった。
上半分だけが残っている。グラスを掴んでいる手。短い爪。人差し指の絆創膏。そこには、黒い靄が一つもない。僕はしばらくその紙を見ていた。それから、丁寧に皺を伸ばして、デッサン帳のいちばん後ろに挟んだ。他のページは、まとめてゴミ箱に入れた。
階下から梓さんの声がする。朝ごはん、と呼ばれて、いま行くと答えた。カーテンを開けると、朝の光が机の上に落ちてくる。窓の外では、もう蝉が鳴き始めていた。




