10
彼女の指の先にあったのは、棚の最上段で厚く埃を被った石膏像だった。
「……見えない」
「石膏像なのに? あれ、人間じゃないよ」
「人間じゃなくても、顔は駄目なんだ」
「厳しいなあ」
「僕が言うのも変だけど、融通が利かない」
中原さんは軽い足取りで棚へ近づいた。
「じゃあ、近くで見てみようよ。下ろしてあげる」
「いいよ、重いから」
「いける」
「いや、無理」
結局、僕が抱え上げることになった。ずっしりとした重さが腕にのしかかる。冷たくて、硬くて、それでいてどこか脆そうな白い塊。僕はそれを慎重に運んで、机の上、白いページの前に置いた。埃を払うと、指先が白く汚れる。誰の像なのかは知らない。
首から下がないので、切り取られた頭が机の上に置かれている格好になる。それでも僕には、それが不気味にすら見えない。見えないものは、不気味にもなれない。
「私さ、目つぶって芝居する練習したことあるんだ」
「え?」
「相手の顔見ないで、声と気配だけで返すやつ。あれ、目閉じてても分かるんだよ。相手がどこにいて、どっち向いてるか」
「……それが何」
「だから。触ったら分かるんじゃないのかなって。顔も」
突拍子もない提案に、僕は一瞬、自分の耳を疑った。
「触って、描くってこと?」
「うん。ぜんぶ触って、それで描くの」
馬鹿げている、と思った。触ったところで見えるようにはならない。そのくらいは分かっている。思ったのに、断る言葉が出てこなかった。昨日の夜、僕は彼女の手を描いた。あれも見て描いたわけじゃない。覚えていたものを紙に置いただけだ。だとしたら、触ったものを置くのと、どこが違う。
僕は左手を伸ばして、黒く塗り潰された石膏像の表面に触れた。指先に伝わるのは、ざらついた石の質感と冷たさだけだ。眉間の隆起。深く窪んだ眼窩。固く結ばれた唇の端。なぞるたびに、頭の中へ形の情報が断片的に流れ込んでくる。ここが高い。
ここが落ちている。ここで角度が変わる。鼻梁は真っ直ぐではなかった。途中で一度、ごく浅く反っている。唇は上のほうが薄くて、下は厚い。顎の先が思っていたよりも前に出ている。人間の顔がどういう地形をしているのかを、僕は本当は知らなかったのだと気づく。
右手に鉛筆を持ち替えて、紙に向かった。左手が拾ったものを、紙の上に置けばいい。置こうとした瞬間、視界が仕事を放棄した。白かったはずのページが、黒く濁っていく。おかしい。触っているのは石だ。指の下にあるのはただの凹凸で、人間ですらない。
それなのに、それを「顔」として扱おうとした途端に、あの靄が湧いてくる。石膏像の表面をなぞればなぞるほど、その正体を掴もうとすればするほど、目に映るものが意味を失って、ただの空洞に変わっていった。
「っ……」
呼吸が速くなった。吸っているのに、足りない。心臓が内側から肋骨を叩いている。こめかみを冷や汗が伝った。右手の鉛筆が、自分のものではないみたいに震える。紙に落ちた線が、線ではなくただの引っ掻き傷に見えた。怖い。
何も描けない。恐怖に飲み込まれそうになった、その時だった。
「私がいるから、大丈夫だよ」
背後から体温が近づいた。彼女の手が、石膏像に置いた僕の左手の上に重ねられる。細くて、乾いていて、力があった。死んだように冷たい石膏と、その上に載った温度。手のひらの片側だけが温かい。髪が肩に触れて、あの香水が鼻先をかすめた。耳のすぐそばに息づかいがある。
「力抜いて。息、止めないで」
「……うん」
「右手は、勝手に動かして。見ないで」
見ないで、と言われて、僕は目を閉じた。視界が閉じた瞬間、部屋の音が近くなる。窓の外の野球部。廊下の遠い足音。彼女の呼吸。彼女の手が、僕の左手を動かし始めた。まず額。生え際のあたりから、真ん中へ。それからゆっくり下へ降りて、眉の稜線を横へなぞる。
骨が硬い。皮膚がないというのは、こういうことか。眼窩の縁で、指が一度止まった。
「ここ、深いでしょ」
「……うん」
「顔って、ここがいちばん影になるんだって。前に照明さんが言ってた」
窪みの底へ指を落とされる。深い。思っていたより、ずっと深い。人間の目はこんな穴の底に埋まっているのか。右手が動いた。自分で動かしている感じがしない。左手が拾ったものが、そのまま腕を通って紙に出ていく。線が長くなったり短くなったりするのが、鉛筆の音で分かった。
鼻梁へ。指の腹が稜線を滑り落ちて、小鼻の膨らみで一度浮く。人中の窪み。上唇の山。そこで、彼女の手が少しだけ強くなった。
「……ここ、ちょっと待って」
「なに」
「ううん。なんでもない」
指はしばらくそこで止まっていた。それから動き出す。唇の合わせ目に沿って、右から左へ。顎の先。首との境。耳の付け根。途中で、彼女の重心がわずかに前に動いた。肩と肩が触れる。触れたまま、離れなかった。僕が身を引くべきなのか、そのままでいるべきなのか分からずにいるうちに、彼女の手はまた動き始めていた。
この石膏像の形を、彼女は迷いなく取っていく。人の顔を見て生きているのだから、当然なのかもしれない。どれくらいそうしていたのか分からない。背中に、彼女の呼吸のリズムが伝わってくる。だんだんそれが自分の呼吸と揃っていくのが分かって、僕はそのことばかり考えるようになった。
彼女の手が離れたとき、日はすっかり傾いて、美術室は深い茜色に染まっていた。離れた場所に、温度だけが残っている。中原さんが一歩下がる音がした。それから、椅子を引く音。
「……ちょっと、疲れちゃった」
声が少し掠れている。僕は、おそるおそる紙を見た。……そこにあったのは、言葉に詰まる代物だった。不思議なことに、そこに靄は湧かなかった。顔として組み上がらなかったものは、僕の目にはただの線の集まりでしかないらしい。だからこそ、よく分かった。
自分の手が置いたはずの点が、左右で高さを違えている。唇の線はあらぬ方向へ逃げていて、鼻筋は途中で切れていた。石膏の凹凸を忠実に追ったはずなのに、出来上がったのは人間とは程遠い何かだ。
「…………」
絶望する気力さえ失って、僕はただ黙り込んだ。中原さんはその絵をまじまじと見つめた後、耐えきれないという様子で声を漏らす。
「……ぷっ、あははは! ごめん神崎くん、最高に面白い!」
お腹を抱えて笑い転げている。
「見てよ、この口。ひょっとこみたいになっちゃってる!」
「……笑いすぎ。せっかく頑張ったのに」
「だって、こんなに真剣にやったのに」
「そこ言われると立ち直れないんだけど」
項垂れながらも、不思議と嫌な気分ではなかった。やがて彼女は笑いを収めて、紙の端を人差し指でそっと触れた。歪んだ唇の線のところを、一度だけなぞる。
「線は、きれいだよ」
「そこだけ褒めるのやめてよ」
「本当だって。線、震えてないもん。私、緊張してる人の手ばっかり見てるから分かるの」
迷っていない、ということだ。彼女はそう言わなかった。そう言うための言葉を、たぶん持っていない。それから、彼女は少し黙った。
「私さ、初めて現場行ったときの動画、まだ持ってるんだよ。小四のとき。事務所のオーディション受かって、CMのエキストラみたいなやつ。棒立ちで、目線ぐらぐらで、ひどいの」
「消したくならないの」
「消さないよ。これから先も」
彼女は紙から指を離した。
「あれ見ると、私はちゃんと下手だったんだなって分かるから。昔下手だったってことは、今は上手くなったってことでしょ。……この絵。もらってもいい?」
「え。こんな失敗作を?」
「失敗作じゃないでしょ」
窓の外はもう暗い。教室の蛍光灯が、彼女の手元を白く照らしている。
「神崎くんが見ようとしたのが、ここに残ってるんだから」
中原さんはそう言うと、画用紙を壊れ物みたいな手つきで折り畳んだ。四つ折りにして、鞄の奥へ仕舞い込む。仕舞い方が丁寧すぎて、僕は何も言えなくなった。
「返してって言っても返さないからね」
「……言わないよ」
窓の外で、空の色が完全に夜へ移り変わっていく。僕は椅子に座ったまま、自分の手を見ていた。彼女の手の熱が、まだ皮膚に残っている気がする。ふと、頭の隅に思考が掠めた。普通の恋愛は、もっと簡単なんだろうか。相手の顔を見て、微笑み返して、言葉を交わす。それだけで距離が縮んでいく世界。なぜそんなことを考えたのかは、自分でも分からない。今の時間が不満なわけじゃない。それでも、その問いは残り続けた。
「どうかした?」
帰り支度を終えた中原さんが覗き込んでくる。靄に覆われた髪がわずかに揺れた。
「……いや、なんでもない」
立ち上がってカバンを肩にかける。美術室の鍵を閉める音が、無人の廊下に冷たく響いた。並んで階段を降りる。時折触れそうになる肩の近さが、さっきまでの思考を塗り潰していく。
「さっきさ」
踊り場で、中原さんが言った。
「途中で一回、手が止まったでしょ」
「うん」
「あれ、なんで止めたか分かる?」
「……分からない」
「私も分かんない」
彼女は笑ったけれど、いつもより少し遅れて笑ったような気がした。
「なんかね、急に、これでいいのかなって思ったの。人の顔の形を、私が神崎くんに教えてるのって」
「教えてもらってるつもりだったけど」
「あのさ。監督に、そこで振り返れって言われて振り返るじゃん」
「うん」
「あれ、私が振り返ったことになるのかな、って、たまに思うんだよね」
階段の手すりに指を滑らせる音がした。
「今の、それだった気がして」
「……どういうこと」
「神崎くんが触ったのは石膏だけど。動かしてたの、私の手だから」
あのとき紙に出ていたのは、僕が拾った形なのか、彼女が拾わせた形なのか。
「……それ、失敗ってこと」
「違うよ。ただ、次は自分で触ってほしいなって思っただけ」
校門を出ると、街灯がオレンジ色の光で辺りを照らしていた。彼女がバッグから黒いマスクを取り出す。僕は反射的に足を止めて、いつもの距離が開くのを待った。中原さんは数歩進んで、それから振り返る。
「今日はいいや。もう暗いし、誰もいないから」
マスクは耳にかけたままだ。手招きされて、僕は歩幅を広げた。隣に並ぶまでに、少し時間がかかる。どのくらいの間隔が正しいのかが分からない。近すぎる気がして半歩開けると、彼女が半歩詰めてきた。二人分の足音が、アスファルトの上で重なる。しばらく、どちらも何も言わなかった。
住宅街の細い道で、電柱の影が交互に足元を通り過ぎていく。
「神崎くんって、家族何人」
唐突に尋ねられた。
「三人。叔母と、姉」
「叔母さん?」
「梓さんっていう人。育ててくれた人」
言ってから、そこで止まるべきだったと気づく。
「……お父さんとお母さんは」
「いない」
自分の声が、思ったより平坦に出た。
「あ。……ごめん」
「いいよ。小さい頃だから」
何度も使ってきた言い方だ。実際にはそれが理由になっていないことを、僕は知っている。どうやって死んだのかも、どういう人たちだったのかも、僕は言わなかったし、言うつもりもない。中原さんは、そこから先を聞かなかった。
「うちは、逆かも。お母さんが元気すぎるの」
「元気って、どういう?」
「んー……。私より私のスケジュール覚えてる」
「それは、すごいね」
「すごいでしょ」
笑ったけれど、続けなかった。交差点の信号が赤で、二人で並んで止まった。車は一台も来ない。それでも僕たちは待った。彼女のスニーカーの爪先が、白線の少し手前で揃っている。
「ねえ」
「うん」
「今日、私の手、あったかかった?」
信号が青に変わった。僕は答えないまま歩き出して、三歩ぶんくらい遅れて答えた。
「……あったかかった」
「よかった」
彼女は前を向く。駅の明かりが見えてくると、彼女は自然に半歩ぶん離れた。マスクの位置を直して、いつもの距離へ戻っていく。改札の前で、一度だけ振り返って手を振った。今日は一度だけだった。夜風で少し冷えた左手を、僕は何度か撫でた。
ただの自分の手だ。それなのに、彼女のことを思い出すたびに熱を帯びる気がした。




