表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第三章「陰影」
PR
12/40

10

 彼女の指の先にあったのは、棚の最上段で厚く(ほこり)を被った石膏(せっこう)像だった。


「……見えない」

「石膏像なのに? あれ、人間じゃないよ」

「人間じゃなくても、顔は駄目なんだ」

「厳しいなあ」

「僕が言うのも変だけど、融通が利かない」


 中原(なかはら)さんは軽い足取りで棚へ近づいた。


「じゃあ、近くで見てみようよ。下ろしてあげる」

「いいよ、重いから」

「いける」

「いや、無理」


 結局、僕が抱え上げることになった。ずっしりとした重さが腕にのしかかる。冷たくて、硬くて、それでいてどこか脆そうな白い塊。僕はそれを慎重に運んで、机の上、白いページの前に置いた。埃を払うと、指先が白く汚れる。誰の像なのかは知らない。


 首から下がないので、切り取られた頭が机の上に置かれている格好になる。それでも僕には、それが不気味にすら見えない。見えないものは、不気味にもなれない。


「私さ、目つぶって芝居する練習したことあるんだ」

「え?」

「相手の顔見ないで、声と気配だけで返すやつ。あれ、目閉じてても分かるんだよ。相手がどこにいて、どっち向いてるか」

「……それが何」

「だから。触ったら分かるんじゃないのかなって。顔も」


 突拍子もない提案に、僕は一瞬、自分の耳を疑った。


「触って、描くってこと?」

「うん。ぜんぶ触って、それで描くの」


 馬鹿げている、と思った。触ったところで見えるようにはならない。そのくらいは分かっている。思ったのに、断る言葉が出てこなかった。昨日の夜、僕は彼女の手を描いた。あれも見て描いたわけじゃない。覚えていたものを紙に置いただけだ。だとしたら、触ったものを置くのと、どこが違う。


 僕は左手を伸ばして、黒く塗り潰された石膏像の表面に触れた。指先に伝わるのは、ざらついた石の質感と冷たさだけだ。眉間の隆起。深く窪んだ眼窩(がんか)。固く結ばれた唇の端。なぞるたびに、頭の中へ形の情報が断片的に流れ込んでくる。ここが高い。


 ここが落ちている。ここで角度が変わる。鼻梁(びりょう)は真っ直ぐではなかった。途中で一度、ごく浅く反っている。唇は上のほうが薄くて、下は厚い。顎の先が思っていたよりも前に出ている。人間の顔がどういう地形をしているのかを、僕は本当は知らなかったのだと気づく。


 右手に鉛筆を持ち替えて、紙に向かった。左手が拾ったものを、紙の上に置けばいい。置こうとした瞬間、視界が仕事を放棄した。白かったはずのページが、黒く濁っていく。おかしい。触っているのは石だ。指の下にあるのはただの凹凸で、人間ですらない。


 それなのに、それを「顔」として扱おうとした途端に、あの(もや)が湧いてくる。石膏像の表面をなぞればなぞるほど、その正体を掴もうとすればするほど、目に映るものが意味を失って、ただの空洞に変わっていった。


「っ……」


 呼吸が速くなった。吸っているのに、足りない。心臓が内側から肋骨(ろっこつ)を叩いている。こめかみを冷や汗が伝った。右手の鉛筆が、自分のものではないみたいに震える。紙に落ちた線が、線ではなくただの引っ()き傷に見えた。怖い。


 何も描けない。恐怖に飲み込まれそうになった、その時だった。


「私がいるから、大丈夫だよ」


 背後から体温が近づいた。彼女の手が、石膏像に置いた僕の左手の上に重ねられる。細くて、乾いていて、力があった。死んだように冷たい石膏と、その上に載った温度。手のひらの片側だけが温かい。髪が肩に触れて、あの香水が鼻先をかすめた。耳のすぐそばに息づかいがある。


「力抜いて。息、止めないで」

「……うん」

「右手は、勝手に動かして。見ないで」


 見ないで、と言われて、僕は目を閉じた。視界が閉じた瞬間、部屋の音が近くなる。窓の外の野球部。廊下の遠い足音。彼女の呼吸。彼女の手が、僕の左手を動かし始めた。まず額。生え際のあたりから、真ん中へ。それからゆっくり下へ降りて、眉の稜線(りょうせん)を横へなぞる。


 骨が硬い。皮膚がないというのは、こういうことか。眼窩の縁で、指が一度止まった。


「ここ、深いでしょ」

「……うん」

「顔って、ここがいちばん影になるんだって。前に照明さんが言ってた」


 窪みの底へ指を落とされる。深い。思っていたより、ずっと深い。人間の目はこんな穴の底に埋まっているのか。右手が動いた。自分で動かしている感じがしない。左手が拾ったものが、そのまま腕を通って紙に出ていく。線が長くなったり短くなったりするのが、鉛筆の音で分かった。


 鼻梁へ。指の腹が稜線を滑り落ちて、小鼻の膨らみで一度浮く。人中(じんちゅう)の窪み。上唇の山。そこで、彼女の手が少しだけ強くなった。


「……ここ、ちょっと待って」

「なに」

「ううん。なんでもない」


 指はしばらくそこで止まっていた。それから動き出す。唇の合わせ目に沿って、右から左へ。顎の先。首との境。耳の付け根。途中で、彼女の重心がわずかに前に動いた。肩と肩が触れる。触れたまま、離れなかった。僕が身を引くべきなのか、そのままでいるべきなのか分からずにいるうちに、彼女の手はまた動き始めていた。


 この石膏像の形を、彼女は迷いなく取っていく。人の顔を見て生きているのだから、当然なのかもしれない。どれくらいそうしていたのか分からない。背中に、彼女の呼吸のリズムが伝わってくる。だんだんそれが自分の呼吸と揃っていくのが分かって、僕はそのことばかり考えるようになった。


 彼女の手が離れたとき、日はすっかり傾いて、美術室は深い茜色に染まっていた。離れた場所に、温度だけが残っている。中原さんが一歩下がる音がした。それから、椅子を引く音。


「……ちょっと、疲れちゃった」


 声が少し(かす)れている。僕は、おそるおそる紙を見た。……そこにあったのは、言葉に詰まる代物だった。不思議なことに、そこに靄は湧かなかった。顔として組み上がらなかったものは、僕の目にはただの線の集まりでしかないらしい。だからこそ、よく分かった。


 自分の手が置いたはずの点が、左右で高さを違えている。唇の線はあらぬ方向へ逃げていて、鼻筋は途中で切れていた。石膏の凹凸を忠実に追ったはずなのに、出来上がったのは人間とは程遠い何かだ。


「…………」


 絶望する気力さえ失って、僕はただ黙り込んだ。中原さんはその絵をまじまじと見つめた後、耐えきれないという様子で声を漏らす。


「……ぷっ、あははは! ごめん神崎(かんざき)くん、最高に面白い!」


 お腹を抱えて笑い転げている。


「見てよ、この口。ひょっとこみたいになっちゃってる!」

「……笑いすぎ。せっかく頑張ったのに」

「だって、こんなに真剣にやったのに」

「そこ言われると立ち直れないんだけど」


 項垂れながらも、不思議と嫌な気分ではなかった。やがて彼女は笑いを収めて、紙の端を人差し指でそっと触れた。(ゆが)んだ唇の線のところを、一度だけなぞる。


「線は、きれいだよ」

「そこだけ褒めるのやめてよ」

「本当だって。線、震えてないもん。私、緊張してる人の手ばっかり見てるから分かるの」


 迷っていない、ということだ。彼女はそう言わなかった。そう言うための言葉を、たぶん持っていない。それから、彼女は少し黙った。


「私さ、初めて現場行ったときの動画、まだ持ってるんだよ。小四のとき。事務所のオーディション受かって、CMのエキストラみたいなやつ。棒立ちで、目線ぐらぐらで、ひどいの」

「消したくならないの」

「消さないよ。これから先も」


 彼女は紙から指を離した。


「あれ見ると、私はちゃんと下手だったんだなって分かるから。昔下手だったってことは、今は上手くなったってことでしょ。……この絵。もらってもいい?」

「え。こんな失敗作を?」

「失敗作じゃないでしょ」


 窓の外はもう暗い。教室の蛍光灯(けいこうとう)が、彼女の手元を白く照らしている。


「神崎くんが見ようとしたのが、ここに残ってるんだから」


 中原さんはそう言うと、画用紙を壊れ物みたいな手つきで折り畳んだ。四つ折りにして、鞄の奥へ仕舞い込む。仕舞い方が丁寧すぎて、僕は何も言えなくなった。


「返してって言っても返さないからね」

「……言わないよ」


 窓の外で、空の色が完全に夜へ移り変わっていく。僕は椅子に座ったまま、自分の手を見ていた。彼女の手の熱が、まだ皮膚に残っている気がする。ふと、頭の隅に思考が掠めた。普通の恋愛は、もっと簡単なんだろうか。相手の顔を見て、微笑み返して、言葉を交わす。それだけで距離が縮んでいく世界。なぜそんなことを考えたのかは、自分でも分からない。今の時間が不満なわけじゃない。それでも、その問いは残り続けた。


「どうかした?」


 帰り支度を終えた中原さんが覗き込んでくる。靄に覆われた髪がわずかに揺れた。


「……いや、なんでもない」


 立ち上がってカバンを肩にかける。美術室の鍵を閉める音が、無人の廊下に冷たく響いた。並んで階段を降りる。時折触れそうになる肩の近さが、さっきまでの思考を塗り潰していく。


「さっきさ」


 踊り場で、中原さんが言った。


「途中で一回、手が止まったでしょ」

「うん」

「あれ、なんで止めたか分かる?」

「……分からない」

「私も分かんない」


 彼女は笑ったけれど、いつもより少し遅れて笑ったような気がした。


「なんかね、急に、これでいいのかなって思ったの。人の顔の形を、私が神崎くんに教えてるのって」

「教えてもらってるつもりだったけど」

「あのさ。監督に、そこで振り返れって言われて振り返るじゃん」

「うん」

「あれ、私が振り返ったことになるのかな、って、たまに思うんだよね」


 階段の手すりに指を滑らせる音がした。


「今の、それだった気がして」

「……どういうこと」

「神崎くんが触ったのは石膏だけど。動かしてたの、私の手だから」


 あのとき紙に出ていたのは、僕が拾った形なのか、彼女が拾わせた形なのか。


「……それ、失敗ってこと」

「違うよ。ただ、次は自分で触ってほしいなって思っただけ」


 校門を出ると、街灯がオレンジ色の光で辺りを照らしていた。彼女がバッグから黒いマスクを取り出す。僕は反射的に足を止めて、いつもの距離が開くのを待った。中原さんは数歩進んで、それから振り返る。


「今日はいいや。もう暗いし、誰もいないから」


 マスクは耳にかけたままだ。手招きされて、僕は歩幅を広げた。隣に並ぶまでに、少し時間がかかる。どのくらいの間隔が正しいのかが分からない。近すぎる気がして半歩開けると、彼女が半歩詰めてきた。二人分の足音が、アスファルトの上で重なる。しばらく、どちらも何も言わなかった。


 住宅街の細い道で、電柱の影が交互に足元を通り過ぎていく。


「神崎くんって、家族何人」


 唐突に尋ねられた。


「三人。叔母と、姉」

「叔母さん?」

(あずさ)さんっていう人。育ててくれた人」


 言ってから、そこで止まるべきだったと気づく。


「……お父さんとお母さんは」

「いない」


 自分の声が、思ったより平坦に出た。


「あ。……ごめん」

「いいよ。小さい頃だから」


 何度も使ってきた言い方だ。実際にはそれが理由になっていないことを、僕は知っている。どうやって死んだのかも、どういう人たちだったのかも、僕は言わなかったし、言うつもりもない。中原さんは、そこから先を聞かなかった。


「うちは、逆かも。お母さんが元気すぎるの」

「元気って、どういう?」

「んー……。私より私のスケジュール覚えてる」

「それは、すごいね」

「すごいでしょ」


 笑ったけれど、続けなかった。交差点の信号が赤で、二人で並んで止まった。車は一台も来ない。それでも僕たちは待った。彼女のスニーカーの爪先が、白線の少し手前で揃っている。


「ねえ」

「うん」

「今日、私の手、あったかかった?」


 信号が青に変わった。僕は答えないまま歩き出して、三歩ぶんくらい遅れて答えた。


「……あったかかった」

「よかった」


 彼女は前を向く。駅の明かりが見えてくると、彼女は自然に半歩ぶん離れた。マスクの位置を直して、いつもの距離へ戻っていく。改札の前で、一度だけ振り返って手を振った。今日は一度だけだった。夜風で少し冷えた左手を、僕は何度か()でた。


 ただの自分の手だ。それなのに、彼女のことを思い出すたびに熱を帯びる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ