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結局、ドラマは最終話まで夜通し見てしまった。寝息を立てる怜奈を起こすわけにもいかず、途中でテレビの電源を落とした。足音を殺して自室へ戻り、続きはタブレットで見る。カーテンを閉め切った暗闇の中で、画面だけが鋭い光を放っていた。
成瀬雫は鏡の中から這い出る幽霊として、白石小春と対峙している。何度も同じところを巻き戻した。一時停止して、また再生した。台詞の入り方が毎回違うことを確かめて、そのたびに息が浅くなる。
終盤で妹の死因が明かされる。姉はそれを知らないまま、鏡の前で髪を梳かし続けている。妹はその後ろに立って、何も言わない。その場面には台詞がひとつもなかった。僕は音を最大にした。衣擦れ。櫛の歯が髪を通る音。それから、たぶん妹のものであろう、ごく浅い呼吸。
顔が見えない人間にとって、無言の場面は本来いちばん不利なはずだ。それなのに、そこで何が起きているのかは分かってしまう。分かってしまうことのほうが、少し怖かった。気づいたときにはカーテンの隙間から薄い灰色の光が漏れていて、時計の針は四時を回っている。
膝の上には、デッサン帳が開いたままになっていた。昨日引いた線がそこにある。グラスを掴んでいる手。短い爪。人差し指の絆創膏。朝までのあいだ、僕はそのページを閉じては、また開いた。開くたびに、まだ描けていることを確かめていた。
結局ろくに眠らないまま、学校へ向かった。午前中の授業は意識が飛んだまま受けた。チョークの音は遠く、教科書の文字はただの黒い記号として目を滑っていく。昼に何を食べたのかも覚えていない。ようやく辿り着いた放課後。美術室の扉を開けて、使い古された硬い椅子に身体を沈めた。
窓の外からは、夏を目前にした高い空から白っぽい光が降り注いでいる。部屋の隅では、安田さんと室井先輩が持ち寄った大量の漫画を机に積み上げ、熱心に読み耽っていた。ポテトチップスを咀嚼する音と、乾いたページをめくる性急な音が聞こえてくる。
「神崎、顔色やばくないですか」
漫画から目を離さずに室井先輩が言った。
「徹夜したので」
「何してたんですか」
「……ドラマ見てました」
「青春ですねぇ」
その手元には、漫画に混ざって描きかけのデッサンが一枚置かれている。横顔だ。
「それ、先生の課題ですか」
「そうです。今月末までに人物一枚。だるいんですよ」
「誰ですか、それ」
「弟です」
安田さんがポテトチップスの袋から手を抜いて、隣を覗き込んだ。
「モデル、やってくれたんですか」
「やるわけないでしょう。中三男子が姉のためにモデルなんかやると思いますか」
「じゃあ写真ですか」
「頭の中の弟です」
安田さんが黙った。
「先輩。それ、デッサンじゃないですよね」
「バレなきゃいいんです」
「バレますって。先生、そういうとこだけ目がいいので」
「そのときはそのときです。平謝りで」
「去年も同じこと言って正座させられてませんでした」
「あれは正座ではなく、反省の姿勢です」
「同じですよ」
先輩は動じることなく漫画のページをめくった。手のほうは止まらずに動いている。器用な人だ。僕は横目でその紙を見た。頬から顎へ落ちていく線に、迷いがない。似ているのかどうか、僕には判定する資格がないのだけれど。僕は自分の席でデッサン帳を広げた。
昨日のページは開かないように、後ろのほうから真っ白なところを探す。研ぎ澄ました鉛筆を数本、机に並べた。練りゴムを指先で細かく千切り、形を整えて。
そこから先の記憶が、ぷつりと途切れている。
「うわっ!」
突き刺すような冷たさが耳元を走り抜けて、僕は飛び上がった。横を見ると、中原さんが座っている。結露して水滴の滴るアルミ缶を持っていた。
「ああ……びっくりした。心臓止まるかと思った」
「ふふ。あんまり気持ちよさそうに寝てるから、つい」
悪びれる様子のない声が、静かな室内に響く。昨日の夜、鏡から這い出す幽霊を演じていた声とは全く違う。僕のよく知っている、美術室の空気に溶け込んだ響きだ。重たい頭を抱える。机の上には、一線も引かれていない白いページが横たわっていた。描く準備だけを完璧に整えて、そのまま意識の糸が切れたらしい。
部屋の隅に目をやると、安田さんと室井先輩の姿は、積み上げられた漫画ごと消えていた。さっきまでの二人は幻だったのかもしれない。あの二人に常識を求めるのは無益だ。
「はい、差し入れ」
「……ありがとう」
手渡されたサイダーの缶は冷たかった。指先に移った水滴が肌を滑り落ちていく。
「昼ご飯の時もずっと眠そうだったもんね。一緒に食べたの、覚えてない?」
「……ごめん。あんまり記憶にない」
「重症だ」
言われて、断片だけが戻ってきた。奏多が僕の顔の前で手を振っている。おい、生きてるかと言われて、生きてると答えた気がする。それから、たぶん何か聞かれた。中原さんが席を外していた短い時間に、奏多が声を落として言ったこと。お前さ、最近ちょっと変わったよな。
変わった、と言われて、何がと聞き返した。奏多は肩をすくめて、いや、いいけど、と話を打ち切った。そこまで思い出して、続きが出てこない。中原さんの声が楽しげに揺れる。僕はプルタブを引き上げた。冷たい液体を流し込むと、喉を抜ける刺激と一緒に、ぼやけていた頭の芯が少しずつ戻ってくる。
「夜更かししたの」
「……昨日、中原さんが話してたドラマ見てた。最後まで」
「え、全部?」
声が上擦った。それきり、居心地の悪い沈黙が広がる。
「……ど、どうだった」
平静を装っているつもりだろうが、少しだけ早口だった。僕の反応を探るように、問いが宙に浮いている。
「面白かったよ。止めるタイミング見失って、気づいたら朝だった」
「ほんと? 嘘じゃない?」
「本当。凄すぎて、少し怖いくらいだった」
「……どのシーンが一番そう思ったの」
「病室の鏡のところかな」
「えっ、そこ?」
中原さんは肩を揺らして、我慢しきれないという様子で笑った。
「もっと他にあるでしょ。感動するところとかさ」
「冗談抜きで怖かったんだよ。鏡から這い出してきた時の圧が凄すぎて」
「あれホラーじゃないんだけどなあ」
「僕の中では今年一番のホラー」
「褒められてるのか分かんないんだけど」
笑いながら言う声は、どこか安心しているようにも聞こえた。本当は、もっと違う感想を伝えたかった。台詞の語尾で、ほんの少しだけ息が余ること。何かを言い足そうとしてやめた人の息の吐き方だったこと。同じ台詞を巻き戻すたびに、吸う位置が違っていたこと。
妹が姉に向かって「ずっと言えなかったんだけど」と切り出す場面で、彼女は一度も声を張らない。張らないことで、そこに何かがあると分かるようにしている。僕はその場面を、何度も戻して見た。誰かの仕事について正確に語るには、たぶん、言葉の側にも訓練が要る。
僕にはそれがない。線なら引けるのに、口から出す形式を持っていない。それに、もうひとつ言えないことがあった。画面の中にいたのは、僕の知っている中原さんではなかった。声の高さも、言葉の置き方も、纏っている空気も。別人だった。
それ以外に当てはめる言葉が見つからないほど、遠い場所に彼女はいた。隣にいる人が、あそこにも行ける。それは凄いことのはずなのに、思い出すと胸のあたりが妙にざわついた。黙ったままサイダーの缶を見つめていると、中原さんが窓際のほうへ顔を動かす。
「感想、言いにくいやつ見せちゃったね」
「そんなことないよ」
返ってきたのは、椅子の脚が床を擦る音だけだった。開け放たれた窓から、遠くの野球部のかけ声が響いてくる。
「……でもやっぱり、顔を見てもらえないのはちょっと寂しいかも」
彼女がどんな目をして、どんな唇の動きで今の言葉を言ったのか。僕には確かめる方法がない。演じるという仕事は、顔を見せる仕事だ。声だけでも届くことは昨日の夜に思い知ったけれど、彼女が毎日削っているものの多くは、たぶん、僕が受け取れない場所にある。
いちばん近くにいる人間が、いちばん受け取れていない。
「はい、その顔禁止」
「え」
「今、たぶん謝ろうとしたでしょ」
遮るように手のひらで制される。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
「……うん」
「私が言いたかったのは、そういうことじゃなくて」
彼女はそこで言葉を切った。続きを探しているのが、間の長さで分かる。
「……まあ、いいや。忘れて」
忘れられるわけがなかった。それから、中原さんは何かを思いついたように、棚の片隅を指差した。
「ねえ、あれも見えないの?」




