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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第三章「陰影」
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9

 結局、ドラマは最終話まで夜通し見てしまった。寝息を立てる怜奈(れいな)を起こすわけにもいかず、途中でテレビの電源を落とした。足音を殺して自室へ戻り、続きはタブレットで見る。カーテンを閉め切った暗闇の中で、画面だけが鋭い光を放っていた。


 成瀬雫(なるせしずく)は鏡の中から這い出る幽霊として、白石小春(しらいしこはる)対峙(たいじ)している。何度も同じところを巻き戻した。一時停止して、また再生した。台詞の入り方が毎回違うことを確かめて、そのたびに息が浅くなる。


 終盤で妹の死因が明かされる。姉はそれを知らないまま、鏡の前で髪を()かし続けている。妹はその後ろに立って、何も言わない。その場面には台詞がひとつもなかった。僕は音を最大にした。衣擦れ。(くし)の歯が髪を通る音。それから、たぶん妹のものであろう、ごく浅い呼吸。


 顔が見えない人間にとって、無言の場面は本来いちばん不利なはずだ。それなのに、そこで何が起きているのかは分かってしまう。分かってしまうことのほうが、少し怖かった。気づいたときにはカーテンの隙間から薄い灰色の光が漏れていて、時計の針は四時を回っている。


 膝の上には、デッサン帳が開いたままになっていた。昨日引いた線がそこにある。グラスを掴んでいる手。短い爪。人差し指の絆創膏(ばんそうこう)。朝までのあいだ、僕はそのページを閉じては、また開いた。開くたびに、まだ描けていることを確かめていた。


 結局ろくに眠らないまま、学校へ向かった。午前中の授業は意識が飛んだまま受けた。チョークの音は遠く、教科書の文字はただの黒い記号として目を滑っていく。昼に何を食べたのかも覚えていない。ようやく辿(たど)り着いた放課後。美術室の扉を開けて、使い古された硬い椅子に身体を沈めた。


 窓の外からは、夏を目前にした高い空から白っぽい光が降り注いでいる。部屋の隅では、安田(やすだ)さんと室井(むろい)先輩が持ち寄った大量の漫画を机に積み上げ、熱心に読み(ふけ)っていた。ポテトチップスを咀嚼(そしゃく)する音と、乾いたページをめくる性急な音が聞こえてくる。


神崎(かんざき)、顔色やばくないですか」


 漫画から目を離さずに室井先輩が言った。


「徹夜したので」

「何してたんですか」

「……ドラマ見てました」

「青春ですねぇ」


 その手元には、漫画に混ざって描きかけのデッサンが一枚置かれている。横顔だ。


「それ、先生の課題ですか」

「そうです。今月末までに人物一枚。だるいんですよ」

「誰ですか、それ」

「弟です」


 安田さんがポテトチップスの袋から手を抜いて、隣を覗き込んだ。


「モデル、やってくれたんですか」

「やるわけないでしょう。中三男子が姉のためにモデルなんかやると思いますか」

「じゃあ写真ですか」

「頭の中の弟です」


 安田さんが黙った。


「先輩。それ、デッサンじゃないですよね」

「バレなきゃいいんです」

「バレますって。先生、そういうとこだけ目がいいので」

「そのときはそのときです。平謝りで」

「去年も同じこと言って正座させられてませんでした」

「あれは正座ではなく、反省の姿勢です」

「同じですよ」


 先輩は動じることなく漫画のページをめくった。手のほうは止まらずに動いている。器用な人だ。僕は横目でその紙を見た。頬から顎へ落ちていく線に、迷いがない。似ているのかどうか、僕には判定する資格がないのだけれど。僕は自分の席でデッサン帳を広げた。


 昨日のページは開かないように、後ろのほうから真っ白なところを探す。研ぎ澄ました鉛筆を数本、机に並べた。練りゴムを指先で細かく千切り、形を整えて。


 そこから先の記憶が、ぷつりと途切れている。


「うわっ!」


 突き刺すような冷たさが耳元を走り抜けて、僕は飛び上がった。横を見ると、中原(なかはら)さんが座っている。結露して水滴の滴るアルミ缶を持っていた。


「ああ……びっくりした。心臓止まるかと思った」

「ふふ。あんまり気持ちよさそうに寝てるから、つい」


 悪びれる様子のない声が、静かな室内に響く。昨日の夜、鏡から這い出す幽霊を演じていた声とは全く違う。僕のよく知っている、美術室の空気に溶け込んだ響きだ。重たい頭を抱える。机の上には、一線も引かれていない白いページが横たわっていた。描く準備だけを完璧に整えて、そのまま意識の糸が切れたらしい。


 部屋の隅に目をやると、安田さんと室井先輩の姿は、積み上げられた漫画ごと消えていた。さっきまでの二人は幻だったのかもしれない。あの二人に常識を求めるのは無益だ。


「はい、差し入れ」

「……ありがとう」


 手渡されたサイダーの缶は冷たかった。指先に移った水滴が肌を滑り落ちていく。


「昼ご飯の時もずっと眠そうだったもんね。一緒に食べたの、覚えてない?」

「……ごめん。あんまり記憶にない」

「重症だ」


 言われて、断片だけが戻ってきた。奏多(かなた)が僕の顔の前で手を振っている。おい、生きてるかと言われて、生きてると答えた気がする。それから、たぶん何か聞かれた。中原さんが席を外していた短い時間に、奏多が声を落として言ったこと。お前さ、最近ちょっと変わったよな。


 変わった、と言われて、何がと聞き返した。奏多は肩をすくめて、いや、いいけど、と話を打ち切った。そこまで思い出して、続きが出てこない。中原さんの声が楽しげに揺れる。僕はプルタブを引き上げた。冷たい液体を流し込むと、喉を抜ける刺激と一緒に、ぼやけていた頭の芯が少しずつ戻ってくる。


「夜更かししたの」

「……昨日、中原さんが話してたドラマ見てた。最後まで」

「え、全部?」


 声が上擦った。それきり、居心地の悪い沈黙が広がる。


「……ど、どうだった」


 平静を装っているつもりだろうが、少しだけ早口だった。僕の反応を探るように、問いが宙に浮いている。


「面白かったよ。止めるタイミング見失って、気づいたら朝だった」

「ほんと? 嘘じゃない?」

「本当。凄すぎて、少し怖いくらいだった」

「……どのシーンが一番そう思ったの」

「病室の鏡のところかな」

「えっ、そこ?」


 中原さんは肩を揺らして、我慢しきれないという様子で笑った。


「もっと他にあるでしょ。感動するところとかさ」

「冗談抜きで怖かったんだよ。鏡から這い出してきた時の圧が凄すぎて」

「あれホラーじゃないんだけどなあ」

「僕の中では今年一番のホラー」

「褒められてるのか分かんないんだけど」


 笑いながら言う声は、どこか安心しているようにも聞こえた。本当は、もっと違う感想を伝えたかった。台詞の語尾で、ほんの少しだけ息が余ること。何かを言い足そうとしてやめた人の息の吐き方だったこと。同じ台詞を巻き戻すたびに、吸う位置が違っていたこと。


 妹が姉に向かって「ずっと言えなかったんだけど」と切り出す場面で、彼女は一度も声を張らない。張らないことで、そこに何かがあると分かるようにしている。僕はその場面を、何度も戻して見た。誰かの仕事について正確に語るには、たぶん、言葉の側にも訓練が要る。


 僕にはそれがない。線なら引けるのに、口から出す形式を持っていない。それに、もうひとつ言えないことがあった。画面の中にいたのは、僕の知っている中原さんではなかった。声の高さも、言葉の置き方も、(まと)っている空気も。別人だった。


 それ以外に当てはめる言葉が見つからないほど、遠い場所に彼女はいた。隣にいる人が、あそこにも行ける。それは凄いことのはずなのに、思い出すと胸のあたりが妙にざわついた。黙ったままサイダーの缶を見つめていると、中原さんが窓際のほうへ顔を動かす。


「感想、言いにくいやつ見せちゃったね」

「そんなことないよ」


 返ってきたのは、椅子の脚が床を擦る音だけだった。開け放たれた窓から、遠くの野球部のかけ声が響いてくる。


「……でもやっぱり、顔を見てもらえないのはちょっと寂しいかも」


 彼女がどんな目をして、どんな唇の動きで今の言葉を言ったのか。僕には確かめる方法がない。演じるという仕事は、顔を見せる仕事だ。声だけでも届くことは昨日の夜に思い知ったけれど、彼女が毎日削っているものの多くは、たぶん、僕が受け取れない場所にある。


 いちばん近くにいる人間が、いちばん受け取れていない。


「はい、その顔禁止」

「え」

「今、たぶん謝ろうとしたでしょ」


 遮るように手のひらで制される。


「謝ってほしいわけじゃないよ」

「……うん」

「私が言いたかったのは、そういうことじゃなくて」


 彼女はそこで言葉を切った。続きを探しているのが、間の長さで分かる。


「……まあ、いいや。忘れて」


 忘れられるわけがなかった。それから、中原さんは何かを思いついたように、棚の片隅を指差した。


「ねえ、あれも見えないの?」

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