幕間 二
電車の座席に座って、マスクの下で、私はまだ口の中に残っている甘さを転がしていた。クラフトコーラのスパイスは思っていたより長く残る。舌の奥のほうに生姜みたいな辛さがずっといて、飲み込んでも消えてくれない。彼は私のアイスコーヒーを飲み干して帰った。苦いとも、まずいとも言わずに。
今日それを頼んだのは、飲みたかったからじゃない。黒川瑠依が現場でいつも頼んでいると聞いたからだ。その程度のことで、私はすぐ人の真似をする。アイラインの角度も、前髪の分け目も、歩き方も、笑うときに息を抜く位置も、全部どこかから持ってきて貼り付けたもので、私はそれを自分だと呼んでいる。舌が焼けるほど苦かった。彼はそれを、何も聞かずに引き取った。私らしい頼み方だと思ったらしい。何も見えていないくせに。
初めて美術室を訪ねた日、彼は初対面の人間に向ける声で私の名前を尋ねた。息が止まった。顔ぐらいは覚えててほしかったな、と冗談みたいに返したけれど、あれは冗談じゃない。前の日に桜の下で刺されたのと同じ場所を、同じ角度で、もう一度刺されただけだ。
彼が人の顔を分からないのだと知ったのは、そのすぐあとだった。黒く塗り潰された英語の教科書を差し出されて、私が最初に思ったのは、可哀想でも、大変そうでもない。助かった、だった。自分でもひどいと思う。神崎くんは私の顔を見ていない。だから彼が私を見るとき、そこにあるのは成瀬雫ではない。顔で選ばれないということは、顔で捨てられないということだ。私を打ちのめしたはずの欠落が、そのまま私の逃げ場になった。あのときの安堵を、たぶん彼は一生知らないままでいる。
窓の外を、見慣れた駅名がひとつずつ流れていく。私が積み上げてきた全部が届かない場所にいるくせに、彼はときどき、私の底のほうにだけ手を伸ばしてくる。どうしてそんなに優しいの。いっそひどく罵ってくれればよかったし、冷たく突き放してくれればよかった。そうすれば私は、諦めることも、嫌いになることもできたはずなのに。
電車がホームへ滑り込む。立ち上がってドアの前に立ったところで、また思い出してしまった。美術室の隅にある、古い傘立てのことだ。歴代の生徒が忘れていった置き傘が押し込まれた、くすんだ塊。その手前に、黒い傘が一本だけ立っている。誰のものかも分からないまま、誰にも捨てられずに、まだそこにある。
あれのことは、今日は考えないでおく。考え始めたら私は、自分がどこから始まったのかを、順番に思い出さなければならなくなる。
マスクの位置を直して、私はホームへ降りた。




