第102話: 陽の野の、論理
蝋と、古い羊皮紙の匂いがした。
王都の審議の間に入った私の鼻が、最初に拾ったのはそれだった。雪の匂いは、城門をくぐったあたりで消えていた。代わりに、何百年も人を裁いてきた石の壁の、乾いて冷たい匂いが立っていた。
戦いの匂いが、また変わった。机の匂いから、石の匂いへ。
半円に並んだ卓の向こうに、委員が七人座っていた。
真ん中の一段高い席に、白髪を後ろへ撫でつけた老人がいた。メルダース伯爵。委員長だった。その左右に、六人の委員が黒い礼服を着て並んでいた。
ディートリヒさんが、私の耳元で低く言った。
「右から三人」と彼は言った。「あれが、ゾンネフェルトの息のかかった委員です」
私は、その三人を見ないようにして見た。誰も私のほうを見ていなかった。手元の書面に目を落とし、退屈そうにしていた。
半分は、向こうの土俵。ディートリヒさんの言った通りだった。
私は、卓の前の証言者の席に立った。
隣にノアがいた。少し下がって、ディートリヒさんが控えていた。傍聴席は、まばらだった。冬の王都で、辺境の女将の審議を聞きに来る者は少ない。
手帳と、布に包んだザイデルの湯桶を、私は卓の上に置いた。
「ルヴェール家の女将」とメルダース伯爵が言った。
その声は、乾いていた。年老いた、感情の読めない声だった。
「申し立ての趣旨を、述べなさい」と彼は言った。
私は、息を一つ吸った。石の匂いが、喉の奥に冷たく届いた。
「王室御用達の指定の条件に」と私は言った。「新しい道を一つ加えていただきたくて、参りました」
委員の何人かが、わずかに顔を上げた。
「御用達の指定を受けると」と私は言った。「湯の供給優先権を、差配に握られます。栄える湯へ魔力を集める。——つまり、奪う側に組み込まれる。いまの御用達には、その道しかありません」
私は、メルダース伯爵を見た。
「私は」と私は言った。「もう一つの道を、条件に加えていただきたいのです」
「もう一つの道」とメルダース伯爵が繰り返した。
「汲める分しか汲まない」と私は言った。「受け入れる客の数を谷が背負える分に設計する。奪わずに持続できる取り出し方を、御用達の条件として選べるようにする。——『奪わない条項』です」
私は、その言葉を、この石の間で初めて声に出した。
右から三人目の委員が、ふ、と鼻で笑った。
小さな音だった。けれど、半円の卓の上で、その音はよく響いた。
メルダース伯爵が、その委員を一瞥した。それから、私に向き直った。
「女将殿」と彼は言った。「条件審議は、軽々には開けません。御用達は、王室の保養事業の根幹に関わる。——なぜ、その新しい道が要るのか。根拠を、示しなさい」
来た、と私は思った。
ここからが、入り口だった。
「御用達と地脈の魔力は、切り離せません」と私は言った。「魔力をどう配るかが御用達の条件を決める。——その配り方にいま、王国法第十二章に触れる手が使われています」
間に、わずかな緊張が走った。
地脈保全令。導管術。禁術の名を、私は口にしようとしていた。
「地脈導管術です」と私は言った。「衰退した湯から栄える湯へ魔力を移す術。地脈保全令が禁じています」
「証拠は」と右から三人目の委員が、初めて口を開いた。
冷たい、若くもない声だった。
「学術の、裏づけがあります」と私は言った。「ヴェステルンド」
ノアが、一歩前へ出た。彼は、丸めた図面を卓の上に広げた。十二の谷の地脈波形を重ねた、一枚の図だった。
「地脈学者の、ノア・ヴェステルンドです」と彼は言った。
「この十二の谷は」とノアは言った。「同じ年に、いっせいに涸れた。自然の枯渇なら、ばらばらの年にばらばらの速さで涸れる。——だが、これは同じ年に同じ形で涸れている」
彼は、図の波形を指でなぞった。
「人為です」と彼は言った。「同じ手が同じ術で抜いた跡だ」
委員たちが、図に身を乗り出した。メルダース伯爵の目も、その波形に落ちた。
一拍、間があった。
ノアの学術が、石の間に楔を打ったように見えた。私は、わずかに息を継いだ。
「学者殿」と右から三人目の委員が言った。「その波形は、『抜かれた』ことを示すのですか」
「示します」とノアは言った。
「では」と委員は言った。「『誰が抜いたか』は、示すのですか」
ノアが、口を閉じた。
彼は、自分が並べた波形の図を見た。それから、まっすぐ顔を上げた。学者は、嘘をつかなかった。
「示しません」と彼は言った。「波形は、犯行を示す。犯人の名は、指さない」
右から三人目の委員が、椅子に背を預けた。
「犯行はあった。だが、誰のものかは分からない」と彼は言った。「——では、この図は何の証拠にもなりませんな」
彼の声に、勝ち誇った響きはなかった。ただ、事実を置くだけの冷たさがあった。
ノアの図が、卓の上で、急に薄っぺらく見えた。
私は、自分の掌が冷たくなるのを感じた。一枚目が、輪っかにされた。決定打じゃない欠片を並べる——そう決めて来たのに、最初の一枚で、もう足元が揺れた。
無双しない。私は、自分に言い聞かせた。一枚で刺せない。分かっていたことだった。
「実例が、あります」と私は言った。
声が、わずかに上ずった。私は、それを抑えた。
「リンドヴァルという谷で」と私は言った。「五年涸れていた湯が、奪わずに戻りました。導管術を使わずに。——これは夢でも理屈でもありません。私が、この目で見た事実です」
メルダース伯爵が、わずかに眉を動かした。
「奪わずに、湯が戻った」と彼は言った。「それは、誰が見たのです」
「現地の湯守が」と私は言った。「ヨナス・ファルクという少年と、その祖父のオットーが。——本来なら、この場で証言するはずでした。けれど、ザイデルの谷が雪で閉じて、王都まで下りてこられませんでした」
右から三人目の委員が、また鼻で笑った。今度は、少し大きかった。
「来られない証人の、伝聞ですか」と彼は言った。「辺境の湯守の少年が、奪わずに湯が戻ったと言った。——それを女将殿が、ここで代わりに語る」
彼は、半円の委員たちを見渡した。
「仮に、それが本当だとして」と彼は言った。「井戸が一つ。五年涸れた湯が一つ戻った。——それは王国の数百の湯の前で、何を意味します」
私は、答えようとした。
けれど、その委員は、私に答えさせなかった。
「例外です」と彼は言った。「奇跡でも結構。珍事でも結構。だが、一つの例外が王国の制度の根幹を覆す根拠になりますか。——ならない」
彼は、ノアの波形の図を、指で軽く弾いた。
「証拠にならない波形と、一例の珍事」と彼は言った。「それが、女将殿の手札ですか」
間が、空いた。
石の壁が、その間を冷たく吸い込んだ。傍聴席のまばらな人影が、退屈そうに身じろぎした。
私は、卓の上のザイデルの湯桶の布を、指で握った。布の下の、乾いた木の冷たさが、掌に伝わった。
「敵陣からも」と私は言った。「証言があります」
私は、後ろを振り向かなかった。けれど、傍聴席の隅に濃紺の官服が座っているのを、入る時に見ていた。
「カルム殿」と私は言った。「王室財務部の、地脈資源課の」
テオドールが、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、委員たちのほうへ頭を下げた。それから、私のほうは見ずに、メルダース伯爵を見た。
「テオドール・カルムです」と彼は言った。「差配の、窓口を務めております」
半円の卓が、わずかにざわついた。差配の窓口役がこの場で口を開く——それは、向こうの委員たちにとっても予想の外だったらしかった。
右から三人目の委員が、テオドールを睨んだ。
けれど、テオドールは、それに気づかないふりをした。
「カルム殿」とメルダース伯爵が言った。「あなたは、何を述べるのです」
「私が、見たことを」とテオドールは言った。
彼の声は、いつものように穏やかだった。悪意の気配のない、清潔な声だった。
「リンドヴァルの谷で」と彼は言った。「五年涸れていた井戸に湯気が戻る瞬間を、私はこの目で見ました。導管術の痕跡はありませんでした。——奪わずに湯が戻ったことは、事実です」
その一言が、石の間に、まっすぐ立った。
私は、息を詰めた。敵陣の窓口役の口から出た、たった一つの事実だった。
メルダース伯爵が、テオドールを見た。
「窓口役のあなたが」と彼は言った。「それを、述べるのですか」
「私は、効率を信じています」とテオドールは言った。「いまも変わりません。けれど、見たことについては——嘘をつけません」
右から三人目の委員が、卓を指でこつと叩いた。
「カルム殿」と彼は言った。「あなたが見たのは、湯が戻ったこと。それだけですな」
「それだけです」とテオドールは言った。
「では」と委員は言った。「それが奪わずに戻ったと、どう言い切れます。たまたま地下の伏流が、その年に動いただけかもしれない。あなたは地脈学者ではない。——あなたが見たのは、湯気が立ったこと。それ以上ではない」
テオドールが、答えなかった。
彼は、まっすぐ前を見たまま、口を閉じた。誠実な人間が、自分の見た範囲の外へは、一歩も踏み出せずにいた。
「……私が見たのは」とテオドールは、低く言った。「湯気が、戻ったことです」
「結構」と委員は言った。「では、それも証拠にはなりません」
テオドールが、静かに腰を下ろした。彼の手札も、輪っかにされた。
私は、卓の上の手帳を見た。
欠片が、一つずつ切られていた。ノアの波形。ヨナスの実例。テオドールの証言。一枚ずつ輪っかにされて、卓の上に積まれていった。
束ねれば、影の輪郭が浮かぶ——そう信じて来た。けれど、輪っかは重なる前に、一つずつ床へ落とされていた。
その時だった。
傍聴席の、いちばん奥の暗がりで、椅子の軋む音がした。
一人の老人が、ゆっくりと立ち上がった。
黒に近い、濃灰の重厚な礼服を着た男だった。
白髪を短く刈り込み、撫でつけていた。背筋は、年に似合わず伸びていた。彼は傍聴席から、半円の卓のほうへ一歩進み出た。
右から三人の委員が、いっせいに、その老人に頭を下げた。
私は、その動きで、誰が来たのかを察した。
「委員長」とその老人は言った。「傍聴の身で口を挟むご無礼を、お許しください」
その声は、低かった。荒らげる必要を、一度も感じたことのない声だった。
「ゾンネフェルト侯爵」とメルダース伯爵が言った。
その名が、石の間に落ちた。
私の隣で、ノアの肩が、わずかに固くなった。後ろで、ディートリヒさんが、息を詰めるのが分かった。
コンラート・ゾンネフェルト。
差配の盤を握る、筆頭家の当主。ヴィクトールを尻尾として切り落とした、本体。空白の真ん中に座っていた影が、いま自分から立ち上がって、私の前に姿を見せていた。
彼の薄い鼠色の目が、私のほうへ向いた。値踏みする目だった。
「よくおできになりましたね」とゾンネフェルトは言った。「辺境の、女将殿が。雪の中を、王都まで」
丁寧な言葉だった。けれど、その一語ずつが、私を一段下に置いていた。
「侯爵閣下」と私は言った。声が、わずかにかすれた。
「井戸が一つ」とゾンネフェルトは言った。「五年涸れた湯が一つ戻った。——結構なことです」
彼は、ゆっくりと半円の委員たちのほうを向いた。
「ですが」と彼は言った。「それで王国の数百の湯が、いくつ賄えるとお思いか」
私は、答えようとした。
けれど、ゾンネフェルトは、私に答えさせなかった。彼は、委員たちにだけ、語りかけていた。私は、まるでそこにいないかのように扱われていた。
「奪わないやり方は」と彼は言った。「遅い。湯量は、控えめ。土地も、選ぶ」
テオドールが、何度も言ったことだった。
崩れていない、彼の論理。けれど、ゾンネフェルトの口から出ると、その論理は別の色を帯びていた。テオドールが信じて言うそれと、この老人が盾として使うそれは、同じ言葉なのにまるで違う温度をしていた。
私は、それを、肌で感じた。
「地脈学者が一人がかり」とゾンネフェルトは言った。「職人が一人。谷の者が数人。それで数日かけて、ようやく一つの湯が戻る。——王国には、数百の涸れた湯があります」
彼は、印章指輪の光る右手を軽く上げた。
「その一つ一つに数日と数人を割けますか」と彼は言った。「割けません。だから、差配がある」
「限られた魔力を」とゾンネフェルトは言った。「最も多くの人が潤う、栄える湯へ集める。それが王国全体の最善です。——情で湯は湧きません。湧かせるのは、いつの世も勘定です」
その言葉が、石の間に、静かに広がった。
委員たちが、頷いた。半分の委員も。中立のはずの委員も。
私は、その光景を見た。
ゾンネフェルトの論理が、場を覆っていくのを。彼は、声を荒らげなかった。脅さなかった。ただ、勘定を置いた。そして、勘定はこの石の間で、いちばん通りのいい言葉だった。
私は、握りしめた湯桶の布をもう一度握り直した。
ここからは、メルダース伯爵が見ていた。
私は、半円の卓の真ん中で、二つの声を聞いていた。
一つは、辺境の女将の声。湯を、奪わずに戻せると言う、若い声だった。もう一つは、ゾンネフェルト侯爵の声。勘定でしか湯は湧かないと言う、老いた声だった。
長く、私は、裁く側にいた。どちらの声がよく通るかは、空気で分かる。
女将の声は、温かかった。だが、温かいだけだった。手札は、一つずつ、論理の前で崩れていった。波形は犯人を指さず、実例は一つきり、窓口役の証言は見た範囲を出ない。
ゾンネフェルト侯爵の声は、冷たかった。だが、筋が通っていた。勘定はいつの世も、合議の場でいちばん安全な言葉だ。
私は、横の三人の委員を見た。
彼らは、ゾンネフェルトに頷いていた。私が、彼らの背後で誰が糸を引いているかを知らないとでも思っているのだろう。——知っている。知っていて、何もできない。それが、この席の重さだった。
審議を、開くか。先送りにするか。
先送りにすれば、誰の顔も立つ。ゾンネフェルトは盤を守り、女将は谷へ帰り、私は厄介な合議をまとめずに済む。——いちばん、楽な道だった。
私の口が、その楽な道を選びかけた。
「本日の審議は」と私は言いかけた。
ここからは、再び、セラが見ていた。
「本日の審議は」とメルダース伯爵が言いかけた。
その声を、私は、聞いた。先送りの声だった。ディートリヒさんが警告した、向こうのいちばん楽な勝ち方が、いま委員長の口から出ようとしていた。
私は、湯桶の布を、握りしめた。
「委員長」と私は言った。
声が、思ったより、低く出た。
メルダース伯爵が、私を見た。ゾンネフェルトも、薄い鼠色の目を、初めて私の顔に止めた。
「侯爵閣下の、おっしゃる通りです」と私は言った。
ゾンネフェルトの眉が、わずかに動いた。
「奪わないやり方は、遅い」と私は言った。「湯量も控えめ。土地も選ぶ。——それは、私がいちばんよく知っています。戻せなかった土地に、自分の足で立ったからです」
ゾンネフェルトの目が、細くなった。
「戻せなかった土地」と彼は言った。「ほう。それを、ご自分から」
「ザイデルという谷です」と私は言った。「二十年、涸れた湯です。私はそこへ行きました——そして、戻せませんでした」
私は、卓の上の布を、ほどいた。
ひびの入った、古い湯桶が、石の間の薄明かりの下に現れた。水の溜まらない、ザイデルの形見だった。委員たちの目が、その湯桶に集まった。
「ザイデルの、最後の住民が」と私は言った。「私に、これをくれました」
ゾンネフェルトが、その湯桶を見た。
彼の目に、わずかな、苛立ちが走った。勘定の場に、勘定にならないものが置かれた——その不快が、初めて彼の温度のない顔をかすめた。
「女将殿」と彼は言った。「ひびの入った桶をいくつ並べても、勘定にはなりません」
「ええ」と私は言った。「これは、勘定じゃありません」
私は、その湯桶を、両手で持った。
「これは」と私は言った。「閣下の論理が置き去りにした人の、声です」
ゾンネフェルトは、答えなかった。
彼の薄い鼠色の目が、湯桶から私の顔へ移った。値踏みする目だった。彼は私を、まだ辺境の女将としか見ていなかった。けれど、その目の奥で何かが、ほんの一瞬だけ退屈の色を変えた。
囲炉裏の火のない、冷たい石の間で。
「閣下は」と私は言った。「『井戸が一つで何が賄えるか』と、おっしゃいました。——その通りです。一つでは、何も賄えません」
私は、湯桶を卓に戻した。
「でも、閣下」と私は言った。「私は王国の数百の湯を一人で賄うとは、一度も申し上げていません」
ゾンネフェルトの眉が、また動いた。
「私が申し上げているのは」と私は言った。「賄うやり方を、王国が一つしか認めないでくれるな、ということです。——奪う道と、奪わない道。その二つを選べるように。それだけです」
私は、メルダース伯爵を見た。
「侯爵閣下のおっしゃる勘定は」と私は言った。「正しい。だから、奪う道を王国は残せばいい。御用達を受けて栄える湯に魔力を集めたい宿は、いままで通りその道を行けばいい」
私は、ザイデルの湯桶に手を置いた。
「でも、ザイデルの隣の谷で」と私は言った。「『うちは汲める分しか汲まない』と言いたい宿がいたら——その道も選べるように。それを御用達の条件に一つ加えてほしいんです」
右から三人目の委員が、口を開きかけた。
けれど、メルダース伯爵が、それを手で制した。
委員長の乾いた目が、ザイデルの湯桶と私の顔のあいだを、ゆっくりと行き来していた。
「ゾンネフェルト侯爵」とメルダース伯爵が言った。「いまの申し立てに、ご異議は」
「ありますとも」とゾンネフェルトは言った。
彼の声は、まだ落ち着いていた。けれど、その落ち着きの底に、ほんのわずかな急ぎがあった。私は、それを聞き逃さなかった。
「奪わない道を認めれば」とゾンネフェルトは言った。「差配の論理が揺らぎます。栄える湯へ集めるのが王国の最善だ、という前提が——選べるということになれば、最善ではなくなる」
彼は、半円の委員たちを見渡した。
「それは」と彼は言った。「王国の歳入の根幹を揺るがすことです」
ゾンネフェルトの目が、私に戻った。
「女将殿」と彼は言った。「あなたはご存じない。御用達の条件一つが、どれほどの歳入と人の暮らしに繋がっているか。——辺境の井戸一つの話では、ないのですよ」
彼の言葉は、また、私を一段下に置いていた。
けれど、その時、私は、気づいた。
ゾンネフェルトは、初めて、「歳入」と言った。さっきまで、彼は「王国全体の最善」と言っていた。最善の話が、いつのまにか歳入の話にすり替わっていた。
勘定の人が、勘定の本音を一度だけ漏らした。
「閣下」と私は言った。「いま、『歳入』とおっしゃいましたね」
ゾンネフェルトの目が、止まった。
「さっきまで、閣下は」と私は言った。「『王国全体の最善』と、おっしゃっていました。——最善と歳入は、同じものですか」
石の間が、静まった。
右から三人目の委員が、わずかに、椅子を引いた。メルダース伯爵の乾いた目が、初めてゾンネフェルトのほうへ、まっすぐ向いた。
ゾンネフェルトは、答えなかった。一拍。彼は、温度のない顔をほんの少しだけ固くした。
「同じです」とゾンネフェルトは言った。「王国の歳入は、王国の最善です。歳入があってこそ、民は潤う。——情を勘定の上に置くから、村は共倒れになる。私は若い頃に、それをこの目で見ました」
彼の声に、初めて、芯のようなものが通った。
保身の盾の奥に、彼自身の何かが一瞬だけ見えた。
「だから、私は決めたのです」とゾンネフェルトは言った。「情に流されない——その私が王国の盤を三代守ってきた。あなたの井戸一つの善意で、その盤を引っくり返していいはずがない」
彼は、私を見た。
彼の論理は、崩れていなかった。崩せなかった。私は、それを、認めた。
無双しない。私は、もう一度、自分に言った。
この人は、論破できない。彼の勘定は、正しい。彼の冷たさには、彼なりの傷がある。——私が立っているのは、決定打のない盤の上だった。
けれど、私は、引かなかった。
「閣下」と私は言った。「私も、引っくり返したいわけじゃありません」
ゾンネフェルトの眉が、わずかに動いた。
「奪う道をなくせとは言っていません」と私は言った。「ただ——奪うか、奪われるか。その二つしかないという前提を、もう一つ増やしてほしい。それだけです」
私は、そこで、言葉を止めた。
その二つしかないと決めたのは、誰ですか——喉の奥まで、その問いが来ていた。けれど、私は、それをまだ出さなかった。いまではない、と、体のどこかが言っていた。決定打のない今日それを切ってしまえば、ただの問いとして輪っかにされ、床へ落とされる。
私は、その問いを、明日へしまった。
「委員長」と私は言った。「ザイデルの最後の住民は、こう言いました」
私は、湯桶を、両手で持ち上げた。
「『線を引いてくれて、よかった』」と私は言った。「私が『ここは戻せない』と告げた時の、言葉です」
石の間が、静まった。
私は、その言葉を、ジルケさんから預かってきた。声の運び屋として。本人は、雪の谷から、下りてこられなかった。だから、私が、運んだ。
「奪うやり方は」と私は言った。「ザイデルみたいな谷から、最後の一滴まで抜きます。線を引かずに。——奪わないやり方は、戻せる土地と戻せない土地を正直に分けます」
「どちらが」と私は言った。「人を、欺いていませんか」
その問いは、ゾンネフェルトに向けたものではなかった。
メルダース伯爵に向けた、たった一つの問いだった。
メルダース伯爵が、長いこと、答えなかった。
彼の乾いた目が、ザイデルの湯桶を見ていた。それから、ゾンネフェルトを見て、私を見た。
半円の卓に、無音が降りた。
その無音の底で、審議の間の隅の鐘が、低く鳴った。
休会の鐘だった。委員たちが、書面を閉じ始めた。メルダース伯爵が、ゆっくりと立ち上がった。
「本日は」と彼は言った。「ここまで」
「申し立ては」とメルダース伯爵は言った。「次の合議で、続けて審議します。——先送りには、しません」
その一言に、私は、顔を上げた。
右から三人目の委員が、わずかに、表情を変えた。先送りで、楽に閉じるはずの場が、続審に回された。ほんの、一筋。けれど、確かに。
「ですが」とメルダース伯爵は言った。「女将殿」
彼の乾いた目が、私を見た。
「次までに、示しなさい」と彼は言った。「奪わない道を、なぜ王国が選べるようにすべきか。輪っかではない、根を。——でなければ、続審は開いても閉じます」
ゾンネフェルトが、私のほうを見た。
彼は、何も言わなかった。ただ、薄い鼠色の目で私をもう一度値踏みした。さっきまでの女将を見る目とは、ほんの少しだけ温度が違っていた。
彼は、印章指輪の光る手で外套を払い、傍聴席の奥へ戻っていった。
委員たちが、審議の間を出ていった。
ゾンネフェルトの息のかかった三人も、互いに目配せをして、出ていった。半円の卓が、空になった。石の壁が、また、乾いて冷たい匂いを立てていた。
私は、卓の上の湯桶を、布でそっと包み直した。
「セラ」とノアが、低く言った。
「わかってる」と私は言った。
「負けた、って気はしない」とノアは言った。「だが、勝ってもいない。——あの爺さんの論理は、一つも崩せてない」
「崩せてない」と私は言った。「でも、続審に回った」
「先送りに、しなかったな」とノアは言った。「あの委員長」
「ええ」と私は言った。「ザイデルの湯桶を、最後まで見てた」
私は、布に包んだ湯桶を、胸に抱えた。
決定打は、なかった。ノアの波形も、ヨナスの実例も、テオドールの証言も、一つずつ輪っかにされて床へ落ちた。ゾンネフェルトの論理は、一つも崩せなかった。
けれど、ジルケさんの一言だけは、まだ誰にも切られていなかった。私は、それを明日へ持ち越した。
審議の間を出ると、石の廊下に、冬の薄日が差していた。
その光の中に、濃紺の官服が一人立っていた。テオドールだった。彼は、柱の陰で、廊下の窓の外を見ていた。
私が通りかかると、彼は、私のほうを一度だけ見た。
何も、言わなかった。
ただ、その鳶色の目が、私の胸に抱えた湯桶の包みにわずかに止まった。それから、彼は、また窓の外へ目を戻した。雪解けを待つ、王都の灰色の空へ。
私は、その横を、通り過ぎた。
石段を下りると、ディートリヒさんが、外套の襟を立てて待っていた。
「劣勢から始まると、申し上げました」と彼は言った。
「ええ」と私は言った。「始まりました。——いちばん底から」
「ですが」とディートリヒさんは言った。「先送りには、ならなかった」
彼の薄い灰色の目が、王都の城門のほうを見ていた。
「次までに根を示せ、と委員長は言いました」と彼は言った。「——空いた真ん中を埋める線が、もう一本要ります」
私は、胸の湯桶を、抱え直した。
布越しに、乾いた木の冷たさが、まだ掌に残っていた。ザイデルの形見。水の溜まらない、ひびの入った桶。
その冷たさだけが、いまの私の、たった一つの手応えだった。
城門の向こうに、王都の宿の煙が、いくつもまっすぐ立っていた。
夕餉を炊く煙だった。湯気ではなかった。けれど、その白い立ち方は、谷の井戸の湯気とよく似ていた。——どこの竈の煙も、誰かの帰りを、待っている。
私はその煙を見ながら、明日ジルケさんの一言をどう束ねるかを考え始めた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第百二話、公決の前半です。
この回でいちばん怖かったのは、セラを勝たせてしまうことでした。手札は揃っています。けれど、ノアの波形は犯人を指さず、ヨナスの実例は一例きり、テオドールの証言は見た範囲を出ない。一枚ずつ、輪っかにされて床へ落ちていく——その「負けていく感じ」を、ちゃんと書きたかったのです。劣勢の底を作らないと、次の回でひっくり返したときの解放が、軽くなってしまうから。
そして、ついにゾンネフェルト侯爵を、公の場へ出しました。彼は、声を荒らげません。脅しもしません。ただ、勘定を置く。そして勘定は、合議の場でいちばん通りのいい言葉です。私が気をつけたのは、彼を「論破できる安い悪役」にしないことでした。彼の論理は、崩れない。崩せない。彼の冷たさには、若い頃に湯を一つ失った傷がある。セラが拾えたのは、彼が一度だけ「最善」を「歳入」と言い換えた、その綻び一つきりです。
最強の一撃「その二つしかないと決めたのは、誰ですか」は、まだ切りません。決定打のない今日それを出せば、ただの問いとして床へ落とされる。だからセラは、明日へしまいます。委員長は先送りを選びかけ、けれど最後にザイデルの湯桶を見て、続審に回した。ほんの一筋の光です。次の回で、最後のピースが動きます。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




