第103話: 真ん中を、埋める線
冷えた墨の匂いが、指の先まで沁みていた。
夜明け前の安宿の一室で、私は卓の上の紙の山に覆いかぶさるようにして眠っていたらしい。頬を上げると、油皿の火はとっくに尽きていた。窓の外は、まだ藍色だった。石の間の戦いが終わって、三日。続審の朝は、明日に迫っていた。
卓の上には、欠片が並んでいた。ヨナスの四行。十二の谷のリスト。ザイデルのひびの入った湯桶。婆さんが湯を覚えていると書いてきた、二行だけの返事。そして、メルダース伯爵が私に投げた、たった一つの言葉。——輪っかではない、根を。
私はその言葉を、三日のあいだ何度も口の中で転がしてきた。根。決定打。ゾンネフェルトを名指しで禁術に結ぶ、一枚の紙。それが、盤の真ん中に、まだ無い。無いものを、明日までに作る。あるいは、無いまま、束ねた欠片で根に見せる。
戸を叩く音がした。一定の、礼儀正しい叩き方だった。その音だけで、誰が来たのかわかった。
「ハイネ殿」と私は、戸を開けながら言った。「こんな朝早くに」
ディートリヒさんが、革鞄を提げて立っていた。外套に夜露が散っていた。砂色の短髪は、いつも通りきっちり分けられていたが、目の下に薄い隈があった。三日間、彼も寝ていなかった。
「徹夜で、辺境総督府の記録室にこもっていました」と彼は言った。「一枚、見つけました」
彼が、卓の上に一枚の写しを置いた。黄ばんだ、古い書面の写しだった。役所の角張った字で、何かの裁可が記されていた。文末に、署名が一つ。
「これは」と私は言った。
「二十年前」とディートリヒさんは言った。「ザイデルの谷の、灌漑水利を停止する裁可です」
彼の指が、署名のところを指した。
「灌漑を止めれば、谷は干上がる。人が散る。——湯を抜くための、地ならしです。差配が動く前に、まず谷を空にする」
「この署名は」と私は言った。
「いまの法務委員会に、座っている男です」とディートリヒさんは言った。「右から、三人目」
署名の上で、私の視線が止まった。あの、鼻で笑った委員だった。
「あの人が」と私は言った。「二十年前、ザイデルを」
「当時は、辺境州の若い水利官でした」とディートリヒさんは言った。「ゾンネフェルトの引きで、中央へ上がった。その出世の最初の階段が、この一枚です」
彼の薄い灰色の目が、署名を見ていた。棘のない、ただ事実だけを置く目だった。
私はその写しを両手で持った。ザイデルを干上がらせた手。ジルケさんの谷を二十年前に死へ追いやった手。それがいま、半円の卓の上から私を見下ろして鼻で笑っていた。掌が、熱くなった。
「これで」と私は言った。「あの委員を、突けますか」
「突けません」とディートリヒさんは、静かに言った。
その答えに、私は顔を上げた。
「灌漑の停止は、それ自体は合法です」と彼は言った。「水利官の裁量で、停めていい。『なぜ停めたか』を、この紙は言っていない」
彼は、署名の脇の余白を指でなぞった。
「干上がらせるためだ、とは、どこにも書いていない」と彼は言った。「役所の紙は、そういうふうに書かれます」
私はその写しを卓に戻した。また輪っかだった。署名はある。けれど、その署名が「差配のための地ならしだった」とは紙のどこにも書かれていない。決定打は、また指のあいだをすり抜けた。
無双しない。私はもう一度、自分に言った。——一枚で刺せる紙は、最後まで出てこない。
「ですが、無駄ではありません」とディートリヒさんは言った。
彼は、卓の上の十二の谷のリストを、署名の写しの隣に並べた。
「この水利官が裁可した谷は、ザイデルだけではない」と彼は言った。「記録室で、もう三つ、同じ男の署名を見つけました。三つとも、十二の谷の中にあります」
私は、リストに目を落とした。十二の谷。ゾンネフェルトが湯を抜いた、十二の谷。そのうち四つに、同じ男の灌漑停止の署名があった。一つなら偶然。けれど——四つ。
「四つの谷を、同じ一人が干上がらせた」と私は言った。
「灌漑を止めたのが、一つ」とディートリヒさんは言った。「同じ年に、その四つの谷で、湯がいっせいに涸れた。ノア殿の波形が、それを示します」
彼は、卓の端に置いてあったノアの波形の図を引き寄せた。
「灌漑の停止と、湯の枯渇が、同じ男の手の上で重なる」と彼は言った。
私は二枚の紙を見比べた。署名の写しと、波形の図。一枚ずつなら、ただの輪っか。けれど、二枚を重ねると、輪っかの縁がわずかに濃くなった。
「線が、一本増えました」と私は言った。
「ええ。真ん中の空白を、横切る一本です」とディートリヒさんは言った。
彼の指が、署名から波形へと、すうっと一本の線を引く仕草をした。
「ゾンネフェルトの名は、まだ紙の上にありません」と彼は言った。「けれど、その息のかかった委員の手が、四つの谷の地ならしをしていた。委員自身が、差配の地図の上に立っている」
戸口で、足音がした。
ノアが、湯気の立つ椀を二つ持って入ってきた。安宿の朝の、薄い白湯だった。彼はその一つを私の前に置き、もう一つをディートリヒさんの前に置いた。
「飲め」と彼は言った。「三日、まともに食ってないだろう」
「ノア、いま、署名が——」
「聞いてた。戸の外で」とノアは言った。「あの右から三人目が、四つの谷を干上がらせた手だってな」
彼は、卓の向こうに腰を下ろした。深い緑の目が、署名の写しと波形の図を学者の目で見比べていた。
「使えるな」とノアは言った。「あの委員は、明日、また鼻で笑うだろう。『来られない証人の伝聞だ』『一例の珍事だ』とな。その口で笑う本人が、四つの谷を干上がらせた手だ」
「裁く側に、裁かれるべき手が座っている」と私は言った。
「そういうことだ」とノアは言った。
私は、白湯を一口飲んだ。薄い、湯気だけの白湯だった。けれど、冷えた体の真ん中に、温かさが小さく灯った。三日ぶりの、温かいものだった。
頭の隅で、何かが——繋がりかけていた。
「でも、あの委員が四つの谷を干上がらせたと示しても、『差配のためだった』とは証明できない。違いますか」
「違わない。お前の言う通りだ」とノアは言った。
「じゃあ、これも、また輪っか」
「輪っかだ。だが、いままでで、いちばん大きい輪っかだ」とノアは言った。
彼は、白湯の椀を両手で包んだ。
「波形は、犯行を示した。署名は、犯行の手を示した。犯行と手が繋がった。あとは、その手が誰の指図で動いたかだ」
誰の指図で。私は、卓の上のもう一枚を見た。ヴィクトールが渡した盤の方角。ゾンネフェルトの名と、差配の盤がどう回ってきたかの末端の知識。その方角がいま、署名の写しと重なろうとしていた。
「ハイネ殿、ヴィクトールが渡した方角は——あの委員が、ゾンネフェルトの引きで中央へ上がった、と言いましたね」
「言いました」とディートリヒさんは言った。
「ヴィクトールの口じゃなく、記録で辿れますか」と私は言った。「あの委員の出世が、ゾンネフェルトの引きだったって」
ディートリヒさんが、わずかに目を細めた。
「人事の記録は、総督府にはありません。中央の財務部にあります。けれど——」
彼は、そこで言葉を切った。
「けれど?」と私は言った。
「あの委員が中央へ上がった年」とディートリヒさんは言った。「同じ年の財務部の出納に、ゾンネフェルト家からの『寄進』が記されていることがあります。三代も食い込んでいる家です。金の流れは、隠しきれない」
彼の薄い灰色の目に、初めて、刃のような光が宿った。
「マリカさんね」と私は言った。
「ええ。裏帳簿を読み解いた、あの方の目が要ります」とディートリヒさんは言った。「総督府の記録と、財務部の出納と、ゾンネフェルトの寄進。三つを突き合わせれば」
「真ん中を埋める線が、もう一本」と私は言った。
その時だった。
戸の外で、雪を踏む足音がした。急ぎ足の、軽い足取りだった。戸が開いて、外套に雪を散らしたマリカが、息を切らして入ってきた。
「セラさん、市の宿に、文が」
マリカの濃紺の目が、いつもより冴えていた。三日の疲れの底で、何かが灯っていた。彼女は懐から一通の紙を出した。安い、折りたたんだだけの紙だった。蝋はない。けれど、前に来た二行の返事とは違う紙だった。
「あの谷から。婆さんが、湯を覚えている谷から」とマリカは言った。「二通目です」
私はその紙を開いた。薄い墨。掠れた字。前より、少しだけ字が多かった。慣れない手で、けれど力を込めて書かれた四行だった。
——婆さんに、あんたの文を読んで聞かせた。
——婆さんが、泣いた。覚えとってくれる人が、おったんかと。
——おれ、王都へ行く。婆さんの代わりに、谷の湯のことを、喋りに。
——雪が解けたら、すぐ発つ。間に合うか。
その四行を、私はしばらく見ていた。胸の奥が、熱く揺れた。婆さんが泣いた。覚えていてくれる人がいたのかと。その一行が、ヨナスの「うちの湯が帰ってきた」の涙と、同じ温度で、私の中に立った。
「マリカさん、この谷の人は、王都へ来ようとしてる」
「ええ。でも」
彼女の声が、わずかに沈んだ。
「雪が解けたら、です」と彼女は言った。「あの谷も、冬は道が閉じます。続審は、明日。間に合いません」
私はその四行を、卓の上に置いた。婆さんの谷の声。ヨナスの実例。ジルケの言葉。ザイデルの湯桶。どれも、生きた声だった。——けれど、どれも、明日の石の間には立てない。
「来られない人ばかりだ」とノアが、低く言った。「ヨナスも、ジルケも、この谷の子も。みんな、雪の向こうだ」
「ええ」と私は言った。
「お前一人で、全員の声を運ぶのか」とノアは言った。
声の運び屋。ハンナさんの言葉が、私の中に戻ってきた。女将の仕事は、声の運び屋でもある、と。ローザさんも、来られない客の言葉を、何度も帳場で代わりに喋った、と。——けれど。
「私が運ぶだけじゃ、あの委員に、また『伝聞だ』と笑われます」と私は言った。
私は、卓の上の四つの声を見た。ヨナス。ジルケ。婆さんの谷。ザイデルの湯桶。
「運び屋が一人じゃ足りない」と私は言った。「束ねるって、そういうことかもしれない」
ノアが、私を見た。
「一人で四つの声を運べば、四つの伝聞になる」と私は言った。「でも、四つの谷が、互いの声を保証し合えば、それは伝聞じゃなくなる」
私は、卓の上の十二の谷のリストに、手を置いた。
「リンドヴァルのヨナスは、ザイデルのジルケさんを知らない。ジルケさんは、婆さんの谷を知らない」と私は言った。「でも、四つとも、同じ手で湯を抜かれた谷です」
私は、ディートリヒさんの署名の写しを、その隣に並べた。
「同じ年に、同じ男の署名で、灌漑を止められた。同じ年に、いっせいに涸れた」と私は言った。「四つの谷が、自分の谷の話をするだけで、ひとりでに繋がる」
ディートリヒさんが、その並びをじっと見ていた。
「四つの伝聞が、四つ集まると、伝聞でなくなる」と彼は、低く言った。「証言の、束になる」
「でも、四つとも、明日は来られません」とマリカが言った。
「ええ。だから、私が運びます。四人分」と私は言った。
私は、四つの声を、卓の真ん中に集めた。
「私が運ぶ、四つの声」と私は言った。「ノアの波形が、その四つが同じ年に涸れたことを示す。ハイネ殿の署名が、その四つを同じ手が地ならししたことを示す。声と、波形と、署名。三つを重ねたら」
「真ん中の輪郭が」とノアが言った。
「もう、輪っかじゃない」と私は言った。
卓の上で、欠片が、初めて一つの形に寄った。四つの谷の声を、波形が束ね、署名が束ね、私がその全部を一人の口で運ぶ。
一枚ずつなら床へ落とされた欠片が、重なって影の輪郭を濃く描き始めていた。決定打では、ない。けれど、輪っかでも、もうなかった。
「根に、なりかけてる」と私は言った。
ディートリヒさんが、長いことその並びを見ていた。それから、彼は静かに言った。
「セラフィーナ嬢。一つ、欠けています」
私は、顔を上げた。
「四つの谷の声。波形。署名」と彼は言った。「それを、向こうの陣から、誰が裏づけますか」
テオドール。彼の名が、私の中に浮かんだ。雪をかいた谷の口で、嘘はつかないと約束した鏡像の男。
「カルム殿が、リンドヴァルで湯が戻るのを見た、と」と私は言った。
「それは、もう輪っかにされました。石の間で」とディートリヒさんは言った。「『地脈学者でないあなたが見たのは、湯気が戻ったことだけだ』と」
私は、唇を噛んだ。あの委員の、冷たい切り返しだった。テオドールの誠実な証言は、見た範囲を出ない、と封じられた。
「でも、カルム殿は、もう一つ知ってます」と私は言った。
ディートリヒさんが、私を見た。
「あの人は、ゾンネフェルト侯爵の差配だと、自分の口で認めました」と私は言った。「谷の口で、私に。『これは、ゾンネフェルト侯爵のご差配です』と」
部屋が、静まった。ノアの深い緑の目が、見開かれた。ディートリヒさんの薄い灰色の目が、わずかに動いた。
「差配の窓口役本人が『ゾンネフェルトの差配だ』と認めた」とディートリヒさんは、低く言った。「それは、伝聞ではありません。——当事者の、自白に近い」
「ええ。でも」
私は、そこで言葉を切った。
「あの人は、味方じゃありません」と私は言った。「効率の論理を、捨ててない。明日、公の場でそれを言ってくれるとは、限らない」
「言わせるんじゃない」とノアが言った。
私は、彼を見た。
「あいつは、自分が見たことについては嘘をつかないと言った」とノアは言った。「なら、訊くだけだ。『あなたは谷の口で、これは誰の差配だと言いましたか』と。あいつが嘘をつけないなら、答えは一つしかない」
私は、その言葉を、体の真ん中に置いた。テオドールに、味方になれとは言わない。証言してくれと頼みもしない。ただ、公の場で彼が私に言ったことを、もう一度訊くだけ。
彼が誠実な男であるかぎり、彼は嘘をつけない。彼の誠実さを、彼の論理ごと使わせてもらう。
「でも、それは賭けです」と私は言った。
「賭けだ」とノアは言った。「だが、あいつは、井戸の湯気が目に焼きついて離れないと言った男だ。その目を、信じる賭けくらい、する価値がある」
私は、頷いた。
卓の上に、明日の盤が、組み上がりつつあった。四つの谷の声を、私が運ぶ。ノアの波形が束ねる。ディートリヒさんの署名が束ねる。マリカさんが財務部の寄進を辿る。そして、テオドールに、谷の口の言葉をもう一度訊く。
ヴィクトールの口は、出さない。彼の渡した方角は、地図として署名と寄進を繋ぐためだけに使う。
「ヴィクトールは、証言台には立たせません」と私は言った。
「賢明です。失脚した男の意趣返しは、向こうが喜んで利用する」とディートリヒさんは言った。「けれど、彼の渡した方角がなければ、財務部の寄進にも辿り着けなかった」
「地図として、使います。口は、出さない」と私は言った。
窓の外が、白み始めていた。藍色だった空が、灰色に変わっていた。雪は、降っていなかった。けれど、空はまだ重く、いつ降り出してもおかしくなかった。明日。続審。私は、この組み上がった盤を、もう一度石の間に持っていく。
「マリカさん、今日中に、財務部の寄進を辿れますか」
「辿ります。翡翠殿で、貴族の金の動きは、嫌というほど見てきました」とマリカは言った。「出納の癖は、読めます」
彼女が、外套の襟を立てた。もう、戸口へ向かっていた。
「セラさん」とマリカは、戸口で振り返った。「一つ、聞いていいですか」
「ええ」と私は言った。
「明日、セラさんは、あの最後の一撃を、切りますか」
私は、息を止めた。その二つしかないと決めたのは、誰ですか。石の間で、喉まで来て明日へしまった一撃だった。決定打のない場で切れば、ただの問いとして床へ落とされる、と。マリカは、それを覚えていた。
「切ります」と私は言った。私の声が、思ったより低く出た。
「明日は、もう、輪っかだけじゃない」と私は言った。「四つの谷の声と波形、署名、寄進、カルム殿の言葉が、真ん中の輪郭を描いてる。その上でなら、あの問いは床に落ちない」
マリカが、わずかに口元をゆるめた。仲居の、職人の笑みだった。
「では、その問いが床に落ちないように。寄進の線、必ず引いてきます」と彼女は言った。
彼女の背が、灰色の朝の中へ消えていった。
ディートリヒさんも、革鞄を提げて立ち上がった。
「私は、もう一度、記録室へ」と彼は言った。「あの委員の署名を、四つの谷の枯渇の年と、もう一度突き合わせます。明日、笑われない形に整えて持ってきます」
「ハイネ殿、ありがとうございます」と私は言った。
彼が、戸口で振り返った。
「セラフィーナ嬢。十年、私は、人を干上がらせる署名を書いてきました」
彼の声が、低かった。三日寝ていない、疲れた声だった。けれど、その底に、確かなものがあった。
「いまから私は、人を干上がらせた署名を、明るい場所へ運びます。あの右から三人目の、二十年前の署名を」
彼は、深く頭を下げた。整った足音が、灰色の朝の廊下へ遠ざかっていった。
部屋に、ノアと私が残った。卓の上には、欠片が並んでいた。四つの谷の声。波形の図。署名の写し。ザイデルの湯桶。十二の谷のリスト。明日、石の間に運ぶ盤の絵が。私は、その並びをじっと見ていた。
「セラ、勝てるか」とノアが言った。
「わからない」と私は言った。
「決定打は、最後まで出なかったな」とノアは言った。
「出なかった。ゾンネフェルトを名指す紙は、一枚もない」と私は言った。「あの爺さんの論理も、崩せてない」
「だが、劣勢の底からは、出た」とノアは言った。
私は、ノアを見た。
「三日前、お前は輪っかしか持ってなかった」と彼は言った。「いまは、輪郭がある。声を束ねた。署名を見つけた。あの委員の手を、地図の上に乗せた。底から、一段、上がった」
「反撃の、狼煙くらいには」と私は言った。
「狼煙だ。まだ、火事じゃない」とノアは言った。「だが、向こうの空に、こっちの煙が見えるくらいには、立った」
その言葉が、冷えた指先に、温かく届いた。
その時だった。
戸の外で、足音がした。急ぎ足ではない。一定の、穏やかな歩み方だった。けれど、それは、ディートリヒさんの足音でも、マリカさんの足音でもなかった。私は、戸口を見た。
濃紺の官服の男が、戸の前に立っていた。テオドール・カルムだった。雪のない朝に、彼は一人で安宿の廊下に立っていた。彼の指先は、相変わらず綺麗だった。盆の下を知らない、現場を知らない指だった。
「ルヴェール殿、朝早く、失礼します」と彼は言った。
「カルム殿。明日が、続審です」と私は言った。「向こうの窓口役のあなたが、ここに来ていいんですか」
「いけません。これは、私の務めの外です」とテオドールは、静かに言った。「だから、一つだけ、お伝えに来ました」
彼の鳶色の目が、まっすぐ私を見ていた。後ろめたさのない、けれど——迷いのある目だった。
「明日の続審で、ゾンネフェルト侯爵が、新しい手を打ちます」と彼は言った。
喉が、小さく鳴った。
「ザイデルの、最後の住民の言葉。あなたが運ぶつもりの、あの言葉です」とテオドールは言った。「『線を引いてくれて、よかった』」
ジルケさんの言葉。私が、石の間でまだ誰にも切られていないと信じていた、最後の手札。それを、テオドールが口にした。
「それを、ゾンネフェルトが、どうするんですか」と私は言った。
「『来られない老婆の伝聞だ』と、先回りして封じます。あなたが運ぶ前に」とテオドールは言った。「——『女将殿が、辺境の感傷を勝手に脚色している』と」
彼の声は、穏やかだった。けれど、その穏やかさの底に、苦みがあった。
「感傷では、審議は動かない。侯爵は、それをよく知っています」と彼は言った。
私は、卓の上のザイデルの湯桶を見た。ひびの入った、水の溜まらない湯桶。ジルケさんが私に握らせた形見。その湯桶ごと、ジルケさんの言葉を、感傷の一言として床へ落とそうとしている。
ゾンネフェルトの、いちばん上品で、いちばん冷たい手だった。
「なぜ、それを、私に教えるんですか」と私は言った。
テオドールが、一拍、答えなかった。彼の鳶色の目が、卓の上のザイデルの湯桶にわずかに止まった。あの石の間で、廊下で、私の胸の包みに止まった、あの目だった。
「私は、効率を信じています。いまも、変わりません」と彼は言った。彼の声は、低かった。
「けれど、感傷を、感傷だと決めつけて床へ落とすのは、効率ではありません」と彼は言った。「それは、ただの握り潰しです」
彼は、そこで言葉を止めた。誠実な人間が、自分の信じた論理と、目に焼きついて離れない湯気のあいだで、ぎりぎりの一歩をもう一度、踏み出そうとしていた。
「あの老婆の言葉が、感傷でないことを証明できるなら。侯爵の先回りは、空を切ります」と彼は言った。
感傷でないことを、証明する。私は、その言葉を体の真ん中に置いた。ジルケさんの「線を引いてくれて、よかった」を、感傷でなく、何として立てるか。
頭の隅で、何かが繋がりかけていた。——三日のあいだ、ずっと探していた、最後の線が。
「カルム殿。あなたは、明日、私の側に立つわけじゃない」と私は言った。
「立ちません」とテオドールは言った。
「でも、あなたが谷の口で私に言ったことを、公の場で訊かれたら——嘘は、つかない」と私は言った。
テオドールが、私を見た。彼の鳶色の目が、一拍、揺れた。それから、彼は静かに頭を下げた。
「私が見たこと、私が言ったこと。それだけは、嘘なく述べます」と彼は言った。
彼は、踵を返した。
「明日。侯爵の先回りに、間に合うかどうかは、あなた次第です」と彼は、背を向けたまま言った。
濃紺の官服が、灰色の朝の廊下へ遠ざかっていった。後ろめたさと、迷いと、ぎりぎりの一歩を、一つに抱えた背中だった。
戸が閉まると、部屋に、無音が降りた。ノアが、卓の向こうで長いこと黙っていた。それから、彼は低く言った。
「あいつ、敵の手の内を、お前に流したぞ」
「ええ」と私は言った。
「味方じゃない、と言いながら、明日、お前が刺される前に、刃の位置を教えに来た」とノアは言った。
「迷ってる客は、いつか、また来る」と私は言った。
ヴァルターさんの言葉だった。ローザさんの言葉だった。——テオドールは、また来た。
私は、卓の上のザイデルの湯桶を両手で持ち上げた。ひびの入った、水の溜まらない湯桶。ジルケさんの言葉を、感傷でなく、何として立てるか。ゾンネフェルトの先回りを、どう空振りさせるか。
その答えが、いま、私の中で形になりかけていた。
「ノア、ジルケさんは、なんて言ったか、覚えてる?」
「『線を引いてくれて、よかった』だろう」とノアは言った。
「その前に、もう一つ言ったの」と私は言った。
私は、ザイデルの谷の、涸れた井戸の縁を思い出した。毎朝、湧かないと知っている水を汲み続ける、小柄な老女を。
「『毎朝、汲むんよ』」と私は言った。「『湧かんのは知っとる。でも、汲まんと、一日が始まらん』——そう、言ったの」
ノアが、私を見た。
「それが、感傷じゃない証拠よ」と私は言った。
私は、湯桶を、卓に戻した。
「ゾンネフェルトは、『奪う繁栄が、王国全体の最善だ』と言った」と私は言った。「栄える湯へ魔力を集めるのが、いちばん多くの人を潤すって」
私は、ザイデルの湯桶に、手を置いた。
「でも、ジルケさんは、奪われて湧かなくなった井戸の水を、二十年、毎朝汲み続けてる」と私は言った。「——奪う繁栄はジルケさんを勘定から外したまま、二十年放っておいた」
「それが、感傷でなく——」とノアが、低く言った。
「制度が、置き去りにした人の、二十年です」と私は言った。「感傷じゃない。——勘定に入れ忘れた、二十年分の朝です」
私は、火の消えた油皿を見た。
「ゾンネフェルトは、『感傷だ』と先回りして、ジルケさんの言葉を床に落とそうとしてる」と私は言った。「でも、二十年、毎朝水を汲み続けた朝は、感傷じゃない」
私は、ザイデルの湯桶を、明日の盤の真ん中に置いた。
「その二十年を、明日、石の間に立たせる」と私は言った。
窓の外が、明るくなっていた。灰色の空の、雲の切れ目から、薄い冬の日が、安宿の卓に差していた。並んだ欠片を——四つの谷の声を、波形を、署名を、ザイデルの湯桶を、その光が静かに照らしていた。
決定打は、まだ、なかった。けれど、真ん中を埋める線が、何本も引かれ始めていた。
「明日、あの問いを切る」と私は言った。
「その二つしかないと決めたのは、誰か」とノアが言った。
「ええ。四つの谷の声と、二十年の朝の上でなら、あの問いは、もう、床に落ちない」と私は言った。
私は、手帳を開いた。四行の下に、もう一行、書き足した。
——奪う繁栄は、置き去りにした人の朝を、二十年、数えなかった。
筆を止めて、私は、その一行を見た。明日、石の間で、ジルケさんの代わりに運ぶ、二十年分の朝だった。
戸の外で、王都の宿の煙が、いくつもまっすぐ立っていた。夕餉ではない。朝餉を炊く、朝の煙だった。どこの竈の煙も、湯気とよく似ていた。誰かの一日が、また、始まろうとしていた。湧かない井戸の水を汲む、ザイデルの婆さんの朝も、いまごろ始まっているはずだった。
明日。私は、その朝を、王国のいちばん明るい場所へ運ぶ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第百三話、いよいよ続審の前夜です。
この回でやりたかったのは、「決定打は、最後まで出さない」ことでした。ディートリヒが二十年前の署名を見つけ、四つの谷が同じ手で干上がらされたとわかり、テオドールが敵の先回りを流しに来る——手札はどんどん増えます。けれど、ゾンネフェルトを名指しで禁術に結ぶ一枚の紙は、明日になっても、ついに出てきません。セラがやっているのは、決定打を見つけることではなく、決定打のない盤の上で、欠片を束ねて「輪郭」を描くことです。一枚ずつなら床へ落とされた欠片が、四つの谷の声・波形・署名・寄進・テオドールの言葉と重なって、ようやく「もう輪っかじゃない」ところまで来る。底から一段、上がる。反撃の狼煙が、向こうの空に見えるくらいには立つ。その「狼煙どまり」を、丁寧に書きたかったのです。
そして、最後にセラが掴んだのは、ジルケさんの「毎朝、汲むんよ」でした。ゾンネフェルトは、ザイデルの婆さんの言葉を「感傷だ」と先回りして潰そうとします。けれどセラは、それを感傷ではなく「制度が勘定に入れ忘れた、二十年分の朝」として立て直す。明日、石の間でセラが切る最後の一撃——「その二つしかないと決めたのは、誰ですか」は、この二十年分の朝の上で、ようやく床に落ちなくなる。
次回、ついに最終話。王都のいちばん明るい場所で、奪われた人たちの声が一つに束なり、セラが「奪わない」を王国の選べる道に変えにいきます。長い冬の、その先まで——どうか、最後まで見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この物語の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。最終話で、お会いしましょう。




