第104話: 奪わない、を王国に
石の間の扉が開くと、冷えた羊皮紙の匂いがまた私を迎えた。
前の日と同じ匂いだった。けれど私の手の中のものは違っていた。胸に抱えたザイデルの湯桶。手帳の四行。そして夜明け前に束ねた輪郭の絵が頭の中にあった。今日は、明日へしまったものを抜く日だった。
半円の卓の向こうに委員が七人並んでいた。真ん中の一段高い席に白髪を撫でつけたメルダース伯爵。その右から三人目に、あの委員が座っていた。二十年前に四つの谷を干上がらせた手だった。
私は証言者の席に立った。
隣にノア。少し下がってディートリヒさん。マリカさんはまだ来ていなかった。財務部の寄進を辿りに、夜のうちに王都へ降りていた。彼女の席だけが空いていた。
傍聴席の奥に濃灰の重厚な礼服が見えた。ゾンネフェルト侯爵だった。彼は今日、最初から座っていた。昨日のように傍聴の身を装うのでなく、はじめから盤を見届けるつもりの座り方だった。
その隣の隅に濃紺の官服が一つ。テオドール・カルム。彼は窓の外を見ていた。
「ルヴェール家の女将」とメルダース伯爵が言った。乾いた、感情の読めない声だった。「昨日、私は根を示せと言いました。輪っかではない根を。——示せますか」
私は息を一つ吸った。
「示します、委員長」と私は言った。
その時、傍聴席で椅子が軋んだ。
ゾンネフェルトがゆっくりと立ち上がった。
「委員長」と彼は言った。低い、荒らげる必要を知らない声だった。「審議に入る前に、一つ」
彼は半円の委員たちのほうへわずかに頭を下げた。
「女将殿は今日、辺境の老婆の言葉を持ち出すと聞いております。ザイデルとかいう涸れた谷の、最後の一人の」
私の喉が小さく鳴った。テオドールが昨日の夜に教えてくれた通りだった。先回り。私が運ぶ前に、彼は刃の位置を知っていた。
「『線を引いてくれて、よかった』」とゾンネフェルトは言った。
ジルケさんの言葉が、この冷たい石の間で、この老人の口から出た。それは、ひびの入った湯桶をもう一度床に落とす音に聞こえた。
「結構なお話です。ですが委員長、これは来られぬ老婆の伝聞です。しかも、辺境の女将が自分に都合よく脚色した感傷でしょう。感傷で王国の制度は動きません」
彼は私を見もしなかった。委員たちにだけ語っていた。
「あらかじめ申し上げておきます。今日この場に涙を持ち込ませてはなりません。ここは勘定の場です」
そして彼は座った。
たった一手で、彼は私の最後の手札を感傷という棚に上げてしまった。これから私がジルケさんの言葉を運べば、委員たちは「ああ、さっき侯爵が言っていた、あれか」と、聞く前から仕分ける。
上品で冷たい、いちばん効く手だった。
私は胸の湯桶の布を握った。布の下の乾いた木の冷たさが掌に伝わった。
いい。先に言われたなら、その上からまた置く。
「侯爵閣下にお礼を申し上げます」と私は言った。
ゾンネフェルトの眉がわずかに動いた。
「私が今日、何を運ぶつもりか。先に言ってくださいました。おかげで順を間違えずに済みます。——感傷は最後に置きます。その前に、勘定の話をします」
委員の何人かが顔を上げた。
「ヴェステルンド」と私は言った。
ノアが一歩前へ出た。彼は昨日の波形の図を卓に広げた。十二の谷の地脈波形を重ねた一枚の図だった。
「昨日、こう言われました。波形は犯行を示すが、犯人の名は指さない、と。その通りです」
彼は図の上にもう一枚を重ねた。古い書面の写しだった。
「ハイネ殿」と私は言った。
ディートリヒさんが進み出た。砂色の短髪はきっちり分けられていた。三日寝ていない目の下の隈の上で、その姿勢だけが十年の役人の背筋を保っていた。
「辺境総督府の記録室から写してまいりました。二十年前の、灌漑水利の停止の裁可です」
彼の指が署名のところを指した。
「この署名は、いま、この席の右から三人目に座る委員のものです」
石の間が静まった。
右から三人目の委員が、卓の上の自分の手をわずかに動かした。
「灌漑を止めれば谷は干上がります。人が散る。湯を抜く前の地ならしです」とディートリヒさんは言った。
「学者殿」と私は言った。「ザイデルだけですか」
「いいえ」とノアが言った。
ノアの指が波形の図を四つなぞった。
「この委員の署名で灌漑を止められた谷が、十二のうち四つあります。その四つが同じ年にいっせいに涸れた。波形がそれを示します」
彼は署名の写しと波形を並べて指した。
「灌漑の停止と湯の枯渇が、同じ一人の手の上で四つ重なる。これは自然では起きません」
右から三人目の委員が椅子に背を預けた。
「学者殿」と彼は言った。乾いた、若くもない声だった。「灌漑を止めたのは私の裁量です。なぜ止めたかは、その紙に書いていない。干上がらせるためだ、とはどこにも」
「ええ。書いていません」と私は言った。
彼が私を見た。
「役所の紙は、そういうふうに書かれますから。干上がらせるためだ、とは誰も書かない。——書く人は、たぶんいません」
その時、石の間の扉が開いた。
外套に雪を散らしたマリカが息を切らして入ってきた。彼女は委員たちに一礼し、まっすぐ私のところへ来た。手に一枚の紙があった。
「セラさん」と彼女は低く言った。「財務部の出納。辿りました」
私はその紙を受け取った。
「マリカさん」と私は言った。「この委員が中央へ上がった年に」
「ゾンネフェルト家から財務部へ寄進があります。翡翠殿の裏帳簿と同じ筆の癖の出納です。金額まで合っています」とマリカは言った。
私はその出納の写しを署名の写しの隣に置いた。
灌漑の停止。湯の枯渇。委員の昇進。ゾンネフェルトの寄進。四枚の紙が卓の上に並んだ。
「四つの谷を干上がらせた手が、干上がらせた年に中央へ上がった。その昇進の年にゾンネフェルト家から財務部へ、金が動いている」と私は言った。
私はその四枚を指でつないだ。
「一枚ずつなら輪っかです。灌漑の裁量。波形の偶然。人事の都合。寄進の慣例。——どれもそれだけなら何も言えません」
私はメルダース伯爵を見た。
「でも、四枚を重ねると、輪っかの真ん中に一本の手が立ちます。四つの谷を干上がらせ、その褒美に中央へ上がり、その手を引いた家から金が流れた手が」
右から三人目の委員が口を開きかけた。
けれどメルダース伯爵がそれを手で制した。委員長の乾いた目が、四枚の紙をゆっくりと見ていた。
「決定打ではありません。ゾンネフェルト侯爵を禁術に名指しで結ぶ紙は、ここに一枚もありません。昨日、閣下がおっしゃった通りです」と私は言った。
ゾンネフェルトの薄い鼠色の目が私に向いた。
「ですが、もう、輪っかでもありません」と私は言った。
ゾンネフェルトが立ち上がった。
「女将殿。お見事です。辺境の女将が、よくぞここまで紙を並べた」と彼は言った。
彼は半円の委員たちのほうを向いた。
「ですが、いま並んだのは何です。灌漑の裁量。十二の谷のうち四つの、年の符合。慣例の寄進。これらはいずれも合法です。法に触れる紙は一枚もない」
彼の言う通りだった。私はそれを認めた。
「閣下。私は、法に触れる紙を出しに来たのではありません」と私は言った。
ゾンネフェルトの眉がまた動いた。
「私が出しに来たのは、『奪うしかない』という前提が嘘だという、その一点です」と私は言った。
「リンドヴァルの谷で、五年涸れていた湯が、奪わずに戻りました。導管術を使わずに。これは夢でも理屈でもありません。——戻った湯に指を浸して泣いた人がいます」と私は言った。
ゾンネフェルトがわずかに笑った。
「井戸が一つ。昨日も申し上げました。一例の珍事で、王国の数百の湯の前で何を意味します。証人は来られないのでしょう。雪で」
「来られません。ヨナスも、ジルケさんも、婆さんの谷の子も。みんな雪の向こうです」と私は言った。
ゾンネフェルトの目に、勝ちの色がわずかによぎった。
来られない証人の伝聞。それですべてを片づけられる、と。
私は卓の上の四枚の紙をもう一度見た。
「閣下。私が一人で四つの谷の話をすれば、それは四つの伝聞です。おっしゃる通り」と私は言った。
私は波形を指した。署名を指した。寄進を指した。
「でも、四つの谷は互いを知りません。リンドヴァルのヨナスはザイデルのジルケさんを知らない。ジルケさんは婆さんの谷を知らない。会ったこともない」と私は言った。
私は四つの谷の名を、卓の真ん中に置いた。
「会ったこともない四つの谷が、同じ年に、同じ一人の手で灌漑を止められ、いっせいに涸れた。——示し合わせようがありません」
メルダース伯爵の乾いた目が、四枚の紙に落ちた。
「示し合わせていない四つの声が、同じ一点を指したら。それは伝聞ではありません。委員長。——四つの伝聞は、四つ集まると束になります」と私は言った。
石の間が静まった。
右から三人目の委員が、卓の上の自分の手をもう一度わずかに引いた。
その時だった。
「委員長」とゾンネフェルトが言った。
彼の声に、初めてほんのわずかな急ぎがあった。私はそれを聞き逃さなかった。
「束ねようが何をしようが、合法な紙は何枚束ねても合法です。根拠にはなりません」と彼は言った。
彼は委員たちを見渡した。
「そもそも、奪わない道を認めれば、差配の唯一性が揺らぐ。栄える湯へ集めるのが王国の最善だという前提が崩れる。それは王国の歳入の根幹を——」
「閣下」と私は言った。
ゾンネフェルトの言葉が止まった。
「昨日もいまも、閣下は『奪うしかない』とおっしゃっています。限られた魔力を栄える湯へ。それが唯一の道だ、と」と私は言った。
私は一歩前へ出た。
「私は、奪う道をなくせとは言っていません。閣下の勘定は正しい。だから奪う道は王国に残せばいい。御用達を受けて栄える湯に魔力を集めたい宿は、いままで通りその道を行けばいい」と私は言った。
私はザイデルの湯桶の布をほどいた。
ひびの入った、水の溜まらない湯桶が、石の間の薄明かりの下に現れた。委員たちの目がそこに集まった。
「でも、ザイデルの隣の谷で『うちは汲める分しか汲まない』と言いたい宿がいたら——その道も選べるように。それだけです」と私は言った。
ゾンネフェルトがその湯桶を見た。
「また、ひびの入った桶ですか。昨日も申し上げました。桶をいくつ並べても勘定にはならない。これは感傷です」と彼は言った。
彼は委員たちに念を押すように、もう一度言った。
「感傷です。先に申し上げた通り」
来た、と私は思った。
彼はこれでジルケさんの言葉を、最初から感傷の棚に上げきった。私が「線を引いてくれて、よかった」と運べば、委員たちは聞く前に「感傷か」と仕分ける。
だから私は、その言葉を運ばなかった。
その前の、もう一つを運んだ。
「閣下。ジルケさんは、毎朝、井戸の水を汲んでいます」と私は言った。
ゾンネフェルトの眉が動いた。
「二十年、涸れた井戸です。もう湯は湧きません。湧かないとジルケさん自身がいちばんよく知っています。——それでも毎朝、汲むんです」と私は言った。
私は湯桶を両手で持ち上げた。
「なぜだと思われますか」と私は言った。
ゾンネフェルトは答えなかった。
「『湧かんのは知っとる』」と私は言った。ジルケさんの、訛りのある柔らかい声を、私は運んだ。「『でも、汲まんと、一日が始まらん』——そう言いました」
石の間が静まった。
「閣下は、これを感傷だとおっしゃる。でも閣下、これは感傷ではありません」と私は言った。
私は湯桶を卓に戻した。
「閣下の差配は、二十年前、ザイデルから湯を抜きました。栄える湯へ魔力を集めるために。——その時、ジルケさんは、勘定のどこにいましたか」と私は言った。
ゾンネフェルトが私を見た。
「いません」と私は自分で答えた。「勘定の外に置かれました。栄える湯へ集めれば、いちばん多くの人が潤う。その『いちばん多く』の中に、ジルケさんは入っていなかった」
私は湯桶に手を置いた。
「だからジルケさんは二十年、湧かない井戸の水を、毎朝一人で汲んでいます。閣下の勘定が外に置いた朝を。——二十年分、数え続けています」と私は言った。
「これは感傷ではありません、閣下。閣下の勘定が、入れ忘れた——二十年分の朝です」と私は言った。
ゾンネフェルトは答えなかった。
彼の薄い鼠色の目が、湯桶から私の顔へ移った。値踏みする目だった。けれどその目の奥で、何かが退屈の色を、初めて変えた。
囲炉裏の火のない、冷たい石の間で。
「閣下の勘定は正しい。『いちばん多くの人が潤う』。その通りです。——でも、その勘定はいつも誰かを外に置きます。今日はザイデル。明日はどこか別の谷」と私は言った。
私はメルダース伯爵を見た。それから半円の委員たちを、一人ずつ見た。
「ここにいる、どなたかの谷かもしれません」と私は言った。
間が空いた。
右から三人目の委員がわずかに椅子を引いた。中立のはずの委員の一人が、卓の上の四枚の紙を、初めて身を乗り出して見た。
石の壁が、その間を吸い込んだ。
いまだ、と体のどこかが言った。明日へしまった一撃を抜く時だった。四つの谷の声と二十年の朝の上でなら、もう床に落ちない、と。
「委員長」と私は言った。
メルダース伯爵が私を見た。ゾンネフェルトも、薄い鼠色の目を私に止めた。
私は息を一つ吸った。石の匂いが、喉の奥に冷たく届いた。
「閣下は、ずっとこう言っています。『奪うか、奪われるか』。栄える湯へ集めるか、集められた側で涸れるか。その二つしかない、と」と私は言った。
私はゾンネフェルトをまっすぐ見た。
「その二つしかない、と決めたのは——誰ですか」と私は言った。
石の間が静まった。
水を打ったような、完全な無音だった。
誰も答えなかった。
私はその問いを卓の上に置いたまま続けた。声が思ったより静かに出た。
「奪うか、奪われるか。二十年、王国はその二つしか考えてきませんでした。だからザイデルは奪われる側に回された。ジルケさんは勘定の外に置かれた。——でも、それは天が決めたことですか。地脈が決めたことですか」と私は言った。
私は四枚の紙を指した。
「違います。灌漑を止めた手があり、湯を抜いた術があり、それを差配と呼んだ人たちがいました。——『奪うしかない』は自然じゃない。人が決めた約束です」と私は言った。
私はゾンネフェルトを見た。
「人が決めた約束なら、人がもう一つ、増やせます」と私は言った。
ゾンネフェルトが口を開いた。
「女将殿」と彼は言った。けれどその声は、昨日までの、私を一段下に置く声ではなかった。
「あなたは、いまの言葉を証明できますか。奪わなくても湯が戻ると。——証人は来られないのでしょう」と彼は言った。
私は後ろを振り向かなかった。
ただ、傍聴席の隅の濃紺の官服に、声をかけた。
「カルム殿」と私は言った。
テオドールが、窓の外から目を戻した。
彼は立ち上がった。委員たちに頭を下げ、それから私のほうは見ず、メルダース伯爵を見た。
「テオドール・カルムです。差配の窓口を務めております」と彼は言った。
半円の卓がわずかにざわついた。ゾンネフェルトの薄い鼠色の目がテオドールに向いた。冷たい目だった。けれどテオドールは、それに気づかないふりをした。
「カルム殿」とメルダース伯爵が言った。「あなたは、何を述べるのです」
「私が見たことを」とテオドールは言った。
「リンドヴァルの谷で、五年涸れていた井戸に湯気が戻る瞬間を、私はこの目で見ました。導管術の痕跡はありませんでした。——奪わずに湯が戻ったことは事実です」と彼は言った。
昨日と同じ証言だった。昨日はそれで終わった。「見た範囲を出ない」と輪っかにされて。
けれど今日は、私がもう一つ訊いた。
「カルム殿。この谷の口で、あなたは私に、もう一つ言いました」と私は言った。
テオドールが私を見た。彼の鳶色の目が、一拍揺れた。
「この谷を街道から外したのは誰の差配だと、あなたは私になんと言いましたか」と私は言った。
石の間が静まった。
ゾンネフェルトの隣で、右から三人目の委員がテオドールを睨んだ。テオドールはそれを見なかった。彼はただ、まっすぐ前を見ていた。誠実な人間が、自分の信じた論理と、目に焼きついて離れない湯気のあいだで、ぎりぎりの一歩を踏み出そうとしていた。
「私は」とテオドールは言った。
彼はそこで一拍、止まった。
「私は効率を信じています。いまも変わりません」と彼は言った。
ゾンネフェルトの肩がわずかに緩んだ。
「けれど、見たこと、言ったことについては、嘘をつけません」とテオドールは言った。
彼はメルダース伯爵を見た。
「この谷の口で、私は女将殿にこう言いました。街道の除外は、ゾンネフェルト侯爵のご差配です、と。差配の窓口役として、私が回した盤です」
その一言が、石の間にまっすぐ立った。
ゾンネフェルトの薄い鼠色の目が、初めて、温度のない冷たさをわずかに崩した。彼はテオドールを見た。使い勝手のいい良心が、自分の名を、公の場で口にした。
右から三人目の委員が、卓をこつと指で叩いた。
「カルム殿。それは伝聞ですか。あなたの推測ですか」と彼は言った。
「いいえ」とテオドールは言った。
「私が差配の窓口として扱った差配です。推測でも伝聞でもありません。私が自分の手で回した盤の話です」と彼は言った。
彼はゾンネフェルトのほうを見なかった。
けれどその背中は、もう、ゾンネフェルトのほうを向いていなかった。
彼は静かに腰を下ろした。
石の間が静まった。
四枚の紙。四つの谷の声。二十年の朝。波形。署名。寄進。そして差配の窓口役本人の、自分が回した盤だという言葉。一枚ずつなら床へ落ちた欠片が、いま、卓の上で一つの輪郭を描いていた。
決定打ではなかった。ゾンネフェルトを禁術に名指しで結ぶ紙は、最後まで出なかった。
けれど、もう、輪っかでもなかった。
ゾンネフェルトが立ち上がった。
「委員長」と彼は言った。声はまだ崩れていなかった。けれどその底に、初めて、冷たさを保つための力みがあった。
「窓口役の一人の言葉で、王国の差配を揺るがすのですか。カルムは私の駒です。駒の証言で盤を引っくり返せると——」
「閣下」と私は言った。
「いま、『駒』とおっしゃいました」と私は言った。
ゾンネフェルトの言葉が止まった。
「カルム殿は、効率を信じる誠実な人です。閣下の論理を、いちばん正直に信じてきた人です。——その人を、いま、閣下は『駒』と呼びました」と私は言った。
私はゾンネフェルトをまっすぐ見た。
「奪う繁栄は、いつか自分の番が来ます」と私は言った。
ゾンネフェルトの薄い鼠色の目が止まった。
「閣下はザイデルを切りました。碧泉宮を切りました。アシュフォード侯爵を切りました。そして、いま、カルム殿を『駒』と切りました。——奪う繁栄は外を奪い続けて、最後は内側まで奪います。閣下のいちばん近くにいた、誠実な人まで」と私は言った。
「分かち合う繁栄は、誰の番も来ません」と私は言った。
石の間が静まった。
ゾンネフェルトは答えなかった。彼の温度のない顔が、ほんの少しだけ固くなった。
彼はもう、私を一段下に置く目で、私を見ていなかった。
長いあいだ、メルダース伯爵が黙っていた。
彼の乾いた目が、卓の上の四枚の紙を見ていた。ザイデルの湯桶を見ていた。それから、テオドールを見て、ゾンネフェルトを見て、私を見た。
半円の卓に、無音が降りた。
「ゾンネフェルト侯爵」とメルダース伯爵が言った。
「は」とゾンネフェルトが言った。
「あなたは、奪わない道を認めれば差配の唯一性が揺らぐ、と言いました。歳入の根幹を揺るがす、と」とメルダース伯爵は言った。
「申し上げました」とゾンネフェルトは言った。
「では伺います」とメルダース伯爵は言った。彼の乾いた声が、初めて刃の重さを帯びた。「奪う道が唯一の道でなくなると、なぜ困るのです」
ゾンネフェルトが答えなかった。
「奪わない道があってもいい。ただ選べるようにするだけだ、と女将殿は言っている。それで歳入が揺らぐのは——奪う道でしか立ち行かない盤を、組んできたからではありませんか」とメルダース伯爵は言った。
ゾンネフェルトの薄い鼠色の目が、メルダース伯爵に向いた。
「委員長。あなたは、辺境の女将の感傷に——」
「感傷ではありません、侯爵」とメルダース伯爵は言った。
彼は卓の上の四枚の紙に手を置いた。
「四つの谷が同じ年に同じ手で涸れた。これは紙です。差配の窓口役が、自分の回した盤だと述べた。これは証言です。私が見ているのは感傷ではない」と彼は言った。
ゾンネフェルトは、しばらく答えなかった。
それから彼は、印章指輪の光る手で外套をゆっくりと払った。
「結構。お好きになさるがいい」と彼は言った。
その声はまだ崩れていなかった。けれど彼はもう論じなかった。盤を守る男は、論じても勝てない場で、論じることをやめた。それが彼の引き際だった。
メルダース伯爵が立ち上がった。
「本委員会は、王室御用達の指定の条件について、勧告を行います」と彼は言った。
石の間が静まった。委員たちが書面に手を伸ばした。傍聴席のまばらな人影が、身を乗り出した。
「御用達の指定はこれまで、湯の供給優先権を差配に委ねる——栄える湯へ魔力を集める道を、唯一の条件としてきました」とメルダース伯爵は言った。
彼の乾いた目が、ザイデルの湯桶に落ちた。
「本委員会はこれに、もう一つの条件を加えることを勧告します」と彼は言った。
「『奪わない条項』。受け入れる客の数を、谷が背負える分に設計する。汲める分しか汲まない。——奪わずに持続できる取り出し方を、御用達の指定条件として選べるようにする」とメルダース伯爵は言った。
彼は半円の委員たちを見渡した。
「奪う道をなくすのではありません。奪わない道を加えるのです。どちらを選ぶかは宿が決める」と彼は言った。
私の胸の奥で、何かが静かに立ち上がった。
二十年前に潰れた廃旅館の権利書を握らされた追放の日。前世で二百軒を見ながら、一軒も自分の手で作れなかった最後の夜。ローザさんの遺言。ジルケさんの、湧かない井戸の朝。ヨナスの、戻った湯に浸した指。——その全部がいま、この石の間で、王国の選べる道になろうとしていた。
奪うか、奪われるか。その二つしかなかった世界に、三つ目が加わった。
「ですが」とメルダース伯爵は言った。
彼の乾いた目が私を見た。
「女将殿。誤解のなきように。これは、差配を止める勧告ではありません。奪う道は残ります。差配の盤は、これまで通り回ります」と彼は言った。
「わかっています、委員長」と私は言った。
「奪わない道を選んだ宿が、税や認可や街道で不当に締め上げられぬよう、本委員会は目を配ります。けれど、それをすぐに無くせるとは申せません。盤は、まだ大きい」とメルダース伯爵は言った。
「わかっています」と私は言った。
私はザイデルの湯桶を両手で持ち上げた。
「これは、最初のひとつです。奪わない道が、王国の選べる一つになった。——それだけです」と私は言った。
「それだけ、ですか」とメルダース伯爵が言った。
彼の乾いた声に、ほんのわずか、人の温度が混じった。
「それだけです。でも、二十年、奪うしかなかった世界に、奪わなくてもいい道が一つできました。——昨日まで、それは夢でした」と私は言った。
私はメルダース伯爵をまっすぐ見た。
「もう、夢じゃありません」と私は言った。
審議の間の隅で、鐘が低く鳴った。
委員たちが書面を閉じ始めた。メルダース伯爵がザイデルの湯桶を、もう一度長いあいだ見た。それから彼はわずかに頭を下げた。私にではなかった。卓の上の、ひびの入った湯桶にだった。
「ご苦労でした、女将殿。ザイデルの最後の住民にも、お伝えなさい」と彼は言った。
ゾンネフェルトが傍聴席の奥へ戻っていった。
彼は何も言わなかった。ただ扉の手前で、一度だけ立ち止まった。彼の薄い鼠色の目が、私のほうを見た。さっきまでの、女将を見る目とは違っていた。負けを認めた目ではなかった。盤を守ったまま一手だけ楔を打たれた——その楔の在り処を見定める目だった。
「女将殿」と彼は言った。
「閣下」と私は言った。
「盤は、まだ大きい」と彼は言った。
「存じています」と私は言った。
「次は、もっとお手柔らかに願いたいものです」と彼は言った。
その言葉が脅しなのか皮肉なのか、それとも——ほんの少し、別の何かなのか。私にはわからなかった。
彼は、印章指輪の光る手で扉を押し、石の廊下へ消えていった。
石の間に、ノアとディートリヒさんとマリカさんが残った。
ノアが、深い緑の目で卓の上の四枚の紙を見ていた。
「勝った、のか」と彼が低く言った。
「半分」と私は言った。「奪わない道は認められた。でも、奪う道も盤も残ってる。ゾンネフェルトは傷一つ負ってない」
「だが、『奪うしかない』は、もう嘘になった」とノアは言った。
私はノアを見た。
「二十年、誰も覆せなかった前提だ。お前が一人で四つの声を運んで覆した。——決定打なしで」とノアは言った。
「一人じゃない」と私は言った。
私はノアを見た。ディートリヒさんを見た。マリカさんを見た。
「谷ごと、来たから」と私は言った。
マリカが、わずかに口元をゆるめた。仲居の、職人の笑みだった。
「寄進の線、間に合いましたね」と彼女は言った。
「間に合った。あなたの線が、いちばん効いた」と私は言った。
「翡翠殿で、貴族の金の動きは嫌というほど見てきましたから」とマリカは言った。
ディートリヒさんが、革鞄に署名の写しをしまった。
「十年、私は、人を干上がらせる署名を書いてきました」と彼は言った。
彼の薄い灰色の目に、刃のような光はもうなかった。代わりに、静かなものがあった。
「いまから私は、人を干上がらせた署名を明るい場所へ運ぶ役を、続けます。四つの谷の、続きを」と彼は言った。
彼は深く頭を下げた。
石の廊下に出ると、冬の薄日が差していた。
その光の中に、濃紺の官服が一人立っていた。テオドールだった。彼は柱の陰で、廊下の窓の外を見ていた。
私が通りかかると、彼は私のほうを見た。
「カルム殿。あなたは明日も、私の側に立たない。そう言いましたね」と私は言った。
「立ちません。効率は、いまも信じています」とテオドールは言った。
「ええ」と私は言った。
「ただ、あの井戸の湯気が、まだ目に焼きついて離れません」とテオドールは言った。彼の鳶色の目が、窓の外の灰色の空を見ていた。
「いつか、あなたの言う『分かち合う繁栄』が、私の知る勘定に収まる日が来るのかもしれません。——その時、私はどちらの側に立つのでしょうね」と彼は言った。
「わかりません。でも、その日が来たら」と私は言った。
私は彼を見た。
「もう一度、リンドヴァルの湯気を見に来てください。冷めない湯を出します」と私は言った。
テオドールは答えなかった。ただ、わずかに頭を下げた。それから、また窓の外へ目を戻した。雪解けを待つ、王都の灰色の空へ。
石段を下りると、王都の通りに人の流れがあった。
冬の終わりの、薄い日が差していた。屋根のあいだから、いくつもの煙がまっすぐ立っていた。昼餉を炊く竈の煙だった。湯気ではなかった。けれどその白い立ち方は、谷の井戸の湯気とよく似ていた。
私はその煙を見上げた。
どこかの竈で、誰かの一日が続いていた。
湧かない井戸の水を汲む、ザイデルのジルケさんの朝も、いまごろ続いているはずだった。リンドヴァルの井戸の湯気に毎朝手を合わせる、オットーさんの朝も。山向こうから戻った、ヨナスの朝も。
その全部の上に、いま、新しい一行が加わった。——奪わなくても、いい。
私は胸の湯桶を抱え直した。
布越しに、乾いた木の冷たさがまだ掌に残っていた。水の溜まらない、ひびの入った桶。ザイデルの形見。それを私は、王国のいちばん明るい場所へ運んできた。
ジルケさんに伝えよう、と思った。線を引いてくれてよかった、と言ったあなたの言葉が、線でなく、道を一本増やしたのだと。
「セラ」とノアが隣で言った。「これから、どうする」
私は、煙の立つ王都の空を見上げた。
奪わない道は、まだ選べる道のほんの一つだった。盤は大きく、谷は遠く、王国の数百の涸れた湯は、その大半がザイデルと同じ、救えない湯だった。広げる道は、長い冬のその先まで続いていた。
それでも。
「帰る。銀泉楼に」と私は言った。
ノアが私を見た。
「谷のみんなに報告する。奪わなくてもいい道が、王国に一つできた、って」と私は言った。
私は湯桶を抱え直した。掌の冷たさが、もう寂しくはなかった。
「それから、次の最初のひとつを探す」と私は言った。
冬の終わりの日が、王都の煙を静かに照らしていた。
私は女将だった。湯は、預かるもの。奪う側にも、奪われる側にも、私は回らない。——それをたった一つだけ、王国の選べる道にできた。
まだ、最初のひとつだった。
でも、もう、夢じゃなかった。
最後まで読んでいただき、本当に、ありがとうございました。
第百四話。「追放先は廃旅館でした」、ついに最終話です。
廃墟の権利書を握らされた追放令嬢が、一室を直し、最初の客を迎え、町を興し、谷を甦らせ、そして最後に、王国の「奪うしかない」という前提に、たった一つの楔を打つ——ここまで、長い長い道のりを、一緒に歩いてくださって、感謝の言葉もありません。
この最終話でいちばん怖かったのは、セラを「勝たせすぎる」ことでした。ゾンネフェルトを論破して失脚させ、差配を解体し、すべてを取り戻す——それは、気持ちのいい大団円かもしれません。けれど、それをやってしまうと、この物語が大事にしてきたもの——「全部は救えない」「奪わない道は遅くて非効率だ」「それでも一つずつ」という苦さと誠実さが、嘘になってしまう。だから、セラが勝ち取るのは、あくまで「奪わない道が、王国の選べる一つになった」ところまでに留めました。盤は大きいまま、ゾンネフェルトは傷一つ負わずに退きます。ザイデルは、戻りません。
それでも、セラが覆したのは、二十年、誰も覆せなかった「奪うしかない」という前提でした。決定打のない盤の上で、四つの谷の声と、ジルケさんの「毎朝、汲むんよ」を束ねて。湯気を見せて泣かせる代わりに、「その二つしかないと決めたのは、誰ですか」という問いひとつで。——湯が物理的に戻ったリンドヴァルの奇跡(第九十二話)とは、別の場所に立つ最終話にしたかったのです。あちらは「再生」、こちらは「前提が覆る」瞬間。
そして、これは「第一部」の完結です。
「奪わない、を王国に」——その戦いは、まだ、最初のひとつを置いたばかり。王国の数百の涸れた湯、健在の差配の盤、ゾンネフェルトの「盤は、まだ大きい」という言葉。セラとノアの、女将と地脈学者の、谷ごとの戦いは、ここから第二部へと続いていきます。揺らいだけれど折れなかったテオドールが、いつかどちらの側に立つのか。それも、まだ、これからです。
二十年前に潰れた廃旅館で、前世の夢を抱きしめた令嬢が、最後に「湯の新常識を、王国の選べる道にする者」になるまで——どうか、ここまで見届けてくださったことを、心から、ありがとうございました。
第二部「王国の湯を継ぐ者」も、いつか、お届けできればと思っています。その日まで、どうか、お元気で。
評価・ブックマーク・ご感想が、この長い物語の、何よりの湯気でした。
それでは、また、別の谷の湯気の前で、お会いしましょう。




