第101話: 盤の上の、欠片たち
墨と、油の匂いがした。
夜明けの帳場に入った私の鼻が、最初に拾ったのはそれだった。雪の鉄の匂いは、昨日のうちに消えていた。代わりに、卓の上に広げた紙と、灯した油皿の、乾いて熱い匂いが立っていた。
戦いの匂いが変わった、と私は思った。雪かきの匂いから、机の匂いへ。
卓の上には、夜のうちに私が並べた紙が散っていた。
ヨナスの四行。十二の谷のリスト。ディートリヒさんの符牒の写し。ザイデルでもらった、ひびの入った湯桶。そして、手帳の四行。
ばらばらの欠片だった。一枚ずつ見れば、どれも誰かの声だった。けれど、一つに繋がっていなかった。
戸の外で、雪を踏む蹄の音がした。
昨日のような急ぎ足ではない。一定の、礼儀正しい歩み方だった。その音だけで、私は誰が来たのかを察した。
ディートリヒさんが、革鞄を提げて帳場に入ってきた。
「ハイネ殿」と私は言った。「雪の中を、すみません」
「いいえ」と彼は言った。「谷の口が開いた、と聞きました。——昨日の雪かきの話は、市まで届いていますよ」
彼の薄い灰色の目が、卓の上の紙の散らばりに落ちた。
「ずいぶん」と彼は言った。「散らかっていますね」
「ええ」と私は言った。「欠片ばかりで」
彼は革鞄を卓の端に置いて、外套の雪を払った。砂色の短髪が、きっちりと分けられたままだった。
「では」と彼は言った。「並べ直しましょう」
ディートリヒさんが、卓の前に腰を下ろした。
彼は鞄から一枚の白い紙を出して、散らばった欠片の真ん中に置いた。何も書かれていない、まっさらな紙だった。
「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「戦う前に、決めることが二つあります」
「どこで、戦うか」と彼は言った。「そして——何を、勝ちと呼ぶか」
私は、その白紙を見た。
「どこで、というのは」と私は言った。「ハイネ殿が前に言った、あの委員会ですか」
「王国法務委員会です」とディートリヒさんは言った。
彼は白紙の真ん中に、一つの四角を描いた。
「委員長は、メルダース伯爵」と彼は言った。「この一人が、合議を裁きます」
「メルダース伯爵」と私は、その名を口の中で転がした。「どんな人です?」
「大貴族連合の、圧力を受ける人です」とディートリヒさんは言った。「ゾンネフェルトの息のかかった委員も、あの場には座っている」
私は、息を詰めた。
「では」と私は言った。「向こうの土俵じゃないですか」
「半分は」とディートリヒさんは言った。「半分は、こちらの土俵です」
彼は四角の横に、二本の線を引いた。
「この委員会は、ただの裁きの場ではありません」と彼は言った。「二つ、特別な権限を持っている」
「一つ」と彼は、線の一本を指した。「地脈保全令の、運用を監督する権限」
彼の指が、もう一本の線に移った。
「もう一つ」と彼は言った。「王室御用達の、条件を審議する権限です」
「条件を、審議する」と私は繰り返した。
「御用達に、どんな条件をつけるか」とディートリヒさんは言った。「それを公の場で議論し、改めるよう勧められる。——この委員会だけが、それをできます」
私は、その二本の線をじっと見た。
ノアが、いつのまにか戸口に立っていた。
「待て」と彼は言った。「差配は、黙契で動くんだろう。表に出ない。なら、どうやってその委員会に引きずり出す」
彼の深い緑の目が、ディートリヒさんの図を見ていた。
「ヴェステルンド氏」とディートリヒさんは言った。「いいところを突きます」
彼は白紙の四角の下に、小さな黒い点を打った。
「差配の根は、禁術です」と彼は言った。「地脈導管術。地脈保全令が禁じる、れっきとした犯罪だ」
「だから、向こうは表に出せない」とディートリヒさんは言った。「闇の中でしか盤を動かせない。——それが、向こうの強みであり弱みです」
私は、その黒い点を見た。盤の足元に埋まった、禁術という弱みを。
「禁術を、突けば」と私は言った。
「闇の黙契を」とディートリヒさんは言った。「明文の審議に、乗せられます」
彼は、図の真ん中の四角を指で軽く叩いた。
「法務委員会は、地脈保全令の運用を監督する権限を持つ」と彼は言った。「だから、差配の禁術性を持ち出せば——あの場は、黙契を握り潰せない。手続きに、従わざるを得なくなる」
私は、ノアを見た。
ノアが腕を組んで、図を睨んでいた。学者の目だった。
「理屈は、通る」とノアは言った。「禁術を入り口にして、御用達の条件審議に持ち込む。——だが、入り口に立つには、禁術が使われた証拠が要る」
「ええ」とディートリヒさんは、静かに言った。「そこが、まだ、空いています」
彼の指が、白紙の真ん中の四角のど真ん中で止まった。
その四角の中は、空白のままだった。何も書かれていなかった。
「ゾンネフェルトを」とディートリヒさんは言った。「名指しで、禁術に結ぶ紙が——一枚も、ない」
帳場が、しん、と静まった。
囲炉裏の火が、低く爆ぜた。
「私の符牒は」とディートリヒさんは言った。「辺境処理の命令が、どの家を経由したかの覚え書きです。一番奥に、いつもあの家の名があった。——けれど、それは、私の覚え書きにすぎない」
彼の声に、いつもの棘はなかった。事実だけが淡々と置かれた。
「役所では、一介の元事務官の妄言で、片づけられます」と彼は言った。
私は、卓の上の欠片をもう一度見渡した。
ヨナスの四行。十二の谷。ザイデルの湯桶。ヴィクトールが渡した方角。テオドールの約束。——どれも声だった。けれど、どれも、あの家の名をはっきりとは指していなかった。
空白の真ん中に、ゾンネフェルトが座っていた。誰の紙にも刺されないまま。
「決定打が」と私は言った。「ないんですね」
「ありません」とディートリヒさんは言った。
彼は私の目をまっすぐ見た。隠さなかった。それが、離反したこの人のいまのやり方だった。
「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「ここで、嘘をついて勝てるなどと言うほうが、あなたを裏切ることになる」
私は、息を吐いた。
白い息が、油皿の灯りの中でほどけた。
決定打がない。盤の真ん中は、空いたまま。それを、まず自分の体に通した。逃げずに認めた。
「わかりました」と私は言った。
私は、手帳を開いた。新しい頁を出した。
「決定打がないなら」と私は言った。「決定打じゃない欠片を、並べられるだけ並べます」
「並べる?」とノアが言った。
「ええ」と私は言った。「一枚で刺せないなら、何枚も束ねる。——あの委員会の場に、誰が、何を出すか。それを、いま決めます」
私は手帳に、最初の一行を書いた。
「まず、実例」と私は言った。「リンドヴァルの井戸。奪わずに、戻った湯」
私は、ヨナスの四行を卓の真ん中に寄せた。
「ヨナスと、おじいさんのオットーさんが」と私は言った。「証言します。涸れた湯が、奪わずに戻ったこと。——それを、見た側の人の口から」
「あの子に」とノアが言った。「王都の委員会で、喋らせるのか」
「喋らせるんじゃありません」と私は言った。「あの子は、もう、自分から喋ろうとしてる。——別の谷の雪を、かきに来る子です」
ノアが、わずかに口元をゆるめた。
「……そうだな」と彼は言った。
「次に」と私は言った。「ジルケさん」
私は、ザイデルのひびの入った湯桶に手を置いた。掌に乾いた木の冷たさが触れた。
「戻せなかった土地の、証言です」と私は言った。
「戻せなかった土地?」とディートリヒさんが、わずかに眉を上げた。「それは、こちらに、不利では」
「いいえ」と私は言った。「いちばん、効くんです」
私は、湯桶のひびを指でなぞった。水の溜まらない、ザイデルの形見を。
「私が『奪わなくても湯は戻る』と言えば」と私は言った。「向こうは『おまえは、戻せたところしか見せない』と返してきます」
ディートリヒさんが、頷いた。
「でも、私は戻せなかった土地にも立ちました」と私は言った。「ジルケさんに『ここは戻せない』と、自分の口で告げた。——その私が言うんです。奪わないやり方は、戻せる土地と戻せない土地を正直に分ける」
「奪うやり方は」と私は言った。「戻せない土地からも、最後の一滴まで抜く。ザイデルみたいに。——どちらが、人を欺いていないか」
帳場の空気が、その湯桶の上でわずかに揺れた。
ハンナさんが囲炉裏端で、ふん、と鼻を鳴らした。
「お嬢」とハンナさんは、火を見たまま言った。「ジルケさんは、王都まで来られるのかい」
私は、手が止まった。
ザイデルは、谷が雪で閉じる。ジルケさんは六十六歳だった。王都までの長い道を冬に下りてこられるか——わからなかった。
「……来られないかも、しれません」と私は、正直に言った。
「なら」とハンナさんは言った。「あの人の言葉を、誰が運ぶんだい」
私は、湯桶を見た。
「私が」と私は言った。「私が、聞いた言葉を、運びます。——『線を引いてくれて、よかった』。あの一言を」
ハンナさんが、火に薪をくべた。
「それでいい」と彼女は言った。「ローザ様も、来られない客の言葉を、何度も帳場で代わりに喋ってた。——女将の仕事は、声の運び屋でもある」
声の運び屋。私は、その言葉を手帳の隅に書きつけた。
「次に、学術」と私は言った。「ノア」
ノアが、卓の向こうから私を見た。
「波形ですか」と彼は言った。
「ええ」と私は言った。「十二の谷が、同じ年に、いっせいに涸れた。——自然の枯渇じゃない。同じ手で抜かれた跡だって、データで示せる?」
「示せる」とノアは言った。「だが」
彼は、そこで、言葉を切った。
「だが、波形は」とノアは言った。「『抜かれた』とは言える。『誰が抜いたか』は、言えない」
私は、頷いた。
「わかってます」と私は言った。「ノアの波形は、犯行があったことを示す。けど、犯人の名前は指さない。——だから、決定打じゃない」
「決定打じゃない欠片を、並べる」とノアが、私の言葉を引いた。
「そう」と私は言った。「波形で、犯行があったことを示す。ジルケさんの証言で、戻せない土地の現実を示す。ヨナスの実例で、奪わなくても戻ることを示す。——一枚ずつは、輪っかにしかならない」
私は、卓の上の欠片を、円を描くように手で囲った。
「でも、輪っかを、いくつも重ねたら」と私は言った。「真ん中に座ってる影の輪郭が、浮かびます」
ディートリヒさんが、その手の動きをじっと見ていた。
「輪郭は」と彼は、低く言った。「指ではない。——けれど、見える」
「そして」と私は言った。「テオドールさん」
ノアの眉が、わずかに動いた。
「あの男は」とノアは言った。「味方じゃない」
「ええ」と私は言った。「味方じゃありません。効率の論理も、捨ててない。——でも、嘘はつかないと、約束しました」
私は、昨日の雪の道を思い出した。土から立つ湯気の前で低くなった、彼の声を。
「『奪わずに湯が戻ったことは、私が見た。それだけは、嘘なく述べます』」と私は言った。「あの言葉だけです。あの人がくれたのは」
「それで」とノアが言った。「足りるのか」
「足りません」と私は言った。「一人で足りる欠片なんて、一つもない」
私は、テオドールの綺麗な指を思い出した。盆を持たされて、盆の下を知らない男の指を。
「でも、向こうの窓口役が」と私は言った。「向こうの場で、『奪わずに湯が戻ったのを、私は見た』と言う。——それは、こっちの誰が言うより、重いんです」
ディートリヒさんが、白紙の図に新しい点を打った。委員会の四角の、すぐ脇に。
「敵陣から、出る証言です」と彼は言った。「最も、崩しにくい」
「最後に」と私は言った。「ヴィクトール」
その名を口にすると、帳場の空気がわずかに固くなった。
ノアが、目を細めた。
「あの男は」とノアは言った。「方角しか、寄こさなかった」
「ええ」と私は言った。「ゾンネフェルトの名と、盤の方角だけ。証拠の山じゃない。——全容も、知らない。末端だったから」
私は、手帳のその行の前で、筆を止めた。
「ヴィクトールは」と私は言った。「証言台には、立たせない」
ディートリヒさんが、私を見た。
「立たせれば、こっちが崩れます」と私は言った。「失脚した男の、意趣返しの証言。向こうの法律家は、それを喜んで利用する。——『恨みで盤を語る、信用ならない男』だと」
「では」とディートリヒさんは言った。「彼の渡した方角は」
「方角は、使います」と私は言った。「私たちが、どこを探せばいいかを教えてくれる地図として。——でも、彼の口は、場には出さない」
私は、手帳に書いた。ヴィクトール、地図のみ、と。
「賢明です」とディートリヒさんは言った。「彼は、両義的な男だ。味方の顔をして、いつ向こうへ転ぶか、わからない。——証言台に立たせれば、彼一人で、こちらの盤を引っくり返せる」
私は、頷いた。
無双しない。私は自分に、もう一度言い聞かせた。手札は増えた。けれど、どの一枚もそれだけでは勝てない。
手帳の頁が、欠片の名前で埋まっていった。
実例——ヨナス、オットー。戻せない土地——ジルケ、私が運ぶ。学術——ノアの波形。敵陣の証言——テオドール。地図——ヴィクトール。書類の時間稼ぎ——エミール。盤の絵——ディートリヒ。
一枚の頁に、谷ごとの戦いが並んでいた。
「ハイネ殿」と私は言った。「二つ目を、まだ聞いていません」
「二つ目?」
「何を、勝ちと呼ぶか」と私は言った。「さっき、決めることが二つある、と」
ディートリヒさんが、白紙の図の、御用達の条件審議の線を指でなぞった。
「そこが」と彼は言った。「いちばん、大事です」
彼は私を、まっすぐ見た。
「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「あなたは、何を勝ちと呼ぶつもりですか」
私は、その問いを自分の体の真ん中に置いた。
差配を、潰すこと? ——できない。盤は、向こうの手の中にある。
ゾンネフェルトを、裁くこと? ——できない。名指す紙が、一枚もない。
私は、卓の上のザイデルの湯桶を見た。ひびの入った、水の溜まらない湯桶を。
「御用達に」と私は言った。「条項を、一つ、加えさせます」
「条項?」
「『奪わない条項』です」と私は言った。
その言葉を、私は初めて声に出した。
「いまの御用達は」と私は言った。「指定を受けたら、湯の供給優先権を差配に握られます。栄える湯へ魔力を集める。——つまり、奪う側に組み込まれる」
ディートリヒさんが、頷いた。
「それしか、道がない」と私は言った。「奪うか、奪われるか。御用達を受けるなら、奪う側へ。——その二択を、向こうは、当たり前の前提にしてきました」
「だから」と私は言った。「もう一つの道を、御用達の条件に、加えさせる」
私は、ザイデルの湯桶に手を置いた。
「汲める分しか、汲まない」と私は言った。「受け入れる客の数を、谷が背負える分に、設計する。——奪わずに、持続できる取り出し方を、御用達の条件として、選べるようにする」
帳場が、静まった。
ノアが、ゆっくりと口を開いた。
「それは」と彼は言った。「夏の、あの弱みじゃないか」
「そう」と私は言った。
夏、谷は客を入れすぎて源泉を細らせた。受け入れ容量を超えた。それを向こうは『持続できない宿だ』と、刃にして突いてきた。
その弱みを、私は武器にひっくり返そうとしていた。
「向こうは」と私は言った。「『おまえの谷は、客を入れすぎて源泉を酷使した。持続できない』と言いました。——なら、こっちは言い返す。『だから、汲める分しか汲まない設計を、御用達の条件にしましょう』と」
私は、ノアを見た。
「弱みを、突かれた」と私は言った。「だから、その同じ弱みを制度の設計に変える。——向こうの正しい顔の理屈ごと」
ノアが、しばらく、私を見ていた。
それから、わずかに、笑った。
「お前は」と彼は言った。「殴られた拳を、握り返して、こっちの手にするんだな」
「ローザさんが」と私は言った。「ハンナさんに、言ったそうです。——『潰す理由を、潰す理由じゃなくしてやる』って」
ハンナさんが、火を見たまま、頷いた。
「ローザ様が、客を入れすぎだと締め上げられたときの口癖さ」と彼女は言った。「あんたはそれを、王国の盤の上でやろうってんだね」
「ですが」とディートリヒさんが、静かに言った。
彼の声に、私は、顔を上げた。
「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「その『奪わない条項』が、もし、成立しても——差配は、倒れません」
「わかってます」と私は言った。
「奪う道は」とディートリヒさんは言った。「残ります。御用達を受けたい宿は、これまで通り、奪う側に組み込まれることもできる。盤も、向こうの手に残ったまま」
私は、黙って頷いた。
「税の査察も」と彼は言った。「認可の保留も、街道の除外も——『奪わない条項』が一つできたくらいで、すぐには消えません。裁量の刃は、向こうの手に、まだある」
私は、卓の上の三枚の通達を、思い出した。いまも、谷の上に下りているそれを。
「知っています」と私は言った。
「では」とディートリヒさんは言った。「それでも、その『奪わない条項』が、勝ちですか」
彼の薄い灰色の目が、私を試していた。意地悪ではなかった。離反したこの人が、最後に、私の覚悟を確かめていた。
私は、ザイデルの湯桶を、両手で持ち上げた。
「これが」と私は言った。「私の、勝ちです」
ひびの入った湯桶。水の溜まらない、ザイデルの形見。
「『奪うしかない』を」と私は言った。「『奪わないという道も、ある』に、変える。——ただ、それだけ。完全に勝つんじゃない。差配を、倒すんでもない」
「奪うか、奪われるか」と私は言った。「その二つしかない、と、向こうは決めてきました。——その『二つしかない』を、王国の公の場で、崩す。三つ目の道が、選べる、と認めさせる」
私は、湯桶を、卓に戻した。
「それが」と私は言った。「最初のひとつです」
帳場が、静かだった。
囲炉裏の火だけが、低く揺れていた。ディートリヒさんが、長いこと、私を見ていた。
それから、彼は、白紙の図を、私のほうへ滑らせた。
「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「十年、私は、人を潰す書類を書いてきました」
彼の声が、低かった。
「いまから、私は」と彼は言った。「人を勝たせる書類を、書きます。——その図の、空いた真ん中を埋める線を、一本でも多く」
彼は、革鞄を閉じて、立ち上がった。
「ですが」と彼は、戸口で、振り返った。「忘れないでください。あの場は、向こうの委員も座っています。手続きには従わせられる。——けれど、向こうは効率と唯一性を何度でも繰り返す」
その忠告が、雪のように、冷たく落ちた。
「『奪わないやり方は、遅い。湯量も控えめだ。土地も選ぶ。王国の数百の湯を、それで賄えるはずがない』」とディートリヒさんは言った。「——向こうは、これを場の真ん中で繰り返します。そして、それは正しい」
私は、頷いた。
テオドールが、何度も言ったことだった。崩れていない、彼の論理。
「正しい論理に」とディートリヒさんは言った。「政治の圧力が乗れば、場は、簡単に閉じます。メルダース伯爵が、合議をまとめきれずに、審議を先送りにする——それが、向こうの、いちばん楽な勝ち方だ」
彼は、深く、頭を下げた。
「劣勢から、始まると、思っておいてください」と彼は言った。
ディートリヒさんが、雪の中へ出ていった。
整った蹄の音が、谷の口のほうへ、遠ざかっていった。帳場には、白紙の図と、欠片の並んだ卓と、私が残った。
準備は整いつつあった。だが勝てる、という気はしなかった。
「セラ」とノアが、卓の向こうで言った。
「わかってる」と私は言った。
「決定打が、ないままだぞ」とノアは言った。「あの男の言う通りだ。輪っかをいくつ重ねても、ゾンネフェルトの胸ぐらは掴めない」
「掴めなくても」と私は言った。「胸ぐらを掴むのが、目的じゃないの」
ノアが、私を見た。
「あの家を、罰したいわけじゃない」と私は言った。「あの家が決めた『奪うしかない』っていう前提を、王国の選べる道じゃなくしたいの。——胸ぐらを掴まなくても、前提は、崩せる」
ノアが、しばらく、黙っていた。
それから、彼は、卓の上の欠片を、一枚ずつ、指で押さえた。ヨナスの四行。ザイデルの湯桶。波形の図。テオドールの約束。
「お前は」と彼は言った。「人を裁く戦いを、してないんだな」
「ええ」と私は言った。「私は、女将です」
私は、火を見た。
「裁くのは、私の仕事じゃない」と私は言った。「私の仕事は、湯を預かること。——奪わずに湯を戻せる道を、王国の人が、選べるようにすること。それだけ」
ノアが、わずかに、笑った。
「だったら」と彼は言った。「俺は、お前の波形の番人だ。お前が前提を崩しに行くなら、その前提が崩れる理屈を地脈で立てる」
彼の深い緑の目が、火明かりの下で、静かに光っていた。
「ノア」と私は言った。「一人じゃ、無理よね」
「ああ」とノアは言った。「一人じゃ無理だ」
「だから」と私は言った。「谷ごと、行くの。——王都まで」
その言葉が、囲炉裏の火の上に、まっすぐ立った。
その夕、谷の口の向こうから、馬の蹄の音が近づいてきた。
今度は、整った歩みではなかった。雪を踏みしめる、疲れた足取りだった。私は、戸口へ出た。
マリカが、外套に雪を積もらせて、谷の道を帰ってきていた。
「マリカさん」と私は言った。「市から、戻ったんですね」
「ええ」と彼女は言った。「十二通、出しました。一通ずつ、近くの市の宿に託して」
彼女の濃紺の目が、雪明かりの中で疲れていた。けれど、その奥に何かが灯っていた。
「返事は」と私は言った。「来ないかもしれない、って」
「来ました」とマリカは言った。
彼女は懐から、一通の紙を出した。安い、折りたたんだだけの紙だった。蝋もない。
「十二のうち」とマリカは言った。「一通だけ」
彼女がその紙を、私の手に置いた。掌に、雪で湿った紙の冷たさが触れた。
「百のうち、一でいい、と」とマリカは言った。「セラさんが、そう言いました。——一人、まだ、望みを捨てていない人が、いました」
私は、その紙を、開いた。
薄い墨。掠れた字。慣れない手で書かれた、たった二行だった。
——あんたの言う『奪われた』が、本当なら。おれの谷も、聞いてくれるんか。
——おれの婆さんが、まだ、あの谷の湯を、覚えてる。
その二行を、私は、しばらく見ていた。
十二の谷のうち、一通。十一は、文を開きもしなかったか、開いても、何も書かずに閉じたのだろう。諦めた人は、文を開きもしない。マリカが、そう言った通りだった。
けれど、一人。一人だけ、書いてきた。
「マリカさん」と私は言った。「一通、来ました」
「ええ」とマリカは言った。
私は、その二行を、ヨナスの四行と、ザイデルの湯桶の隣に置いた。
欠片が、また一つ、増えた。
戸の外で、井戸の湯気が、夜の冷気の中で、まっすぐ立っていた。
奪わずに戻したリンドヴァルの湯。戻せなかったザイデルの湯。そして、まだ顔も知らない、どこかの谷で、婆さんが覚えているという湯。——同じ湯気が、いまも、いくつもの場所で、立っているはずだった。
私は、その二行の紙を、そっと、卓の真ん中に寄せた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。第百一話、公決へ向かう準備の回です。
前話で雪を跳ね返したセラたちですが、戦いの場は、雪かきの現場から、王都の机へと移ります。私がこの回でいちばん気をつけたのは、セラを「無双」させないことでした。手札は増えました。ヨナスの実例、ジルケの証言、ノアの波形、テオドールの約束、ヴィクトールの渡した方角。けれど、ディートリヒに言わせたとおり、どの一枚も、それだけでは勝てません。盤の真ん中——ゾンネフェルトを名指す紙は、一枚もない。決定打がないまま、欠片を束ねて挑むしかない。その不安を、隠さずに置きたかったのです。
そして、何を「勝ち」と呼ぶか。セラは、ザイデルのひびの入った湯桶を握って、こう答えます。「奪うしかない、を、奪わないという道もある、に変える。それだけ」。差配を倒すのでも、ゾンネフェルトを裁くのでもない。「二つしかない」と誰かが決めた前提を、王国の公の場で崩し、三つ目の道を選べるようにする——それが、女将であるセラの戦い方です。胸ぐらを掴むのが目的じゃない、というノアとのやりとりは、この物語が「裁きの話」ではなく「預かる話」だということを、もう一度、確かめる場面でした。
話の終わりに、十二の谷へ投げた文の、たった一通の返事が届きます。婆さんが、まだ湯を覚えている、と。十一は、開きもしなかったのでしょう。けれど、一人。次章、この一通から、束ねる戦いが本当に始まります。準備は整いつつありますが、ディートリヒの言う通り、公決は劣勢から始まります。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




