第100話: 雪を、かく人たち
雪の匂いがした。
夜明け前の帳場の戸を細く開けた私の鼻が、最初に拾ったのはそれだった。湯気でも墨でもない。鉄に似て、息を吸うと喉の奥が痛む。降りはじめの雪の匂いだった。
空が、まだ暗いうちから重く垂れていた。
今日、街道整備の再査定が下りる。
昨夕、谷に入った三人の役人がそう告げて、霧亭に泊まっていた。街道から外された谷には、次の冬から雪かきの人夫が回されない。谷の口が塞がれば、市へ降りられない。文も出せない。客も来ない。
報復は、税と認可だけではなかった。冬そのものを、向こうは刃にしようとしていた。
「セラさん」
マリカが外套に身を包んで帳場に立っていた。手に、十二通の文を束ねて握っていた。
「夜のうちに、書きました」と彼女は言った。「十二の谷へ。一行ずつ」
彼女の濃紺の目が、暗い土間でも澄んでいた。
「市まで、降りられますか」と私は言った。
「いまなら」とマリカは言った。「雪が積もる前に。——昼を過ぎれば、谷の口は塞がります」
「途中で、止められたら」
「止められません」とマリカは言い切った。「客の足が止まる道筋は、夏のうちに全部歩いて頭に入れてあります。役人の見回りの裏を、抜けていきます」
私は彼女の手の中の十二通を見た。安い紙を一つ一つ折っただけの、蝋もない、ただの紙の束だった。けれど、その十二通が、明るい場所へ繋がる細い糸だった。
「行ってきます」とマリカは言った。
「お願いします」と私は言った。「——気をつけて」
マリカが、わずかに口元をゆるめた。仲居の、職人の笑みだった。
「客の動きは、三手先まで読みます」と彼女は言った。「雪の三手先くらい、なんてことありません」
戸の外で、馬の蹄が雪を踏んだ。
マリカの背が暗い谷の口へ消えていった。降りはじめの雪が、その背を白く縁取った。
彼女が、今日の最初の一人だった。一人ずつ、谷から出ていく。それぞれの持ち場へ。
帳場に戻ると、エミールさんがもう書面の山に向かっていた。
彼の前には三枚の通達が広げてあった。税の特別査察。営業認可の更新保留。街道整備からの除外。その三枚の上に、彼の書きかけの陳情書が重なっていた。
「町長さん」と私は声をかけた。
「街道の再査定ですね」とエミールさんは、顔を上げずに言った。「役所の手続きには、必ず不服を申し立てる手があります」
彼の筆が止まらなかった。語尾の消える癖が、今朝はどこかへ行っていた。
「除外の決定には、再審の請求ができます」と彼は言った。「請求が出ているあいだは、決定の執行を一時止められる。——雪かきの人夫を、すぐには切れなくなる」
「時間を、稼げますか」と私は言った。
「稼ぎます」とエミールさんは言った。「書類の戦いは、私の戦場です」
その言葉に、もう迷いはなかった。夏に二択の前で頭を抱えていた町長が、いま、三枚の裁量の刃に行政の手続きという楯で食い下がっていた。
「でも」とエミールさんは、筆を止めて私を見た。「請求が通っても、せいぜい数日です。向こうが本気なら、再審もすぐに棄却してくる」
「数日で、いいんです」と私は言った。
「数日で?」
「マリカさんが、市へ降りました」と私は言った。「文さえ出れば、十二の谷へ声が届く。——あとは、谷の口を、数日だけ開けておければ」
数日だけ、開けておく。
言葉にすれば、それだけだった。けれど、その数日のために、官の人夫が回されない谷の口を、いったい誰が掘り起こすのか。
私は窓の外を見た。雪が、もう本降りになりかけていた。
ノアが、外套を羽織って戸口に立っていた。
「リンドヴァルへは」と私は言った。「行けないわね。この雪じゃ」
「ああ」とノアは言った。「山が閉じる。ヨナスへの伝授は、春までお預けだ」
彼は戸の外の雪を見ていた。深い緑の目が、いつもより静かだった。
「だが」とノアは言った。「リンドヴァルから、文が来た」
彼は懐から一通の紙を出した。マリカの届けた整った文ではない。ヨナスの三行の手紙と同じ、安い紙だった。
「ヨナスからだ」と彼は言った。「使いの者が、雪の前にぎりぎり置いていった」
私は、その紙を受け取った。
薄い墨。大きく掠れた字。湯守の少年が慣れない手で書いた字だった。広げると、今度は四行あった。
——女将さん。谷が、雪で塞がるって、ヘルマンさんから聞いた。
——おれ、行く。じいちゃんと、村のやつらと。
——雪なら、おれら、かける。湯守の村は、冬を知ってる。
——銀泉楼の道、おれらが開ける。だから、待ってて。
その四行を、私はしばらく見ていた。
胸の奥で、何かが熱く揺れた。
ヨナスが、自分から来る。雪をかきに。一度は「どうせまた涸れる」と達観の仮面を被っていた少年が、いまは奪わずに戻した湯を守る側に回って、別の谷の雪までかきに来ようとしていた。
「ノア」と私は言った。「ヨナスが、雪をかきに来るって」
「ああ」とノアは言った。「読んだ」
彼の口元が、わずかにゆるんだ。不器用な、けれど確かな笑みだった。
「あいつも、変わったな」と彼は言った。「五年前、俺が見捨てた村の子が——いまは、別の谷の道を開けに来る」
私は、ヨナスの四行を、卓の上に置いた。
「みんな、別々の場所にいるのに」と私は言った。「同じ一つの谷の口を、開けようとしてる」
「マリカが市へ。エミールが書類で。ヨナスが村ごと雪を」とノアが指を折った。「ディートリヒの爺さんは、また符牒を一筆増やしたそうだ。——お前が一人で雪をかくんじゃない。それを束ねるって言うんだろう」
束ねる、というのは、こういうことだった。私が一人で雪をかくのではない。
昼前、雪は谷をすっかり白く埋めていた。
帳場の戸を開けると、膝まで雪が積もっていた。谷の口のほうは、もっと深いはずだった。このままでは夕刻には、銀泉楼は雪の底に沈む。
そのとき、谷の奥のほうから、雪を踏む足音がいくつも聞こえてきた。
一人ではなかった。
いくつもの、雪を踏み分ける足音。それに混じって、めいめいの息遣いと、鋤の柄が肩に当たる、こつ、という乾いた音。
私は、戸口から谷の道を見た。
谷の人々が、雪の中を歩いてきていた。
棚田の長老ヴァルターさんが、麦わら帽子の代わりに毛糸の帽子を被って鋤を担いでいた。養魚場のトビアスさん。牧場のイルゼさん。炭焼きの男たち。蕎麦打ちの女房たち。みんな、それぞれの仕事道具の鋤や鍬を手に、雪の中を谷の口へと歩いていた。
「お嬢」とヴァルターさんが、私に気づいて言った。「街道の人夫が来んのなら、しょうがない。わしらで、かくさ」
彼の白い息が、雪空に立ちのぼった。
「ヴァルターさん」と私は言った。「畑は」
「畑は逃げん」とヴァルターさんは笑った。「雪は、今日かかんと逃げる。どっちが急ぎか、わしでもわかる」
後ろから、養魚場のトビアスさんが鍬を肩で揺すり上げた。
「うちの女房が、おにぎりを握ってる」と彼は言った。「昼には、追いかけてくるとさ」
「わしの炭も持ってきた」と炭焼きの一人が言った。「掘り出した道で、火ぃ焚けばいい。冷えて指が動かんようになったら、雪かきにならんでな」
「あんたが」とヴァルターさんが、もう一度私を見た。「谷ごと行く、と言うたんだ。——なら、谷ごと、雪もかくべ」
その言葉に、私は、声が出なかった。
谷ごと行く。あの寄り合いの日に、私が割れた仲間に告げた言葉だった。一度は、谷を踏み台にするのかと反発された言葉。その言葉が、いま、雪を踏む人々の足音になって私の前を通り過ぎていった。
ヴァルターさんが、鋤を担ぎ直して谷の口へ歩いていった。
私も、鋤を取った。
戸口に立てかけてあった古い鋤だった。柄を握ると、掌に冷たさが食い込んだ。
「セラ」とノアが、隣で外套の襟を立てた。「俺も、行く」
「ええ」と私は言った。「行きましょう」
谷の口は、深い雪に埋もれていた。
市へ続く一本道が白く消えていた。その雪の中で、谷の人々がめいめいの鋤を雪に突き立てていた。一掻き、また一掻き。一人分の幅が、少しずつ雪の中に黒い土を覗かせた。
「そっちは浅い、こっちから掘れ」と炭焼きの男が声を張った。
「右の吹き溜まりが厚いぞ」とトビアスさんが返した。「先に崩しとかんと、明日また埋まる」
「明日のことまで、よう頭が回るな」
「魚を獲るのも、雪をかくのも、先を読むのは同じよ」
私も、その列に加わって鋤を雪に入れた。
雪は、重かった。
一掻きごとに肩が軋んだ。掌の皮が、柄の冷たさで痺れていった。前世で、私は雪なんてかいたことがなかった。コンサルの私は、いつも暖かい会議室で図面を眺めていた。
いまの私は、谷の人々と肩を並べて雪をかいていた。
「お嬢、無理すんな」とヴァルターさんが、隣で言った。「あんたは、手が、令嬢の手だ」
「もう」と私は、息を切らしながら言った。「令嬢じゃ、ありません」
ヴァルターさんが、ふっと笑った。
「そうだな」と彼は言った。「女将だ」
「女将なら」と私は息を整えて言った。「客の道を、一番に開けないと」
「言うようになったな」とヴァルターさんは、また鋤を雪に入れた。「ローザ様も、雪の朝はそう言うてた」
その頃、谷の口の向こうから、整った蹄の音が近づいてきた。
雪を乱す急ぎ足ではない。一定の、礼儀正しい歩み方だった。私は、鋤を止めて顔を上げた。
濃紺の官服に雪を散らした男が、馬を下りて雪の道に立っていた。
テオドール・カルムだった。
その後ろに、街道再査定の役人が三人。手に、新しい書面を握っていた。除外の決定を谷に告げに来た顔だった。
私と、雪をかく谷の人々と、官の役人たちが、谷の口の雪の中で向き合った。
「ルヴェール殿」とテオドールは言った。「街道整備の再査定が、下りました」
彼の声は、穏やかだった。悪意の気配のない、清潔な声だった。
「この谷は、街道整備から、正式に除外されます」と彼は言った。「次の冬から、官の雪かきの人夫は、回されません」
「ええ」と私は言った。「聞いています」
私は、鋤を雪に立てたまま彼を見た。掌が痺れて、外套の肩に雪が積もっていた。
「だから」と私は言った。「自分たちで、かいています」
テオドールの鳶色の目が、私の手の中の鋤に落ちた。
彼は、谷の口を見渡した。
雪の中に、谷の人々が散らばっていた。ヴァルターさん。トビアスさん。イルゼさん。炭焼きの男たち。それぞれがめいめいの鋤を雪に入れて、一本の道を少しずつ掘り起こしていた。
誰に命じられたのでもなかった。役所の人夫ではなかった。
「これは」とテオドールは言った。「あなたが、命じたのですか」
「いいえ」と私は言った。
私は、鋤を握り直した。
「私が命じたんじゃありません」と私は言った。「みんな、自分の鋤を担いで勝手に来たんです。——谷ごと行く、って、それだけ言ったら」
テオドールは、答えなかった。
彼の鳶色の目が、雪をかく人々を一人ずつ追っていった。誠実な官僚の目が、自分の図のどこにも収まらないものを見ていた。
「効率では」と私は言った。「この雪かきは、何の数字にもなりません」
「役所の人夫を一日雇うほうが」と私は言った。「ずっと速い。谷の人が一日畑を空けて雪をかくのは、勘定の上では損です。あなたの最適配分の図には、どこにも入らない」
私は、雪をかくヴァルターさんの背を見た。
「でも、この人たちは来たんです」と私は言った。「誰の得にもならないのに」
テオドールの綺麗な指が、官服の袖の中で静かに握られた。
彼は、雪をかく人々から目を離せずにいた。彼らの白い息が、雪空にいくつもまっすぐ立ちのぼっていた。
その白い息を、彼はじっと見ていた。
ここからは、テオドールが見ていた。
雪をかく人々の息が、まっすぐ立っていた。
私は、その白い息を見ていた。寒さで頬が痺れているのに、目を離せなかった。
リンドヴァルの、あの井戸の湯気と同じ立ち方だった。あの斜面で、私は見た。涸れた井戸に湯気が戻る瞬間を。奪わずに、どこも犠牲にせずに。
あの湯気は、私の整然とした論理の、どこにも収まらなかった。
そして、いま、目の前の雪の中で人々の息がまっすぐ立っていた。役所の人夫を雇えば一日で済む雪を、谷の人々が自分の手で掘り起こしていた。
これも、私の図のどこにも収まらなかった。
私は、限られた魔力を最も栄える湯へ、と信じてきた。その論理で、若い頃に一つの村を畳んだ。共倒れを避けるための、正しい配分だった。
いまも、それが間違っていたとは思わない。
効率では、共生モデルは差配に勝てない。遅く、湯量は控えめで、土地を選ぶ。それは、リンドヴァルで自分の目で確かめたことだ。
崩れていない。私の論理は、崩れていない。
ただ——目の前で、雪をかく人々がいた。
効率の図に入らない人々が、効率の図に入らない湯を守るために、効率の図に入らない雪をかいていた。そして、その息が、あの井戸の湯気と同じ立ち方をしていた。
女将の言葉が、私の体の真ん中に残った。
誰の得にもならないのに、この人たちは来た。
私は、村を畳んだあの日、その村の女の顔を見に行かなかった。配分の図しか見ていなかった。図に入らない人々が、図に入らないもののために何をするのか——私は、一度も見たことがなかった。
雪をかく音が、谷の口に低く響いていた。
一掻き、また一掻き。痩せた女将が令嬢の手で雪を入れ、白髪の長老が鋤を担ぎ、湯守の村からは少年が来るという。
私の効率の論理は、この光景に何の言葉も持っていなかった。
私は、間違っていない。
数字の上では、たぶん一度も間違っていない。村の畳み方も、湯の配分も、御用達の差配も——全部、筋が通っている。
崩れていない。——ただ。
ただ、あの井戸の湯気が、目に焼きついて、離れない。
そして、いま、その湯気が、雪をかく人々の白い息になって、もう一度、私の前に立っている。
ここからは、再び、セラが見ていた。
テオドールは、長いこと、雪をかく人々を見ていた。
彼の後ろで三人の役人が新しい書面を握っていた。除外の決定を告げに来たのに、谷の人々が自分たちで雪をかいているのを見て、告げる相手を見失っていた。
「カルム様」と役人の一人が、小声で促した。「お告げを」
テオドールは、それに答えなかった。ただ雪をかく人々を見ていた。それから、ようやく口を開いた。
「ルヴェール殿」と彼は言った。「私は、間違っていません」
いつもの、踏みとどまる言い方だった。けれど、その声は、これまでより低かった。
「ええ」と私は言った。「知っています」
私は、鋤を雪に立てたまま彼を見た。
「あなたの効率は、正しい」と私は言った。「役所の人夫を雇うほうが、速い。谷の人が畑を空けて雪をかくのは、損です。——それも、知っています」
テオドールは、私を見た。鏡像の目だった。
「では」と彼は言った。「なぜ、この人たちは、来たのですか」
その問いに、私は、すぐには答えなかった。
私は、雪をかくヴァルターさんを見た。トビアスさんを。イルゼさんを。みんな、白い息を吐きながら黙々と鋤を入れていた。
「奪わない、っていうのは」と私は言った。「そういうことなんです」
「奪うやり方は、湯をいちばん多く集めます」と私は言った。「栄える湯が、もっと栄える。でも、奪われた村の人は、二度とほかの谷のために雪をかいたりしません」
私は、白い息の立つ谷の口を見渡した。
「奪われた者は、奪い返すことしか考えなくなるから」と私は言った。
「でも」と私は言った。「奪わずに戻したリンドヴァルの子は、別の谷の道を開けに来ます。奪わずに守ってきたこの谷の人は、谷ごと雪をかきに来ます。——奪わないやり方は、その心も一緒に育てる」
私は、テオドールの綺麗な指を見た。
「奪う繁栄は、いつか自分の番が来ます」と私は言った。「栄えた湯も、いつか、もっと大きな家に奪われる。ヴィクトールが、ゾンネフェルトに奪われたように」
私は、雪をかく人々の白い息を見た。
「奪う繁栄は、いつか自分の番が来る。——分かち合う繁栄は、誰の番も来ない」
テオドールが、私を見た。
彼の鳶色の目が、一拍、揺れた。誠実な人間の頭が、いつもの帰結を辿り直そうとして、辿り切れずにいた。
奪う繁栄は、いつか自分の番が来る。——その言葉が、彼の中で、ヴィクトールの末路と重なっていた。
「あなたは、ゾンネフェルト侯爵に、盆を持たされている」と私は言った。「盆の下を、教えられないまま」
テオドールの指が、また握られた。
「あの家は、奪う側です」と私は言った。「いま、いちばん栄えている。——でも、いつかあの家の番が来る。奪う繁栄に立っている限り、誰も安全じゃない」
テオドールは、答えなかった。
彼は、雪をかく人々をもう一度見た。それから、谷の口の向こうの、白く消えた市への道を見た。
その道は、谷の人々の鋤で、少しずつ黒い土を覗かせはじめていた。一人分の幅の、細い、けれど確かな一本道だった。
雪が、降りやんでいた。
いつのまにか、垂れていた雲の切れ目から、薄い冬の日が雪の道に差していた。掘り起こされた黒い土が、その光の中で、湯気のように白く立ちのぼっていた。
雪をかいた土から立つ、ほのかな地の温もりの湯気だった。
テオドールの目が、その湯気から、離れなかった。
雪をかいた土から立つ、その白い湯気。リンドヴァルの井戸の湯気。雪をかく人々の白い息。——同じ白い湯気が、いまこの谷の口で、いくつも、まっすぐに立っていた。
彼の整然とした論理が、その湯気の前で、初めて声をなくしていた。
「ルヴェール殿」と彼は、ようやく言った。
その声は、低かった。いつもの、論理整然とした声ではなかった。
「私は、間違っていない」と彼は言った。「……ただ、あなたの井戸の湯気が、目に焼きついて、離れない」
その一言が、雪の道の上に、静かに落ちた。
無音が、谷の口にゆっくりと降りた。雪をかく鋤の音だけが、その無音の底で低く響いていた。
彼は、初めて、自分の論理の外へ、半歩、足を踏み出していた。
完全に、踏み出したのではなかった。
彼は、まだ引いていなかった。効率の論理を、捨ててはいなかった。けれど、その縁が、雪解けのように、確かに崩れかけていた。
誠実な人は、嘘がつけない。自分の心の揺れにも。
「カルム殿」と私は言った。
私は、鋤を雪に立てたまま彼をまっすぐ見た。
「あなたに、味方になってくれとは言いません」と私は言った。「あなたは、効率を信じている。それで、いいんです」
「ただ、いつか、公の場で——あなたが見たことを訊かれる日が来たら」と私は言った。
私は、雪をかいた土から立つ湯気を見た。
「嘘だけは、つかないでください」と私は言った。「あなたが、リンドヴァルで見たこと。この谷で見たこと。——それだけで、いいんです」
テオドールは、長いこと、答えなかった。
彼の鳶色の目が、雪をかく人々と、掘り起こされた一本道と、土から立つ湯気のあいだを、ゆっくりと行き来した。
それから、彼は静かに頭を下げた。
「奪わずに、湯が戻ったことは」と彼は言った。「私が、この目で見ました」
彼の声は、低く、けれど確かだった。
「もし、公の場で訊かれたなら」と彼は言った。「それだけは——嘘なく、述べます」
その言葉が、雪の道に、まっすぐ立った。
味方になる、とは言わなかった。効率の論理を、捨てるとも言わなかった。けれど、彼は、自分が見たことについて、嘘はつかないと約束した。
それが、誠実な人間の、ぎりぎりの一歩だった。
テオドールは、馬の手綱を取った。
後ろの三人の役人が、書面を握ったまま戸惑った顔をしていた。除外の決定は、下りていた。けれど、谷の道は、もう谷の人々の手で開きはじめていた。
告げる刃が、空を切っていた。
「ルヴェール殿」とテオドールは、馬上から言った。「街道の除外は、覆りません。これは、ゾンネフェルト侯爵のご差配です」
「ええ」と私は言った。「わかっています」
「ですが」と彼は言った。「谷の口が、塞がるかどうかは——」
彼は、そこで、言葉を止めた。
彼の目が、谷の人々の掘り起こした一本道を、もう一度見た。雪の中に、黒い土が、確かに一筋通っていた。
「……塞がらない、ようですね」と彼は言った。
その声に、わずかな、苦みがあった。
けれど、それは、報復の挫かれた苦みではなかった。自分の信じた効率の論理が、雪をかく人々の前で初めて言葉を失った——その苦みだった。
彼は、静かに馬首を返した。
整った蹄の音が、谷の口の向こうへ、遠ざかっていった。
三人の役人が、その後を所在なげに追っていった。除外の決定は、谷に届いた。けれど、報復が刃にしようとした冬は、谷の人々の鋤に跳ね返されていた。
雪をかく音だけが、谷の口に低く響いていた。
ヴァルターさんが、鋤を担ぎ直して、私のそばに来た。
「あの役人さん」と彼は言った。「ずいぶん、長いこと、わしらの雪かきを見てたな」
「ええ」と私は言った。
「迷ってる顔だった」とヴァルターさんは言った。「ローザ様が、昔、言ってたよ。——迷ってる客は、いつか、また来る、ってな」
迷っている客は、いつか、また来る。
私は、テオドールの遠ざかる背を、雪の道の向こうに見た。彼は、引かなかった。効率の論理を、捨てなかった。けれど、彼は、自分が見たことについて、嘘はつかないと約束した。
その約束が、雪の中に、一筋の道として残された。
その夕、谷の口の一本道が、市まで通った。
谷の人々が、めいめいの鋤を担いで、夕暮れの雪道を家へ帰っていった。掘り起こされた黒い土の道が、夕日に細く光っていた。
マリカの十二通の文は、もう市へ届いているはずだった。
夜、私は、囲炉裏端に一人で残った。
卓の上に、ヨナスの四行と、十二の谷のリストと、ディートリヒさんから新しく届いた符牒の写しを並べて置いた。手帳を開いて、これまでの三行の下に、もう一行書き足そうとした。
けれど、筆が止まった。
報復は、跳ね返した。谷の口は、開いた。十二の谷へ、文は出た。テオドールは、嘘はつかないと約束した。
けれど、私は、まだ何も勝っていなかった。
ゾンネフェルト侯爵家は、健在だった。差配の盤は、向こうの手の中にあった。テオドールは、味方になったわけではなかった。
ノアが、帳場の戸口に立っていた。
「まだ、起きてたのか」と彼は言った。
「ええ」と私は言った。「——勝った、って気がしないの」
ノアが、卓の向こうに腰を下ろした。
「跳ね返しただけだ」とノアは言った。「この冬の、この報復を。——戦争に勝ったわけじゃない」
「そうね」と私は言った。
「でも、一つ開いた」とノアは言った。
「何が?」と私は訊いた。
「道だ」とノアは言った。「谷の口の道じゃない。——あの男が、公の場で嘘はつかない、と言った。法務委員会への道が、一本開いた」
彼の深い緑の目が、火明かりの下で私を見ていた。
「あの男は、味方じゃない」とノアは言った。「効率の論理を、捨ててない。だが、嘘はつかないと言った。——それは、こっちの土俵に、一歩、足を入れたってことだ」
私は、火を見た。
「明るい場所へ引きずり出す、その入り口に——」と私は言った。
「ああ」とノアは言った。「テオドールが、嘘なく証言するなら。それは、決定打じゃない。だが、欠片の一つにはなる」
「欠片を、集めるのね」と私は言った。
「集めるさ」とノアは言った。「一つずつ。盆の下を見た者の言葉を、明るい場所に並べていく。——お前が、ずっとやってきたことだ」
私は、卓の上のヨナスの四行を見た。
雪なら、おれら、かける。湯守の村は、冬を知ってる。——その四行が、今日、谷の口の道になった。
「ノア」と私は言った。「今日、私……はじめて雪をかいた」
「知ってる」とノアは言った。「隣にいた」
「掌が、まだ痺れてる」と私は言った。
私は、令嬢だった頃には知らなかったその痺れを、両の掌に握りしめた。
「前世の私は、いつも、暖かい会議室にいた」と私は言った。「図面を眺めて、畳めとか、伸ばせとか、決めてた。——雪なんて、一度もかいたことがなかった」
私は、火を見た。
「いまの私は、谷の人と肩を並べて雪をかいた」と私は言った。「——そのほうが、ずっといい」
ノアが、わずかに笑った。
「お前は、もう、見てるだけのコンサルじゃない」と彼は言った。
その言葉が、かじかんだ指先まで温かく届いた。
また「見ているだけ」で終わること。それが、前世からの私の恐れだった。今日、私は、その恐れを雪の中に置いてきた。
ノアが帳場を出ていき、私は一人になった。
囲炉裏の火が、低く揺れていた。卓の上には、ヨナスの四行と、十二の谷のリストと、符牒の写しが並んでいた。明るい場所へ続く、何本もの細い糸が。
私は、手帳を開いた。三行の下に、四行目を書き足した。
——奪う繁栄は、いつか自分の番が来る。分かち合う繁栄は、誰の番も来ない。
筆を止めて、私は、その一行を見た。
今日、谷の人々が、雪をかきながら私に教えてくれた言葉だった。
戸の外で、井戸の湯気が、夜の冷気の中で揺れていた。
奪わずに戻した湯。ヨナスが取り戻した湯。今日、谷の人々が雪をかいて守った道。そして、テオドールが目を離せなかった、土から立つ白い湯気。——同じ湯気が、いま、いくつもの場所で、まっすぐ立っていた。
冬は、まだ、終わらなかった。
けれど、雪の中に、一本の道が、開いていた。
市へ続く、谷の人々の鋤の道。そして、もう一本——テオドールが嘘をつかないと約束した、明るい場所への細い道が。
私は、囲炉裏端の手帳を閉じた。
卓の隅で、今朝の白湯が、まだ欠けた湯飲みの底に残っていた。
昨夜、テオドールが飲まずに置いていった、あの冷めた白湯だった。私は、それを捨てずにいた。湯気の消えたその白湯が、欠けた縁の上で、まだ誰かの帰りを待つように静かに澄んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。記念すべき第百話、そして第九章の神回②です。
この回でいちばん書きたかったのは、テオドールという男のことでした。彼はセラの鏡像です。前世のセラが二百軒の旅館を分析しながら、畳めと告げたその宿の女将の顔を、一度も見に行かなかった——その影が、テオドールなのです。だから私は、彼を急がせたくありませんでした。悪役にして倒すのではなく、改心させて味方につけるのでもなく。彼が「私は、間違っていない」と踏みとどまったまま、それでも井戸の湯気が目に焼きついて離れない——その、論理と心のあいだの裂け目だけを、丁寧に描きたかったのです。
セラは、彼を論破して勝つのではありません。谷の人々が、誰に命じられたのでもなく、めいめいの鋤を担いで雪をかきに来る。その合力の白い息が、テオドールの効率の図のどこにも収まらない。彼を動かしたのは、セラの弁舌ではなく、雪をかく人々の、効率に入らない湯気でした。鏡像の男が、自分の論理の外へ半歩だけ足を踏み出す——その半歩を、説明せず、握られた指と、低くなった声と、土から立つ湯気で置いたつもりです。
そして、まだ何も勝っていません。報復は跳ね返しましたが、ゾンネフェルトは健在で、テオドールは味方になったわけでもない。ただ「嘘はつかない」と約束しただけ。けれど、その約束が、明るい場所への、一本の細い道を開きました。次章、その道の先で、奪われた人たちが一つの場所に集まります。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




