第99話: 誠実な人の、目
古い紙の、かび臭い匂いがした。
マリカが運んできた文を開いた私の鼻が、最初に拾ったのはそれだった。蝋の匂いではない。封の奥から立つ、何年も湿った蔵で眠っていた帳面の匂い。
誰かがずっと隠していた匂いだ、と私は思った。
「セラさん」とマリカが言った。「王都の伝手が写してくれました。ゾンネフェルト家が出資した湯の、リストです」
私は、その紙を卓に広げた。
名前が、いくつも並んでいた。碧泉宮。それから、私の知らない湯の名が、上から下まで隙間なく続いていた。
「ザイデルが、ありました」と私は言った。
指で、その一行を押さえた。ジルケさんの、湯気のない谷。
「リンドヴァルも」と私は言った。「ヨナスの、村も」
私は、指を上から下へ滑らせた。一つ、また一つ。名前を辿るたびに、指の腹が冷たくなった。
「全部で」と私は言った。「いくつ?」
「数えました」とマリカは言った。「十一です。碧泉宮を入れて、十二」
その数が、帳場の空気の上に、静かに落ちた。
十二の谷。十二の、ザイデル。
「みんな」と私は言った。「同じ家に、湯を抜かれた谷」
「ええ」とマリカは言った。「リストの上では、ただの供給先です。けれど——一つひとつが誰かの暮らした谷でしょう」
彼女の濃紺の目が、リストの上で暗く沈んだ。
私は、その十二の名前を、もう一度上から見下ろした。
昨夜、私は手帳に三行を書いた。ゾンネフェルト。明るい場所へ。奪われた人ごと。
その三行目が、いま目の前で十二の名前になっていた。
束ねるとは、この十二を訪ねて回ることだった。一つひとつの谷に、もう一度望めと言って回ること。ハンナさんの言葉が、まだ肩に乗ったままだった。
「マリカさん」と私は言った。「この十二のうち、人が残っているのは」
「わかりません」とマリカは言った。「リストには湯の名しかありません。誰が住んでいるか、誰が出ていったかは——行ってみないと」
「行ってみないと、わからない」と私は繰り返した。
その言葉が、口の中で重かった。
ノアが、卓の向こうから口を開いた。
「全部は回れないぞ」と彼は言った。「冬が来る。山が雪で閉じれば、ザイデルの先にはもう行けない」
「わかってる」と私は言った。
「俺は、リンドヴァルを離れられない」と彼は言った。「ヨナスへの伝授がまだ途中だ。地脈の読みは、一冬じゃ渡せない」
彼の言う通りだった。
ノアは一人で、ザイデルとリンドヴァルに同時には立てない。私たちの手は、十二の谷に届くには、あまりに少なかった。
机の上では、十二の名前が一枚に収まる。けれど、その十二は、雪と山に隔てられてばらばらに散っていた。
「だから」と私は言った。「全部を、私たちが回るんじゃないんです」
ノアが、私を見た。
「束ねる、っていうのは」と私は言った。「私が十二の谷を歩くことじゃない。——向こうから、声をこっちへ届けてもらうことです」
私は、卓の上のリストに手を置いた。
ちょうどそのとき、エミールさんが帳場の戸を、あわてた様子でくぐってきた。
手に、一通の粗末な紙を握っていた。封もない、折りたたんだだけの紙。
「セラさん」と彼は言った。「リンドヴァルのヨナスから。使いの者が置いていきました」
私は、その紙を受け取った。
ザイデルの伝手とは違う、安い紙だった。墨が薄く、字が大きく、ところどころ掠れていた。湯守の少年が慣れない手で書いた字だった。
広げると、たった三行だった。
——女将さん。じいちゃんが、湯に毎朝、手を合わせてる。
——おれも、教わってる。地脈の読み方。むずかしい。
——いつか、おれが、ほかの谷の湯も、戻せるようになるか。
その三行を、私はしばらく見ていた。
「いつか、ほかの谷の湯も」——ヨナスが、自分から書いてきた。どうせまた涸れる、と達観の仮面を被っていた少年が。
その仮面の下から、十二歳の声が紙の上に滲んでいた。
「ヨナスが」と私は言った。「自分から、ほかの谷を、って」
「ええ」とエミールさんが言った。「驚きました。あの子が、自分の村のことだけでなく」
私は、その三行に、指でそっと触れた。
束ねる、というのは、こういうことだった。私が呼びかけるのではない。湯を取り戻した者が、次の湯のことを、自分から思いはじめる。その芽が、リンドヴァルで一つ、立ち上がっていた。
私は、卓の上のリストの隣に、ヨナスの三行を並べて置いた。
王都の伝手が写した、整った十二の名前。その隣に薄墨の、掠れた三行。
二枚の紙は、まるで釣り合っていなかった。けれど、私には、その薄墨の三行のほうがずっと重く見えた。
「マリカさん」と私は言った。「リストの十二に、一つずつ文を出せますか。私たちが誰かを知らなくても」
「出せます」とマリカは言った。「湯の名がわかれば、近くの市の宿を当たれます。仲居の伝手は王国中に、細く伸びていますから」
「お願いします」と私は言った。「『あなたの谷の湯も、奪われたのではないか』と。——一行でいい」
マリカが、頷いた。
「返事は、来ないかもしれません」と彼女は言った。「諦めた人は、文を開きもしません」
「いいんです」と私は言った。「百のうち、一でいい。一人でもまだ望みを捨てていない人がいれば」
私は、リストの十二を、もう一度見渡した。
「その一人を」と私は言った。「明るい場所まで、連れていく」
マリカは、リストを丁寧に折りたたんで、懐に収めた。
「市へ降ります」と彼女は言った。「文は、私が書きます。仲居の文は——客の心を三手先まで読みますから」
久しぶりに、彼女の口元に、薄い職人の笑みが浮かんだ。
マリカが市へ発ち、ノアがリンドヴァルへ戻る支度に立った。帳場に、私とエミールさんと、囲炉裏端のハンナさんが残った。
卓の上には、十二の名前とヨナスの三行が、隣り合って置かれていた。
その静けさの上に、ふいに馬の蹄の音が落ちた。
雪を踏む、整った蹄の音だった。ディートリヒさんの急いだ駆け方ではない。一定の、礼儀正しい歩み方だった。
その音だけで、私は誰が来たのかを察した。
エミールさんが、窓の外を覗いて、息を詰めた。
「セラさん」と彼は言った。「王室の、官服です」
戸が、開いた。
濃紺の官服に雪を散らした男が、丁寧に頭を下げて帳場に入ってきた。栗色の短髪を几帳面に整えている。後ろめたさのない、まっすぐな鳶色の目だった。
テオドール・カルム。リンドヴァルの湯気を、その目で見た男だった。
「ルヴェール殿」と彼は言った。「お久しゅうございます」
声を荒らげない、穏やかな挨拶だった。悪意の気配のない清潔な声だった。
「カルム殿」と私は言った。「——御用達の、催促ですか」
彼は、わずかに首を横に振った。
「いいえ」と彼は言った。「検分です。御用達の候補地が、いまどういう状況にあるか。——財務部の務めとして見に参りました」
私は、彼の指先を見た。書類しか触らない綺麗な指だった。
「状況、ですか」と私は言った。「ご覧の通りですよ」
私は、卓の上の三枚の通達を、彼のほうへ少し滑らせた。
「税の特別査察」と私は言った。「営業認可の更新保留。街道整備からの、除外」
テオドールは、その三枚に目を落とした。
「これが、御用達を断った谷に降る検分の中身です」と私は言った。「あなたの務めの、結果です」
彼の指が、三枚の通達の上で、ほんの一瞬、止まった。
「これは」と彼は言った。「私の所掌では、ありません」
いつもの、触れない言い方だった。碧泉宮がなぜ涸れたか、と訊いたときと、同じ口調だった。
けれど、その一拍が、これまでより、わずかに遅かった。
「所掌では、ない」と私は言った。「ええ。あなたは知らされていない。御用達の甘い盆だけを持たされて。——盆の下で誰が谷を締め上げているか、教えられていない」
テオドールは、答えなかった。
彼の綺麗な指が、官服の袖の中で静かに握られたのが見えた。
帳場が、しん、と静まった。
無音が、囲炉裏の火の上にゆっくりと降りた。私と彼の間に、雪解けのように冷たい沈黙が積もった。
その沈黙を破ったのは、囲炉裏端のハンナさんだった。
「お役人さん」とハンナさんは、火を見たまま言った。「白湯でも、飲んでいきなさい」
彼女は、欠けた湯飲みに白湯を注いで、卓の端に置いた。湯気が、まっすぐ立った。
憎い客にも、迷う客にも、白湯は出す。それが、この谷の女将の作法だった。
テオドールは、その白湯を、少しの間、見ていた。
それから、丁寧に頭を下げて卓の前に腰を下ろした。湯気が、彼の整った顔の前でゆらりと揺れた。
彼の目が、その湯気から、しばらく離れなかった。
リンドヴァルの井戸の湯気を、彼は思い出しているのだ、と私は思った。
奪わずに戻した、たった一本の湯気。彼の信じた前提を初めて崩した湯気。それがいま、目の前の白湯の湯気に重なっているのかもしれなかった。
彼は、その湯気から目を逸らすように卓の上の二枚の紙へ視線を移した。
十二の名前と、ヨナスの三行だった。
「これは」と彼は言った。「何の、リストですか」
私は、隠さなかった。隠して得るものは、何もなかった。
「ゾンネフェルト家が、湯を抜いた谷の一覧です」と私は言った。
その名前を、私は彼の目の前で、はっきりと口にした。
テオドールの目が、ほんの一瞬、揺れた。栗色の眉が、わずかに寄った。
「ゾンネフェルト侯爵は」と彼は言った。「王室財務の、出資者のお一人です。湯を抜く、というのは——」
「言い方の問題じゃ、ありません」と私は言った。
私は、十二の名前を指で押さえた。
「この十二の谷が、同じ年にいっせいに涸れました」と私は言った。「ノアが波形で確かめた。自然の枯渇じゃない。同じ手で、同じ年に抜かれた跡です」
「波形、ですか」と彼は言った。
「あなたは、知らないでしょう」と私は言った。「栄える湯へ配分するのが最善だと、誠実に信じてきた。——でも、その配分の元手がこの十二の谷から抜かれた湯だとは誰も教えてくれなかった」
テオドールは、白湯の湯飲みに、手をかけなかった。
「私は」と彼は言った。「限られた魔力を、最も多くの民が恩恵を受ける湯へ。それが——」
「最善だと、信じている」と私は、彼の言葉を継いだ。
彼が、私を見た。鏡像の目だった。私が前世で、何度も鏡の中に見た目だった。
「私も、そうでした」と私は言った。「前世で二百軒の旅館を見ました。どこに金を入れれば栄えるか、どこを畳めば損が止まるか。——全部、数字で割り出せた」
「畳む、ほうの数字を」と私は言った。「私は何度も出しました。この宿は見込みがない。畳むのが最善だ、と」
私は、卓の上のヨナスの三行を見た。
「その数字の向こうに、誰がいたか」と私は言った。「私は一度も見に行かなかった。畳めと言ったその宿で、最後の女将がどんな顔で立っていたか——一度も」
テオドールの指が、白湯の湯飲みの縁に、そっと触れた。
けれど、持ち上げはしなかった。
「あなたの、最適配分は」と私は言った。「正しい。数字の上では、たぶん一度も間違っていない。——私のも、そうでした」
「でも」と私は言った。「その正しさが十二の谷を涸らした。私の正しさがいくつの宿を畳ませたか——いまは、数えるのも怖い」
私は、顔を上げて、彼をまっすぐ見た。
「あなたの正しさは、間違っていない」と私は言った。「ただ——その正しさの下で、誰が湯を失ったか。あなたは見たことが、ありますか」
ここからは、テオドールが見ていた。
白湯の湯気が、私の顔の前で、まっすぐ立っていた。
リンドヴァルの、あの井戸の湯気と同じ立ち方だった。あの斜面で、私は確かに見た。涸れたはずの井戸に湯気が戻る瞬間を。奪わずに、どこも犠牲にせず。
あの湯気は、私の整然とした論理の、どこにも収まらなかった。
限られた魔力を最も栄える湯へ。私は十年そう信じてきた。その論理で、若い頃に一つの村を畳んだ。共倒れを避けるための、正しい配分だった。
いまも、それが間違っていたとは、思わない。
けれど——目の前の卓には、十二の名前があった。私が「栄える湯」と呼んでいたものの、その元手が、この十二だったとしたら。
女将の言葉が、私の体の真ん中に冷たく残った。
その正しさの下で、誰が湯を失ったか、見たことがあるか。
私は、見ていない。配分の図しか見ていない。村を畳んだあの日も、私は最後まで、その村の女の顔を見に行かなかった。
白湯の湯飲みを、私は持ち上げられなかった。
持ち上げて口をつけてしまえば、この谷の女将の作法を受け入れることになる。憎い客にも白湯を出す、その温かさを。——私が、十年かけて勘定の外に置いてきたものを。
湯気が、まだ、まっすぐ立っていた。
私は、間違っていない。
効率では、共生モデルは差配に勝てない。遅く、湯量は控えめで、土地を選ぶ。王国の数百の湯をあれで賄えるはずがない。それはリンドヴァルで自分の目で確かめた。私の論理はいまも崩れていない。
崩れていない。——ただ。
ただ、あの井戸の湯気が、目に焼きついて、離れない。
ここからは、再び、セラが見ていた。
テオドールは、長いこと、白湯の湯気を見ていた。
彼の鳶色の目に、いつもの整然とした光が一拍だけ揺らいだ。けれど彼はそれをすぐに鎮めた。誠実な人間が自分の論理を守ろうとする、その鎮め方だった。
「ルヴェール殿」と彼は言った。「私は、間違っていません」
「ええ」と私は言った。「知っています」
彼が、少し、意外そうな顔をした。
「あなたは、間違っていない」と私は言った。「あなたの効率は正しい。私の谷の湯は、遅くて、控えめで、土地を選ぶ。王国の数百の湯を、私のやり方ではまだ賄えない。——それも、知っています」
「では」と彼は言った。「なぜ、続けるのですか。勝てない戦いを」
その問いに、私はすぐには答えなかった。
私は、卓の上のヨナスの三行を彼のほうへ滑らせた。薄墨の、掠れた字を。
「これを、読んでくれますか」と私は言った。
テオドールは、その三行に目を落とした。
女将さん。じいちゃんが、湯に毎朝、手を合わせてる。おれも、教わってる。地脈の読み方。むずかしい。いつか、おれが、ほかの谷の湯も、戻せるようになるか。
彼の目が、最後の一行で、止まった。
「これを書いたのは」と私は言った。「リンドヴァルの湯守の、生き残りです。十二歳。——あの井戸に湯が戻った、村の子です」
テオドールは、その三行から、目を上げなかった。
「効率では」と私は言った。「この子の一筆は何の数字にもなりません。一本の井戸。一人の子供。あなたの王国の数百の湯の、どこにも勘定されない」
「でも」と私は言った。「この子は、自分の村の湯が戻ったから、次はほかの谷の湯を戻したいと思ったんです。——奪わずに戻すやり方は、その心も一緒に渡す」
私は、テオドールの綺麗な指を見た。
「奪うやり方は」と私は言った。「湯は集まる。でも、奪われた村の子は二度とほかの谷の湯を思いません。奪われた者は、奪い返すことしか考えなくなるから」
テオドールの指が、ヨナスの三行の縁で、止まった。
「あなたの効率は」と私は言った。「湯を、いちばん多く集める。私のやり方は、遅い。——でも、湯と一緒にこういう子を谷の数だけ育てます」
私は、白湯の湯気を見た。
「どちらが、王国全体の益か」と私は言った。「百年先まで数えたら——本当に、あなたのほうですか」
テオドールは、答えなかった。
彼の鳶色の目が、ヨナスの三行と十二の名前と白湯の湯気のあいだをゆっくりと行き来した。誠実な人間の頭が、いつもの帰結を一つ辿り直そうとして辿り切れずにいる。それが表情でわかった。
いつもの理屈が、一拍、遅れていた。
「ルヴェール殿」と彼は、ようやく言った。「あなたは——」
その言葉を、彼は、言い切らなかった。
言いさしのまま、彼は、卓の上の二枚の紙を、もう一度見た。整った十二の名前と、掠れた三行を。
戸の外で、馬の足音が、また一つ近づいてきた。
今度は、整った歩みではなかった。複数の蹄が、雪を乱して急いでいた。
エミールさんが、窓を覗いて、顔を強張らせた。
「セラさん」と彼は言った。「査察の役人です。——また、増えてる」
テオドールが、立ち上がった。
窓の外を、彼も見た。三人の役人が雪を蹴立てて、谷の口から近づいてくるのが見えた。手に、新しい書面を握っていた。
「あれは」とテオドールが、低く言った。「街道整備の、再査定の使いです」
「再査定?」と私は訊いた。
「街道から外された谷は」と彼は言った。「次の冬に、雪かきの人夫も回されなくなります。——谷の口が、雪で塞がれば」
彼は、そこで、言葉を止めた。
その先を、言わなかった。けれど、私には、その先がわかった。
谷の口が雪で塞がれば、市へ降りられない。マリカが文を出せない。客も来られない。十二の谷の声を束ねる前に、谷そのものが雪に閉じ込められる。
報復は、税と認可だけではなかった。冬そのものを、向こうは、刃に変えようとしていた。
「カルム殿」と私は言った。「これも、あなたの所掌ではないんですか」
テオドールは、すぐには答えなかった。
彼の指が、官服の袖の中で、また、静かに握られた。
「……これは」と彼は言った。「ゾンネフェルト侯爵の、ご差配です」
初めて、彼の口から、その名前が出た。
所掌ではない、と逃げる代わりに。彼は、自分の上に立つ家の名を、私の前で、認めた。
それが、誠実な人間の、ぎりぎりの一歩だった。嘘を、つけなかったのだ。
「侯爵は」と彼は、低く言った。「『辺境の宿が一つ栄えるのは結構だが、盤を引っくり返そうとはなさらぬことだ』と。——私は、その言葉をただ運んでいるだけです」
彼の声に、初めて、わずかな苦みがあった。
運んでいるだけ。——盆を持たされ、盆の下を知らされない男の苦みだった。
「あなたは」と私は言った。「その盆を、いつまで運びますか」
テオドールは、私を見た。
その目に、もう、後ろめたさのない光はなかった。揺れていた。彼が十年守ってきた論理の縁が、初めて雪解けのように崩れかけていた。
けれど、彼は、踏みとどまった。
「私は」と彼は言った。「自分の仕事を、します。それが王国の務めです」
彼は、丁寧に頭を下げた。
「白湯を、ありがとうございました」と彼は、ハンナさんに言った。「——いただかずに、失礼します」
卓の上の白湯は、一口も飲まれないまま、湯気だけを、まっすぐ立てていた。
テオドールが、戸口で、一度だけ振り返った。
「ルヴェール殿」と彼は言った。「あの子の文は——」
彼は、また、言い切らなかった。
ヨナスの三行のことだ、と私は思った。彼は、それについて何か言いたかった。けれど、言葉が見つからなかったのだ。
「いつか、聞かせてください」と私は言った。「あの三行を読んで、あなたが何を思ったか」
テオドールは、答えなかった。
ただ、もう一度深く頭を下げて、雪の中へ出ていった。整った蹄の音が、谷の口のほうへ遠ざかっていった。
戸が閉まると、帳場に、また沈黙が降りた。
今度の沈黙は、冷たいだけではなかった。何かが、その冷たさの中でわずかに揺れていた。テオドールが残していった、揺らぎのようなものだった。
「お嬢」とハンナさんが、火を見たまま言った。
「あの役人さんは」と彼女は言った。「白湯を、飲まなかったね」
「ええ」と私は言った。
「でも」とハンナさんは言った。「湯気は、ずっと見てた。——飲まない客が湯気を見るときは、迷ってる客さ。ローザ様が、そう言ってた」
彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。
迷っている客。
私は、テオドールの揺れた鳶色の目を思い出した。彼の論理は崩れていなかった。彼は引かなかった。けれど彼は、白湯の湯気から目を離せなかった。
誠実な人は、嘘がつけない。自分の心の揺れにも。
エミールさんが、窓の外を見て、声を落とした。
「セラさん」と彼は言った。「三人の役人が谷に入ってきます。街道の、再査定だと」
彼の声に、また、語尾の消える癖が、戻りかけていた。
「冬が」と彼は言った。「谷の口が塞がれば、私たちは……」
「わかってます」と私は言った。
報復は、次の山へ登ろうとしていた。税。認可。そして、冬そのもの。向こうは谷を雪ごと閉じ込めにかかっていた。束ねる前に、声を雪で埋めにかかっていた。
私は、卓の上の十二の名前とヨナスの三行を見た。
「エミールさん」と私は言った。「街道の再査定、いつ来ます?」
「明日には」と彼は言った。
「なら」と私は言った。「今夜のうちに、マリカさんを市へ降ろします。文だけは、谷が塞がる前に出させる」
私は、立ち上がった。窓の外の、雪を蹴立てる三つの影を見る。
冬が来る。谷の口が塞がる。けれど、その前に、十二の谷へ声を投げる。一本でいい。明るい場所へ繋がる細い糸を、雪に埋まる前に。
その夜、私は、囲炉裏端に一人で残った。
卓の上に、三枚の紙を並べた。十二の名前。ヨナスの三行。そして、テオドールが触れもしなかった冷めた白湯。
白湯は、もう、湯気を立てていなかった。
欠けた湯飲みの底で、ひっそりとぬるくなっていた。テオドールが、いただかずに、と置いていった白湯だった。
私は、それを、捨てなかった。
いつか、あの人が、この白湯を飲む日が来るだろうか、と思った。
効率の正しさを、まだ手放さないまま。けれど、湯気から目を離せないまま。——あの誠実な人が、いつか自分の論理の外へ、半歩でも足を踏み出す日が。
その半歩が、いつ来るのかは、わからなかった。
戸の外で、井戸の湯気が、夜の冷気の中で揺れていた。
奪わずに戻した湯。ヨナスが取り戻した湯。十二の谷が失った湯。そして、テオドールが見つめた白湯の湯気。——同じ湯気が、いまいくつもの場所で、まっすぐに立っているはずだった。
明日には、雪が、その湯気を、谷ごと閉じにかかる。
私は、手帳を開いた。昨夜の三行の下に、もう一行、書き足した。
——十二の谷へ、声を投げる。雪が、閉じる前に。
筆を止めて、私は冷めた白湯の湯飲みを卓の隅にそっと寄せた。湯気の消えたその白湯が、まだ誰かの帰りを待つように、欠けた縁の上で静かに澄んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第九章、神回②(次話の「谷を守る山/テオドールの転機」)の、ちょうど一段下の土台になる回でした。前話で「奪われた人ごと束ねる」という戦い方が言葉になりましたが、言葉と、実際に十二の谷へ声を投げることのあいだには、雪のように深い距離があります。本話は、その距離に初めて足を踏み入れる回です。
書いていていちばん大事にしたのは、テオドールという人を、急がせないことでした。彼は誠実な合理主義者で、セラの鏡像です。前世のセラが二百軒を分析しながら、畳めと告げたその宿の女将の顔を一度も見に行かなかった——その影が、テオドールです。だから彼は、白湯の湯気を見つめながらも、まだ引きません。「私は、間違っていない」と踏みとどまる。けれど、誠実な人は、嘘がつけない。自分の論理の縁が崩れかけていることにも。その揺らぎを、台詞で説明せず、握られた指や、一拍遅れる理屈や、飲まれなかった白湯で、そっと置いたつもりです。
ヨナスの三行の手紙は、この回でいちばん書きたかったものでした。効率では何の数字にもならない一本の井戸、一人の子供。けれど「奪わずに戻すやり方は、その心も一緒に渡す」——それが、遅くて土地を選ぶ共生モデルの、たった一つの強みです。百年先まで数えたら、本当に効率のほうが正しいのか。その問いを、テオドールの目の前に、薄墨の三行で置きました。
そして話の終わりには、報復が次の山へ登りはじめます。税と認可だけでなく、冬そのものが刃になる。谷の口が雪で塞がれば、束ねる前に声が埋もれてしまう。次回は、その雪に追い詰められた谷が、どう抗うのか——そして、湯気から目を離せなかったあの人が、どこへ足を踏み出すのか。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




