第98話: 盤の絵を、囲炉裏端で
墨の匂いがした。
翌朝、帳場の卓に身を屈めた私の鼻が最初に拾ったのはそれだった。湯気でも雪でもない。乾きかけた墨と、古い紙の少しかび臭い匂いだった。
卓の上に、いくつもの紙が広げてあった。
三枚の通達。マリカが王都から取り寄せた古い帳面の写し。ディートリヒさんが持ってきた、十年前の商務省の通達。そして、私が昨夜書きつけたばかりの一行——ゾンネフェルト。
その名前のインクだけが、まだ新しかった。
ほかの紙はみな、どこかかび臭い昔の匂いを纏っていた。古い悪事の匂いだ、と私は思った。
「お嬢」とハンナさんが、囲炉裏のほうから言った。「朝餉も食わずに、何をにらんでるんだい」
「絵を、見てるんです」と私は言った。
「絵?」
「まだ、半分しかない絵」と私は言った。「——足りない線を足してくれる人を、呼びました」
馬の蹄が、雪を踏む音が谷の口から近づいてきた。
ディートリヒさんだった。砂色の短髪に雪を散らし、革の書類鞄を抱えて帳場の戸をくぐった。私が朝のうちに使いを出していた。マリカも霧亭から来た。エミールさんは、もとより帳場の隅で督促の書面を書いている。
谷の手札が、一つの囲炉裏端に揃った。
「集まってもらったのは」と私は言った。「ヴィクトールが、ひとつ名前を置いていったからです」
みなの目が、卓の上の新しいインクへ落ちた。
「ゾンネフェルト」と私は言った。「彼は、それだけ渡して去りました。三代にわたって王室財務に食い込む筆頭家。差配の盤をいちばん古くから握る本体だと」
「ヴィクトール卿が、自分の口で」とディートリヒさんが言った。
「ええ」と私は言った。「自分は末端の請負人だった、と。盤の全容は知らない、と。——渡せるのは、本体がどこにいるかという方角だけだ、と」
ディートリヒさんが、わずかに目を伏せた。
「あの人らしい」と彼は、低く言った。
「らしい?」と私は訊いた。
「ヴィクトール卿は」とディートリヒさんは言った。「いつも、自分の手の届く一角しか見ていなかった。碧泉宮を自分の盤だと思い込んでいた。その人が、自分は駒だったと認めた。よほどこたえたのでしょう」
彼はそれを、皮肉でも憐れみでもない声で言った。かつて同じ盤の上で、自分も駒の一枚だった者の声だった。
「ハイネ殿」と私は言った。「あなたの記録は、その方角と合いますか」
ディートリヒさんは、革の鞄から数枚の写しを取り出した。卓の上の古い紙の隣に、それを並べた。
「合います」と彼は言った。「いえ——」
彼は、写しの一枚を指で示した。
「合いすぎる、と言うべきです」と彼は言った。
その写しは、十年以上前の商務省内部の通達だった。辺境の地脈処理についての、口頭の指図を文字に起こしたもの。誰の名も表には出ていない。けれど、欄外に小さな符牒のような記号が並んでいた。
「この符牒は」とディートリヒさんは言った。「当時、命令がどの家を経由したかを控える、私たち手駒の符牒です」
「家を、経由?」とエミールさんが、書面の手を止めて言った。
「ええ」とディートリヒさんは言った。「辺境の処理は、商務省が勝手に決めるのではありません。出資した家々の意向が口頭で降りてくる。その意向がどの家を通って来たか。それを、この符牒が記しています」
彼は、いちばん奥の符牒を指で押さえた。
「この記号が、いつも一番奥にありました」と彼は言った。「私は、その家の名を知らなかった。昨日まで」
「ゾンネフェルト」と私は言った。
「ゾンネフェルト」とディートリヒさんは頷いた。「符牒とヴィクトール卿の証言が、初めて一つの名前で結ばれました」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
卓の上で別々だった二枚の古い紙が、いま一本の線で繋がりかけていた。
「マリカさん」と私は言った。「あなたの帳面は」
マリカが、懐から例の裏帳簿の写しを出した。翡翠殿の、顧客名簿を装った魔力供給先のリスト。
彼女はそれを、ディートリヒさんの符牒の隣に置いた。三枚目の紙だった。
「翡翠殿の裏帳簿には」とマリカは言った。「魔力を引いた先が、いくつも書いてあります。碧泉宮。それから、私が名も知らない湯が、いくつも」
彼女は、リストの一行を指でなぞった。
「その供給先のどこにも」と彼女は言った。「出資した家の名前は、書かれていません」
「書かれて、いない?」と私は訊いた。
「ええ」とマリカは言った。「金の出どころは、どこにも記されていません。誰が出資して、誰が儲けているか。それだけが、帳面のどこにもないのです」
その声に、王都仕込みの仲居の職人の確信があった。
「帳面というものは」と彼女は言った。「書いてあることより、書いていないことのほうが雄弁です」
その一言が、私の胸の奥で小さく光った。
書いていないことのほうが、雄弁。
ヴィクトールの言葉が、それに重なった。あの家は、表に何の証拠も残さない。私を切ったときも、何一つ自分の手は汚さなかった。
符牒には、家の名がない。帳面には、金の出どころがない。——それは、抜け落ちているのではなかった。意図して、消されていた。
「わざと」と私は言った。「名前を、残さなかったのね。どの紙にも」
「そう見えます」とマリカは言った。「翡翠殿の支配人は几帳面な人でした。客の好みは爪の色まで控える人です。その人が、出資元だけを書かなかった。書けなかった、というほうが近いかもしれません」
マリカの濃紺の目が、火の明かりで暗く沈んだ。
ここからは、マリカが見ていた。
私は、卓の上に三枚の紙が並ぶのを上から見下ろしていた。
翡翠殿で、私は何度この種の帳面を書いただろう。客の名。湯の量。届けた酒。なんでも書いた。書くことが、仲居の誇りだった。けれど、ある一行だけは支配人が自分の手で書いた。私には、書かせなかった。
いま、その一行がどこにも無いことの意味がようやくわかる。
あれは、私を守るためではなかった。
あの一行を私が知らずにいれば、いつでも私を切り捨てられる。私は、支配人にとってのいつでも払える駒だった。ヴィクトール卿が、ゾンネフェルトにとってそうだったように。
翡翠殿を逃げ出したとき、私は自分が裏切られたと思っていた。
違った。私は、裏切られたのですらない。最初から、勘定の外に置かれた一枚の駒だっただけだ。
その冷たさを、私はいま女将殿の隣でもう一度なぞっている。
けれど、不思議と、昔ほど痛くはなかった。あの頃の私は、一人で帳面を抱えていた。いまは、同じ卓を囲む人がいる。書いていないことを、雄弁だと聞いてくれる人がいる。
駒は、一人なら、いつでも切られる。けれど、駒同士が手を取り合えば——その先のことは、まだわからない。
ここからは、再び、セラが見ていた。
マリカが、わずかに息を吐いて写しから手を離した。
「セラさん」と彼女は言った。「私の帳面も、ハイネさんの符牒も、ヴィクトールの証言も——どれも、名前を指していません。みんな、ゾンネフェルトの周りを輪っかになぞっているだけです」
「真ん中だけが、空いてる」と私は言った。
「ええ」とマリカは言った。「空いている真ん中に、あの家がいる。——でも、それを指す紙は、一枚も無い」
囲炉裏の火が、低く揺れた。
私は、卓の上の絵を見た。三枚の紙が、輪を描いていた。その輪の真ん中だけが、ぽっかりと空いていた。空白こそが、本体の形だった。
敵は、自分の輪郭を決して紙に残さない。周りの紙が指し示すその空白が、ゾンネフェルトの座っている椅子だった。
「ノア」と私は言った。「あなたの線は、どこに引ける?」
ノアは、ずっと腕を組んで卓を見ていた。地脈学者の彼が、こういう紙の戦いで言葉を挟むのは珍しかった。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「俺が読めるのは湯だけだ」と彼は言った。「金の流れも家の符牒も、わからない。だが、湯は嘘をつかない」
「湯は、嘘をつかない?」と私は訊いた。
「各地の涸れ方を、波形で突き合わせた」とノアは言った。「リンドヴァル。ザイデル。裏帳簿に名のある、ほかの湯も。——涸れた時期が、ばらばらじゃない。同じ年に、いくつもの谷がいっせいに涸れてる」
彼は卓の隅に、指で見えない線を引いた。
「自然の枯渇なら、こうはならない」と彼は言った。「同じ手で、同じ年に、いっせいに抜いた跡だ。——これは誰か一人にできる仕事じゃない。組織が要る」
その言葉が、卓の絵に新しい線を足した。
符牒は、家の経由を指す。帳面は、供給先を指す。そしてノアの波形は、それが組織的な一斉の仕事だったことを指す。
別々の人が、別々の場所で別々のものを見ていた。なのに、その線がいま、囲炉裏端で一つの絵を結びかけていた。
「絵が、見えてきました」と私は言った。
私は、卓の上に身を乗り出した。指で空白の周りの線を、一つずつ辿った。
「真ん中に、ゾンネフェルト」と私は言った。「三代にわたって王室財務に食い込む筆頭家。出資して儲けて、けれど名前は一切残さない。周りにヴィクトールのような請負人を何人も配して、各地の湯から魔力を抜かせる」
「請負人が、谷を枯らす」と私は続けた。「枯れた魔力は、栄える湯へ移される。碧泉宮へ。翡翠殿の客の宿へ。——栄える湯がますます栄えて、本体はその差配を握る者として皆に頭を下げさせる」
私は、三枚の通達の上に手を置いた。
「そして、用が済んだ請負人は」と私は言った。「ヴィクトールのように、卓から払われる。罪は全部、その駒一枚に着せて」
しん、と帳場が静まった。
無音が、囲炉裏の火の上にゆっくりと降りた。みなが、卓の上の絵を見ていた。私が言葉にしたその仕組みの、冷たさの全体を。
「——でかい絵だ」とノアが、その無音を破った。
「ええ」と私は言った。「私が二十年戦ったヴィクトールは、この絵の隅の一マスだったの」
エミールさんが書面を握ったまま、ぽつりと言った。
「私たちは」と彼は言った。「そんな……そんな大きな家を、相手にしてるんですか。井戸一本、戻しただけで」
声が、いつもの癖で語尾が消えかけた。けれど、彼はそれを途中で持ち直した。
「いや」と彼は言い直した。「——なぜ、です。なぜ、井戸一本に、筆頭家が直々に」
その問いに、私はしばらく答えなかった。
ヴィクトールの言葉が、私の中で蘇っていた。本体の権勢は、奪うしかないという前提の上に、立っている。あなたが奪わずに湯を戻せると示した瞬間、その前提が嘘になる。
その答えを、私は自分の言葉で言ってみたかった。
「私たちが」と私は言った。「奪わずに、湯を戻したからです」
みなが、私を見た。
「あの家の権勢は」と私は言った。「『湯は有限だ。栄える湯に集めるには、衰える湯から奪うしかない』——その前提の上に立っているんです。だから、差配する者として皆が頭を下げる。誰に湯を回すかを、あの家が決めるから」
「でも、リンドヴァルで」と私は言った。「私たちは、奪わずに湯を戻した。たった一本の井戸。けれど、奪わなくても湯は戻る、と示してしまった」
私は、火を見た。
「その瞬間、あの家の前提が嘘になる」と私は言った。「奪うしかない——が、嘘になる。そうなれば、あの家はただ湯を独り占めしている家になる。差配する者ではなく、ただ奪う者に」
「だから」とマリカが、静かに言葉を継いだ。「あなたを、潰さねばならない」
「ええ」と私は言った。「実例が、広がる前に。あの家の正しさが、嘘だと知れ渡る前に」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
その音が、しんとした帳場にやけに大きく落ちた。
「井戸一本が」とエミールさんが、呆然と言った。「あの家には……刃なんですか」
「いちばんの刃です」と私は言った。「税でも、認可でもなく。——奪わずに戻したという、その一事が」
エミールさんが、握っていた書面をそっと卓に置いた。その紙が、ほかの古い紙の隣で震えながら静まった。
「絵は、見えました」とノアが言った。「だが、セラ」
彼は卓の上の空白を、指で示した。
「ここを指す紙が、一枚も無い」と彼は言った。「絵は描けても、その絵を誰の前で広げる? ——この囲炉裏端の絵が、王都の役所で通るのか」
その問いが、帳場の温度を一段下げた。
彼の言う通りだった。
私たちの手には、輪っかになぞる紙しかなかった。符牒。帳面。波形。証言。どれも空白の周りを指すだけで、空白そのものを名指す紙ではない。ヴィクトールでさえ、証拠の山ではなく方角だけを渡したのだ。
この絵を王都の役所に広げても、向こうはこう言うだろう。「その真ん中は、空白でしょう」と。
「ハイネ殿」と私は言った。「この符牒は、証拠になりますか。役所で」
ディートリヒさんは、首を横に振った。
「なりません」と彼は言った。「これは、私たち手駒の覚え書きです。家の名は符牒でしか書いていない。『これはゾンネフェルトだ』と言えるのは、それを書いた私のような者だけ。私が証言しても、向こうは『一介の元事務官の妄言だ』で済ませます」
「マリカさんの帳面は」と私は言った。
「金の出どころが、書いていません」とマリカは言った。「供給先は指せても、出資元は指せない。——これも、本体を名指す紙には、なりません」
私は、卓の上の三枚をもう一度見た。
どれも、輪っか。どれも、本体に届かない。空白は、空白のままだった。
無力感が、囲炉裏の上にまた降りかけた。
けれど、私はそれを胸の途中で止めた。
前世で、私は何度もこの壁に当たった。決定打のない案件。証拠の足りない再建。そういうとき、私が二百軒で学んだことは一つだった。
——足りないなら、足りる場所まで、相手を動かす。
「動かないなら、動かす」と私は、口の中で言った。
ヴィクトールの最後の忠告が、その言葉に重なった。黙契は、闇でしか動けません。明るい場所では、黙契は使えない。あの家を、明るい場所へ引きずり出すことです。公の、手続きの場へ。
私は、顔を上げた。
「みんな」と私は言った。「この絵を、役所で通そうとするから、行き詰まるんです」
「どういう意味だ」とノアが訊いた。
「向こうの土俵で戦おうとしてる」と私は言った。「向こうは闇で動く。証拠を残さない。黙契で湯を回す。——その向こうの土俵で殴り合おうとするから、私たちはいつまでも輪っかしか描けない」
私は、卓の上の空白を指で押さえた。
「逆です」と私は言った。「向こうを、こっちの土俵に引きずり出す。——闇で動けない場所へ。黙契が使えない場所へ。あの家が、自分の口で、何か言わざるを得ない場所へ」
「明るい、場所」とマリカが、低く言った。
私は頷いた。「公の——手続きの場へ」
その言葉に、ディートリヒさんがはっと顔を上げた。
彼の事務官の頭が何かを素早く回し始めたのが、表情でわかった。
「セラフィーナ殿」と彼は言った。「公の手続きの場、というのは——もしや御用達のことを、言っていますか」
「そうです」と私は言った。「御用達を断る、でも受ける、でもなく。——御用達の『あり方』そのものを、公の場で問う」
「あり方を問う」とディートリヒさんは繰り返した。
彼の目に初めて、ただの記録係ではない何かの光が灯った。
「御用達の指定には」と彼は、ゆっくりと言った。「条件が付きます。湯の供給優先権を王室に握られる。その条件を、誰がどう決めるか。それを審議する場が、王国にはあります」
「審議する、場?」と私は訊いた。
「王国法務委員会です」とディートリヒさんは言った。「地脈保全令——導管術を禁じる、あの法。その運用を監督する権限を持つ合議の場です。御用達の条件についても、審議する権限がある」
その名前が、帳場の空気の中で初めて形を取った。
法務委員会。私が、エミールさんの陳情で一度名前を聞いた器だった。
「そこへ」と私は言った。「ゾンネフェルトを、引きずり出せますか」
「家を、直接は引きずり出せません」とディートリヒさんは言った。「あの家は、表に出ない。——けれど」
彼は写しの一枚を、指で示した。
「あの制度の根は、禁術です」と彼は言った。「導管術は地脈保全令で禁じられている。差配は、その禁術の上に立っている。——禁術に触れるなら、法務委員会はそれを審議の場へ引きずり出せます」
その言葉が、私の中で別の言葉と繋がった。
ローザさんの戦い方。潰す理由を、潰す理由じゃなくしてやる。
御用達を、潰しの道具にさせない。御用達の条件を、公の場で問い直す。差配の禁術性を突いて、闇の黙契を明るい審議の場に乗せる。——黙契の家が、表で口を開かざるを得ない場所を、作る。
「道が」と私は言った。「もう一本、見えました」
私は、卓の上の空白をもう一度見た。
その空白は、まだ、空白のままだった。けれど、その空白を埋める紙を集めるのではない。その空白に座る者を明るい場所へ引きずり出す——その戦い方が、初めて輪郭を結んだ。
「でも」とエミールさんが、おずおずと言った。「法務委員会に、訴えを起こすには……谷一つの声では、足りないのでは。あの大きな家を、引きずり出すには」
その問いに、私は、しばらく黙った。
彼の言う通りだった。リンドヴァルの井戸、一本。それだけで、王国の筆頭家を公の場へ引きずり出せるわけがない。
「足りません」と私は言った。「谷一つでは、足りない」
私は、卓の上の絵を見渡した。三枚の紙。それぞれが、別々の人の握る欠片。
その絵を見ているうちに、ふいに別の顔がいくつも浮かんだ。
ザイデルの、ジルケさん。湯気のない谷で、毎朝、汲まない水を汲み続ける老女。
リンドヴァルの、ヨナス。一度は諦め、いまは湯を守る側に回った湯守の生き残り。
オットーさん。戻ってきた離散民。——みな、この同じ盤の、別のマスで奪われた人たちだった。
「私たちだけじゃ、ないんです」と私は言った。
声が少しずつ、温度を帯びた。
「ザイデルにも、リンドヴァルにも、谷を奪われた人がいる。裏帳簿に名のある、ほかのいくつもの湯にも。——みんな、別々の場所で同じ家に、湯を抜かれた人たち」
私は、卓の上の空白を見た。
「その人たちは、いままで」と私は言った。「みんな、一人で奪われてきた。一人だから、切られても、誰も気づかなかった。ヴィクトールのように。マリカさんが、翡翠殿でそうだったように」
マリカが、わずかに目を伏せた。
「でも」と私は言った。「もし、その別々に奪われた人たちが、一つの場所に集まったら」
私は三枚の紙を、両手で卓の真ん中へ寄せた。
別々だった三枚が、空白の周りで肩を寄せ合った。
「一人の声は、妄言で済まされる」と私は言った。「ハイネ殿の符牒も、一人なら。でも——ザイデルの声と、リンドヴァルの声と、ハイネ殿の記録と、マリカさんの帳面と、ノアの波形が、同じ場所で、同じ家を指したら」
「輪っかが」とマリカが、息を呑んで言った。「——閉じる」
「ええ」と私は言った。「一本一本は、本体に届かない。でも、何本もの輪っかが、同じ空白を囲んだら。——その空白は、もう、空白じゃいられない」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
卓の真ん中で、寄せ集めた三枚の紙が初めて一つの形を囲んでいた。
「一人じゃ、無理」と私は言った。「井戸一本じゃ、無理。谷一つでも、無理」
私は、顔を上げた。みなの顔を、一つずつ見た。
「——だから、谷ごとじゃなくて」と私は言った。「奪われた人、ごと、行きます」
その言葉が帳場に、静かに、けれど確かに落ちた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
無言が、囲炉裏端に雪のように積もった。けれど、それは、底を打った夜の無言とは違っていた。何かが、みなの中で同じ方向を向き始めた無言だった。
「……ずいぶん、でかい話になったな」とノアが、ようやく言った。
「ええ」と私は笑った。「でかい話よ。でも、入り口だけは見えた」
「ハンナさん」と私は言った。「どう、思います」
ハンナさんは、ずっと囲炉裏の火を見ていた。私が訊くと、ふん、と鼻を鳴らした。
「ローザ様がね」と彼女は言った。「昔、言ってたよ。——『湯は、谷の数だけある』と」
その言葉に、私は、彼女を見た。
「『涸れた湯にも、息はある。聴いてやれる者がいないだけ』」とハンナさんは言った。「ローザ様は一人だったから、自分の谷の湯しか聴いてやれなかった。——でも、あんたは一人じゃない」
彼女は、卓の上の三枚の紙を顎で示した。
「谷の数だけの湯を聴ける者が、何人もいる」と彼女は言った。「それを束ねるのが、女将の仕事かもしれないね。——ローザ様には、できなかった仕事さ」
その言葉が、指先まで静かに伝わった。
ローザさんの遺言は、いつも私の戦い方になる。湯は、預かるもの。涸れた湯にも、息はある。——その言葉が、いままた、別の角度から私を照らしていた。
一人では、一つの湯しか預かれない。けれど、預かる者が束になれば、谷の数だけの湯を聴ける。
「でもね、お嬢」とハンナさんは、火を見たまま言った。「言うのは、たやすい。奪われた人を束ねるってのは——その人たちに、もう一度、望みを持たせるってことだよ」
彼女の声が、低くなった。
「ジルケさんは、望みを捨てて楽になった人だ」と彼女は言った。「ヴィクトールに切られたあんたの敵だって、もう何も信じちゃいない。——その人たちに、また望めと言うのは、酷なことかもしれないよ」
その言葉が、私の高ぶった胸を一度、静かに押し止めた。
ハンナさんの言う通りだった。ジルケさんは、戻せないと告げられて、よかったと言った。望みを持たされるより、楽じゃ、と。——その人に、もう一度、立ち上がってくれと言うのか。
束ねる、という言葉の重さが初めて私の肩に乗った。
「……そうですね」と私は言った。「軽々しく言えることじゃない」
私は、卓の上の三枚の紙を見た。輪っかは、まだ、寄せ集めたばかりだった。一本一本は、別々の人の、別々の傷だった。それを束ねるとは、その傷をもう一度、表に晒させるということだった。
「でも」と私は言った。
「ジルケさんは」と私は言った。「『線を引いてくれて、よかった』と、言ってくれました。戻せないと、正直に告げた私を、赦してくれた」
私は、棚の上のひび割れた湯桶を見た。ザイデルの、形見だった。
「あの赦しは」と私は言った。「私に責任を負わせる赦しでした。——もう見ているだけじゃ、いられない。だから束ねるなら、私がその重さごと引き受けます」
ハンナさんが、ふん、と笑った。
「いい顔だよ」と彼女は言った。「軽々しくない顔だ。——ローザ様も、そういう顔をしてた」
彼女は欠けた湯飲みに白湯を注いで、私の前に置いた。湯気が、まっすぐ立った。
ザイデルの、湯気のない湯桶とは違う、ちゃんと立つ湯気だった。
「ハイネ殿」と私は言った。「もう一つ、訊かせてください。——その法務委員会には、向こうの人間は、いますか」
ディートリヒさんが、わずかに眉を寄せた。
「向こうの、と言うと」
「差配の側の」と私は言った。「窓口を、している人」
私の頭の中には、一人の顔があった。
御用達の使者。テオドール・カルム。リンドヴァルの湯気を、その目で見た男。奪わずに戻せると示しても、引かなかった男。——けれど、効率では認めても、奪わずに戻したことだけは、認めると言った男。
彼は、敵だった。けれど、ヴィクトールやゾンネフェルトとは、違う種類の敵だった。
「窓口役なら」とディートリヒさんは言った。「財務部の地脈資源課でしょう。法務委員会に説明役として呼ばれることがあります」
「テオドール・カルム」と私は言った。
ディートリヒさんが、少し、驚いた顔をした。
「ご存じでしたか」と彼は言った。「ええ。あの男なら、おそらく」
「あの人は」と私は言った。「ゾンネフェルトとは違います。あの家は情を冷笑する。でも、テオドールは——効率を誠実に信じてる」
私は、白湯の湯気を見た。
「誠実な人は」と私は言った。「嘘がつけない。リンドヴァルの湯気を見て、あの人は『奪わずに戻したことは、認める』と言いました。——あの人なら、自分が見たことについて嘘はつかないかもしれない」
「味方に、するのか」とノアが訊いた。
「いいえ」と私は言った。「あの人を味方にできるなんて、思ってない。あの人は、効率の論理をまだ信じてる。——でも、味方にしなくても、いいんです」
私は、卓の上の絵を見た。
「あの人が、自分の見たことについて嘘をつかない——というだけで」と私は言った。「公の場では、それが、効くかもしれない」
その言葉に、ディートリヒさんが、低く言った。
「危ない、賭けです」と彼は言った。「テオドールは、誠実だが向こうの人間だ。彼が法務委員会で、こちらの不利になる証言をする可能性のほうが、ずっと高い」
「賭けです」と私は言った。「——でも、いまの私たちは賭けるしかない手しか持っていません」
ディートリヒさんは、しばらく黙っていた。
それから、彼は革の鞄をぱたりと閉じた。
「セラフィーナ殿」と彼は言った。「私は長くあの盤の駒でした。盤の隅で命じられるまま、辺境を処理してきた。——そんな私が、いま、その盤を引きずり出す相談をしています」
彼の声が、わずかに、震えた。
「奇妙な気分です」と彼は言った。「けれど——悪くない気分です」
彼は、立ち上がった。砂色の背を伸ばした。
「古い記録を、もっと洗います」と彼は言った。「符牒の家を、もう少し辿れるかもしれない。証拠にはならなくても、絵の線を増やせます」
「お願いします」と私は言った。「マリカさんは、王都の伝手を。ゾンネフェルトの輪郭を、もっと。エミールさんは、引き続き手続きで時間を」
「は、はい」とエミールさんが言った。「査察と、認可の保留と、街道の陳情。——時間なら、稼ぎます。書類の戦いは、私の戦場です」
その声に、もう、語尾の消える癖はなかった。
みなが、それぞれの役を引き受けて卓の前から立ち上がった。
ディートリヒさんが雪の中をまた馬で去り、マリカが霧亭へ戻り、エミールさんが督促の書面に戻った。帳場に、私とノアと、ハンナさんが残った。
卓の上には、三枚の紙が寄せ集めたまま、まだ空白を囲んでいた。
「まだ、入り口だ」とノアが言った。
「ええ」と私は言った。「絵は見えた。戦い方も見えた。——でも、それをどの場で、誰の力で形にするのかは、まだ何もわからない」
私は、白湯の湯気を見た。
「法務委員会に、どう持ち込むのか。証人を、どう束ねるのか。テオドールが、賭けに乗るのか。——わからないことだらけ。輪っかは、まだ寄せ集めただけ」
「だが」とノアが言った。「一つだけ、変わった」
「何が?」
「お前は、もう」と彼は言った。「証拠を、探してない。——闇で殴り合おうとしてない。明るい場所へ、引きずり出そうとしてる。戦い方が、決まった」
彼の深い緑の目が、火明かりの下で私を見ていた。
「そうね」と私は言った。「戦い方だけは、決まった。——どう奪い返すか、じゃなくて。どう、明るい場所へ引きずり出すか」
私は、棚の上のひび割れた湯桶を見た。
戻せなかった、ザイデルの形見。けれど、その湯桶も束ねるべき声の一つだった。湯気のない谷の声も、明るい場所では立派な一本の輪っかになる。
その夜、私は一人で、囲炉裏端に残った。
卓の上に三枚の紙を、もう一度輪に並べ直した。符牒。帳面。ノアが写した波形の覚え書き。そして、その真ん中の、空白。
私は、手帳を開いた。昨夜書いた「ゾンネフェルト」と「明るい場所へ」の二行の下に、もう一行、書き足した。
——奪われた人、ごと。
筆を止めて、私はその三行をしばらく見ていた。
敵の名前。戦い方。そして、束ねるべき人たち。一行ずつ、夜の底で、黒く乾いていった。
まだ、入り口だった。けれど、入り口の戸の向こう側の輪郭が、初めてうっすらと見え始めていた。
戸の外で、井戸の湯気が夜の冷気の中で揺れていた。
ヴィクトールが二十年奪おうとし、ジルケさんが望みを捨て、ヨナスが取り戻した湯気。その同じ湯気が、いまこの谷の井戸でまっすぐに立っていた。湯は、谷の数だけある。涸れた湯にも、息はある。——その息を、束ねて、明るい場所へ。
翌朝、マリカが霧亭から息を切らして帳場へ来た。
その手に、一通の文が握られていた。封の蝋が、まだ新しかった。
「セラさん」と彼女は言った。「王都の、伝手から。——ゾンネフェルトの輪郭を、もっと、と頼んでいた、あの返事です」
私は、その文を受け取った。
雪の冷えを纏った紙が、私の指の上でわずかに重かった。この一通が輪っかのまた一本になるのか。それとも罠の入り口なのか——開くまでは、わからなかった。
卓の上で三枚の紙が、まだ空白を囲んでいた。その空白の真ん中へ、私は新しい封蝋の文をそっと置いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第九章、神回①ヴィクトールの回(前話)と、神回②(次々話あたりの「谷を守る山/テオドールの転機」)のあいだに置いた、地味だけれど大事な承の回でした。前話でヴィクトールが置いていったのは、ゾンネフェルトという名前ひとつ。けれど、それは「証拠の山」ではなく「方角」だけでした。本話は、その方角を、谷の仲間が握る手札で、一枚の絵に組み上げる回です。
書いていていちばん気をつけたのは、セラに無双させないことでした。絵は見える。けれど、その絵の真ん中——本体ゾンネフェルトを名指す紙は、一枚もない。符牒にも帳面にも、わざと名前が消されている。「書いていないことのほうが雄弁」というマリカの一言は、彼女自身が翡翠殿で駒として切られた過去とまっすぐ繋がっています。彼女の窓を一つだけ差し込んだのは、そのためです。
そして、この回で初めて、戦い方の方針が定まります。証拠を揃えて闇で殴り合うのではなく、黙契の家を「明るい場所」=公の手続きの場へ引きずり出す。さらに、谷一つでは足りないから、各地で別々に奪われた人たちを束ねる——その入り口に、ようやく立ちました。ハンナさんが「束ねるとは、もう一度望みを持たせること」と釘を刺してくれたのは、この決意を軽くしないためです。
まだ何も勝っていません。法務委員会にどう持ち込むのか、テオドールが賭けに乗るのか。次回からは、その「明るい場所」へ向けて、奪われた人たちを実際に訪ね始めます。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の旅の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




