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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第97話: 尻尾だった男

 馬の匂いがした。


 雪の止んだ朝、井戸の水を汲みに出た私の鼻が最初に拾ったのはそれだった。湯気でも雪でもない。長い道を歩いてきた獣の汗と泥の匂いだった。


 谷の口に一頭の馬がいた。




 駄馬だった。


 毛艶の悪い年老いた荷馬だ。痩せた背に荷もなく、ただ一人の男に曳かれて雪の解け残る道をこちらへ進んでくる。


 その男の歩みがひどく緩慢だった。


 外套の裾が泥と雪解けで重く汚れていた。昔のあの人なら決して身につけなかった汚れだ。




 私は釣瓶の縄を握ったまま動けなくなった。


 遠目にはただの落ちぶれた旅人だった。けれど、その背格好に私の体のほうが先に反応した。


 背筋がすっと冷えた。


 近づいてくる顔が雪明かりの中で輪郭を結んだとき、私は息を呑んだ。




 ヴィクトール・アシュフォードだった。


 二十年この谷の湯を奪った男。銀泉楼を潰した男。私を辺境へ追いやる継母を裏で焚きつけた男。あの長い戦いの果てに、私がようやく倒したと思ったあの宿敵だった。


 その人が駄馬を曳いて、雪の谷の口に立っていた。




 私の足は地面に縫いつけられたように動かなかった。


 憎しみが胸の底から喉まで一息に上ってきた。この男の顔を私は忘れたことがない。金貨五千枚を卓に積み、辺境の宿一つと笑った顔。源泉が涸れて谷の人が痩せていく夜にも決して曇らなかった顔。


 その顔がいま痩せていた。




 ヴィクトールが私に気づいた。


 灰色の目がゆっくりとこちらを向いた。昔は温かそうに笑い、目だけは笑わなかった。いまは——笑ってもいなかった。ただ、疲れていた。


 「……セラフィーナ嬢」と彼は言った。


 声だけは昔のままだった。穏やかで、丁寧で。けれど、その声が雪の中で少し掠れていた。




 私はようやく口を開いた。


 「アシュフォード侯爵」と私は言った。


 言ってから、それが違うことに気づいた。この人はもう、侯爵ではない。位を剥がれ、社交界を追われた。私は言い直そうとして、やめた。何と呼べばいいのか、わからなかった。


 「侯爵では、ありません」とヴィクトールが、私の沈黙を読んだように言った。「もう、ただのヴィクトールです」




 ノアが帳場のほうから走ってきた。


 私の隣に立って、ヴィクトールを見た。深い緑の目が瞬時に張り詰めた。彼もこの顔を覚えている。源泉を涸らした男の顔を。


 「お前——」とノアが低く言いかけた。


 その声に明らかな敵意があった。彼の手が、無意識に私を庇うように半歩前へ出た。




 「ヴェステルンド氏」とヴィクトールが、ノアに小さく頭を下げた。


 その所作に私は、思わず釣瓶の縄を握り直した。


 頭を下げた。あの男が。誰にも頭など下げなかった男が地脈学者の青年に、雪の谷の口で頭を下げていた。


 「ご安心を」と彼は言った。「何も、しに来たのではありません。——もう、何もできない男です」




 その一言が奇妙に静かに谷に落ちた。


 もう、何もできない男です。


 昔のヴィクトールなら、決して口にしなかった言葉だ。彼は常に何かをできる男だった。税を動かし、街道を曲げ、術師を雇い、谷を一つ枯らせる男だった。


 その男が何もできないと、自分で言った。




 「何の用です」と私は訊いた。


 声が自分でも驚くほど硬かった。


 「あなたに、用があるのではありません」とヴィクトールは言った。「正確には——あなたの敵に、用があるのです。私と、同じ敵に」


 雪が彼の肩に薄く積もっていた。彼はそれを払いもせず、私を見ていた。




 「私と、同じ敵」と私は繰り返した。


 頭の中で、何かが小さく軋んだ。


 マリカの文。ディートリヒの古い記録。テオドールの上にいる、古くて大きな家。ゾ、という頭文字。そしてヘルマンが王都で拾った噂——私を切った連中にまだ噛みつけることを見せてやる、と呟いた、落ちぶれた貴族。


 その断片が目の前の男の上で、一つに繋がりかけた。




 「あなた」と私は言った。「王都の場末で、谷の道を尋ねて回っていた人ね」


 ヴィクトールの口の端が、わずかに上がった。


 「噂が、先に着いていましたか」と彼は言った。「さすが、女将殿だ。耳が早い」


 その笑みに昔の余裕の影が一瞬よぎった。けれど、それはすぐに痩せた頬の皺に飲み込まれた。




 私はノアと目を合わせた。


 ノアが、低く言った。「追い返すか」


 「いいえ」と私は言った。


 なぜそう答えたのか、自分でもすぐにはわからなかった。憎い。この男は憎い。けれど、彼が口にした「同じ敵」という言葉が、釣り針のように私の胸に引っかかっていた。


 「中へ、入れます」と私は言った。「——話を、聞くだけ」




 帳場の囲炉裏端に私はヴィクトールを座らせた。


 ハンナさんが欠けた湯飲みに白湯を注いで、彼の前に置いた。その手がほんの一瞬、湯飲みの上で止まった。彼女もこの男を知っている。谷の全盛期も、衰退も、その目で見てきた人だ。


 「どうぞ」とハンナさんは、それでも言った。


 女将の家の作法だった。憎い客にも、白湯は出す。




 ヴィクトールはその白湯を両手で受け取った。


 昔の彼なら、辺境の欠けた湯飲みなど、指一本触れなかっただろう。けれど、いまの彼はそれを押しいただくように両手で包んだ。


 湯気が彼の痩せた顔を下から照らした。


 その湯気を彼はしばらく見ていた。




 「あたたかい」と彼は、ぽつりと言った。


 誰に言うでもない声だった。


 「銀泉楼の湯です」と私は言った。少し、棘のある声になった。「——あなたが二十年、涸らそうとした湯ですよ」


 ヴィクトールはその棘を静かに受けた。


 「ええ」と彼は言った。「知っています。私が、涸らしたのです」




 否定しなかった。


 言い訳もしなかった。私が彼を責めるのを、彼はただ受け止めた。


 その素直さがかえって私を苛立たせた。怒鳴ってくれたほうが、まだ憎みやすかった。


 「謝りに来たんですか」と私は言った。「いまさら」


 「いいえ」とヴィクトールは言った。「謝りには、来ていません。——私は、謝れるような男ではありませんから」




 その答えに私は少しだけ、肩の力を緩めた。


 謝罪に来たのなら、私は彼を信じなかっただろう。落ちぶれた悪党の改心など、いちばん信じられない。けれど、この男は自分が謝れる男ではないと、はっきり言った。


 「では、何をしに」と私は言った。


 「意趣返しを」とヴィクトールは言った。「——私を切り捨てた連中への」




 囲炉裏の火がぱちりと爆ぜた。


 その音だけがしばらく帳場に響いた。沈黙が四人の肩に静かに積もっていった。私とノア、ハンナさん、そしてヴィクトール。憎しみと、警戒と、得体の知れない何かが、囲炉裏端で混じり合っていた。


 「切り捨てた、連中」と私は、慎重に繰り返した。


 「ええ」とヴィクトールは言った。




 「アシュフォード侯爵家は、潰れました」と彼は、白湯を見たまま言った。「碧泉宮を失い、地脈操作が表沙汰になり、私はすべての罪を着せられました。導管術も、辺境への工作も、谷を枯らしたことも——何もかも、私一人の罪に」


 「あなたが、やったことでしょう」とノアが、低く言った。


 「ええ」とヴィクトールは頷いた。「私が、やりました。それは、その通りです」




 「ですが」と彼は続けた。


 灰色の目がゆっくりと私のほうへ動いた。


 「私は、一人でやったのではありません」と彼は言った。


 その一言の重さに私は背筋を伸ばした。




 ここからはヴィクトールが見ていた。


 私は辺境の欠けた湯飲みの中の白湯を見ていた。


 湯気が立っている。私がこの二十年、涸らそうとし続けた谷の湯気だ。皮肉なものだ。私が涸らせなかった、たった一つの谷の、たった一つの井戸の湯を私はいま、この手で温めている。


 女将は私を憎んでいる。当然だ。私も、私を憎むだろう。




 だが憎しみという感情は、私には少し贅沢になった。


 憎むには相手を見上げる位置にいなければならない。あるいは対等の位置に。いまの私は、誰のことも見上げる位置にすらいない。社交界を追われ、領地を奪われ、年老いた駄馬一頭しか残らなかった男に、憎む権利は重すぎる。


 私の中にあるのはもっと冷たいものだった。


 切られた、という事実だけだった。




 私は長く、自分を盤の打ち手だと思っていた。


 二十年がかりで谷を一つ枯らし、湯を碧泉宮へ引いた。緻密な計画だった。完璧な工作だった。私は駒を動かす側の人間だと、信じて疑わなかった。


 だが碧泉宮が崩れた夜、私を呼んだ家がある。


 その家の当主は、私にこう言った。「アシュフォードは、惜しい駒でしたが」と。




 駒。


 二十年、打ち手のつもりでいた私はその一言で、自分が駒だったと知った。


 私が動かしていたつもりの盤はもっと上の家の盤だった。私は、その盤の上で動かされていた一枚の駒にすぎなかった。そして、盤が危うくなったとき、その家は、私という駒を躊躇なく卓から払った。


 切られて初めて、私は盤の全体を見た。私が見ていたのは盤の隅の、ほんの一角だった。




 ここからは再び、セラが見ていた。


 ヴィクトールが白湯から目を上げた。


 「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「あなたは、私を倒した。碧泉宮が崩れたあの夜、あなたは確かに私を倒したのです」


 「ええ」と私は言った。


 「ですが」と彼は、静かに言った。「あなたが倒したのは、私ではなかった」




 帳場の空気がひやりと張り詰めた。


 「どういう意味」と私は訊いた。


 ヴィクトールは湯飲みを畳の上に置いた。痩せた指が、その縁にしばらく添えられていた。


 そして彼は言った。




 「私も……尻尾だったのですよ」と彼は言った。「あなたが切り落としたのは、もっと大きな獣の」


 その言葉が帳場にゆっくりと降りた。


 私は何も言えなかった。


 ディートリヒさんの声が私の中で蘇った。あなたが切り落としたのは、大きな獣の尻尾の一本だった。獣の、本体じゃない。




 あの言葉を私はディートリヒさんから聞いた。


 けれどいま、それを尻尾だった本人の口から聞くのはまるで違う重さだった。私が倒したと信じた宿敵。二十年の苦しみの元凶。その男が、自分は本体ではなかったと、自分の口で言っていた。


 私が二十年憎んだ顔はもっと大きな顔の、ほんの先端だった。




 「あなたを倒したとき」と私は、ようやく言った。「私は、勝ったと思っていました」


 「勝ったのです」とヴィクトールは言った。「私個人には。——だが、獣は尻尾を一本失っただけだ。本体はいまも盤の中央で、悠々と湯を回している」


 私は囲炉裏の火を見た。


 火が低く燃えていた。




 「その本体が」と私は言った。「いま、この谷を潰しにかかっている」


 「ええ」とヴィクトールは言った。「税。認可。街道。——もう、降りていますか」


 「三枚、揃って」と私は言った。


 「ならば、本体が直々に動いています」とヴィクトールは言った。「私の頃は、窓口の役人に任せていた。本体が自分で手を汚すのは、相手を本気で潰すと決めたときだけです」




 その言葉に私の胸が冷たく締まった。


 ヴィクトールは続けた。


 「本体は」と彼は言った。「あなたが奪わずに湯を戻したことを、見ています。私が二十年かけて奪った湯を、あなたは奪わずに戻し始めた。——それが、本体にとっていちばん都合が悪い」




 「都合が、悪い?」と私は訊いた。


 「ええ」とヴィクトールは言った。


 彼の目に初めて、何かの熱が灯った。憎しみとも後悔とも違う。もっと乾いた機械の歯車のような熱だった。


 「本体の権勢は」と彼は言った。「『奪うしかない』という前提の上に、立っているのです」




 「奪うしか、ない」と私は繰り返した。


 「湯は、有限だ。栄える湯に集めるには、衰える湯から奪うしかない。——その前提があるから、本体は『差配する者』として君臨できる。誰に湯を回すかを、本体が決める。だから、皆が頭を下げる」


 ヴィクトールの指が畳の上で小さく動いた。盤の上の駒を、動かすように。


 「ですが、あなたが」と彼は言った。「奪わずに湯を戻せると示した瞬間——その前提が、嘘になる」




 私は息を止めて聞いていた。


 「前提が嘘になれば」とヴィクトールは言った。「本体は、ただの湯を独り占めしている家になる。差配する者ではなく、ただ奪う者に。——だから本体は、あなたを潰さねばならない。あなたの実例が広がる前に。本体の正しさが、嘘だと知れ渡る前に」


 囲炉裏の火がぱちりと爆ぜた。


 私は自分の手が冷たくなっているのに気づいた。




 彼の言っていることは、私がまだ言葉にできていなかった核心だった。


 なぜ、井戸一本を戻しただけの私たちに税と認可と街道が同時に降りたのか。なぜ、こんな辺境の谷が、王国の筆頭家に直々に目をつけられたのか。その問いの答えを、二十年その盤の隅にいた男が、いま、私の前で言葉にしていた。


 奪わない、ということ自体が向こうにとっての刃だったのだ。




 「あなたは」と私は言った。「なぜ、それを私に教えるの」


 ヴィクトールはしばらく黙っていた。


 それから彼は言った。


 「私を切った家が」と彼は言った。「あなたに潰される姿を、見たいからです」




 その答えに私は身を引いた。


 赦しでも贖罪でもなかった。彼の動機はもっと冷たく、もっと醜かった。自分を切り捨てた本体への、純粋な意趣返しだった。


 「あなたを、助けたいのではありません」と彼は、はっきりと言った。「私は、あなたを利用したいのです。あなたという刃で、私を切った家に噛みつきたい。——それだけです」




 私はその正直さの前で、奇妙に冷静になった。


 もし彼が「あなたを助けたい」と言ったなら、私は彼を信じなかった。もし「償いたい」と言ったなら、私は彼を追い返した。けれど、彼は「あなたを利用したい」と言った。その醜さが、かえって、信じられた。


 彼は味方ではない。けれど、嘘もついていない。




 「その家の、名前は」と私は訊いた。


 ヴィクトールが私を見た。


 ここが彼の手札の核心だった。それを渡せば、彼の意趣返しの矢は放たれる。彼はその矢じりを、私という弓に番えようとしていた。


 「ゾンネフェルト」と彼は言った。「侯爵家です」




 ゾ、という頭文字が初めて一つの完全な形になった。


 マリカの文の頭文字。ディートリヒさんの古い記録の名。その輪郭だけだった家の名がいま、それを最もよく知る者の口からはっきりと帳場に響いた。


 「ゾンネフェルト」と私は繰り返した。


 「三代、王室財務に食い込んでいます」とヴィクトールは言った。「差配の盤を、誰よりも古くから握る家。——私は、その家の差配事業を請け負った一実行者にすぎなかった」




 「碧泉宮も」と私は言った。


 「ゾンネフェルトが出資した、数ある湯の一つです」とヴィクトールは言った。「私は、その一つを任された請負人。——本体は、いくつもの湯をいくつもの請負人に回させている。私は、その駒の一枚だった」


 私はその盤の大きさに、めまいを覚えた。


 私が二十年戦った碧泉宮はもっと大きな盤の、ほんの一マスだった。




 「あなたは」と私は言った。「その盤の、全部を知っているの」


 ヴィクトールは首を横に振った。


 「いいえ」と彼は言った。


 その否定は彼が放った中で、いちばん正直な言葉に聞こえた。




 「私が知っているのは、本体の名前と、盤が回るおおまかな方角だけです」と彼は言った。「合議の中身は、知りません。誰がいつ何を決めるのか——それは、ほんの数家の黙契で動く。私のような請負人には、決して降りてこなかった」


 彼は痩せた手を、力なく開いた。


 「私は、駒でした」と彼は言った。「駒に、盤の全体は見えません。——あなたに渡せるのは、本体がどこにいるかという方角だけです。証拠の山では、ありません」




 その正直さが私には、かえって信じられた。


 もし彼が「全部知っている」と言ったなら、それは罠だった。落ちぶれた男が、都合よくすべての証拠を握っている、などという話を、私は信じない。けれど、彼は「方角だけだ」と言った。「証拠の山ではない」と。


 彼は自分が末端だったことを、自分で認めていた。




 「方角だけ、ね」と私は言った。


 「それでも」とヴィクトールは言った。「敵がどこにいるかわからずに戦うのと、わかって戦うのとは違うでしょう。——私は、あなたに敵の在処を渡しに来た。それをどう使うかは、あなた次第です」


 彼は白湯をもう一口すすった。


 その所作が奇妙に、ただの疲れた老人のものだった。




 私はしばらく彼を見ていた。


 二十年、この谷を苦しめた男。私が憎み抜いた男。その男がいま、自分を切った家への意趣返しのために、私の前で頭を垂れている。


 憎しみは消えなかった。けれど、その憎しみのすぐ隣で、別の感情が静かに首をもたげていた。


 憐れみ、とは少し違う。けれど、それに近い何かだった。




 この男もまた、奪われた者だった。


 彼は奪う側に回り、二十年、谷から湯を奪った。その果てに彼自身が、もっと大きな家に奪われた。位を。領地を。誇りを。彼は、奪う側に回って、最後に、奪われる側に落ちた。


 奪う繁栄はいつか自分の番が来る。


 その言葉が目の前の男の上で、冷たく証明されていた。




 「ヴィクトール」と私は、初めて、彼の名を呼んだ。


 彼が顔を上げた。


 「私は」と私は言った。「あなたを、赦すわけじゃない」


 声が自分でも驚くほど、静かに出た。




 「あなたは、この谷を二十年苦しめた」と私は言った。「ジルケさんの谷を湯気のない谷にした連中と、あなたは同じ側にいた。リンドヴァルを、ノアの故郷を墓にした側にいた。——それを私は忘れません。赦しも、しません」


 ヴィクトールはその言葉を、まっすぐに受けた。


 「ええ」と彼は言った。「赦されるとは、思っていません」




 「でも」と私は言った。


 囲炉裏の火が低く揺れた。


 「あなたを切った、その『仕組み』のほうが」と私は言った。「もっと、許せない」


 その言葉が帳場にゆっくりと落ちた。




 ヴィクトールがわずかに目を見開いた。


 「あなたは」と私は続けた。「悪い人です。確かに、悪い人だった。けれど、あなたを駒として使い、用が済んだら卓から払った仕組みは——あなた一人が悪人であることより、ずっと罪が重い」


 私は白湯の湯気を見た。


 「あなたは、谷を一つ枯らせた」と私は言った。「でも、あの仕組みはあなたのような駒を何枚も使って、王国中の谷を枯らし続けている。あなたを切り捨てた、その同じ手で」




 「あなたを赦さないことと」と私は言った。「あの仕組みを許さないことは、別です」


 ヴィクトールは長く、黙っていた。


 彼の灰色の目が湯飲みの湯気の向こうで、わずかに揺れた。それが何の揺れだったのか、私にはわからなかった。安堵か、屈辱か、あるいは、もっと別の何かか。


 彼はそれを、痩せた頬の奥にしまった。




 「あなたは」と彼は、やがて言った。「私が思っていたより、ずっと恐ろしい人だ」


 「恐ろしい?」


 「私を憎んでくれたほうが、私には楽でした」と彼は言った。「憎しみは、単純です。ですが、あなたは私を憎みながら、私を仕組みの一部として見ている。——あなたは、私という個人を見ていない。仕組みを見ている。それが、本体のいちばん恐れる目です」




 彼は白湯を飲み干した。


 空になった湯飲みを両手で畳の上に戻した。その所作はまるで、長い旅の終わりに荷を下ろすようだった。


 「私の役目は、ここまでです」と彼は言った。「敵の方角は、渡しました。あとは、あなたの戦いだ。——私のような尻尾には、本体を倒す力はありません」


 彼はゆっくりと立ち上がった。




 立ち上がった彼の背は昔より、ずっと小さく見えた。


 百八十の長身は変わらないはずなのにその背に纏っていた権勢が、すっかり剥がれ落ちていた。残ったのは、年老いた、痩せた、ただの男だった。


 「待って」と私は言った。「あなたは、これからどうするの」


 「さあ」とヴィクトールは、かすかに笑った。「行く当ても、ありません。駄馬と、私だけです」




 その笑みに私は、何と返していいかわからなかった。


 二十年憎んだ男の行く末を私が案じる筋合いはなかった。けれど、ジルケさんのことが、ふと頭をよぎった。行く場所が、無いんよ、と言った、あの老女のことが。


 奪う側に回った男も最後は、行く場所のない一人になる。


 その符合が私の胸を、冷たく押した。




 「ヴィクトール」と私は言った。「白湯を、もう一杯飲んでいきますか」


 彼は戸口で足を止めた。


 ふり返った顔に一瞬、何かが過ぎった。それは私が初めて見る、ヴィクトール・アシュフォードの、無防備な顔だった。


 けれど彼は、首を横に振った。




 「いいえ」と彼は言った。「これ以上、あなたの谷の湯をもらうわけにはいきません。私は、それを奪った男です。——一杯で、十分すぎる」


 その断り方に私は、彼を引き止める言葉を失った。


 彼はそれきり、戸口へ向かった。雪明かりが彼の汚れた外套の裾を、薄く照らしていた。




 戸口で、彼はもう一度、ふり返った。


 「セラフィーナ嬢」と彼は言った。「一つだけ、忠告を」


 「忠告?」


 「ゾンネフェルトは」と彼は言った。「私のように、表で奪ったりはしません。あの家は、表に何の証拠も残さない。私を切ったときも、何一つ自分の手は汚さなかった。——本体を表に引きずり出すには、向こうが表に出ざるを得ない場を作るしかない」




 「表に、出ざるを得ない場」と私は繰り返した。


 「黙契は、闇でしか動けません」とヴィクトールは言った。「明るい場所では、黙契は使えない。——あの家を、明るい場所へ引きずり出すことです。公の、手続きの場へ。そこでなら、あの家も黙って湯を回せない」


 彼はそれだけ言うと、軽く頭を下げた。


 「では」と彼は言った。




 ヴィクトールは駄馬を曳いて、雪の谷の口へ歩いていった。


 その後ろ姿を私は戸口で見送った。痩せた背と、年老いた馬と、汚れた外套の裾。二十年、この谷の上に君臨した影はもう、どこにもなかった。


 ただ雪の解け残る道を行く当てもなく歩いていく、一人の男がいるだけだった。




 ノアが私の隣に来た。


 「あいつの言うこと」と彼は低く言った。「信じるのか」


 「全部は、信じない」と私は言った。「あの人は、味方じゃない。自分の意趣返しのために、私を使おうとしてるだけ。——渡した方角だって、罠かもしれない。歪んでるかもしれない」


 「だが」とノアが言った。




 「でも、方角はわかった」と私は言った。「ゾンネフェルト。三代、王室財務に食い込む家。差配の盤を握る本体。——敵がどこにいるか、わかった」


 私は雪の谷の口を見た。ヴィクトールの背はもう、白い帳の向こうに消えかけていた。


 「あの人を信じるんじゃない」と私は言った。「あの人が憎んでる相手を、私も憎んでる。それだけ。——同じ敵を持つ者同士。それ以上でも、それ以下でもないわ」




 ハンナさんが空になった湯飲みを片付けながら、ぽつりと言った。


 「お嬢」と彼女は言った。「あの男に、白湯を出したろう」


 「ええ」と私は言った。


 「ローザ様なら」とハンナさんは言った。「同じことを、しただろうね。——憎い客にも、白湯は出す。それが、女将ってもんさ。だがね」


 彼女は火を見た。




 「白湯を出すのと、信じるのは別だよ」とハンナさんは言った。


 「ええ」と私は言った。「知っています」


 「お嬢の顔は」とハンナさんは、ふんと笑った。「ちゃんと、わかってる顔さ。あの男を憐れみながら、一寸も気を許してない顔だ。——いい顔だよ。女将の顔だ」


 火がぱちりと、また爆ぜた。




 その夜、私は一人で、囲炉裏端に残った。


 卓の上にはいま、いくつものものが並んでいた。三枚の通達。ザイデルのひび割れた湯桶。そして、ヴィクトールが残していった、たった一つの言葉。


 ゾンネフェルト。


 その名前を私は手帳に書きつけた。インクが、紙の上で黒く乾いていった。




 明るい場所へ、引きずり出す。


 ヴィクトールの忠告が、私の中で、別の言葉と繋がりかけた。御用達の「あり方」を、こっちから書き換える。ローザさんの、潰す理由を、潰す理由じゃなくしてやる。


 黙契の家を公の、手続きの場へ。そこでなら、向こうも黙って湯を回すことはできない。


 道がまた一つ、輪郭を結びかけていた。




 けれどまだ、入り口だった。


 ゾンネフェルトという名前を掴んだだけ。盤の全体はまだ見えない。あの家を、どうやって明るい場所へ引きずり出すのか。何の手続きの場へ、誰の力で。——それは、何もわからなかった。


 私の手の中にあるのは敵の名前と、味方ではない男の渡した、信じきれない方角だけだった。




 戸の外で、井戸の湯気が夜の冷気の中で揺れていた。


 ヴィクトールはあの湯気を二十年奪おうとした。そして、最後に、その湯気の立つ一杯を、両手で押しいただいて飲んだ。奪う側に回った男が、奪われる側に落ちて、奪おうとした湯に、温められていた。


 奪う繁栄はいつか自分の番が来る。


 その言葉の重さを私はあの痩せた背に、初めて、本当に見た気がした。




 手帳に書いた「ゾンネフェルト」の文字の隣に、私はもう一行、書き足した。


 明るい場所へ。


 筆を置くと、卓の上のひび割れた湯桶が囲炉裏の最後の燠火を、ことりと受けていた。戻せない谷の形見と、敵の名前と、味方ではない男の忠告が、同じ卓の上で、夜の底に静かに並んでいた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第九章の神回①、ヴィクトール・アシュフォードの再登場の回でした。本編で谷を二十年苦しめ、セラがようやく倒した、あの宿敵です。彼をもう一度出すと決めたとき、いちばん怖かったのは「落ちぶれた旧悪役が、都合よく情報を渡しに来る協力者」になってしまうことでした。それだけは、したくなかった。


だから、彼を改心させませんでした。謝らせもしませんでした。彼がセラに会いに来た動機は、贖罪ではなく、自分を切り捨てた本体への、純粋で醜い意趣返しです。「あなたを助けたいのではない、利用したいのだ」と、彼自身にはっきり言わせました。その醜さがあるからこそ、彼の渡す情報が、かえって信じられる——そういう両義的な男のまま、留め置きたかった。


書いていて胸を打たれたのは、セラが彼に白湯を出す場面です。憎い客にも白湯を出すのが女将だと、ハンナさんが言う。セラは彼を憐れみながら、一寸も気を許さない。「あなたを赦すわけじゃない。でも、あなたを切った仕組みのほうが、もっと許せない」——この一言を、感情のピークに置きたくて、この回を書いたようなものです。


そして、二十年この谷の湯を奪おうとした男が、最後に、その湯気の立つ一杯を両手で押しいただいて飲む。奪う側に回った者も、いつか奪われる側に落ちる。その冷たい証明を、彼の痩せた背に乗せました。


敵の名前は、ゾンネフェルト。けれど、まだ方角がわかっただけです。次回からは、この信じきれない手札を、どう本物の一手に変えていくか。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の旅の、何よりの湯気になります。


それでは、また次回。

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