第96話: 正しい顔をした、報復
雪の匂いがした。
馬を四日乗り継いで谷の口へ戻った夕方、私の鼻がまず拾ったのはそれだった。湿った石の匂いでもザイデルの乾いた苔でもない。これから降る雪の、冷たくて少し甘い匂いだった。
前世から二百軒の宿を匂いで読んできた鼻が、その甘い匂いの底にもう一つ別のものを嗅いだ。
焦げ臭い、人の気配だった。
谷は、いつもの冬の谷ではなかった。
銀泉楼の井戸からは、いつも通り湯気が立っていた。けれど、その湯気を見上げる人の数がおかしかった。
帳場の前に、町の人が十人ばかり寒いのに外で固まっていた。みな私とノアが谷の口に現れたのを見て、はっとこちらを向いた。
その顔が、一つ残らず青かった。
馬を曳く私の足が自然と速くなった。
「何かあったな」とノアが低く言った。
「ええ」と私は言った。「——嫌な匂いがする」
帳場の戸が開いて、エミールさんが転がるように出てきた。猫背の背中を、いつもよりさらに丸めて。手に三枚の紙を握りしめていた。
その紙が、彼の手の中で小さく震えていた。
「セ、セラフィーナさん」とエミールさんが言った。
声が上ずっていた。
「お帰りなさい、と……言いたいところなんですが」と彼は言った。「その、戻ってきて、早々に……こんなものを、お見せするのは……」
彼は三枚の紙を私のほうへ差し出した。差し出しながら、その手が引っ込みそうになるのをもう片方の手で押さえていた。
私は、その三枚を受け取った。
一枚目を、夕暮れの薄明かりで読んだ。
商務省の印が押されていた。「ミストヴァレー一帯の商業活動につき、税務特別査察を実施する」とあった。期限は二週間。根拠は商務省令第四十七条。
ディートリヒさんがかつて持ってきたのと同じ条文だった。
二枚目。営業認可の更新について。「審査の都合により、当面、保留とする」。理由は、書かれていなかった。
三枚目。来春の街道整備について。「予算配分の見直しにより、ミストヴァレー区間は対象外とする」。
三枚を読み終えて、私はしばらく動けなかった。
雪の匂いが、鼻の奥でいっそう冷たくなった。
税。認可。街道。——三つが同じ日に谷へ降りていた。
夏に私が骨で覚えた言葉が頭の中で蘇った。御用達を断る代償。税の特別査察。営業認可。街道整備からの除外。あの時はまだ、遠い脅しの言葉だった。
いま、それが三枚の紙になって、私の手の中で震えていた。
「いつ、届いたんですか」と私は訊いた。
「三日前です」とエミールさんが言った。「あなたがいない間に。三つの役所から、ほとんど同じ日に。——偶然じゃ、ありませんよね、これは」
「偶然なものですか」と私は言った。
声が自分でも驚くほど低く出た。
「狙って揃えたんです」と私は言った。「私が谷を空けてる隙に。——三つ一度に来れば町が浮き足立つのを、向こうは知ってる」
マリカが、人垣の後ろから出てきた。
川風に黒髪を押さえながら、いつもの落ち着いた所作で私のそばに来た。けれど、その濃紺の目の奥がわずかに張り詰めていた。
「セラさん」と彼女は言った。「査察の役人は、もう来ています。昨日から帳場に」
「帳場に?」
「ええ」とマリカは言った。「帳簿を全部見せろと。客の数。湯の使用量。仕入れ。——一冊残らず」
「見せたの?」
「見せました」と彼女は言った。「隠したら、それこそ向こうの思う壺です。私の帳簿は、どこを開かれても恥じるところがありません」
マリカの声には、職人の矜持があった。
けれど、その矜持の下に、彼女自身も気づいている冷たい影が一つあった。
「ただ」と彼女は続けた。「役人は帳簿を見て、こう言いました。——『この谷は、湯の出に対して客を入れすぎている』と」
私は、顔を上げた。
「客を、入れすぎ?」
「『受け入れ容量を、超えている』」とマリカは相手の言葉をそのまま繰り返した。「『源泉を酷使している。このままでは持続できない谷だ』——役人は、そう書き留めていきました」
その言葉が、私の胸に冷たく刺さった。
受け入れ容量を、超えている。
それは私自身が、夏に手帳に書いた言葉だった。
御用達の噂で客が増えすぎて、源泉の湯気が日中に細った夏。棚田の水が足りなくなり、渓流の鱒が減った夏。あの時、私はこの谷の弱みを自分の手で帳面に書きつけた。受け入れ容量を超えている、と。
その私の言葉が、いま、そっくり相手の刃になって戻ってきていた。
ノアが三枚の通達を私の手から取って、目を通した。
「税。認可。街道」と彼は低く言った。「——どれも、法を破ってない」
「ええ」と私は言った。
「査察は条文通り。認可の保留も、審査の裁量だと言われれば文句が言えない。街道の予算も、配分の見直しだと言われれば」とノアは言った。「——全部、表向きは正しい顔をしてる」
「それが、いちばんたちが悪いんです」と私は言った。
私は、雪の匂いのする空を見上げた。
暴力なら、まだ戦いようがあった。脅しなら、突き返しようがあった。けれど、向こうが差し出してきたのは三枚の正しい紙だった。
どこにも悪意の証拠がない。どこにも法の破れ目がない。「お前たちの谷は持続不能だから、行政上の措置を見直す」——それだけの、冷たくて隙のない理屈。
奪う者は、顔を見せない。ジルケさんの言葉が、谷の風に乗って蘇った。
「町長さん」と私は言った。「みんなを、中へ。寒い」
「は、はい」とエミールさんが言った。
彼は、外で固まっていた町の人を帳場の囲炉裏端へ促した。十人ばかりの人が、ぞろぞろと戸の中へ入っていく。その背中の一つ一つが、夏に客を迎えていた頃の弾んだ背中とはまるで違っていた。
戸口で、私は一度振り返った。
谷の井戸の湯気が、雪の降り出した薄闇の中で頼りなく揺れていた。
ここからは、エミールが見ていた。
私は囲炉裏に薪をくべながら、町の人の顔を見ていた。
みな、私を見ていた。町長の私を。十五年、何もできなかった町長の私を。それでも、こういう時にはみな私の顔を見る。何か言ってくれ、と。
私は言葉を探した。喉の奥が、からからに乾いていた。
「皆さん」と私は言った。
声が最初から少し震えていた。
「落ち着いて、ください」と私は言った。「これは……その、確かに、厳しい話です。でも……まだ、潰されたわけじゃ……」
「町長」と棚田の若い男が言った。「査察ってのは、いったい何を調べるんだ。おれたちの、何が悪いんだ」
「それは」と私は言った。「その……税の、申告に、不備がないかを……」
言葉が、また小さくなった。自分でもそれがわかった。
十五年、私はこの癖と付き合ってきた。
大事な時ほど、語尾が消える。決断が、先延ばしになる。中央の貴族の名が出ると、背中が縮こまる。
でも——と、私は思った。
でも、あの女将さんは、追放されてこの谷に来て、廃墟を見て笑った。源泉が涸れかけても、五十人の前で頭を下げた。あの人が一度も逃げなかったから、私も一度だけ覚悟を決められた。
いまが、その時だ。
「皆さん」と私は、もう一度言った。
今度は、語尾を消さなかった。
「私は町長として、十五年、逃げ続けてきました」と私は言った。「中央が怖くて。報復が怖くて。——でも、今度は逃げません」
町の人が、はっと私を見た。
「この三枚の紙は、全部、行政の手続きです」と私は言った。「手続きには手続きで返せます。査察には正しい帳簿で。認可の保留には督促の書面で。街道の件には陳情で。——私は町長です。書類の戦いなら、女将さんより私のほうが長くやってきた」
言いながら、私は、自分の手がまだ震えているのに気づいた。
怖いものは、怖い。背中は、まだ縮こまりたがっている。
それでも、私は言い切った。震える手で、三枚の紙の角をまっすぐに揃えながら。
町の人の顔から、青さがほんの少しだけ引いた。それが私には、何よりだった。
ここからは、再び、セラが見ていた。
帳場の囲炉裏端で、エミールさんが町の人に話しているのを、私は戸口で聞いていた。
いつもの、語尾の消える話し方ではなかった。震える手で紙の角を揃えながら、それでも「逃げません」と言い切る声だった。
私が谷を空けている間に、この人は一人で覚悟を決めていた。
私は、その背中をしばらく見ていた。胸の奥が温かくなった。——けれど、その温かさのすぐ隣で、別の冷たいものがまだ動いていた。
夜、町の人が帰ったあと、私はノアとマリカとハンナさんと囲炉裏端に残った。
ハンナさんが、四人分の白湯を、欠けた湯飲みに注いで配った。ザイデルのジルケさんの白湯とは違う、ちゃんと湯気の立つ白湯だった。
私は、その湯気を見ながら、三枚の通達を畳の上に並べた。
「整理しましょう」と私は言った。「数字で見てみましょう。——何が、本当の問題なのか」
「税の査察は」とマリカが言った。「怖くありません。帳簿は、きれいです。二週間付き合えば、向こうは何も見つけられない」
「ええ」と私は言った。「査察は、揺さぶりよ。本気で潰す手じゃない。——本命は、こっち」
私は、二枚目の通達を指で示した。営業認可の、更新保留。
「これが、いちばん効く」と私は言った。「認可がなければ来年、谷は客を泊められない。査察は二週間で終わるけど、認可の保留はいつまでも引き延ばせる。理由を書かないまま」
「期限が、ないのか」とノアが言った。
「ないの」と私は言った。「『審査の都合』。それだけ。——いつまで保留するか、向こうの胸先三寸。これが、裁量で締めるってことよ」
ハンナさんが、白湯を一口すすって低く言った。
「あたしらの首を、真綿でゆっくり絞めるってことかい」
「ええ」と私は言った。「血は流させない。ただ、息だけを、少しずつ止めていく」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
その音が、しん、と静まった帳場にやけに大きく響いた。沈黙が、四人の肩に雪のように積もっていった。
「セラ」とノアが、その沈黙を破った。「役人が帳簿を見て言ったこと。——『受け入れ容量を超えてる』。あれは」
「本当よ」と私は言った。
言ってしまってから、喉の奥が苦くなった。
「本当なの」と私は、もう一度言った。「夏に、この谷は客を入れすぎた。源泉の湯気が日中に細った。棚田の水が足りなくなった。渓流の鱒が減った。——あれは向こうのでっち上げじゃない。私が自分の目で見た、本当の弱みよ」
マリカが、静かに私を見た。
「向こうは」と彼女は言った。「その弱みを、どこから知ったのでしょう」
「知ってたんじゃないわ」と私は言った。「見てたのよ。ずっと。——ザイデルの谷にまで検分人を寄越すような相手が、この谷の夏の繁盛を、見逃すわけがない」
私は、夏の自分の手帳を思い出した。
あの時、私は「受け入れ容量を超えている」と書いて、それを谷の課題として抱えた。客を捌き切れない、源泉を酷使している、と。仲間と内紛にもなった。あれは、谷の内側の正直な悩みだった。
その正直な悩みが、いま、外から刃になって戻ってきた。
「向こうは」と私は言った。「私たちが一番痛いところを、正確に突いてきたの。——『お前たちの谷は、客を捌き切れず、源泉を酷使している。だから持続不能だ。だから営業を見直せ』。これは……反論が、難しい」
「難しい?」とハンナさんが言った。「お嬢が、難しいと言うのかい」
「ええ」と私は言った。「だって、半分、本当だから」
私は白湯の湯気を見た。
「嘘なら、突き返せる」と私は言った。「でも、これは半分本当の理屈なの。夏に源泉が細ったのは事実。客が増えすぎたのも事実。——それを向こうは『だから潰すのが正しい』に繋げてきた。本当の弱みに、正しい顔の理屈をかぶせて」
ノアが腕を組んで、火を見ていた。
「敵は」と彼はやがて言った。「俺たちより、賢い」
「ええ」と私は言った。「賢いし、たちが悪い。——でも」
私は、三枚の通達をもう一度見た。
「これだけの手を、これだけ一度に打てる相手は」と私は言った。「テオドールじゃない。あの使者一人に、こんな力はないわ。税務省と、認可の役所と、街道の予算を、同じ日に動かせるなんて」
マリカの手が、湯飲みの縁で止まった。
「……それなのですが」と彼女は言った。「一つ、王都の知り合いから文が届いていました。あなたが谷を空けている間に」
「王都の?」
「翡翠殿の頃の、古い伝手です」とマリカは言った。彼女の声が、いつもより硬くなった。「私が翡翠殿の裏の仕組みを探っているのを、まだ覚えていてくれる人が、一人だけ」
彼女は、懐から一通の文を取り出して囲炉裏の明かりにかざした。
「その人が、書いてきました」とマリカは言った。「『今度の銀泉楼への締めつけは、いつもの差配の窓口の差し金じゃない。もっと上が自分で動いている』と」
「上?」
「テオドールさんの、上です」とマリカは言った。「文には、こうありました。——『湯の差配の盤を、いちばん古くから握っている家がある。その家の当主が、今度ばかりは直々に銀泉楼を気にかけている』と」
私は、息をひとつ呑んだ。
「名前は」と私は訊いた。
「文には、はっきりとは」とマリカは言った。「書く人も、怖いのでしょう。ただ、頭文字が一つだけ。——『ゾ』と」
ゾ、と私は口の中で繰り返した。
知らない響きだった。碧泉宮でも、翡翠殿でもない。ヴィクトール・アシュフォードでもない。テオドール・カルムでもない。これまで谷が相手取ってきたどの名前とも違う、古くて重い響きだった。
「ハイネ殿は」と私は、ふと言った。「何か、知らないかしら」
翌朝、私はディートリヒさんに使いを出した。
彼は、もう私たちの敵ではない。本編の戦いのあと、辺境の小さな窓口で、合法の手続きを正しく回す側に戻った人だ。けれど、彼は王国商務省の古い記録に誰よりも通じている。
ディートリヒさんは、その日のうちに馬で谷へ来てくれた。
砂色の短髪を、雪に濡らしながら。革の書類鞄を、相変わらず唯一の武器のように抱えて。
「セラフィーナ殿」と彼は、帳場で言った。「『ゾ』で始まる、古い家。——心当たりは、あります」
彼は書類鞄から、古い写しを一枚取り出した。十年以上前の、商務省内部の通達の写しだった。
「私が、まだヴィクトール卿の手駒だった頃」とディートリヒさんは淡々と言った。「辺境の処理の命令は、いつもいくつかの家の名前を経由して降りてきました。表には出ない、口頭の指図として」
「いくつかの、家?」
「ええ」と彼は言った。「その中で、いちばん奥に、いつも同じ家の名がありました。誰も口に出して言わない家です。——ゾンネフェルト侯爵家」
ゾンネフェルト。
その名が、初めて、帳場の空気の中で形を取った。
「ゾンネフェルト」と私は、繰り返した。
「侯爵家です」とディートリヒさんは言った。「王室財務に三代食い込んでいる。湯の差配の盤を、誰よりも古くから握っている家。——ヴィクトール卿でさえ、あの家の前では一介の請負人にすぎませんでした」
私は、その言葉に背筋が冷えた。
ヴィクトール。本編で谷を二十年苦しめた、あの侯爵。私がようやく倒したと思った相手。その男でさえ、もっと大きな家の一介の請負人だった。
「待って」と私は言った。「ヴィクトールが、請負人? じゃあ、私たちが戦ってきたのは」
「尻尾です」とディートリヒさんは静かに言った。「あなたが切り落としたのは、大きな獣の尻尾の一本だった。——獣の、本体じゃない」
囲炉裏の火が、低く燃えていた。
私は、その火をしばらく見ていた。
ディートリヒさんは、それ以上は多くを語らなかった。
「私が知っているのは、ここまでです」と彼は言った。「名前と、輪郭だけ。あの家が何をどう動かしているか、合議の中身までは、末端の私には降りてきませんでした。——黙契で動く家ですから」
「それでも、十分です」と私は言った。「敵の名前がわかった。——名前がわかれば、戦える」
「セラフィーナ殿」とディートリヒさんは書類鞄を閉じながら言った。「一つ、忠告を」
「あの家は」と彼は言った。「税や認可で締めるのは手始めです。本気で潰しにかかるとき、いちばん怖いのは表に出ない手です。——あなたがいつ、どこで、誰と会ったか。全部見られていると思ってください」
「ザイデルの検分人」と私は言った。
「おそらく」とディートリヒさんは頷いた。「あれも、あの家の目です」
彼は、雪の中をまた馬で去っていった。砂色の背中が、谷の口の白い帳の向こうに消えるまで、私は見送った。
その夜、私は一人で井戸のそばに立った。
雪が、静かに降っていた。湯気と雪が、井戸の上で混じり合ってほどけていた。温かいものと冷たいものが、同じ場所で絶えず溶け合っていた。
ノアが、外套を肩にかけて私の隣に来た。
「跳ね返せるか」と彼は訊いた。
「わからない」と私は正直に言った。
「敵の名前は、わかった」と私は言った。「ゾンネフェルト。でも名前がわかっただけ。あの家がどう盤を握ってるのか、どこを突けば崩れるのか——まだ何もわからない」
「査察は?」
「二週間はしのげる」と私は言った。「認可の保留は督促で粘れる。街道は陳情で時間を稼げる。——でも、それはしのぐだけ。向こうの真綿は、ゆるまない」
私は、雪の中の湯気を見た。
「いちばん怖いのは」と私は言った。「『お前たちの谷は持続不能だ』っていう、向こうの理屈が半分本当だってこと。——その弱みを、まだ武器に変えられていない」
ノアは、しばらく黙っていた。
「お前一人で、変えなくていい」と彼はやがて言った。「ザイデルで、お前は言った。——一人じゃない、と」
「ええ」と私は言った。
「谷ごと行く、と」とノアは言った。「リンドヴァルで、お前は本当にやった。——なら、今度も谷ごとだ」
私は、ノアを見た。深い緑の目が、雪明かりの下で私を見ていた。
「そうね」と私は言った。「一人じゃ、跳ね返せない。——でも、谷ごとなら」
言いながら、私は、夏に骨で覚えた弱みのことをもう一度考えた。
受け入れ容量を超えている。源泉を酷使している。持続できない谷だ。——それは、向こうの刃だ。けれど、その刃を、私はずっと谷の内側で抱えてきた。誰よりも、その弱みを私自身が知っている。
知っている弱みは、いつか武器に変えられる。前世で、私は何度もそれをやってきた。
「マリカさんに、頼みましょう」と私は言った。「王都の伝手を、もう一度たどってもらう。ゾンネフェルトの輪郭をもっと。——ディートリヒさんには、古い記録を。エミールさんには、行政の手続きで時間を稼いでもらう」
「お前は?」とノアが訊いた。
「私は」と私は言った。「考える。——この弱みを、どうひっくり返すか。それが、女将の仕事よ」
ノアが、わずかに口の端を上げた。
帳場へ戻ると、囲炉裏端でハンナさんがまだ起きていた。
「お嬢」と彼女は、火を見たまま言った。「眠れないのかい」
「ええ」と私は隣に座った。「少し」
ハンナさんは、しばらく火を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「ローザ様がね」と彼女は言った。「昔、似たようなことを言われたことがあるよ。——『この宿は、客を入れすぎだ』と。役人に」
「ローザさんが?」
「全盛期の、銀泉楼さ」とハンナさんは言った。「客が多すぎて、源泉が細る、ってね。あの頃も、上のほうの誰かが、それを口実に銀泉楼を締めようとした。——あんたが今言われてるのと、そっくりだよ」
私は顔を上げた。
「ローザさんは、どうしたんですか」
「『湯は、預かるもんだ』と言ったよ」とハンナさんは言った。「『客を入れすぎだと言うなら、入れすぎない宿にする。源泉が細るなら、細らせない汲み方にする。——潰す理由を、こっちが、潰す理由じゃなくしてやる』とね」
その言葉が、私の胸の奥で静かに灯った。
潰す理由を、潰す理由じゃなくしてやる。
ローザさんの遺言は、いつも私の戦い方になる。湯は、奪うものではない。預かるものだ。——その言葉が、いままた別の角度から私を照らしていた。
「受け入れ容量を超えてる」と言われるなら、超えない谷にすればいい。源泉を酷使していると言われるなら、酷使しない汲み方を堂々と示せばいい。
弱みを、隠すのではなく。弱みを設計に変えて、向こうの正しい顔の理屈ごとひっくり返す。
「ハンナさん」と私は言った。「ありがとう。——道が、ひとつ、見えた気がします」
「まだ、入り口だろう」とハンナさんは、ふんと笑った。「お嬢の顔は、入り口を見つけたばっかりの顔さ。出口は、まだ見えてないね」
「ええ」と私は笑った。「まだ、入り口です」
ハンナさんは、白湯を一口すすって、それ以上は何も言わなかった。火が、ぱちりと、また爆ぜた。
数日後の朝、ヘルマンさんが谷へ来た。
行商の荷を背負って、雪を払いながら帳場に入ってきた。彼は、王都とこの谷を季節ごとに行き来している。谷の外の風を、いつも一番に運んでくる人だった。
「女将さん」と彼は、雪焼けした顔で言った。「妙な噂を、拾ってきたよ。——あんたに、関わる噂だ」
「妙な、噂?」
「王都の、場末の宿でね」とヘルマンさんは言った。「落ちぶれた貴族が一人、酒を飲んでた。昔は、相当な家柄だったらしい。今は、見る影もない。——その男が、宿の主人にしつこく尋ねてたそうだ。ミストヴァレーへの道を」
私の鼻が、ふと嫌な匂いを嗅いだ気がした。
「ミストヴァレーへの、道を?」
「ああ」とヘルマンさんは言った。「『あの谷の女将に会いたい』とね。何度も。酔った勢いか本気か、わからんが。——けど、ただの酔っ払いにしちゃ目がぎらついてたって、宿の主人が言ってた」
「名前は」と私は訊いた。
「言わなかったそうだ」とヘルマンさんは言った。「名乗らなかった。ただ、酔ってこう呟いてたらしい。——『私を切った連中に、まだ噛みつけることを見せてやる』と」
私を、切った連中。
その言葉に、私はディートリヒさんの言葉を思い出した。あなたが切り落としたのは、大きな獣の尻尾の一本だった。
切られた、尻尾。落ちぶれた、貴族。私を切った連中に、噛みつく——。
私の背筋に、冷たいものと別の何かが同時に走った。
「その男は」と私は、声を落として訊いた。「ここへ、来るつもりかしら」
「さあな」とヘルマンさんは肩をすくめた。「ただの噂だ。気にしすぎかもしれん。——けど、女将さん。あんたの谷に、今いろんな目が向いてる。落ちぶれた貴族の一人が紛れ込んだって、おかしくはない」
私は、窓の外を見た。
雪が、まだ降っていた。谷の口の道が、白く霞んでいた。その白い帳の向こうから、思いがけない者が、思いがけない形で近づいてきている気がした。
ヘルマンさんが帰ったあと、私はザイデルから持ち帰ったひび割れた湯桶を、棚から下ろした。
ジルケさんがくれた、水の溜まらない湯桶。戻せない谷の、湯気のない形見。
私は、それを囲炉裏端の棚に置いた。三枚の通達の、すぐ隣に。
戻せない谷の形見と、谷を潰そうとする正しい顔の紙が、同じ棚の上で雪明かりに照らされていた。
私の手の中には、いま、いくつもの欠片があった。
受け入れ容量を超えた、本物の弱み。テオドールの上にいる、ゾンネフェルトという古い名前。ローザさんの、潰す理由を潰すという戦い方。そして、王都の場末で私の谷を尋ねて回る、落ちぶれた一人の貴族の影。
その欠片は、まだ一本に繋がっていなかった。けれど、繋がる予感だけが、雪の匂いのように谷に満ちていた。
戸の外で、井戸の湯気が降る雪の中で揺れていた。
温かいものが冷たいものに絶えず溶かされながら、それでも立ち続けていた。
次に動くのは向こうの番だと、私はザイデルの谷の口で思った。——けれど、思いがけず向こうから先に、ひとつの影がこちらへ歩いてくる気配があった。
棚の上で、ひび割れた湯桶が、雪明かりをことりと受けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第九章「報復の章」が、いよいよ本番です。前回までで二例目ザイデルに線を引いて谷へ戻ったセラを、三枚の通達が待っていました。税の特別査察、営業認可の更新保留、街道整備からの除外。どれも暴力ではなく、法でもなく、「裁量」で締める手です。
この回でいちばん書きたかったのは、「正しい顔をした報復」の怖さです。向こうは悪意の証拠を一つも残しません。それどころか、「お前たちの谷は客を入れすぎて源泉を酷使している、持続不能だ」という、半分本当の理屈をかぶせてくる。夏にセラ自身が谷の弱みとして抱えた「受け入れ容量超過」が、そっくり相手の刃になって戻ってくる——この苦さを、セラに無双させずに正面から書きたかった。彼女は、即座には跳ね返せません。弱みが本物だからです。
そしてテオドールの上にいる「もっと古くて大きい家」、ゾンネフェルトの名が、マリカの伝手とディートリヒの古い記録から、輪郭だけ浮かびます。セラが倒したと思ったヴィクトールでさえ、その家の一介の請負人だった——という重さを、ここで一度だけ置きました。中枢の全容は、まだ描きません。名前と、方角だけ。
話の終わりに、王都の場末で谷を尋ね回る、落ちぶれた貴族の影を立たせました。「私を切った連中に、まだ噛みつけることを見せてやる」と。——次回、思いがけない者が、思いがけない形で、谷を訪ねてきます。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い冬の旅の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




