第95話: 戻せない、という仕事
苔の匂いがした。
馬を四日乗り継いでロウムの方角の谷に立った朝、私の鼻がまず拾ったのはそれだった。リンドヴァルで嗅いだ削りたての霧杉でもない。戻った井戸の湯気でもない。湿りを失った石が長い年月をかけて静かに古びていく匂いだった。
湯の匂いが、どこにもなかった。
前世から二百軒の宿を匂いで読んできた鼻が、ここでは何も読めなかった。読むべき匂いが、もう無いのだ。
ザイデルの湯と人が呼んでいた谷だ。
二十年前に差配の導管術で主脈を抜かれて涸れた。リンドヴァルの五年とは桁が違う。馬の鞍の上で、ノアは一度もその図を広げなかった。広げる代わりにずっと遠くの谷の口を見ていた。
いま、その口の中に、私たちは立っている。
谷は、静かだった。
いや、静かという言葉は違う。沈黙が乾いた砂のように足元に積もっていた。リンドヴァルにあった鉋の音も、子を呼ぶ声も、ここには一つもない。風が枯れた葉を石の上で転がす音だけが谷の底でかさかさと鳴っていた。
「人が、いないな」とノアが低く言った。
「ヘルマンさんが言っていた通りね」と私は言った。「湯気どころか、人の気配もないって」
「リンドヴァルとは、匂いが違う」と彼は言った。
「ええ」と私は言った。「あそこは、涸れていても、土が湿っていた。——ここは、乾いてる。骨まで」
半町ほど歩いて、私は足を止めた。
涸れた井戸が谷の真ん中にあった。石組みの縁が崩れかけ、底は白く乾いている。その縁に一人の老女が腰を屈めて釣瓶を引いていた。
からから、と滑車が空回りする音がした。
水気のない井戸から、それでも釣瓶を引き上げている。中には底に少しだけ濁った水が溜まっていた。
老女がゆっくりと顔を上げた。
白い髪を後ろで小さく束ね、色の褪せた野良着に丁寧な継ぎを当てている。腰が曲がりかけているのに、釣瓶を引く手の動きだけは確かだった。薄茶の目が、私とノアを順に見た。
驚いた様子はなかった。
「まあ」と彼女は言った。訛りのある柔らかな声だった。「珍しいお人が、来なすった」
私は、その目を見て息を呑んだ。
もう驚かない目だった。期待も絶望もとうに体の奥にしまい込んだ目。涙より先に微笑む癖が目尻の皺に刻まれていた。
「お座りなさい」と老女が井戸の縁を手で示した。「立ち話もなんじゃ。何も無い谷じゃが、座る石くらいはある」
もてなしの言葉が、反射のようにするりと出た。
「ジルケ・モースと言いなさるか」とノアが訊いた。
彼はヘルマンから老女の名を聞いていた。
「そうかい。わたしの名を、もう誰かが言うとったか」とジルケさんは薄く笑った。「この谷の最後の一人じゃ。家族も湯守も、みんな散ってのう。残ったのは、わたしと苔だけよ」
モースというのは苔のことじゃ、と彼女は言い添えた。
その符合に、私は何も返せなかった。
ジルケさんは、私たちを谷の隅の小さな家へ通した。
家の中は塵一つなく掃き清められていた。客の来ない家を二十年毎日掃いてきた人の家だった。彼女は囲炉裏に小さな火を起こし、欠けた湯飲みを二つ私たちの前に置いた。
白湯だった。
湯気の立たない白湯。井戸から汲んだ濁り水をただ沸かしたものだ。それでも彼女はそれを両手で丁寧に差し出した。
「湯気の出ん湯で、すまんね」とジルケさんは言った。
「いいえ」と私は湯飲みを受け取った。「ありがとうございます」
受け取った湯飲みは、ぬるかった。手のひらに伝わる温度がリンドヴァルの井戸の湯気とはまるで違う。それでも、彼女がこの一杯にかけた手間が湯飲みの重さでわかった。
もてなしというものが、この谷ではまだ生きていた。
「お嬢さんがた」とジルケさんが私の向かいに腰を下ろした。「どこから来なすった」
「ミストヴァレーの女将です」と私は言った。「セラフィーナと申します。こちらは地脈学者のノア」
「みすとゔぁれー」と彼女は地名を舌の上で転がした。「遠いのう。あの辺りも、湯があったかい」
「ありました」と私は言った。「一度涸れて。——また、戻りました」
「ほう」とジルケさんは目を細めた。「涸れた湯が、戻ったか」
「ええ」と私は言った。「私とノアと、谷のみんなで。地脈学者が読んで、職人が掘って」
「賑やかじゃのう」と彼女は微笑んだ。「人の声が、する谷か。——ここには、もう、長いこと無いものよ」
ジルケさんの手が、湯飲みの縁でほんの一瞬止まった。
戻った、という言葉に彼女の中の何かが反応したのがわかった。けれどそれはすぐに、薄茶の目の奥に静かにしまわれた。
「ほう」と彼女は言った。「戻る湯も、あるんじゃのう」
その相槌に、波は立たなかった。羨むでも咎めるでもない。遠い土地の出来事を聞くような穏やかな声だった。
「わたしらの湯も」と彼女は続けた。「戻すために来なすったか」
私はすぐには答えられなかった。
「……そのつもりで、来ました」と私はようやく言った。「ザイデルの湯が戻せるかどうか。それを見に」
「ええんよ」とジルケさんは微笑んだ。「無理せんで。ここはもう、わたしの代で仕舞いじゃから」
彼女の声に、諦めの湿り気はなかった。
むしろ乾いていた。井戸の底の石のように、とうに乾き切ったあとの静けさだった。それが声を荒らげて嘆かれるよりも、ずっと深く私の胸を押した。
「毎朝、汲むんよ」と彼女は谷の真ん中の井戸を目で示した。「湧かんのは知っとる。底に溜まる雨水を、汲んどるだけじゃ。——でも、汲まんと一日が始まらん」
私は、その井戸を見た。
水気のない井戸から毎朝釣瓶を引く老女。湧かないと知りながらそれでも滑車を回す手。二十年、彼女はそれを続けてきた。
信じているのではなかった。けれど諦めきってもいなかった。その二つのあいだの細い一筋の上を、彼女は毎朝歩いていた。
「水は、足りてるんですか」と私は訊いた。
「足りとるよ」とジルケさんは笑った。「一人じゃもの。雨が、ちゃんと降ってくれるから。——湯は無うても、雨は、誰の谷にも降る。ありがたいことよ」
ヨナスとはまるで逆だ、と私は思った。
あの少年は、信じることを恐れて湯を突き放した。
このひとは、もう何十年も静かに信じ続けて、裏切られ続けてもなおこの土地に居続けている。希望の出し方が正反対だった。だから片方は湯が戻って泣き、もう片方は——。
私はその先を、まだ言葉にしたくなかった。
ノアが白湯をひと口飲んで立ち上がった。
「ジルケ殿」と彼は言った。「谷を見せてもらっても」
「どうぞ」と彼女は言った。「何も無いが、隠すものも無い谷じゃ」
ノアは地脈計測器を背負って家の戸を出た。私も湯飲みを置いてその後を追った。戸口で振り返ると、ジルケさんは囲炉裏の火を静かに見ていた。
ここからは、ノアが見ていた。
俺は、谷を歩いた。
計測器の針に、まず目を落とす。リンドヴァルでは針が地面の脈動を律儀に拾った。微弱でも、地の下に何かが動いている手応えがあった。だが、ここの針は——動かない。
石のように、針が死んでいる。
俺は計測器を地面に近づけ、谷の縁へ向かって歩いた。リンドヴァルで細脈を掴んだのは、いつも谷の縁だった。涸れた主脈の脇に細い地脈が逃げ延びていることが多い。
縁に着いて、俺はしゃがみ込んだ。
針を見る。動かない。手のひらを地面につける。十年かけて体が覚えた、地の細かい震えを探す。
何も、無い。
地の下が空っぽだった。雑巾を絞り切ったあとの、ぱさついた繊維のような感触だけが手のひらに返ってきた。オットー殿の言葉が、そのまま地面から立ち上ってきた。根こそぎ、抜かれている。
俺は、谷を端から端まで歩いた。
日が谷の縁の木立を一つ越えるまで歩き続けた。北の縁。南の縁。井戸の真下。源泉が湧いていたはずの古い湧き口の跡。どこに計測器を当てても、針は死んだままだった。
細脈が無い。一本も、無い。
リンドヴァルには、谷の縁にわずかに残っていた。それを源泉口へ繋ぎ直して湯が戻った。だが、ここには繋ぎ直す元の流れが最初から無い。二十年の歳月が、残った細脈まで底まで干上がらせていた。
俺は最後に、井戸の脇の岩場の下を測った。
差配のアンカーの波形を探すためだ。リンドヴァルのアンカーは現役の疑いだったが、手の届く位置にあった。撤去するか流路を迂回させれば、なんとかなる位置だ。
だが、ここのアンカーは——深い。
針が、ようやく一度だけ岩盤の遥か奥で鈍く震えた。それきり、また死んだ。アンカーは岩盤の奥に頑強に埋まり、撤去も迂回も人の手の届く深さではなかった。
俺はしばらく、岩場の下にしゃがんだまま動けなかった。
答えは、もう出ていた。学者として、出ていた。細脈が枯れ尽き、アンカーが届かない。共生モデルの成立条件の両方に、この土地は外れている。
戻せない。
五年前の俺なら、ここで紙に「再生不能」と書いた。完璧な根拠を揃えて。だが、いまは書く前に、家の囲炉裏で白湯を沸かしていた老女の手が頭に浮かんだ。
俺の口から、この答えがあの人に告げられる。その重さに、俺の手が針の上で止まった。
ここからは、再び、セラが見ていた。
ノアが岩場の下からゆっくり立ち上がった。
その背中を見て、私には答えがわかった。彼が計測器をしまう手の、その緩慢さでわかった。リンドヴァルで湯が戻る前夜、彼の指は図の上で迷いなく一点を差した。いま、その指は何も差していなかった。
「ノア」と私は声をかけた。
彼が振り返った。深い緑の目が私を見て、それから低く言った。
「細脈が、無い」とノアは言った。「一本も。二十年で底まで干上がってる。——繋ぎ直す元が、無いんだ」
「アンカーは?」
「岩盤の奥だ」と彼は言った。「届かない。撤去も迂回も。——リンドヴァルのときみたいには、いかない」
私は、井戸のほうを見た。
ジルケさんの家の戸口に、白い髪がいつのまにか立っていた。私たちのほうを静かに見ていた。
私は、その戸口へ歩いた。
一歩ごとに足が重くなった。前世で私は何度も「この旅館は再建できません」と告げた。けれど、それは数字の話だった。稼働率や損益分岐点の話だった。湯を待つ人に向かって人として「あなたの谷は戻せません」と告げたことは——一度もなかった。
その役が、いま目の前で口を開けて待っていた。
ジルケさんの前に、私は立った。
彼女はもう、私の顔を見て何もかも察しているようだった。それでも微笑みを崩さずに、私が言葉を見つけるのを静かに待っていた。
「ジルケさん」と私は言った。
声が喉の奥で一度つかえた。
「ザイデルの湯は」と私は言った。「——戻せません」
短い沈黙が、二人のあいだにゆっくりと降りた。
谷の風が枯れ葉を一枚、私たちの足元に運んできて止まった。
ジルケさんは、その葉をしばらく見ていた。それから顔を上げて私を見た。薄茶の目に、涙はなかった。代わりに肩から何かが、すっと抜けたように見えた。
「そうかい」と彼女は言った。
ただ、その一言だった。
取り乱しもしない。泣き崩れもしない。「そうかい」と頷いて、彼女は自分の家の戸枠にそっと手を添えた。
「お嬢さん」と彼女は言った。「線を引いてくれて、よかった」
私は、その言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「……よかった?」
「ええんよ」とジルケさんは微笑んだ。
「望みを持たされるのが、いちばんつらいんよ」と彼女は言った。「二十年、わたしはそれをしてきた。誰かが谷を通るたび、もしかしたらと思うてしもう。そのたびまた井戸の底を覗いて、空じゃと知る。——それを二十年」
彼女の手が、戸枠の木目をゆっくりと撫でた。
「あんたは、正直に言うてくれた」と彼女は続けた。「戻せん、と。——それは戻すより、ずっと難しいことじゃろう。わかっとるよ。若いのに、よう言うてくれた」
私は、その言葉に立っていられなくなりそうだった。
告げられた側が、告げた私を気遣っていた。残酷な答えを渡されたはずの人が、その答えを渡した私の手の震えを見抜いて、労っていた。
「ジルケさん」と私はやっと言った。「あなたはこれから、どうするんですか」
「どうもせん」と彼女はあっさりと言った。「ここにおる。死ぬまで」
「町へ、出ることは」と私は言った。「リンドヴァルには、散った人が戻り始めています。あなたも、どこかへ」
「行く場所が、無いんよ」と彼女は穏やかに言った。「いや——あるのかもしれん。じゃが、この歳でな。新しい土地で生き直す力は、もうわたしには無い。それも今日、はっきりさせてくれた」
「でも、湯は」
「湯は、もう戻らん」と彼女は言った。「それを今日、はっきり知った。じゃが、わたしの居る場所はここじゃ。湯が無うても、ここがわたしの土地じゃ。——明日も井戸の水を汲むよ。雨水じゃがな」
彼女は、谷の真ん中の涸れた井戸を見た。
「汲むのは、もう湯を待つためじゃない」と彼女は言った。「——汲まんと一日が始まらんから、汲むんよ。それだけじゃ」
私は、その言葉を胸の奥で何度も繰り返した。
待つための水汲みが、待たないための水汲みに今日変わった。それは絶望ではなかった。むしろ長い宙吊りから、彼女がやっと地面に足をつけた音だった。
ノアが私たちのそばに来て、深く頭を下げた。
「間に合わなかった」と彼は言った。「五年前、別の谷で。今日、この谷で。——俺は何度も間に合わない」
「学者さん」とジルケさんは彼を見上げた。「あんたは、間に合わんかったんじゃない」
「ですが」
「二十年前に抜かれたんよ」と彼女は言った。「あんたが生まれて、まだほんの子供じゃった頃に。——間に合うも間に合わんも無いわ。誰のせいでも無い」
ノアが、唇を結んだ。
誰のせいでもない、という言葉を彼は五年かけてやっと自分のものにした男だ。それをいま、初めて会った老女にもう一度言われていた。彼の深い緑の目が、わずかに揺れた。
「……ありがとうございます」と彼は低く言った。
「学者さんも、女将さんも」とジルケさんは言った。「優しい人じゃのう。間に合わんかった、戻せん——そう言うて、自分のほうが痛そうな顔をする。湯を抜いていった連中は、そんな顔、一度もせんかったよ」
「……抜いた者を、見たんですか」とノアが訊いた。
「見ておらん」と彼女は言った。「夜のうちに、来たんじゃろう。気づいたら、湯がぬるうなっとった。次の年には、出が悪うなって。その次の年には、もう、湯気が立たんかった。——盗人は、顔を見せんものよ」
ノアの拳が、膝の上で固く握られた。
ジルケさんは、ただ頷いた。それから、もう一度白湯をどうかと言った。湯気の出ない白湯を。
その日の夕方、私たちはジルケさんの家を辞した。
別れ際、彼女は家の隅に置いてあったものを私の手に握らせた。ひび割れた小さな湯桶だった。木の箍が一つ抜けかけて、もう水は溜まらない湯桶だった。
「これを?」と私は訊いた。
「持っていきなされ」とジルケさんは言った。「ザイデルの湯の形見じゃ。——あんたはこれから、いくつも谷を見るんじゃろう。戻せる谷と、戻せん谷を」
「ええ」と私は言った。「たぶん。これから、いくつも」
「重い荷物じゃのう」と彼女は言った。「戻せる谷を選ぶというのは、戻せん谷を選ばんということじゃ。——あんた、それを、ようわかっとる顔をしとる」
「わかっていたつもりでした」と私は言った。「でも、今日まで、本当にはわかっていませんでした」
「そのたびに、この桶を思い出しなされ」と彼女は言った。「戻せん谷も、ある、と。——そう思える女将なら、きっと戻せる谷を間違えん」
私は、その湯桶を両手で受け取った。
ひび割れて、もう水の溜まらない桶が、私の手のひらにことりと重みを置いた。湯気のない谷の、湯気のない形見だった。
谷を出るとき、私は一度振り返った。
ジルケさんは家の戸口に立って、私たちを見送っていた。その背後の涸れた井戸の上に、湯気は立っていなかった。けれど彼女の背筋は、谷を見渡すようにまっすぐ伸びていた。
救えなかった。私の知恵でも、ノアの地脈学でも、共生モデルでも。
それでも、彼女は立っていた。
馬を曳いて谷の口へ向かう道で、ノアがぽつりと言った。
「お前は、告げる役を引き受けると言った。——本当に、引き受けたな」
「ええ」と私は言った。
「つらかったか」
「つらかった」と私は正直に言った。「二百軒を見てきても知らなかった。——戻せないと告げることが、戻すよりずっと難しいなんて」
「だが、ジルケさんが言ってくれた」と私は続けた。「線を引いてくれて、よかった、と」
ノアは馬の手綱を引きながら、しばらく黙っていた。
「あの言葉は、お前への赦しだな」と彼はやがて言った。
「赦し?」
「戻せないと告げる役を、お前に許した」と彼は言った。「——たぶんこれから、何度も要る役だ」
私は、手の中のひび割れた湯桶を見た。
戻せる谷だけを見ていれば、私はただの幸運な女将で済んだ。湯を戻して、人を泣かせて、感謝されて。けれど王国の数百の涸れた湯を本当に相手にするなら——その大半は、たぶんこのザイデルだ。戻せない谷だ。
救う設計だけでは、足りない。戻せない谷に誠実に線を引く設計まで、引き受けなければ。
それが、新常識を王国に設計するということの、いちばん苦い部分だった。
奪わなくても、湯は戻る。——それは本当だ。リンドヴァルが証明した。
けれど、どこでも戻るわけではない。——それも本当だ。ザイデルが証明した。
その二つを両手に抱えて、私は進むしかない。
谷の口に、私たちは着いた。
そこで、私は足を止めた。
道の脇の枯れた茂みの陰に、馬が一頭繋がれていた。立派な街道用の馬だ。鞍に見覚えのない紋が小さく刻まれている。この人の絶えた谷に、釣り合わない馬だった。
「ノア」と私は声を落とした。「あの馬」
ノアが馬を見て、目を細めた。
「誰かが、いる」と彼は言った。「この谷に、俺たち以外に」
「住民じゃないわね」と私は言った。「ジルケさん一人のはずよ」
「あの鞍の紋」とノアが声を落とした。「見たことがない。だが、安物じゃない」
「役人」と私は言った。「こんな、何も無い谷に?」
茂みの向こうで、人影が一つこちらに背を向けて何かを書き留めていた。役人風の、きちんとした身なりの男だった。手元の帳面に、ザイデルの涸れた谷を検分するように書き込んでいる。
その背に、私は嫌な気配を嗅いだ。
男は、私たちに気づくと帳面を素早く閉じた。
振り返りもせず、繋いだ馬のほうへ足早に歩いていく。その帳面の表紙に一瞬だけ、さっきの馬の鞍と同じ紋が見えた。
御用達の盤を握る、王都の大きな家。
その手の者が、なぜこんな救えない谷を検分しているのか。私にはまだ、わからなかった。
けれど、一つだけ骨でわかったことがあった。
私たちが奪わずに湯を戻し始めたことを、向こうはもう見ている。リンドヴァルの井戸を見て、こんな辺鄙なザイデルの谷にまで人を寄越して、私たちが次にどこを救うのかを先回りして調べている。
拡大は、向こうの目に留まった。
次に動くのは、向こうの番だ。
馬上の人影が、谷の口の道を王都の方角へ駆けていった。
その後ろ姿が木立の向こうに消えるまで、私は見ていた。蹄の音が遠ざかり、やがて谷の乾いた静けさの中に溶けて消えた。
私の手の中で、ひび割れた湯桶が夕日に染まっていた。
戻せた谷の、戻った湯の温かさ。戻せない谷の、湧かない井戸の水。そして、その両方をもう見ている、王都の大きな家の影。
広げても、全部は救えない。
——それでも、広げる意味は、あるのだろうか。
ザイデルから持ち帰った湯桶のひび割れた木目に、沈む日が最後の橙を静かに灯していた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、この物語で初めて「救えない谷」を書きました。リンドヴァルで湯を戻して人を泣かせた前回までと、わざと正反対の回です。
ジルケさんという老女を新しく出しました。ヨナス少年が「信じるのが怖くて湯を突き放す」人だったのに対して、ジルケさんは「もう何十年も静かに信じ続けて、裏切られ続けても土地を離れなかった」人として設計しました。湧かないと知っている井戸の水を、それでも毎朝汲む——その所作だけで彼女の二十年を語らせたかった。泣き崩れさせない。「そうかい」と頷いて、また水を汲む。その静けさのほうが、嘆くよりもずっと重いと思っています。
いちばん書きたかったのは、「お嬢さんが、線を引いてくれて、よかった」というジルケさんの一言です。戻せないと告げられた人が、告げた側を赦す。望みを持たされ続けるより、はっきり「戻らない」と言われるほうが楽だ、と。セラは前世で二百軒を再建しても、人に「あなたの谷は戻せません」と告げたことは一度もありませんでした。救う技術だけでは足りない。戻せない谷に誠実に線を引くことまで引き受けて、初めて「新常識を設計する者」なのだと思います。
ザイデルを後から逆転で救う展開には、しません。線は引かれたまま閉じました。セラを、なんでも救える人にはしたくないからです。
そして谷の口に、王都の大きな家の検分人を立たせました。次回からは、いよいよ向こうが動きます。奪わない再生を、向こうは潰しにかかる——報復の章の始まりです。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い旅の、何よりの湯気になります。
それでは、また次回。




