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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第94話: ノアが、二人いれば

 かんなの匂いが、谷に満ちていた。


 削りたての霧杉の、青くて甘い匂いだ。秋の朝の冷えた空気がその匂いを谷の隅々まで運んでいた。前世から二百軒の宿を匂いで読んできた鼻が、この朝は湯気でなく木の匂いを先に拾っていた。


 再生の匂いだ、と私は思った。湯が戻り、人が戻り、いま、家が起こされ始めている匂い。




 朽ちかけた一軒の家の前で、ガルドが棟木を見上げていた。


 「嬢ちゃん。この家は、骨が生きてる」と彼が、太い指で梁を叩いた。「五年放っといても、芯は腐ってねぇ。リンドヴァルの大工は、いい仕事をしてやがる」


 彼の声には、職人が職人を認めるときの、低い満足があった。


 「直せますか」と私は訊いた。


 「直す、じゃねぇ」とガルドは言った。「起こす、だ。寝てる家を、もう一度立たせてやるのよ」




 戻ってきた住民が、三人、四人とガルドの周りで木を運んでいた。


 オットーさんの他にも、ヨナスの呼びかけで散った人が帰り始めていた。隣の谷から来た老夫婦。山向こうの町から戻った若い夫婦。みな、井戸の湯気を一度見てから、半信半疑で荷をほどいた人たちだ。


 その手が、慣れない普請に戸惑っている。けれど、誰の顔も明るかった。




 「女将さん」とオットーさんが、削った板を抱えて私のそばに来た。「この谷も、賑やかになってきたのう」


 彼の白い髪に、鉋屑が一つ、引っかかっていた。


 「ええ」と私は言った。「いい音がしています」


 ガルドの鉋が、しゃっ、しゃっと木を撫でる音。住民の話し声。子を呼ぶ親の声。五年死んでいた谷に、人の暮らしの音が戻り始めていた。




 けれど、その音の中に、一つだけ、別の音があった。


 井戸のほうから来ていた。


 ノアが地脈計測器を抱えてしゃがみ込んでいる。その針が、こつ、こつ、と微かに鳴っている。住民の暮らしの音とはまるで違う、機械の孤独な音だった。


 その横に、ヨナスが立っていた。




 私は、二人のほうへ歩いた。


 ノアは計測器の針を見つめたまま、ヨナスに何か言っていた。低い、教えるような声だった。近づくと、その言葉が聞き取れた。


 「ここで針が二度はねる。——これが、伏流が近い合図だ」とノアは言った。「わかるか」


 「……わかんねえ」とヨナスが言った。「全部、同じに見える」




 ノアが、針を指で示した。


 「いま、はねた」


 「はねた?」


 「ああ。いま、また」


 「おれには」とヨナスが、戸惑った顔で言った。「ただ揺れてるようにしか見えねえよ」


 ノアは、しばらく黙った。それから、計測器を彼の手に持たせた。




 ヨナスが、おそるおそる針を見た。


 「揺れてる」と彼が言った。「……揺れてる、けど」


 「いまのが、伏流だ」とノアが言った。「さっきのは、ただの地面の脈動だ。——違いが、わかるか」


 ヨナスが、長いこと針を見つめた。それから、首を横に振った。


 「わかんねえ」と彼は、悔しそうに言った。「ごめん。おれ、馬鹿だから」




 「馬鹿じゃない」とノアは、即座に言った。


 その声に、珍しく、強さがあった。


 「俺だって、これが読めるようになるまで十年かかった」と彼は言った。「学院で四年。各地を回って六年。——五年やひと月で、わかる話じゃない」


 ヨナスが、計測器をそっと地面に戻した。


 「じゃあ」と彼が言った。「おれが読めるようになるのも、十年かかるのか」




 ノアは、答えなかった。


 答えられなかったのだ、と私はわかった。十年。あるいは、それ以上。あるいは——読める素質がそもそもこの子にあるかどうか。学者の誠実さがその全部を承知していて、安易な励ましを許さなかった。


 針の、こつ、こつ、という音が二人のあいだに残った。




 私は、少し離れたところで、その様子を見ていた。


 胸の奥に、嫌な手応えが、ゆっくりと広がっていた。


 ノアの図のことではない。これは、もっと根の深い別の手応えだった。リンドヴァルの湯は戻った。けれど、それを戻したのはノアだ。針が二度はねるのを「読めた」人間が、この谷でたった一人しかいなかった。




 昼に、私たちは普請の手を休めて、戻った住民と一緒に握り飯を食べた。


 マリカが、川で冷やした白湯を配って回っていた。元翡翠殿の仲居だった人だ。もてなしの所作が、こんな普請場でも変わらず美しい。


 「セラさん」と彼女が、私の隣に腰を下ろした。「数えてみたの。リンドヴァルに、戻ってきた人」


 「何人?」


 「九人」と彼女は言った。「最初の二十日で、九人。——でも、ここから先がたぶん、伸びないわ」




 「伸びない?」


 「井戸が、一つだから」と彼女は静かに言った。「九人で、もう汲める湯の上限に近いの。これ以上人が増えたら汲みすぎになる。——ノアさんの言う、持続できる量を超えてしまう」


 私は、握り飯を持つ手を止めた。


 マリカの帳面が、膝の上で開かれていた。そこに湯量と人数の線が二本、引かれていた。前世で私が二百軒に引いてきたのと同じ、受け入れ容量の線だった。




 「もう一つ、井戸が要るのね」と私は言った。


 「ええ」とマリカが言った。「谷の、別の場所に。——でも、それを読めるのは」


 「ノアだけ」


 マリカは、頷いた。


 私たちは、しばらく黙って川の音を聞いていた。普請場の向こうで、ノアがまだ計測器を抱えて別の場所の地面を測っていた。一人で。




 午後、私はノアのそばへ行った。


 彼は、谷の奥の岩場の下にしゃがんで針を読んでいた。額に汗が滲んでいた。秋の冷えた日に、汗をかくほど集中していた。


 「ノア」と私は声をかけた。「もう一つ、井戸を起こせそう?」


 「……たぶん」と彼は、針から目を離さずに言った。「ここの下に、細い伏流がもう一本ある。繋げば、もう一つ井戸が起こせる」




 「いつ、できる?」


 「あと、三日」と彼は言った。「俺が、ここにいれば」


 その「いれば」に、私は引っかかった。


 「もし、あなたがいなかったら?」


 ノアが針から顔を上げた。深い緑の目が私を見た。それから、少しだけ苦そうに笑った。


 「止まる」と彼は言った。「俺がいなければ、全部止まる」




 私は、その言葉を、胸の奥で繰り返した。


 俺が、いなければ、全部、止まる。


 それは、谷の人の心を奮い立たせる言葉ではなかった。むしろ、その逆だった。脆さの告白だった。この再生の全部が、ノア一人のふたつの目にぶら下がっている。




 「教えられない?」と私は訊いた。「あなたの、読み方を。誰かに」


 「教えてる」とノアは言った。「ヨナスに。さっきも」


 「伝わってる?」


 ノアの喉が、小さく動いた。けれど、声にはならなかった。


 彼は、計測器の針を指でそっと撫でた。それから、低い声で言った。


 「言葉にできない部分が、あるんだ」




 「言葉に?」


 「『針が二度はねる』と俺は言う」とノアは言った。「だが、本当に読んでるのは針じゃない。——手のひらに伝わる地面の細かい震えだ。匂いだ。風の通り方だ。十年かけて体が覚えたものだ。それを言葉にしようとすると——半分がこぼれ落ちる」


 私は、その言葉を聞いて、前世の自分を思い出した。




 二百軒の宿を、私は再建した。けれど、私の「読み」も、半分は言葉にできなかった。


 玄関に立った瞬間に、その宿が生きるか死ぬかがわかった。なぜわかるのかは説明できなかった。動線の数字でも、客単価の表でもない。何かが、体にわかった。


 後輩に教えようとして、何度も失敗した。「見ればわかるでしょう」と言ってしまって、相手を困らせた。見てもわからない人には、わからないのだ。




 「同じだわ」と私は言った。


 「同じ?」


 「私も、宿の良し悪しが玄関でわかった」と私は言った。「でも、それを後輩に教えられなかった。——『言葉にできない部分』が、私にもあったから」


 ノアが、私を見た。


 「お前でも、そうだったのか」と彼は言った。


 「ええ」と私は言った。「だから私は、一人で二百軒を回るしかなかった。誰も、私の代わりに読めなかったから」




 言いながら、私は、自分の声が少しずつ重くなるのを感じていた。


 一人で、二百軒を、回るしかなかった。


 それは、前世の私の誇りであり、限界でもあった。私は見ているだけのコンサルタントだった。自分の手は二百軒のどこにも届かなかった。なぜなら、私が一人で回れる軒数には限りがあったから。


 いま、ノアが、同じ場所に立っている。




 夕暮れに、ヨナスが、私のそばへ来た。


 彼は、しばらく言いにくそうにしてから、ぼそりと言った。


 「女将さん。おれ、駄目だな」


 「何が?」


 「あの兄ちゃんの、地脈ってやつ」と彼は言った。「いくら教えてもらってもわかんねえ。針が、ぜんぶ同じに見える。——おれが読めれば、兄ちゃんが楽になるのに」




 私は、ヨナスを見た。


 夕日に染まった彼の横顔に、悔しさが滲んでいた。醒めた現実主義の仮面の下から、もう一度、子供の顔が覗いていた。湯に触れて泣いた、あの朝の顔だった。


 「ヨナス」と私は言った。「あなたが読めなくても、いいの」


 「でも」


 「あなたには、あなたの読みがある」と私は言った。




 「おれの、読み?」


 「どの家の骨が生きてるか、あなたならわかるでしょう」と私は言った。「ガルドさんに『この家は直せる、あの家は無理だ』って言ってたわよね。朝」


 ヨナスが、少し驚いた顔をした。


 「あれは」と彼は言った。「子供の頃から、見てた家だから。どこが頑丈で、どこが先に傷むか、なんとなく」


 「それが、あなたの読みよ」と私は言った。「ノアの代わりはできない。でも、ノアにも、あなたの代わりはできない」




 ヨナスは、しばらく黙っていた。


 それから、握っていた湯桶の柄の御守りを、そっと撫でた。


 「……そういう、もんかな」と彼は言った。


 「そういう、もんよ」と私は言った。


 彼は、それ以上は何も言わずに井戸のほうへ歩いていった。戻った湯の、夕日に染まる湯気をしばらく見ていた。その背中が、少しだけ軽くなったように見えた。




 けれど、私の胸の手応えは、消えなかった。


 ヨナスを慰めたのは、本当だ。彼には彼の読みがある。それは、嘘ではない。けれど、「地脈を読む」というその一点だけは——どうしても、ノアの代わりが、いなかった。


 そして、王国には、涸れた湯が、数百ある。




 夜、火を囲んで、私はオットーさんとガルドさんとこれからの話をした。


 「リンドヴァルは、もう大丈夫だ」とガルドが、火を見ながら言った。「家は俺が起こす。湯は、戻った。あとは、人が暮らしていくだけよ」


 「ええ」と私は言った。「ここは、もう回り始めています」


 「じゃが」とオットーさんが、火に薪をくべながら言った。「女将さんの目は、もう、別の谷を見とるな」




 私は、火を見たまま、答えなかった。


 オットーさんは、湯守だった人だ。人の目を読むのも、湯を読むのと同じくらい達者だった。


 「ザイデルの湯、と言うたか」とオットーさんは言った。「ヘルマンが言うとった、二例目の谷」


 「……ええ」と私は言った。「行こうと、思っています。ノアと」




 「あんたら、欲が深いのう」とオットーさんは、笑った。


 その笑いに、棘はなかった。むしろ、温かかった。


 「一つの谷を、戻して。もう、それだけでもたいしたもんじゃ」と彼は言った。「なのに、二つ目を見に行く。三つ目も、見に行くんじゃろう。——なんでじゃ」


 私は、火の中の薪が、ぱちりと爆ぜるのを見た。




 「一つだけでは」と私は、ゆっくり言った。「『たまたま、戻った』で、終わってしまうから」


 「たまたま?」


 「リンドヴァルが戻ったのは奇跡じゃない、って示したいんです」と私は言った。「奪わなくても、湯は戻る。——それを、二つ三つと増やさないと。一つだけだと、向こうに『まぐれだ』と言われてしまう」


 オットーさんは、握っていた薪を膝に置いたまま、私を見た。




 「向こう、というのは」と彼は言った。「ヘルマンの言うとった、王都の、大きな家か」


 「ええ」と私は言った。「たぶん。その家は、リンドヴァルの井戸をもう見ています。——そして、二つ目を作らせたくないと思っています」


 「ほう」とオットーさんは言った。「敵が、おるんか」


 「います」と私は言った。「まだ顔は、見えませんが」




 火が、低く燃えていた。


 オットーさんは、しばらくその火を見ていた。それから、ぽつりと言った。


 「ザイデルの湯は」と彼は言った。「わしも若い頃に一度、行ったことがある」


 私は、顔を上げた。


 「行ったことが?」




 「ロウムのほうへ、湯治に」とオットーさんは言った。「もう、五十年も前じゃ。あの頃は、いい湯じゃった。湯の花が、こう、雪みたいに浮いてのう」


 彼の目が、遠くを見ていた。五十年前の、まだ生きていたザイデルの湯を。


 「それが、二十年前に涸れた」と彼は言った。「リンドヴァルより、ずっと早うに。——あそこは、リンドヴァルよりたちが悪いと聞いとる」




 「たちが、悪い?」


 「涸れ方が、深い」とオットーさんは言った。「リンドヴァルは、谷の縁にまだちょろちょろと水気が残っとった。じゃが、ザイデルは——根こそぎ抜かれた。雑巾を絞り切ったみたいに」


 私は、ノアの図を思い出した。


 リンドヴァルの図には、谷の縁に細い線がいくつもあった。ザイデルの図には、それがほとんど無かった。




 「戻せると、思うか」とオットーさんが訊いた。


 私は、すぐには答えられなかった。


 「わかりません」と、私はやがて言った。「立ってみるまで、わからない。——ノアが、そう言っています」


 「正直じゃな」とオットーさんは言った。「あの学者は」


 「ええ」と私は言った。「正直なんです。だから——もし戻せなかったら、正直にそう言うと思います。『ここは、戻せない』と」




 オットーさんは、火を見たまま、深く頷いた。


 「それが、いちばん難しいことじゃ」と彼は言った。


 「難しい?」


 「湯を待っとる人に、『もう戻らん』と告げるのは」とオットーさんは言った。「湯を戻すよりも、ずっと難しい。——わしは五年前、それを自分で自分に告げる役じゃった。『リンドヴァルは、もう戻らん』と」




 彼の節くれだった手が、火に照らされていた。


 「告げて、村を出た」と彼は言った。「あの日が、わしのいちばん長い一日じゃった。——なのに、戻ってきよった。湯が。だから、わしの告げたことは間違いじゃった。間違いで、よかった」


 オットーさんは、ふっと笑った。


 「じゃが、ザイデルの誰かには」と彼は言った。「間違いだと言うてやれんかもしれん。——『戻る』と、言うてやれんかもしれん」




 私は、火の中の薪を見ていた。


 二百軒を再建した前世でも、私はその役を引き受けたことがなかった。「この旅館は、再建できません」とは言った。けれど、それは数字の話だった。経営の話だった。湯を待つ人に、「あなたの谷は、戻せません」と人として告げたことは——一度も、なかった。


 その役が、いま、私の前で、口を開けて待っていた。




 「ノアが、二人いれば」と私は、ぽつりと言った。


 声に出してから、私は、それがこの日ずっと胸にあった手応えの正体だと気づいた。


 ノアが、二人いれば。地脈を読める人が、もう一人いれば。リンドヴァルとザイデルに同時に立てる。ノアが倒れても再生は止まらない。一つの谷に縛られずに、王国の数百の湯を、もっと速く戻せる。


 けれど、ノアは、一人だった。




 「テオドールが、言った通りだわ」と私は言った。


 「テオドール?」とオットーさんが訊いた。


 「向こうの使者です」と私は言った。「『あなたのやり方は遅い。土地を選ぶ』と。——あの時は悔しかった。でも、いまわかります。遅いのはノアが一人だから。土地を選ぶのは、細脈が残ってる土地しか戻せないから。——本当に、その通りなんです」


 言葉にすると、その非効率が、骨に、染みた。




 オットーさんは、しばらく黙ってから、薪を一本くべた。


 「じゃが」と彼は言った。「遅うても、ここには湯が戻った」


 「ええ」


 「速い湯は」とオットーさんは言った。「どこかの谷から、奪うた湯じゃろう。——遅い湯は、誰からも奪うとらん。わしは遅い湯のほうが、ええ」


 火が、ぱちりと、爆ぜた。




 その夜、土間で私はノアの図をもう一度広げた。


 リンドヴァルの図と、ザイデルの図。片方には、谷の縁に細い線がいくつもある。片方には、それがほとんど無い。


 その横で、ノアが別の紙に何か書いていた。針の動きを図にしていた。「これが、伏流の合図」「これが、ただの脈動」——ヨナスに教えるための覚え書きだった。




 「それ」と私は訊いた。「ヨナスに?」


 「ああ」とノアは言った。「言葉で伝わらないなら、図にすればいいと、思った。——だが」


 彼は、書きかけの図を、見つめた。


 「書いてみて、わかった」と彼は言った。「俺の読みは、図にできる部分が半分もない。——残りの半分は、手のひらと、十年だ」




 ノアが、筆を置いた。


 「それでも、書く」と彼は言った。「半分でも、ヨナスに渡せれば。——いつか、あの子が残りの半分を自分の手で見つけるかもしれない」


 私は、その横顔を見た。


 五年前、完璧な報告書に三月をかけて間に合わなかった男だ。その男が、いま、半分しか書けない覚え書きを、それでも書こうとしていた。完璧を待たずに。




 「ノア」と私は言った。「あなたを増やす方法は、ないかしら」


 ノアが、片眉を上げた。


 「俺を、増やす?」


 「あなたが二人いれば」と私は言った。「リンドヴァルとザイデルに、同時に立てる。あなたが倒れても止まらない。——でも、あなたは一人」


 「分身の術でも、習えと?」とノアは、めずらしく軽口を言った。




 「習えるなら、習ってほしいわ」と私は、笑った。


 それから、笑いを、少しずつ、しまった。


 「でも、それができないなら」と私は言った。「あなたが読み方を、誰かに渡すしかない。半分でも。それを、何年もかけて。——遅くても」


 「ああ」とノアは言った。「遅くても」


 私たちは、しばらく、二つの図を並べて見ていた。




 「明日」と私は言った。「ザイデルに、発ちましょう」


 「ああ」とノアは言った。


 「もし、戻せなかったら」と私は言った。「私が告げるわ。『ここは、戻せない』と。——その役は、あなたじゃない。私が引き受ける」


 ノアが、私を見た。


 「お前が?」




 「女将の仕事よ」と私は言った。「湯を、戻すのも。——戻せないと、告げるのも」


 ノアは、何か言おうとして、やめた。それから、低く言った。


 「一人じゃ、ないからな」


 「ええ」と私は言った。「一人じゃ、ない」


 彼の手が私の手の上にそっと重なった。土と墨で汚れた、地脈を読む手だった。




 戸の外で、リンドヴァルの井戸の湯気が、まだ立っていた。


 私は、戸を開けて、それを見た。


 夜の谷に、温い靄が一本、星明かりの下で絶えずに揺れていた。九人の人がその湯を分け合って暮らし始めている。けれど、その井戸を起こしたのはノアのふたつの目だった。たった一組の、替えのきかない目だった。




 明日、その目を連れて、私たちは、別の谷へ行く。


 二十年涸れた、ザイデルの湯へ。細脈が、もう残っていないかもしれない谷へ。ノアの目がその谷で何を読むのか、私にはわからなかった。戻せるのか。戻せないのか。


 立ってみるまで、わからない。




 土間の机の上に、二枚の図が、並んでいた。


 線の多い谷の図と、線の少ない谷の図。戻った湯の図と、まだ見ぬ谷の図。その二枚の真ん中に、ノアの書きかけの覚え書きが一枚、置かれていた。


 半分しか書けなかった、地脈の読み方。残りの半分は、手のひらと、十年。


 その覚え書きの上で、土間の火が、消えかけながら、まだ灯っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


前回、涸れたリンドヴァルに湯守の祖父オットーさんが帰ってきました。今回はその続き、戻った湯を「一つ」から「二つ、三つ」へ広げようとして、二人が壁にぶつかる話です。


この章で一番書きたかったのは、「最初のひとつ」が広がらない理由です。第八章でセラとノアは奪わずに湯を戻しました。でも、それを読めるのはノア一人。彼が倒れたら、全部が止まる。教えようとしても、針の動きの半分は言葉にできない——手のひらと、十年の体の記憶だから。前世のセラ自身も、宿の良し悪しを玄関で読めたのに、後輩には教えられませんでした。「見ればわかるでしょう」と言って困らせた。誰かを無双の天才にすると物語は楽ですが、それは現実の重さを捨てることだと思っています。だから、ノアを増やせない壁を、正面から書きました。


テオドールが前章で言い残した「遅い、土地を選ぶ」。あの悔しい一言の正体を、セラが現場の骨で知る回でもあります。遅いのはノアが一人だから。土地を選ぶのは、細脈が残る土地しか戻せないから。本当に、その通りなんです。


そしてオットーさんの「遅い湯のほうが、ええ」。奪わない再生の、いちばん静かな肯定を、この谷の老人に言わせました。次回、二人はいよいよザイデルへ発ちます。そこで待っているのは、戻せない湯と、最後の一人。どうか、その先も見届けてください。評価・ブックマーク・ご感想が、この長い再生の旅の、何よりの湯気になります。


それでは、また次回。

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