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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第86話: 汲める分だけ

 源泉の湯気は、朝の匂いがいちばん濃い。


 帳場の窓から谷を見れば、いつもなら朝餉どきの空気を白く染めて立ちのぼっている。古木の湿りと、ほのかな硫黄と、銀泉草の青い甘さ。前世から私は匂いで宿の調子を測る癖がある。

 今朝の谷は賑やかだった。


 通りに人があふれている。御用達の噂を聞きつけた客が谷の容れる数より多く来ている。声がさざめき足音が砂利を鳴らす。それは私が二年かけて夢に見た景色だった。


 なのに、湯気が薄い。


 日が高くなる頃には源泉の白い柱が朝より細っている。客が湯を使うからだと言えばそれまでだ。けれど私の鼻はもっと前から拾っていた。匂いが、薄い。湯気が運ぶはずの硫黄の濃さが日に日に頼りなくなっていた。


 手帳を開いた。客数。湯量。湧出の記録。前世で二百軒の数字を見てきた目が、その並びの底をもう見抜いていた。


 受け入れの、容量を超えている。




 川の機嫌は、音でわかる。


 わしは夏のさなかの淵のほとりにしゃがんで流れの声を聴いていた。瀬はさらさらと忙しなく喋る。深みは、ごぼり、と低く唸る。だが、その底を裂くね音が——ない。


 春に「無限じゃねぇ」と嬢ちゃんに言ったときより、ひどい。


 あれから夏が来た。客が谷いっぱいに来た。淵という淵に釣り糸が垂れて、子供も大人も王都の客もみんな笑って竿を握っている。獲れた獲れたと喜んでいる。


 獲れすぎだ。


 わしは石を一つひっくり返した。川虫が——いない。隣の石を返す。いない。三つ目でようやく一匹。子供の頃は一つの石にわさわさと群れていた。


 「先生。地脈は、悪くねぇんだろう」


 養魚場へ寄ったノアの先生に、わしは念を押した。


 「ああ。水温も流量も、平年並みだ」


 「だよなあ。地脈のせいじゃねぇ。これは、もっと簡単な話だ」


 わしは膝に手をついて立ち上がった。古傷が、ぎし、と鳴る。


 「人が川から汲みすぎてるんだ。鱒も。虫も。——川が、追いつかねぇ」


 先生はしばらく黙って計器の針を見ていた。それから低く言った。


 「セラに、伝える。今度のは、耳の話じゃ済まない」


 わしは頷いた。淵の水面に銀の魚影は、もう、よぎらなかった。




 昼前、ノアが帳場に戻ってきた。


 藍色の髪が川の湿りで重い。深い緑の目が、いつもより硬い。卓に計器を置いて、その隣に一枚の紙を広げた。源泉の湧出を測った三日ぶんの記録だった。


 「セラ。湯気が細るのは、客のせいだけじゃない」


 「地脈?」


 私は、すっと身を固くした。湯の差配が、また——とよぎった。


 「いや」


 ノアは、首を振った。


 「術じゃない。導管術の波形は、これとは違う。これは、もっと素朴だ。——湧く分より、汲む分が多い」


 「使いすぎてる」


 「ああ。客が増えた。風呂も、料理も、洗い場も、ぜんぶ湯を食う。源泉は湧く速さが決まってる。それより速く汲めば、追いつかない」


 川と同じだ、と私は思った。トビアスの川と、イルゼの山羊と、まったく同じ理屈が源泉でも起きている。


 谷ぜんぶが、同じ悲鳴を上げ始めていた。




 その日の午後、棚田からフリッツが駆け込んできた。


 「セラさん! 上の段の田が、干上がりかけてる!」


 「水路は?」


 「直したとこは、流れてます。でも、源泉の支流の水が——細くて。上まで、回らない」


 私は手帳に書きつけた。源泉が細れば、支流が細る。支流が細れば、棚田が乾く。棚田が乾けば、地脈米が痩せる。痩せれば、膳が落ちる。膳が落ちれば、客が——。


 ぜんぶ繋がって回っている。トビアスが縁側で言った、あの言葉のままに。


 よく出来た仕組みだ。だが、無限じゃない。


 回っているように見えて、ほんとうは少しずつすり減っている。私はいま、そのすり減りを自分の手帳の数字で見ていた。




 夕刻。エミール町長が、息を切らして暖簾をくぐった。


 「セラフィーナさん。王都から、また」


 手に、一通の書状。封蝋に、王家の御紋。テオドールの携えていたものと同じ紋だ。けれど、前のものより重く見えた。


 マリカが私の隣でそれを開いた。宮廷の書体を読み慣れた目が文面を上から下へ滑る。読み終えて、彼女の頬がわずかに硬くなった。


 「……御用達の、ご返答を急かす書状です」


 「急かす?」


 「ええ。期日までに承諾なき場合は——」


 マリカは、そこで一度、息を継いだ。


 「税の特別査察。営業認可の、更新拒否。それから、街道整備の差配から、谷を外す。——三つ、書いてあります」




 帳場が、しんと冷えた。


 無言が卓の上にゆっくりと降りた。エミールの手が書状の端を握りしめている。


 私はその三つを頭の中で並べた。


 税の特別査察は、ディートリヒがかつて持ってきたものと同じだ。難癖をつけて帳簿をひっくり返し、人手と時を奪う。営業認可の更新拒否は、銀泉楼の暖簾そのものを下ろさせる。街道の差配から外せば、谷へ続く道が直されず、客はやがて来られなくなる。


 法ではない。


 どれも裁量だった。「やってもいい」ことを、選んでやる。表向きは、正当に見える。だから、抗いようがない。


 受けなければ、潰す。そう書いてある。御紋の下に、穏やかな言葉で。


 ディートリヒの手紙の一行が、また胸に浮かんだ。あなたは、もう見つかってしまった。




 「これが、断った場合の——代償か」


 ノアが、低く言った。


 「ああ」と、私は頷いた。声が、自分でも乾いていた。


 「受ければ、後ろ盾が手に入る。客も、庇護も、御紋も。——でも、湯の供給優先権を握られる。差配の右の列に組み込まれる」


 「断れば」


 「この三つで締め上げられる。査察と、認可と、街道で。——じわじわと」


 受けても断っても、谷が削られる。


 二つしか道がないように見えた。どちらに進んでも、私が二年かけて積み上げたものがすり減っていく。




 「受けるべきだ」


 最初に言ったのは、エミールだった。


 声が、震えていた。けれど、覚悟を決めた者の震えだった。


 「町長として十五年、逃げてきた私が言うんです。——受けるべきだ。御用達になれば、谷は守られる。客が来る。道が直る。税の心配もない。これ以上の庇護が、どこにあります」


 「町長さん」


 「セラフィーナさん。あなたは、谷を背負ってる。八十七人の暮らしを。意地で潰してはいけない。湯の優先権くらい——差し出して谷が栄えるなら」


 エミールは書状を握りしめたまま私を見た。


 その目に嘘はなかった。彼は本気で谷を守ろうとしている。




 「私は、反対です」


 マリカの声が、静かに割って入った。


 いつもの落ち着いた声だった。けれど、その底に翡翠殿で十一年を過ごした者だけが知る冷たい確信があった。


 「町長さん。私は、右の列で笑っていた人間です。差配の、栄えた側で。——あそこに組み込まれるというのが、どういうことか。少しだけ知っています」


 「マリカさん」


 「最初は、庇護です。客と、御紋と、後ろ盾。けれど、一度握られた優先権は返ってきません。次は『国の都合で湯を融通せよ』が来る。断れば、また締め上げる。——銀泉楼がいつか、どこかの谷の湯を抜く側に回る日が来ます」


 エミールが、息を呑んだ。


 「奪う側に、なるんです」と、マリカは言った。「ローザ様がいちばん厭った形に」




 「だが、それで谷が潰れたら、元も子もねぇ」


 トビアスが、いつのまにか縁側から上がってきていた。竿を一本、手にしたまま。


 「わしは、川の男だ。難しい仕組みはわからん。けど、これだけは言える。——谷が干上がっちまったら、預かるも奪うもねぇんだ。守るものが無くなる」


 「トビアスさん」と、私は言った。


 「嬢ちゃん。わしは、どっちが正しいかは言えん。けどな」


 老漁師は、川のほうへ目をやった。


 「川は、汲める分しか、くれねぇ。汲みすぎりゃ、減る。我慢して待ちゃ、戻る。——湯も、たぶん、同じだ。受けるか断るかの前に、まず汲みすぎを止めねぇと。どっちにしても、な」


 その一言が、私の胸の底で小さく灯った。けれど、まだ、形にならなかった。




 ハンナが、盆を抱えて入ってきた。


 湯呑みが、人数ぶん。湯気を立てている。銀泉草の湯だ。ゆうべより香りが薄い気がした。湯が細っているからだ。


 「難しい顔が、いくつ並んでるんだか」


 ハンナは、卓に湯呑みを配った。


 「あたしには、御用達も差配もわからんよ。けどね、お嬢」


 彼女は私の前に、最後の一つを置いた。


 「ローザ様なら、こういうときはまず湯を見たね。人がどう言うかより、湯がどうしてるか。——湯は、いま、なんて言ってる?」


 湯は、細っている。


 汲める分より多くを汲んでいる。だから、痩せている。川も、田も、源泉も、ぜんぶ。受けるか、断るか。その問いの、もっと手前で、谷が、悲鳴を上げている。




 私は、手帳を開いた。


 客数。湯量。棚田の水。鱒の数。山羊の乳。書きつけてきた数字が頁を埋めている。前世で、私はこういう数字をいくらでも捌いてきた。赤字を黒字に。客足を倍に。答えは、いつも、数字の向こうにあった。


 筆を、止めた。


 受けると書けば、マリカが哀しむ。断ると書けば、エミールの言うとおり谷が潰れるかもしれない。汲みすぎを止めると書いても、その間に客は減り、御用達の期日は来る。


 どれも、書けなかった。


 数字で解ける問いではなかった。私が二年頼ってきたこの手帳に、初めて、答えが、無かった。


 私は、手帳を、そっと閉じた。




 みんなが帰っていった。


 エミールは肩を落として。マリカは口を結んで。トビアスは竿を担いで。ノアは何か言いかけて、やめて、私の肩に一度だけ手を置いて。


 帳場に、私一人が残った。


 卓の上には、王家の御紋の書状が、開いたまま置かれていた。穏やかな言葉で三つの代償を並べた一枚。封蝋の御紋が、魔導灯の灯りに、鈍く光っている。


 その横で、ハンナの置いていった銀泉草の湯が湯気を細く立てている。


 香りの薄い、痩せた湯気だった。汲める分より多くを汲まれた湯の。それでも消えはしない。細く、頼りなく、けれど、まだ——立ちのぼっていた。


 私はその湯気を、長いこと、見ていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第八章の六話目。神回(リンドヴァルの真実)の余韻が冷めないうちに、谷そのものが軋み始める回でした。


この回で書きたかったのは、二つの圧力が同時に押し寄せる「危機の入口」です。一つは、御用達の噂で客が増えすぎて、谷の容れる数を超えてしまったこと。源泉の湯気が日中に細り、棚田の水が足りず、渓流の鱒が獲れない。番外編(第七十七話)でトビアスが鳴らした「無限じゃねぇ」という警鐘が、夏の繁忙のピークで、現実の被害になります。もう一つは、御用達を断った場合の代償——税の査察、認可の拒否、街道からの除外。法ではなく、裁量で締め上げる、穏やかで冷たい圧力です。


セラは、前世で二百軒を見てきたコンサルです。受け入れ容量を超えたことは、数字を見れば、すぐにわかる。けれど、わかることと、解けることは、違いました。受けても、断っても、谷が削られる。汲みすぎを止めても、その間に期日が来る。彼女が二年間ずっと頼ってきた手帳に、初めて、答えがない。最後に手帳をそっと閉じる場面は、次の回(第八十八話)で彼女が「一人では制度に勝てない」と悟る、その挫折の、最初の一歩です。


仲間の言い分も、誰も間違っていません。受けて谷を守れと言うエミール。奪う側に回るなと言うマリカ。どっちが正しいかは言えないが、まず汲みすぎを止めろと言うトビアス。みんな、谷を想って、別々の方角を向いている。その割れ目が、次の回で、もっと深い内紛になっていきます。


トビアスの「川は、汲める分しか、くれねぇ」という一言と、ハンナの「湯は、いま、なんて言ってる?」という問いは、セラがやがて見つける「第三の道」の、小さな種です。けれど、いまの彼女には、まだ拾えません。


痩せても消えない、細い湯気。谷は、まだ、間に合うのか。どうか、その先も、見届けてください。


それでは、また次回。

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