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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第87話: 谷を捨てるのか

 帳場に並んだ顔の数を、私はまず匂いで数えた。


 土の匂いがする。汗と日向と、わずかな硫黄。夏の朝に棚田から下りてきたばかりの人の匂いだ。前世から私は人の数より先に気配の匂いを拾う。今朝はいつもより多い。みんな何かを言いに来た顔をしている。


 卓の真ん中に、王家の御紋の書状が昨日のまま開いて置かれていた。


 受けねば締め上げる。穏やかな言葉で、そう書いてある一枚。


 私はその横に自分の手帳を置いた。ゆうべ一晩、開いては閉じた手帳だ。答えはまだ書けていない。




 「みなさん。聞いてほしいことがあります」


 私は、立ったまま切り出した。


 昨夜からずっと考えていた。湯の差配。導管術。各地の涸れた湯。マリカの裏帳簿。ディートリヒの手紙。ノアの地脈データ。ばらばらだった欠片が頭の中で一枚の地図になっていた。


 谷だけの話では、もう、ないのだ。


 「私たちが受け入れ容量を超えて苦しんでいるのと、同じことが——たぶん王国のあちこちで起きています。栄える湯と、涸れる湯。差配が魔力を移すたびに、どこかの谷が私たちみたいになる」


 言葉が、勝手に熱を帯びた。


 「だから、谷を守るだけじゃ足りないんです。湯の差配そのものを、王国の湯のあり方そのものを——変えないと。いずれ、ここも奪われる側に回る」


 言い切って、私はみんなの顔を見渡した。


 誰も、すぐには頷かなかった。




 最初に口を開いたのは、エミールだった。


 「セラフィーナさん。それは——大きすぎる話です」


 昨日、御用達を「受けるべきだ」と言った人だ。けれど今日はまた別の不安の色をしていた。


 「王国の湯のあり方を変える。立派な志です。でも、私たちは町長と、女将と、漁師と、農夫だ。相手は王室と、大貴族の連合でしょう。——勝てるんですか。いや、戦って、谷は無事でいられるんですか」


 「無事に、します」


 「どうやって」


 私は、答えに詰まった。


 手帳を開けば、客数も湯量も棚田の水も、ぜんぶ数字で並ぶ。けれど王室相手にどう勝つかという欄は、どこにも無かった。




 「具体策が、ない」


 ノアが低く言った。皮肉ではなかった。事実を事実として置いただけの声だ。


 「セラ。お前の言う"変える"は、いまのところまだ志だ。湯の差配に頼らず涸れた湯を戻す方法を、俺たちはまだ持っていない。リンドヴァルすら、どう戻すか見えていない」


 「わかってる」


 わかっていた。痛いほど。


 奪わずに湯を戻す。それができれば差配の前提を覆せる。けれど、その理屈を私もノアもまだ一行も書けていない。理想だけが先に走っている。


 「だから、まず、そこを探したいの。谷を守りながら、その先を」


 「両方を、いっぺんに」


 「……うん」


 ノアは何も言わなかった。ただ、深い緑の目が私を案じていた。




 潮がゆっくりと変わるのを、ヴァルターは黙って眺めていた。


 わしは麦わら帽子を膝に置いて、いちばん隅に座っている。朝のうちに上の段の田を見てきた。源泉の支流が細って、いちばん高い三枚がもう乾きかけていた。爺さんが石を積み、父が水を引き、わしが百年の米を守ってきた、あの三枚だ。


 令嬢が、王国を変えると言っている。


 立派なことだ。頭のいい娘だ。土がわかる娘だと、わしは認めた。田植えで泥だらけになって笑ったあの娘を信じている。


 だが——と、わしは思う。


 王国の湯。各地の涸れ湯。差配。大貴族。


 わしには、遠すぎる。わしの世界は八枚の——いや、いまは乾きかけて七枚の棚田だ。その七枚に明日、水が回るかどうか。わしが死ぬまでにフリッツへ渡せるかどうか。それが、わしの王国のぜんぶだった。




 「嬢ちゃん」


 わしは口を開いた。久しぶりに長く喋る気がした。


 「上の田が、乾きかけとる。源泉が細ったせいだ。あんたなら、わかるだろう」


 「……はい」と、令嬢は言った。


 「あんたは、それを止める前に、王国を変えると言う。順番が逆だ」


 帳場が、しんとした。


 「わしは王国のことは知らん。差配も御用達もわからん。けどな。わしの足元の七枚は、いま乾いとる。あんたが王都を相手に戦っとる間、誰がこの七枚に水を回す」


 令嬢は、何も言わなかった。


 「わしらは、谷で暮らしとる。王国じゃねぇ。谷だ」


 言葉が自分でも硬くなるのがわかった。怒っているのではない。怖いのだ。せっかく戻ってきた水が、また遠くへ行ってしまうのが。




 「ヴァルターさん。私は、谷を捨てるなんて、一言も——」


 「捨てるとは、言っとらん」


 わしは令嬢の言葉を静かに遮った。


 「だが、目が遠くを見とる。あんたの目がここより向こうを見とるのが、わしには見える。土を見る目とおんなじだ。どこを見とるかは、目を見りゃわかる」


 令嬢の琥珀の目が、揺れた。


 図星だったのだろう。わしは、それ以上は責めなかった。責めたいのではない。ただ、足元を忘れんでほしいだけだ。


 「わしらは、あんたに谷を立て直してもらった。恩は忘れん。だからこそ言う。——谷を、踏み台にせんでくれ。あんたの大きな志の、踏み台に」


 わしは麦わら帽子を両手で握っていた。


 爺さんが積んだ石垣のざらりとした手触りが、なぜか、その帽子の藁に重なった。




 ヴァルターさんの言葉は、私の胸のいちばん古い場所に刺さった。


 目が、遠くを見ている。


 その通りだった。私は、また見ていた。大きな絵を。王国全体の、湯の流れの地図を。前世で二百軒の旅館を分析したときと、同じ目で。


 あのとき、私はぜんぶを見渡せた。どこが悪いか、何を直せばいいか、ぜんぶ見えた。見えたのに——一軒も、自分の手では作れなかった。


 見ているだけで、終わった。


 その記憶が、喉の奥からひやりと上ってきた。




 私は、すぐには言い返せなかった。


 ヴァルターさんは間違っていない。エミールも、ノアも、間違っていない。みんな谷を想って、別々のことを言っている。そして、いちばん怖いことに——私自身が、自分の言葉に確信を持てていなかった。


 「私は」と、口を開いた。声が思ったより細かった。


 「私は、谷をいちばんに想っています。それは、ほんとうです。でも、谷だけ守っても、いつか奪われる。だから——」


 「だから、王国を変える」


 ヴァルターさんが繰り返した。責める色はなかった。ただ、疲れた年寄りの声だった。


 「その"いつか"のために、いまの七枚を、待たせるのか」


 待たせる、という言葉がぐさりと来た。


 私は待たせていた。前世でも。今も。大きな絵を描いている間、目の前の乾いた田を。




 「——あのね、お嬢」


 ハンナが、ことり、と湯呑みを卓に置いた。


 いつのまにか盆を抱えて入ってきていた。銀泉草の湯だ。ゆうべより、また少し香りが薄い。


 「あたしは、難しい話はわからんよ。王国も、差配も。けどね、ひとつだけ」


 彼女は皺の寄った手で、私の手帳をそっと指した。


 「あんた、その帳面に、谷の人の名前、ぜんぶ書いてあるのかい」


 「……名前?」


 「客数とか、湯量とか。数字はいっぱい書いてある。けど、ヴァルターの爺さんの七枚の田のことは、書いてあるのかい。フリッツが明日、どの段に水を入れるか。トビアスが、どの淵をひと夏休ませようとしてるか」


 私は、手帳を見た。


 客数。湯量。棚田の水。鱒の数。数字は頁を埋めていた。けれど、ヴァルターさんの七枚の田に、名前は無かった。「上の段」と、それだけ書いてあった。




 「数字は、嘘はつかんよ」と、ハンナは言った。


 「でも、数字は顔を忘れさせるんだ。あんたが王国の地図を見てるとき、その地図のどこに、爺さんの田が点で打ってあるか。点には、皺も、汗も、爺さんの爺さんの石垣も写らないからね」


 ハンナの言葉は、説教ではなかった。


 ただ、五十年この町を見てきた人の、静かな観察だった。


 私は何も言えなかった。前世で、私は地図の上の点をいくつも見捨ててきた気がした。再建できる旅館だけ選び、無理なものは切り捨てる。それがコンサルの仕事だった。点には、顔が無かったから。




 「町長さん」と、マリカが、静かに言った。


 彼女はずっと黙って、ヴァルターさんとセラのやりとりを見ていた。


 「ヴァルターさんの言うことは、正しいと思います。足元を、忘れてはいけない。——でも」


 マリカは卓の御紋の書状に目をやった。


 「奪われる側に回る怖さも、私は知っています。翡翠殿で奪う側を十一年見てきましたから。足元だけを守って俯いていた谷が、ある日、上から優先権を握られて湯を抜かれる。——それも、本当に起きることなんです」


 帳場の空気が、また重く揺れた。


 マリカはヴァルターを否定したのではない。けれど、ヴァルターの言い分だけでは谷は守れないと言っていた。誰の言葉も、半分だけ正しくて、半分だけ足りなかった。




 誰も、間違っていない。


 それが、いちばん苦しかった。


 エミールは谷を庇護で守りたい。ヴァルターは足元の田を待たせたくない。マリカは奪われる未来を恐れている。ノアは具体策がないと案じている。ハンナは、数字が顔を忘れることを知っている。


 みんな、谷を想っている。


 なのに、向いている方角がばらばらだった。そして、その真ん中に立っているはずの私が、いちばん足が定まっていなかった。外を向きたい自分と、足元を見ろという声と。両方が、正しかった。


 手帳を開いても、この割れ目を埋める数字は、どこにも無かった。




 「……今日は、ここまでに、しましょう」


 私が言えたのは、それだけだった。


 みんなの顔に、安堵はなかった。何も決まらなかったからだ。御用達も、汲みすぎも、王国の湯のことも。割れたまま、宙に浮いたまま、寄り合いは終わった。


 ヴァルターさんが、いちばん先に立ち上がった。


 膝の麦わら帽子に手を伸ばしかけて——やめた。そのまま、背を向けた。


 「嬢ちゃん。わしは、あんたを信じとる。それは変わらん。——けど、今日のところは田に戻る。乾く前に、できることをしに」


 その背中が、土の匂いを残して暖簾の向こうへ消えた。




 一人、また一人と、帰っていった。


 エミールは肩を落として。マリカは口を結んで。ノアは何か言いかけて、私の隣に少しだけ立って、それからハンナを送りに外へ出た。


 帳場に、私一人が残った。


 卓の上には、王家の御紋の書状と私の手帳が並んで置かれていた。御紋は魔導灯の灯りに鈍く光っている。手帳は開いたまま、客数と湯量の数字をこちらに見せていた。


 そして、その隣——ヴァルターさんが座っていた席に、麦わら帽子が一つ忘れられていた。


 立ち上がるときに膝から落としたのだろう。古い、ささくれた藁の帽子。爺さんの石垣を見上げて七枚の田を守ってきた人の、汗の染みた帽子だった。


 私は、それを拾った。




 藁の手触りが、ざらりと、手のひらに残った。


 遠くを見る目では、この帽子の汗の染みは見えない。地図の上の点には、この藁のささくれは写らない。


 ヴァルターさんは、それを、言いに来たのだ。


 私は帽子を胸に抱いたまま、長いこと立っていた。卓の上の御紋と、手帳と、忘れられた帽子。三つを見比べていた。


 外を向いた私の目には、王国の湯の地図が見える。


 足元を見ろという声には、乾きかけた七枚の田がある。


 どちらも、捨てられなかった。どちらも捨てられないまま、私はたった一人で、二つの方角の真ん中に立ち尽くしていた。


 帳場の窓の外で、源泉の湯気が今日も、細く頼りなく立ちのぼっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第八章の七話目。前回までで二つの圧力——汲みすぎによる谷の悲鳴と、御用達を断る代償——に挟まれたセラが、今度は、仲間との間に、亀裂を抱える回でした。


この回で書きたかったのは、「誰も間違っていない対立」です。湯の差配の全体像を掴んだセラは、谷だけ守っても、いずれ奪われると気づきます。だから王国の湯のあり方そのものを変えなければと、外を向き始める。志としては、間違っていません。けれど、足元では、ヴァルターさんの七枚の田が、乾きかけている。「その"いつか"のために、いまの七枚を、待たせるのか」——彼の言葉は、責めではなく、谷を愛するがゆえの、まっとうな異論です。


ヴァルターさんは、悪役ではありません。むしろ、谷でいちばん土を知り、谷でいちばん谷を想っている人です。だからこそ、彼の「谷を捨てるのか」は、重い。セラを信じているからこそ、足元を忘れないでくれと、頭を下げに来た。エミールも、マリカも、ノアも、ハンナも、みんな谷を想って、別々の方角を向いている。その全員が半分正しくて、半分足りない。真ん中に立つセラ自身が、いちばん足が定まっていない——そこを、苦く書きました。


セラの怖さは、前世から続いています。「見ているだけで終わった」コンサルの記憶。大きな絵を描いている間、目の前の乾いた田を、待たせてしまう癖。奪わずに湯を戻す方法を、まだ一行も持たないまま、王国を変えると語る言葉は、どうしても、空回ります。理想だけが、先に走っている。


ヴァルターさんが忘れていった、汗の染みた麦わら帽子。地図の上の点には写らない、藁のささくれ。それを胸に抱いて、二つの方角の真ん中で立ち尽くすセラは、次の回(第八十八話)で、もっと深く、底を打ちます。一人では、制度に勝てない——その挫折の手前に、彼女は、もう、来ています。


割れたまま、何も決まらなかった寄り合い。けれど、割れ目の底にこそ、次の道の入口があります。どうか、その先も、見届けてください。


それでは、また次回。

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