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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第85話: 間違った相手

 地脈の脈動は、手のひらで聴く。


 俺はその手のひらで、いま自分の革の手帳を拾い上げていた。卓の角に当たって落ちた表紙がざらりと指に触れる。波形の頁が開いたまま止まっている。

 台帳の左の列にリンドヴァルと書いてあった。

 奪われた湯の、一つとして。


 指が冷たかった。


 源泉に手を置いたあとの地脈の冷たさじゃない。もっと内側の冷たさだ。五年ぶりに、あの井戸の底の石が指の腹に蘇ってくる。




 「ノア」


 セラの声が、遠かった。


 帳場の卓を挟んで彼女が俺を見ている。マリカも、ハンナも。三人の顔が湯気の向こうに薄くにじんで見えた。

 俺は手帳を握ったまま動けなかった。


 「リンドヴァルって」


 セラが、静かに言った。


 「あなたの、故郷の——」


 「ああ」


 声が、思ったより低く出た。


 「俺が、守れなかった村だ」


 誰も何も言わなかった。沈黙が四つの湯呑みの湯気の上に薄く張った。




 俺は、自分の手帳を開いた。


 五年前の頁だ。リンドヴァルの井戸端で地面に手を置いて取った記録。あの頃の俺はこの波形をただの「枯れていく地脈」として写した。原因はアンカーだとわかっていた。場所も、抜き方も。だから報告書を書いた。完璧な一冊を。

 その頁を、いま見ている。


 五年前の目では見えなかった。

 いまの目には見える。


 俺はこの三日、源泉のほとりで客の使う湯量と細り方を突き合わせ続けた。フェルデ。ザイデル。セルヴァ。導管術で抜かれた湯の波形を何度も指でなぞった。

 その形が頭の奥に焼きついている。




 俺は五年前のリンドヴァルの波形に、その形を重ねた。


 手が止まった。


 同じだった。


 なだらかじゃない。ある時期から、急に。底を抜いたように。そして抜けたあとは平らに保たれている。決まった量を決まった速さで、誰かが几帳面に汲み出していた線。

 フェルデと同じ。ザイデルと同じ。セルヴァと同じ。

 ——リンドヴァルと、同じ。


 俺の喉の奥で何かが鳴った。




 「自然に湯が涸れるときは」


 俺は、声に出していた。学者の声のつもりだった。


 「上から、ゆっくりだ。雨が減る。雪解けが遅れる。地脈の元が弱る。だから細り方も、なだらかに——」


 言葉が、途切れた。


 「リンドヴァルは、なだらかじゃなかった」


 頁の上で線が几帳面に底を抜いていた。あの頃の俺はそれを「病んだ地脈」と呼んだ。病気だと思った。だから治そうとした。証拠を揃えて図を引いて、誰にも文句を言わせない一冊を作ろうとした。


 病気じゃなかった。


 あれは汲み出されていたんだ。最初から。俺が井戸端に手を置くずっと前から。




 「セラ」


 俺は、顔を上げた。


 「五年前、俺がリンドヴァルに着いたとき、村はもう病んでた。井戸が細って、田が乾きかけてた。俺は原因を特定した。三月みつきかけて報告書を書いた。その間に——」


 「井戸が、涸れた」


 セラが、続けた。彼女は知っている。山で、俺が打ち明けた話だ。


 「ああ。完璧な報告書ができた日に戻ったら、もう誰もいなかった。だから俺は——」


 俺はずっとそう信じてきた。

 五年。一日も忘れたことのない、たった一つの事実。


 「俺が遅かったせいだと思ってた」




 「俺が三月もかけて言葉を磨かなければ。もっと早く動いていれば。あの村は間に合った」


 声が震え始めた。構わなかった。


 「だから俺は、人と深く関わるのをやめた。間に合わなかった男にその資格はないと思ってた。完璧を待つあいだに灯りを消した男に」


 手帳の頁が指の下でかすかに音を立てた。俺の手が震えていたからだ。


 「でも——この波形は」


 俺はその線を指でなぞった。几帳面な、人の手の線を。


 「俺が間に合うとか、間に合わないとか。そういう話じゃなかった」




 帳場が静かだった。


 マリカが息を詰めている。ハンナが湯呑みを置く手を止めている。セラが俺を見ている。誰も急がなかった。

 俺はその静けさの底で、五年分をゆっくりと吐き出した。


 「俺が一月で報告書を書いても。半月でも。その日のうちに村じゅうに触れ回っても」


 息を吸った。


 「あの村は、涸れてた」


 言ってから、初めてその重さがわかった。




 「だって、汲み出されてたんだ。決まった量を、決まった速さで。俺が何をしようと止まらない流れだった。報告書なんか関係ない。俺の三月なんか関係なかった」


 学者の声が、途中で壊れた。


 「俺が遅かったから、村が死んだんじゃない」


 喉の奥が灼けた。


 「最初から、殺されてたんだ。——制度に」


 言葉が卓の上に落ちた。湯気がそれを受け止めるようにゆっくりと揺れた。




 五年間。

 俺は間違った相手を恨んでいた。


 毎朝、目を覚ますたびに。地脈に手を置くたびに。湯量の数字を取るたびに。「お前が遅かった」と、俺は俺に言い続けてきた。リンドヴァルの井戸の冷たさを、自分への罰として指の腹に飼ってきた。


 その相手は、俺じゃなかった。


 俺の遅さでも、俺の完璧主義でもなかった。役所の通達があって、台帳があって、術師がいて、二十年も淡々と回り続けた、顔のない手。リンドヴァルの湯を几帳面に汲み出して、どこかの栄える湯へ運んだ、あの——


 ぞわり、と背筋が冷えた。

 冷えたあとに、別のものが来た。




 熱かった。


 胃の底から首の後ろまで、一本に灼けるような熱だった。これが何か、すぐにはわからなかった。五年間、自分にだけ向けてきた感情だ。外へ向ける形を俺は忘れていた。

 怒りだ、と気づいた。


 顔のない手への、怒りだ。


 俺は手帳を握りしめた。五年前の波形が、手のひらの中でくしゃりと鳴った。


 「五年」


 声が絞り出すように出た。


 「五年、間違った相手を、恨んでた。——自分を」




 セラが、卓を回ってきた。


 俺の隣に立つ気配がした。けれど俺は顔を上げられなかった。落ちた手帳と五年前の線を見つめたままだった。


 「ノア」


 セラの声が、すぐ横にあった。


 「もう一つだけ、確かめさせて」


 いつかの夜と、同じ言い回しだった。物事を見定めるときの、あの声。


 「あなたが恨むべきだったのは、あなたじゃない。——それで、合ってる?」


 俺は、頷くことしか、できなかった。




 ここから先は、セラの目が見ていた。


 ノアの背中が、いつもより小さく見えた。一八二の長身が卓に屈み込んで、革の手帳を握りしめている。藍色の髪のあいだから覗く耳が赤い。怒ったときも、この人の耳は正直だ。

 私はその背に手を置いた。


 あたたかかった。震えていた。


 半年前、三階のテラスで握ったときの、ひやりと冷たい指を思い出した。あのとき、握った瞬間に温かくなった人。いまは最初から熱い。怒りで熱い。

 いいことだ、と思った。




 五年間、この人は自分を罰してきた。


 間に合わなかった男に資格はないと、深い緑の目の奥にずっと冷たい石を飼っていた。私はそれを、知らずに見てきた。山で手を繋いだときも。テラスで指輪を受け取ったときも。この人の手のどこかが、いつもあの井戸の底に置かれたままだった。


 その石が、いま外れた。


 外れた場所に、怒りが入った。自分を灼いていた火が向きを変えた。顔のない手へ。二十年、湯を奪い続けた仕組みへ。

 それでいい。

 恨むなら、本物を恨めばいい。




 「ノア」


 私は、背に置いた手に少しだけ力を込めた。


 「リンドヴァルは、戻らない」


 残酷な言葉だとわかっていた。けれど、嘘をつきたくなかった。この人は、嘘を一番嫌う人だから。


 「あなたの故郷は、もう離散した。湯は奪われて、灯りは消えた。——それは、変えられない」


 ノアの肩がわずかに揺れた。


 「でも」


 私は続けた。声が、自分でも驚くほど静かだった。




 「奪われた湯が、リンドヴァルだけじゃないなら」


 ノアがゆっくりと顔を上げた。


 涙はなかった。この人は泣かない。けれど、深い緑の目が濡れたように光っていた。五年分の、行き場をなくした水が、そこにあった。


 「まだ、誰かのどこかで、井戸が細ってるかもしれない。田が乾きかけてるかもしれない。——間に合う場所が、まだあるかもしれない」


 私の胸の奥で、半年前のテラスの言葉がよみがえった。

 「お前には、間に合わせたい」。震える手で指輪を差し出した、あの人の声。


 あの言葉を、いま返すときだ。




 「じゃあ、今度こそ間に合わせよう」


 私は、言った。


 「あなたと、二人で」


 ノアが、私を見た。

 帳場の湯気が、二人のあいだで細く立ちのぼっていた。窓の外で、銀泉草の白い花が揺れている。源泉の湯気が薄く立っている。その下に、二十年も横たわっていた仕組みが、いまも息をしている。


 けれど、卓の上にはもう一つの線があった。

 ノアが拾い上げた、五年前の波形。




 「これは」


 ノアがその頁を、そっと卓に置いた。皮肉屋の声に戻ろうとして、まだ戻りきれない、掠れた声で。


 「弔いの記録だと、ずっと思ってた。守れなかった村の、墓標みたいなものだと」


 彼は線の上に指を置いた。几帳面な、人の手の線の上に。


 「違ったな。これは——証拠だ」


 深い緑の目に、五年ぶりの、別の光が灯った。冷たい石の代わりの、熱い火が。


 「あの村が、何に殺されたかの。——いちばん古い証拠だ」




 私は、頷いた。


 マリカが台帳の束をそっと閉じた。ハンナが湯呑みを一つ、ノアの前へ滑らせた。銀泉草の湯だ。湯気が五年前の波形の上でゆっくりと揺れている。


 ノアはその湯呑みを両手で包んだ。

 大きな手だった。地脈を聴く手。建物を建て直す手。震える指で指輪を差し出した手。

 その手が、温かい湯呑みを握りしめていた。


 もう、あの井戸の底の冷たさは、その手のどこにもなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第八章の五話目、神回——リンドヴァルの真実の回でした。


ノアは番外編の求婚(第七十九話)で、完璧主義のトラウマを乗り越えました。「完璧な言葉より、間に合わせること」を学んだ人です。けれど、その求婚のときでさえ、彼の中には消えない前提が一つ残っていました。「五年前、俺が遅かったから、村は死んだ」という自責です。


この回で壊したかったのは、その前提そのものでした。彼の遅さでも、完璧主義でもなく、リンドヴァルは最初から制度に殺されていた——だから、彼が一月で報告書を書いても、半月でも、その日のうちに村じゅうに触れ回っても、あの村は涸れていた。五年間ずっと向けてきた恨みの相手が、自分ではなかったと知る。檻が壊れる解放と、本物の敵への怒りが、同時に立ち上がる。その一点だけを、まっすぐ書きたいと思いました。


ノアの怒りを「外へ向ける形を忘れていた」と書いたのは、彼が五年間、その感情を自分にだけ飼ってきたからです。冷たい石を飼っていた場所に、熱い火が入る。私はそれを、いいことだと書きました。恨むなら、本物を恨めばいい。


最後、ノアが両手で湯呑みを包む場面。半年前のテラスでは「ひやりと冷たい指」だった人の手が、もう冷たくない。あの井戸の底の冷たさが、その手のどこにもない。落ちた手帳を、墓標から証拠へと読み替えたとき、彼の手は、ようやく自由になりました。


セラの「今度こそ間に合わせよう。あなたと、二人で」は、ノアの求婚の誓い「お前には、間に合わせたい」を、彼女から返した言葉です。弔いを、再生へ。けれど——どうやって涸れた湯を奪わずに戻すのか。その答えを、二人はまだ持っていません。それは、もう少し先の話です。


次回からは、谷そのものが悲鳴を上げ始めます。繁盛の代償と、外を向くセラに、仲間が「谷を捨てるのか」と。どうか、その先も、見届けてください。


それでは、また次回。

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