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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第84話: 一本の線

 古い紙の匂いを、私はもう覚えてしまった。


 黴と埃。長く閉じられていた書庫の乾いた声。手紙が三日も帳場の卓に置かれているうちに、その匂いは部屋の空気に溶けてしまった。けれど私の鼻はまだ拾う。前世から、紙の匂いを嗅ぐ癖は変わらない。

 古い旅館は、まず匂いで衰えを語った。湿った畳。錆びた金具。誰も使わない部屋のよどんだ空気。

 いまこの卓に並んでいるのは、湯が衰える匂いだと思った。


 初夏の朝だった。窓の外で、銀泉草の白い花が揺れている。




 卓に、四つの紙があった。


 ディートリヒの手紙と、その中の古い通達の写し。ヘルマンの覚え書き。マリカの台帳。そして私の手帳。三日前と同じ並びだ。

 けれど、もうばらばらには見えなかった。

 四つの端が、互いを探り合っている。あと少しで触れる。その「あと少し」を、私は三日かけて確かめてきた。


 「ノア。準備、できた?」


 源泉のほとりから戻ったノアが計測器を卓に置いた。藍色の髪が、まだ朝の湯気に湿っている。


 「ああ。三日ぶん、見てきた」


 「私も。台帳の数字を、ぜんぶ写した」


 私は手帳を開いた。新しいページに、地名と数字と日付がびっしりと並んでいる。




 ここから先は、ノアの目が要る。

 戸口に立ったマリカが静かに頷いた。彼女が運んできた茶の湯気が、卓の上で細く立っている。


 「先に、俺の話をしていいか」


 ノアが言った。学者の声だった。けれど、その底に何かを押さえている響きがある。三日前に写しの『移す』の字を読んだときと同じ響きだ。


 「うん。聞かせて」


 ノアは革の手帳を広げた。中の頁は、波のような線で埋まっていた。




 ノアは、源泉のほとりにいた。


 計測器の針を三日も見続けた。客の使う湯の量と、源泉の細り方。二つを並べて何度も突き合わせた。

 合わない。客が少ない朝でも細る日がある。満室の朝でも変わらない日がある。人が使うだけでは、この波形は説明がつかない。


 だから、別の紙を引っ張り出した。


 五年前から書き溜めた、各地の地脈データ。学院の頃から癖でつけてきた自分のための記録だ。あの頃はただの好奇心だった。地脈がどう枯れるか、その形を知りたかった。

 それがいま、別の意味を持ち始めている。


 ノアは、フェルデの丘の村の頁を開いた。次にザイデルの湯。次にセルヴァ村。

 三つの波形を、卓に並べる。


 ——同じだった。


 涸れ方の形が、三つともぴたりと重なっていた。




 「自然に湯が涸れるときは」


 ノアは、源泉のほとりで一人そう呟いていた。


 「上から、ゆっくりだ。雨が減る。雪解けが遅れる。地脈の元が弱る。だから細り方も、なだらかに、長い時間をかけて落ちる」


 だが、目の前の三つは違った。


 なだらかではない。ある時期から、急に。底を抜いたように。そして抜けたあとは、また平らに保たれている。まるで決まった量だけを決まった速さで、誰かが汲み出しているような。

 自然の渇きには、こんな几帳面さはない。

 几帳面なのは——人だ。


 ノアは、フェルデの村の涸れた時期を確かめた。約二十年前。

 ザイデル。二十年前。

 セルヴァ。二十年前。


 三つの谷は、互いに山を二つも三つも隔てている。馬で何日もかかる。村人同士が示し合わせたとは思えない。

 なのに同じ年に、同じ形で底を抜かれていた。




 ノアは、写しの一行を思い出していた。


 ——衰退著しき湯地より、隆盛の湯地へ、地脈の利を移すこと。


 移す、だ。

 離れた三つの谷で、同じ手つきが同じ年に動いた。それを命じられる者は、谷ごとの別々の小役人ではない。

 一つの、上の手だ。


 ノアの背を、冷たいものが伝った。

 学者として、これほど明瞭な相関は見たことがなかった。論文なら、ここで筆が走るところだった。

 走らなかった。

 手が、止まっていた。




 「——だから、確かめに来た」


 ノアは帳場の卓で、三つの波形を私の前に滑らせた。


 「フェルデ。ザイデル。セルヴァ。涸れ方の形が、三つとも同じだ。そして涸れた年も、ぜんぶ二十年前」


 私は三枚の紙を見比べた。地脈の知識は私にはない。けれど、形が同じだということは見ればわかった。三つの波が、重ねれば一つになる。


 「これ、偶然じゃないの」


 「偶然で、これは起きない」


 ノアは断じた。


 「離れた三つの谷で、同じ手つきが、同じ年に。——示し合わせたんじゃない。一つの手が、三つを同時に動かしたんだ」


 一つの手。

 その言葉が、台帳の数字と重なった。




 「マリカさん」


 私は呼んだ。


 「台帳の、涸れた湯のところ。ザイデルとセルヴァ、あった?」


 マリカは卓に近づいた。台帳の束を広げる手に、もう迷いはない。


 「ありました。左の列です」


 彼女は、指で示した。


 「ザイデルの湯。セルヴァ村。どちらも、涸、と書き添えてあります。日付は——二十年前」


 ノアの波形の年と、台帳の日付。

 二つが、卓の上でぴたりと並んだ。


 「右の列は」


 私は尋ねた。声が、自分でも低かった。


 「右は、栄えた湯です」


 マリカは答えた。


 「碧泉宮。それから、貴族の保養施設がいくつも。涸れた湯から数字が流れて、栄えた湯に積もっている。——日付で、繋がっています」




 左に、涸れた湯。右に、栄えた湯。

 その間を、数字と日付が繋いでいる。

 ノアの波形が、左の列に「いつ・どんな形で」抜かれたかを描いていた。マリカの台帳が、その湯が「どこへ」運ばれたかを記していた。

 二つは、同じ出来事の、表と裏だった。


 私は、ディートリヒの写しに目を戻した。


 ——これを国の財の最適なる配分とする。


 配分。

 離れた谷の湯を、同じ年に、同じ手で抜き、栄える湯へ運ぶ。それを「最適」と呼ぶ。

 それは思いつきでやれることではない。役所の通達があり、台帳があり、術師がいて、二十年も淡々と回り続けた。

 仕組みだ。


 胸の底で、その言葉が、ようやく形になった。




 「待って」


 私は自分を止めようとした。三日前に何度もそうしたように。

 飛びつきそうになる頭を、押さえる。

 けれど、今度は、押さえきれなかった。


 「待って、じゃ、ない、かもしれない」


 声が、震えていた。


 「三日前は、まだ繋がってなかった。通達は通達、台帳は台帳、噂は噂。どれも本物に見えるけど、一本にはなってなかった」


 「ああ」


 「でも、いまは——」


 私は四つの紙を、一つずつ指でなぞった。

 ディートリヒの通達。中央の言葉で、「移せ」と命じている。

 ノアの波形。離れた谷で、同じ手が同じ年に動いた証。

 マリカの台帳。その湯が、どこへ運ばれたかの記録。

 ヘルマンの覚え書き。各地で湯が涸れたという、街道の声。


 四つが、互いの端を掴んでいた。

 もう、ばらばらじゃ、なかった。




 「一本に、繋がった」


 私は、言った。


 帳場に、沈黙が落ちた。マリカの手が止まる。ノアが深い緑の目で私を見ている。


 「これは、ヴィクトール一人の悪事じゃない。碧泉宮一つの話でもない。——衰退した湯から、栄える湯へ、魔力を移す。それを二十年、淡々と回してきた、大きな仕組み」


 「『湯の差配』」


 ノアが、写しの表題を読んだ。


 「ええ。湯の、差配」


 私は頷いた。

 二十年。離れた谷で、人の暮らしを底から抜いて。役所の言葉で「最適」と呼びながら。




 誰かが悪意で井戸に毒を入れたなら、まだわかりやすかった。

 けれど、これは違う。

 通達を書いた人間は、たぶん自分を悪人だと思っていない。限りある湯を、いちばん活きる場所へ回す。それが国のためになる。帳簿の上では、正しい。

 前世で、私はその論理を何度も見た。

 赤字の旅館を畳ませ、人手を稼ぐ宿へ回す。「最適なる配分」。私が口にしてきた言葉と、根は、同じだった。

 だから、わかってしまう。

 相手の冷たさが、どこから来るのか。


 テオドールの所作が、また脳裏をよぎった。御用達を朗々と語りながら、碧泉宮がなぜ涸れたかには一度も触れなかった、あの沈黙。




 「触れられなかったんだ」


 私は、呟いた。


 「碧泉宮がなぜ涸れたか——あの使者は、それに触れなかった。誉れの話は、あんなに饒舌だったのに。触れれば、この台帳の左の列が、表に出てしまうから」


 「セラ」


 ノアが、低く言った。


 「御用達ってのは——」


 「うん」


 「銀泉楼を、台帳の右の列に、書き足すってことだ」


 右の列。栄えた湯。

 他所から運ばれてくる湯で、潤う側。

 甘い庇護も、潤沢な客足も、王家の御紋も。その正体は、どこかの谷の湯を抜いてこちらへ寄せること。

 誉れが、反転した。

 御用達の誘いは、銀泉楼を仕組みに取り込む入口だった。


 肩甲骨の奥が、じりと縮んだ。




 「私たち」


 私は、ゆっくり言った。


 「招かれてたんじゃない。——組み込まれようとしてたんだ」


 誰も、すぐには答えなかった。

 無言が、四つの紙の上に、静かに降りた。

 窓の外で、銀泉草の花が揺れている。源泉の湯気が薄く立っている。その下に、見えない仕組みが、二十年も横たわっていた。


 マリカが、口を開いた。


 「……私は、その右の列で、笑っていました」


 声は、いつもの落ち着いた声だった。けれど、その下が、震えていた。


 「翡翠殿で。客に茶を注ぎながら。私が立っていた輝かしい場所そのものが、どこかの湯を抜く仕組みの、右の端だった。——いま、やっと、それがわかります」




 「マリカさん」


 私は、彼女のほうを向いた。


 「あなたがいなかったら、この台帳は、ただの数字の羅列のままだった」


 「ええ」


 「右の列を、いちばん近くで見てきた人にしか、読めなかった。——あなたが読んでくれたから、繋がったの」


 マリカは、しばらく黙っていた。

 それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。


 「奪う側にいた目が、奪われた側のために使えるなら」


 彼女は言った。


 「それでいい、って。三日前、自分にそう言ったんです。——今日、本当に、そうなりました」




 「で」


 ノアが、卓に肘をついた。皮肉屋の声に戻ろうとして、戻りきれていない。


 「繋がったのは、わかった。仕組みがある。でかい。古い。——それで、俺たちはどうする」


 私は、すぐには答えられなかった。


 わかってしまったことが、重かった。

 ヴィクトール一人なら、戦い方を知っていた。買収を断り、弱点を突き、証拠を揃える。私の手帳が効いた。

 けれど、相手は仕組みだ。

 通達を書いた小役人を一人捕まえても、仕組みは止まらない。私の数字も弁舌も、制度には、たぶん直には効かない。

 前世のコンサルとして、それくらいはわかる。

 経営の知恵は、谷を回す。だが、王国の仕組みを相手にはできない。




 「ノア」


 私は、正直に言った。


 「私、いまの自分の手札じゃ、これには勝てない」


 ノアは驚かなかった。ただ私を見た。


 「数字は、谷には効く。お客にも、棚田にも、養魚場にも。——でも、この仕組みには、効かないと思う。私一人の頭の中だけじゃ」


 「ああ」


 「だから——」


 言いかけて、私は口をつぐんだ。

 その先を、まだ言葉にできなかった。

 受けるのか。断るのか。二つしか道がないように見える。受ければ、仕組みの右の端になる。断れば——ディートリヒの手紙のあの一行が、また胸に浮かんだ。


 あなたは、もう見つかってしまった。




 戸口に、足音がした。


 ハンナが盆を抱えて入ってきた。湯呑みが四つ、湯気を立てている。銀泉草の湯だ。

 ゆうべ三階で私に出してくれた、あの香り。


 「重そうな顔が、四つ並んでるね」


 ハンナは、卓に湯呑みを置いた。


 「何が見えたんだか、あたしには難しい話はわからん。けど——お嬢の顔を見れば、いいことじゃないのは、わかるよ」


 「ハンナさん」


 私は湯呑みを両手で包んだ。温かさが、指から胸へゆっくり上ってきた。


 「この谷の湯は、二十年前、どこかの湯を抜いた仕組みの、外にいました。——抜かれた側、だったんです。碧泉宮に」


 ハンナは、しばらく黙っていた。




 「ローザ様は」


 ハンナは、谷のほうへ目をやった。


 「知ってたのかもしれないね」


 「え?」


 「『湯は、奪うものではない。預かるものだ』。——あの遺言。あたしはずっと、心がけの話だと思ってた。けど、もしかすると」


 ハンナは、湯呑みの湯気を見つめた。


 「あの人は、知ってたのかもしれない。奪う仕組みが、どこかにあるって。だから、わざわざ言い残した。預かれ、と。——奪うな、と」


 預かる。奪う。

 ローザの遺言が、いまただの心がけではなくなった。

 二十年前に現に湯を奪われた谷の女将が、孫のように見ていた者へ遺した言葉。

 それは、警告だったのかもしれない。




 「セラさん」


 マリカが台帳の束を、もう一度卓に広げた。


 「最後に、一つだけ。確かめておきたいことが」


 「何?」


 「左の列——涸れた湯の、ぜんぶの名前を、声に出して読みます。ノアさんの波形と、照らし合わせて。もし、まだ私たちが見落としている谷があるなら」


 私は頷いた。

 ノアも革の手帳を広げ直す。波形の頁を、上から順に。


 マリカが台帳の左の列を、上から読み始めた。


 「フェルデの丘。——ザイデルの湯。——セルヴァ村」


 ノアが一つずつ波形を重ねていく。合う。合う。合う。

 三つとも、二十年前。三つとも、同じ形。


 「——次」




 マリカの指が、次の行へ移った。

 声が、止まった。


 ほんの一瞬。

 けれど、私は、その止まり方を、見逃さなかった。

 翡翠殿で何百という紙を読んできた指が、止まる。それは、何かを見つけた指の止まり方だった。


 「マリカさん?」


 マリカは、答えなかった。

 台帳の一点を、見つめている。

 私は、その視線の先を追った。左の列の、上から四つめ。涸れた湯の名が、几帳面な字で書かれている。


 それを読んだ瞬間、私は、ノアを見た。

 ノアは、まだ自分の手帳を見ていた。私の視線に気づいて、顔を上げる。

 深い緑の目が、私の目から、台帳の一点へ、滑った。




 そこに、書いてあった。

 涸れた湯の名が。日付が。二十年前の、ある年が。


 リンドヴァル。


 ノアの故郷の名が、台帳の、左の列に、あった。

 奪われた湯の、一つとして。


 ノアの手から、革の手帳が、滑り落ちた。

 卓の角に当たって、波形の頁が、開いたまま、止まった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第八章の四話目。前回まで「あと少しで繋がる」と引っ張ってきた四つの欠片が、ついに一本の線になる回でした。


書いていて軸にしたのは、ノアの波形とマリカの台帳が「同じ出来事の表と裏」だった、という噛み合いです。ノアの計測器は「いつ・どんな形で湯が抜かれたか」を、マリカの台帳は「その湯がどこへ運ばれたか」を記していた。学術と帳簿、二つの別々の記録が、二十年前の同じ日付で重なる——その瞬間に、セラの中で「これは仕組みだ」という確信が立ち上がります。


そして、セラがあえて「自分の手札では、この仕組みには勝てない」と認める場面を置きました。ヴィクトール一人なら戦えた。けれど相手は制度です。前世のコンサルだからこそ、相手の「最適なる配分」という冷たい論理が、自分の使ってきた言葉と地続きだと見えてしまう。彼女が無敵でないことを、ここではっきり書いておきたかった。


最後の一行——台帳の左の列に並んだ、ノアの故郷リンドヴァルの名。ノアが五年間、自分の遅さのせいだと信じてきた村が、本当は何に殺されたのか。次回、その真実が姿を現します。落ちていった革の手帳の、開いたままの波形の頁。どうか、その先を、見届けてください。


それでは、また次回。

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