第82話: 誉れに沸く谷
朝の谷は、湯気より先に声が立つ。
厨房の鍋が鳴り、井戸の滑車が軋む。棚田のほうから誰かを呼ぶ声が渡ってくる。私はその一つひとつを匂いと一緒に拾いながら帳場へ降りていった。硫黄。炊きたての地脈米。霧蜜を温める甘い湯気。谷の朝は、いつもこの匂いの層でできている。
けれど、今朝は違った。
匂いの層の上に、もう一枚、別の何かが乗っている。
浮き立つような、熱を帯びた何かが。
「お嬢、聞きましたよ」
帳場をのぞくと、ハンナが暖簾の向こうから顔を出した。割烹着の袖をまくっている。
「ゆうべから、町じゅうの噂です。銀泉楼が王室の御用達になるって」
「まだ、なってないけど」
「ええ。けど、噂のほうは、もう走ってます」
走っている。
それは、間違いなかった。
昼前、エミール町長が、息を切らして谷を上ってきた。
くたびれたフォーマル服の襟元が汗で湿っている。それでも、その顔には私がこれまで見たことのない光があった。眼鏡の奥の薄青い目が、子どものように輝いている。
「セラフィーナさん。本当、ですか」
帳場の上がり框で、エミールは膝に手をついた。
「王室の、御用達。あの、王家の御紋を掲げる、あれですよね」
「打診を受けただけです。返事は、まだ」
「いや、それでも」
エミールは眼鏡を直し、それから直し損ねて、もう一度直した。
「それでも、ですよ。この町に、王家の名が。私はね、町長を十五年やってきて、中央から来るのは督促状か、悪い報せばかりでした。誉れの話なんて、生まれて初めてだ」
声が震えていた。
悪い意味の震えではなかった。
「皆、喜んでます。ヴァルターさんなんか、棚田の御紋旗を立てるとか言い出して」
「御紋旗?」
「ええ。気が早いにも、ほどがある」
そう言って、エミールは笑った。
その笑い方があんまり嬉しそうで、私は何も言えなくなった。
この人は、十五年、逃げてきた人だ。
中央の貴族を恐れ、街道のことも衰退のことも声を上げられずに耐えてきた。その人が、いま、子どものように笑っている。
御用達はエミールにとって、十五年分の負い目を一度に晴らす光なのだ。
「町長さん」
私は穏やかに尋ねた。
「御用達になると、何がいちばん変わると思います?」
「そりゃあ、客足ですよ」
エミールは即座に答えた。
「王都から、黙っていても人が来る。宿が潤えば、棚田も養魚場も潤う。町に若い者が戻ってくる。——人が、戻るんです、セラフィーナさん」
人が、戻る。
その言葉の重さを私は知っている。
この町は二十年、人を失い続けてきた。出ていく背中ばかりを見送ってきた人にとって、「戻る」は何より甘い言葉だ。
「いい話、ですよね」
エミールがすがるように私を見た。
「……ええ」
私は頷いた。
頷いたけれど、手帳を開く手は、まだ動かなかった。
エミールが帰ったあと、私は厨房へ顔を出した。
マリカが、流しの前に立っていた。新しく谷に来た仲居のテレーズとニナに椀の拭き方を教えている。所作が、いつものように美しかった。
けれど、私が入ると、二人を先に下がらせた。
「セラさん」
布巾を畳む手を止めず、マリカは低く言った。
「町の浮かれよう、ご覧になりましたか」
「うん。エミールさんが、御紋旗を立てるって」
「立てないほうがいい、と私は思います」
布巾を畳む音がぴたりと止まった。
「マリカさん。何か、知ってるの」
「知っている、というほどでは」
マリカは、濃紺の目を上げた。素の表情はいつも少し冷たく見える。けれど今朝のそれは、冷たさより警戒の色が濃かった。
「ただ、王都の人間の『誉れ』を私は近くで見てきました。翡翠殿で」
翡翠殿。
その名をマリカが自分から口にするのは、珍しかった。
「あそこも、誉れの場所でした」
マリカは流しの縁に指を置いた。
「王都随一の社交場。貴族が席を競う、輝かしい場所。——その輝きの裏で、私は知らないうちに、人を売る道具にされていた」
「マリカさん——」
「いいんです。もう、済んだ話。けど」
彼女は私のほうへ向き直った。
「誉れというものは、たいてい、何かと引き換えです。それが何なのか、見えないうちは、私は喜べません」
引き換え。
その言葉が、ゆうべからの違和感にぴたりと重なった。
「あの使者。カルム殿、でしたか」
マリカが続けた。
「あの所作。あの言葉の選び方。中央の、それも財務筋の人間です。間違いない。私が翡翠殿で、何百と相手をした類いの」
「敵だと思う?」
「いいえ」
マリカは首を横に振った。
「敵なら、まだ楽です。あの手の人は——たぶん、自分が誰かを傷つけているとすら、思っていない」
思っていない。
その一言が胸の奥に刺さった。
ゆうべテオドールに重ねた前世の自分の影が、また揺れた。傾いた館を切り捨てながら、その相手の顔を見ていなかった、あの頃の私。
悪意は、なかった。
なかったからこそ、私は誰の顔も覚えていない。
「マリカさん。ひとつ、お願いがあるの」
私は声を落とした。
「翡翠殿から持ち帰った、あの帳簿の断片。もう一度見せてもらえる?」
マリカの指がわずかに固まった。
「……あれを、いよいよ、使うんですね」
「使うかどうかは、まだ。でも確かめたい」
「わかりました」
マリカは頷いた。それから、ほんの少しだけ声を和らげた。
「セラさん。あなたが浮かれていなくて、私は安心しました」
午後、私は源泉のほとりへ降りた。
ノアが、地脈計測器を抱えて湯だまりの縁にしゃがんでいた。藍色の髪が湯気に湿って額に張りついている。
近づくと、彼は振り返らずに言った。
「朝より、湯気が薄い」
「え?」
「気のせいかもしれん。だが、ここ数日、朝の出がわずかに細い日がある」
私は湯だまりをのぞき込んだ。
言われてみれば、確かに——いや、私の目にはいつもと同じに見えた。けれどノアの目には見えるのだろう。私が二百軒の損益表を一目で読むように。
「客が、増えたからか?」
「断定はできん。だが、相関はある」
ノアは計測器の針を見つめたまま、続けた。
「人が増えれば、湯を使う量も増える。地脈の回復は、ようやく全盛期に届いたばかりだ。余力は、まだ薄い」
「……御用達になったら、もっと客が来る」
「ああ」
ノアは初めてこちらを見た。深い緑の目が湯気の向こうで翳っている。
「もっと来る。それがいいことなのか、俺にはまだ言えん」
二人で、しばらく湯だまりを見ていた。
白い湯気がゆっくりと立ちのぼり、川風に流れていく。源泉の音が、絶え間なく低く鳴っている。その音だけが、私たちの間を満たしていた。
「ノア」
「ん」
「みんな受ける気でいるよ。エミールさんも、町の人も」
「だろうな」
「あなたは、どう思う?」
ノアはすぐには答えなかった。
計測器を布で包み、立ち上がる。その背中が、湯気の中で大きく見えた。
「俺は、学者だ。数字が揃わないと、何も言えん」
「いつもの」
「ああ。いつものだ」
彼は、少し笑ったようだった。けれど、その目は笑っていなかった。
「ただ——一つだけ、勘で言うなら」
「言って」
「あの使者は、湯が『足りない』ことを知っている。足りないものを誰かがどこかへ運んでいる。その気配が、あの男の言葉の底にあった」
運んでいる。
ゆうべ見送り際に、テオドールが残した言葉がよみがえった。
——魔力には、限りがございますから。
その夜、私は手帳を抱えて、また三階のテラスに立った。
眼下に、三十室の灯り。けれど今夜は、谷のあちこちにも灯りが揺れていた。普段ならもう寝静まる刻限なのに。町の家々に、人が集まっている気配がある。
御用達の話で、起きているのだろう。
灯りの一つひとつが、希望に見えた。
同時に、その明るさが、少しだけ怖かった。
手帳を開く。
ゆうべ書いた一行が、まだ残っていた。
『カルム殿は、配分する人。私は——』
その先は、まだ書けていない。
私は炭筆を取り、新しいページに、今日聞いた声を並べてみた。
——エミール。客が、人が、戻る。
——マリカ。誉れは、引き換え。
——ノア。湯が、足りない。誰かが、運んでいる。
三つの声が、私の手帳の上で、ばらばらに散らばっていた。
受けたい声と、用心しろという声。
どちらも、まっすぐだった。どちらも、この谷を想っていた。
翌朝、私は仲間を帳場の奥に集めた。
ハンナ、マリカ、ノア。それに、エミールにも来てもらった。
四人を前に、私は手帳を卓に置いた。
「御用達の返事のこと、みんなに話しておきたくて」
「決めたんですか」
エミールが身を乗り出した。期待の色がはっきりと顔に出ていた。
「ううん。まだ、決めない」
その一言で、エミールの肩が、わずかに落ちた。
隠せていなかった。私には、それが見えた。
「セラフィーナさん。何か、まずいことでも?」
「まずいかどうかも、まだわからないんです」
私は正直に言った。
「だから、確かめてからにしたい。受けるにしても断るにしても、中身を見ないで決めるのは女将の仕事じゃないから」
「中身、ですか」
エミールが眉を寄せた。
「でも、王室の御用達ですよ。これ以上確かめることなんて」
「町長さん」
ハンナが横から口を開いた。
小柄な体を、まっすぐ伸ばして。
「あんた、ゆうべ、御紋旗を立てるって言ったろう」
「い、いや、それは、ヴァルターさんが——」
「あんたも乗り気だったさね。あたしは知ってる」
ハンナは、ふん、と鼻を鳴らした。それから声を和らげた。
「いいかい。あたしは、この谷で五十年、人の出入りを見てきた。甘い話が来たときほど、足元を見るんだよ。ローザ様も、そうしてた」
「ローザさん……」
エミールの声が、少し小さくなった。
ローザの名は、この谷では特別な重さを持っている。
「ローザ様が言ってたよ」
ハンナの目が遠くを見た。
「湯はね、こっちのものじゃない。預かってるだけだ。だから、軽々しく、誰かに渡しちゃいけないってね」
預かっている。
その言葉が、卓の上に静かに落ちた。
私が祝言で誓った言葉だ。ハンナから受け取り、ローザから継いだ言葉。
なのに、同じ言葉を、あの使者も使った。湯を、国の財として、お預かりする、と。
同じ「預かる」が、二つあった。
守るための預かりと、吸い上げるための預かり。
その違いを、私はまだ誰にも説明できる言葉を持っていない。
「ハンナさん」
私は尋ねた。
「ローザさんなら、御用達の話どうしたと思います?」
ハンナはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと答えた。
「断りも、受けもしなかったろうね」
「え?」
「ローザ様は、二択で物を考える人じゃなかった。誉れか、不名誉か。受けるか、断るか。——そういう問いの立て方を、いちばん嫌った人さ」
二択じゃない。
その一言が、私の胸の奥で小さく光った。
「では、どうしろと」
エミールが困ったように尋ねた。
「受けないなら、せっかくの話が、流れてしまう。中央の機嫌を損ねるかもしれない。それは、それで、怖いことです」
「町長さんの心配は、もっともです」
私は頷いた。
エミールの恐れは、本物だ。中央の貴族に十五年怯えてきた人の、地に足のついた恐れ。それを、甘く見てはいけない。
「だから、急がない。ひと月、もらいました。その間に、確かめます」
「何を、確かめるんです」
「この誉れが、何と引き換えなのか」
私は、マリカのほうを見た。マリカが、小さく頷いた。
「碧泉宮が、なぜ涸れたのか。各地の湯が、なぜ近頃出が悪いのか。——その答えが見えてから、決めても遅くない」
帳場の奥に、しばらく沈黙が降りた。
無言が、卓の上にゆっくりと積もっていく。エミールは、何か言いたげに口を開きかけて、また閉じた。ノアは腕を組んだまま、目を伏せている。マリカは、布巾の端を、指で弄っていた。
その沈黙を破ったのは、ハンナだった。
「お嬢の言うとおりにしな、町長さん」
ハンナは、エミールの肩をぽんと叩いた。
「あんたとあたしは、五十年の付き合いだ。あんたが優柔不断なのは、よく知ってる。けど、お嬢が慎重なのは、優柔不断とは違うよ」
「……違いますか」
「違うさ。あの子は、見てから動く。あたしらは、見ないで諦めてきた。そこが、決定的に違う」
エミールはしばらくハンナを見ていた。
それから、深く、息を吐いた。
「……わかりました。私は、待ちます。セラフィーナさんが、確かめるまで」
肩の力が、抜けたように見えた。
決断を委ねられて、むしろほっとしているのかもしれない。それも、エミールらしかった。
話が済むと、皆、それぞれの持ち場へ戻っていった。
帳場には、私とノアだけが残った。
ノアは、卓の上の手帳を横目で見ていた。三つの声が並んだ、あのページを。
「お前の手帳」
ノアがぽつりと言った。
「昔は、数字ばっかりだった」
「今は?」
「人の、声ばっかりだ」
私は思わず笑った。
「悪い?」
「いや」
ノアは目を逸らした。照れたときの、いつもの仕草だ。
「……女将の手帳だな、と思っただけだ」
女将の手帳。
その言葉が、なぜかじんと胸に沁みた。
コンサルだった私の手帳が、いつのまにか、こんなものになっていた。
夜更け、私はマリカから、あの帳簿の断片を受け取った。
翡翠殿の裏帳簿。顧客名簿を装った、魔力の供給先リスト。マリカが王都から持ち帰った紙片の束。
帳場の魔導灯の下で、私はそれを広げた。
細かい数字と地名と日付が、びっしりと並んでいる。
碧泉宮。それは、知っている。けれど、その下に——見覚えのない地名が、いくつも連なっていた。涸れた、と隣に書き添えられた地名が。
私の指が、その列を、上から下へなぞっていく。
ヘルマンが街道で拾った噂。ディートリヒが書庫で見つけた古い通達。そして、この帳簿。
三つの欠片が、いま、初めて、同じ卓の上に、揃っていた。
けれど——まだ、繋がらない。
数字は、何かを語ろうとしている。でも、その何かを、私はまだ、読み解けていない。
考えるな、と自分に言い聞かせる。
今は、確かめるとき。確信を急ぐときじゃない。
その時だった。
帳場の戸口で、ことりと、小さな音がした。
顔を上げると、暗がりの中に、ハンナが立っていた。手に、一通の封書を持っている。
「お嬢。さっき、谷の入口に、これが届いてた」
「届いてた?」
「街道を行く商人が、ことづかってきたとさ。差出人の名は、ない」
ハンナが封書を卓に置いた。
魔導灯の光の下で、私はその封蝋を見た。
御紋ではない。王家のものでも、ない。
見慣れた、けれど、しばらく見ていなかった筆跡で、宛名だけが書かれている。
——ハイネ。
ディートリヒの、字だった。
私は封書を手に取った。
まだ、開けない。
開けば、何かが、動き出す。それが、わかった。
卓の上に、三つの欠片が広がっている。
その隣に、いま、四つめの何かが、静かに置かれた。
ディートリヒからの、差出人のない手紙。
帳場の魔導灯が、じりじりと、低く灯っていた。
その明かりの中で、封蝋の蝋が、まだ乾ききらずに、わずかに濡れて光っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第八章の二話目。前回、使者テオドールが置いていった「御用達」の誉れに、谷が沸き立つ回でした。
書いていて、いちばん大事にしたのは、誰も間違っていない、ということでした。客が戻ると喜ぶエミールも、誉れを警戒するマリカも、湯の出を案じるノアも、みんなこの谷を本気で想っています。立場が違うだけで、想いの向きは同じ。だからこそ、セラは「どっちが正しいか」では決められない。仲間の温度差のなかで、ひとり結論を保留する——その揺れを、静かに描きたいと思いました。
ハンナが語る「ローザ様は、二択で物を考える人じゃなかった」という言葉。これは、この先のセラがたどり着く場所への、小さな道標のつもりです。誉れか不名誉か、受けるか断るか。その問いの立て方そのものを、いつか彼女は越えていきます。
そして章末、ディートリヒからの手紙が届きました。三つの欠片に、四つめが加わります。次回から、ばらばらだった断片が、ゆっくりと一本の線になり始めます。どうか、その瞬間を、見届けていただけたら嬉しいです。
それでは、また次回。




