第81話: 御用達の使者
その人は、碧泉宮の話を、まるで天気の話のようにした。
「碧泉宮は、王国の社交の頂でございました。大理石の浴場、王都の貴族が席を競い合う庭園——あれほどの湯は、王国にふたつとない誉れでした」
濃紺の官服の使者が、朝の光の中で穏やかに微笑んだ。栗色の髪はきちんと整っている。声を荒げず、まっすぐ私を見ていた。後ろめたさのない目だった。
私は卓の上で手帳を伏せたまま、彼の言葉を一つずつ拾っていた。
誉れ。頂。ふたつとない。
褒め言葉は、いくらでも出てくる。
けれど、その人は妙だった。碧泉宮を「あった」と過去で語る。なのに、なぜ過去になったのかには一度も触れない。
「ですから、陛下はお考えなのです」
使者は両手を膝に揃え、わずかに身を乗り出した。
「失われた誉れの、次なる継ぎ手を。——銀泉楼を、王室の御用達に」
窓の外で、源泉の湯気が朝日を白く透かしていた。
硫黄と土の匂いが、開けた格子から細く流れ込んでくる。祝言の翌朝の、まだ酔いの抜けない谷の匂いだ。
その匂いの底に、私はかすかな違和感を嗅ぎ取っていた。
誉れを語る言葉は満ちている。なのに、ひとつだけ欠けている。
「お話の途中で、失礼を」
私は、伏せた手帳の上に指を置いた。
「ひとつ、伺っても?」
「もちろん。なんなりと」
「碧泉宮は、なぜ涸れたのでしょう」
使者の目が、ほんの一瞬、卓の木目へ落ちた。
使者の名は、テオドール・カルムといった。
王室財務部の上級書記官だと、夜のうちに名乗っていた。御用達の指定を実務で扱う窓口役なのだという。
昨夜の来訪を詫び、彼は客間で一夜を過ごした。朝には旅装の埃ひとつなく、官服を清潔に整えている。指先が綺麗だった。土も湯も知らない、書類だけを扱ってきた手だ。
その手が、湯呑みをそっと卓に戻した。
「碧泉宮が涸れた経緯は……正直に申しますと、私の所掌ではございません」
穏やかな声のまま、彼は言った。
「古い湯には、よくあることだとか。ある日、ぱたりと、と」
ある日、ぱたりと。
昨夜と、寸分たがわぬ言葉だった。
まるで、そう言うように決められているみたいに。
「よくあること、ですか」
「ええ。地脈というのは、人智の及ばぬものですから」
及ばぬもの。
私の隣で、ノアの肩が、わずかに動いた。地脈学者の前で言うには、ずいぶん勇気のいる台詞だ。
けれどノアは、何も言わなかった。腕を組んで、深い緑の目で、ただ使者を見ている。観察するときの、あの目だ。
私は伏せた手帳の革表紙を、指の腹で撫でた。
二十年前、碧泉宮の湯はこの谷から盗まれた魔力で湧いていた。それが涸れたのは、私たちが東脈のアンカーを断ったからだ。湯は自然に止まったのではない。断たれたのだ。
それを、この人は知らない。
あるいは知っていて、語らないと決めている。
どちらにせよ、だ。
誉れを売りに来た人間が、商品の素性に触れないというのは。
「数字で見てみましょう、と言いたいところですが」
私は、口の端だけで微笑んだ。
「あいにく、私の手帳には、まだ碧泉宮の数字がありません」
テオドールは、気を悪くした風もなかった。
むしろ、私の警戒を当然のものとして受け止めるように、ゆっくりと頷いた。
「ご慎重なのは、よいことです。誉れには、義務が伴いますから」
彼は書状筒から、薄い羊皮紙を一枚、取り出した。御用達の条件を記した目録だという。
卓の上に滑らせる所作に、無駄がない。交渉に慣れた手つきだった。
「御用達の指定を受けますと、銀泉楼は王家の御紋を掲げることが許されます。王都の社交界に、名が通る。これは、金では買えぬ誉れです」
「後ろ盾も、ということですね」
「左様で。税の査察も、営業の認可も、王室の名のもとに円滑になりましょう。客足は——黙っていても、王都から流れてまいります」
甘い。
あまりに甘い。
前世で二百軒の宿を見てきた。傾いた宿が縋りつくのは、いつもこういう「黙っていても客が来る」話だった。そして、そういう話には必ず裏がある。安すぎる仕入れには訳がある。
「義務のほうは?」
私は尋ねた。
「誉れに伴う義務です。さっき、そうおっしゃいましたよね」
テオドールの微笑が、ほんのわずか形を変えた。崩れたのではない。むしろ、より誠実になった。嘘をつかない人間の、覚悟のような顔だ。
「銀泉楼の湯を……国の財として、お預かりすること」
国の財。
その短い言葉が、卓の上に静かに置かれた。
「湯は、いまや王国随一でございます。だからこそ、王室がお預かりするのが、最も多くの民の益になる。——そうは思われませんか」
預かる。
その言葉に、私の指が止まった。
ゆうべ、葉桜の下で、私は同じ言葉を口にした。
この湯を、預かります。この谷を、預かります。
ハンナから受け取ったローザの遺言を、私は誓いに込めた。湯は、奪うものではない。預かるものだ、と。
なのに——この人の口から出た「預かる」は、まるで違う温度をしていた。
同じ言葉なのに、芯がずれている。
私の「預かる」は、谷から託されたものを守ること。
この人の「預かる」は、谷の湯を国へ吸い上げること。
「お預かり、というのは」
私は慎重に言葉を選んだ。
「具体的には、どういうことです」
「王室が、湯の使い道に優先の権を持つということです」
テオドールは淀みなく答えた。隠す気はなかった。誠実な人間ほど、肝心なところで嘘をつかない。
「王国には、湯を必要とする場がいくつもございます。社交の場、療養の場、外交の場。限られた湯を、最も栄える場へ。——それが王国全体の利益にかなう配分かと」
配分。
最適。
全体の利益。
その言葉づかいに、私は、奇妙な既視感を覚えた。
どこかで、聞いた。
いや——違う。
どこかで、自分が、言っていた。
前世の、会議室だ。
白い壁。長机。眠れない夜の続きの、朝の光。
私は傾いた旅館の損益表を前に、こう言っていた。
——この館は見込みがありません。投資は伸びる館へ集中させるべきです。限られた資本を、最も回収率の高い館へ。それが全体の利益にかなう配分です。
数字は、正しかった。
戦略は、合理的だった。
そして私は、見捨てた館の女将が最後にどんな顔をしたかを、覚えていない。
覚えていないのだ。
二百軒、見てきたのに。
一軒も自分の手では作れなかったのに。
目の前のテオドールに、私はその時の自分を一瞬だけ重ねた。
誠実で、論理整然として、嘘をつかない。
そして——配分される側の、一人の顔を見ていない。
「カルム殿は」
気づくと、私は尋ねていた。
「これまで、いくつの湯を配分してこられたのですか」
「……数えてはおりません」
彼は初めて、即答しなかった。
「数えるようなものでもありませんから。記録は残っております」
記録。
数字の、一点として。
その答えが、何より雄弁だった。
「セラ」
ノアが、低く私を呼んだ。
「外、見ろ」
言われて、私は格子の外へ目をやった。
厨房の戸口に、マリカが立っていた。両手で、花器を抱えている。けれど、活ける気配はない。ただ、こちらを——いや、客間の使者を、見ている。
翡翠殿で、貴族の情報搾取の道具にされていた女。王都の人間を、誰より知っている女。
その顔が、わずかに強張っていた。
マリカは、私と目が合うと、小さく首を横に振った。
信じるな、と言うように。あるいは、用心しろ、と。
私は、ほんの少し、頷き返した。
テオドールは、その短いやり取りに気づかなかった。書状筒の留め金を丁寧に閉じ直している。
「お返事を急かすつもりはございません」
彼は湯呑みに残った茶を、一口で飲み干した。冷めた茶だった。湯気は、もう立っていない。
「ただ、申し添えておきます。御用達の話は、銀泉楼にだけ届いているのではありません」
「ほかにも、当たられたと?」
「ええ。王室はいくつもの湯を当たりました」
「それで、銀泉楼に」
「左様で」
テオドールは湯呑みを卓に伏せた。
その所作は、ひどく静かだった。
「ですが——どこも、近頃は出が悪いとかで」
出が悪い。
その一言が、昨夜から胸の奥に沈んでいた三つの欠片を、もう一度、揺り起こした。
涸れた湯。ヘルマンが、街道で拾った噂。昔うちの近くにも栄えた湯があった、今は涸れちまった、と。
湯の差配。ディートリヒが、地方の書庫で見つけた中央発の古い通達。
供給先リスト。マリカが王都から持ち帰った、翡翠殿の裏帳簿。
別々の場所で拾った欠片が、初夏の朝の光の中で、ゆっくりと向きを変えはじめる。
けれど——まだ、繋がらない。
線になりかけて、すぐに、ほどける。私の手の中で、それらは、まだ三つのままだ。
各地の湯が、近頃、出が悪い。
残ったのが、ここだけ。
偶然だろうか。
それとも。
考えるな、と自分に言い聞かせる。
今は、まだ考えるときじゃない。確かなものが、何ひとつない。
使者が敵か味方かもわからない。この誉れが罠かどうかもわからない。私の手の中にあるのは、違和感だけだ。
数字のない違和感を、確信のように扱ってはいけない。それは前世のコンサルが、いちばん戒めたことだった。
けれど——違和感は、消えなかった。
「ご返答は、いつまでに」
私は、伏せた手帳を、ようやく開いた。
炭筆を取り、新しいページの隅に、湯気の形を一つ小さく書いた。意味のない、ただの落書きだ。手を動かしていないと、考えがまとまらない。
「ひと月ほど、お時間をいただければ」
テオドールは、わずかに目を細めた。困惑ではない。むしろ、安堵に近い表情だった。
「結構です。誉れは、急いで受けるものではございません」
彼は立ち上がり、官服の裾を整えた。
「ルヴェール殿。——いえ、ヴェステルンド殿と、お呼びすべきでしたか。昨日、祝言を挙げられたばかりと伺いました」
「どちらでも」
「では、ルヴェール殿と。あなたの名は、その湯とともに王都まで届いております」
誉れの言葉だった。
甘く、正しく、嘘のない言葉。
なのに、聞いていて、背筋が冷えた。
名が、王都まで届いている。
それは——目を、つけられている、ということでもある。
テオドールを、谷の入口まで見送った。
馬車は、エルデン街道のほうから来ていた。かつてこの谷を見捨てるために付け替えられた、あの街道だ。
使者は馬車の前で、もう一度深く頭を下げた。
「よい谷でございますね」
彼は谷を見渡して、ぽつりと言った。
棚田の鏡が、初夏の朝日を四十枚跳ね返している。源泉の湯気が宿を柔らかく包む。葉桜が、川風に青く揺れていた。
「これほどの湯が長く保つことを、私も願っております」
長く、保つことを。
その言葉に、私はぴたりと足を止めた。
保つ。
まるで——保たないことを知っているような、言い方だ。
「カルム殿」
私は、振り返る彼の背に声をかけた。
「湯が保たなくなるとしたら。それは、どんなときだとお思いです」
テオドールは馬車の踏み台に足をかけたまま、少しだけ考えた。
それから、振り向かずに答えた。
「……魔力には、限りがございますから」
ただ、それだけ。
馬車の扉が閉まり、車輪が、街道の土を踏んだ。
遠ざかる馬車を見送りながら、私はその答えを、胸の中で何度も転がした。
魔力には、限りがある。
限りがあるなら——足りない湯のために、どこかの湯から引いてくるしかない。
奪うしか、ない。
彼の論理は、たぶんそこに根を張っている。
馬車が見えなくなると、ノアが、隣に立った。
「あいつ」
短く、言う。
「嘘は、ついてない」
「うん。一度も」
「だから、性質が悪い」
ノアの目は、まだ街道の彼方を見ていた。深い緑が、初夏の光にわずかに翳っている。
この人は五年前、リンドヴァルで地脈の異変を見抜きながら、間に合わなかった。間に合わせることに、誰より痛みを知っている人だ。
「セラ」
「ん」
「あいつの言う『配分』——」
ノアは、そこで言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「言ってよ」
「……いや。まだ、何も言えない」
「ノアらしくないね。いつもは、無理だ無理だって即答するのに」
「無理だと言えるのは、数字がそろってる時だけだ」
ノアは藍色の髪を片手で掻き上げ、街道から目を逸らした。
「今は、それすら、ない」
「うん。私も」
二人とも、まだ確かなものを、何も持っていなかった。
持っているのは、ぴたりと噛み合わない、いくつかの違和感だけ。
宿に戻ると、ハンナが、玄関の暖簾の下に立っていた。
昨日まで、私の花嫁衣装の裾を直してくれていた小さな体。今朝はもう、いつもの割烹着に戻っている。左手の薬指で、ローザから譲られた銀の指輪が光っていた。
「お嬢」
ハンナは私を見上げた。皺の奥の目が、いつになくまっすぐだ。
「あの使いの人、何を置いていきました」
置いていったもの。
書状でも、目録でも、誉れでもなく——ハンナは、そう尋ねた。
この人は二十年、この谷で湯を守ってきた。言葉の裏に何が沈んでいるかを、誰より知っている。
「……まだ、わからないの」
私は、正直に答えた。
「誉れみたいな顔をして来たけど。私の手帳には、まだ書けない」
ハンナは、しばらく私を見ていた。
それから、空を見上げた。昨日ローザに語りかけたのと、同じ仕草で。
「ローザ様が、よく言ってたんですよ」
声が、柔らかかった。
「甘い話には、湯加減を見るより念入りに手を入れろ、って」
湯加減。
女将の言葉だった。
私は、思わず笑った。喉の奥が、少しだけほどけた。
「念入りに、ね」
「ええ。あんたの大風呂敷は、相変わらず大きい。——けど、今度のは、あんたが広げたんじゃない。向こうが広げて見せてきた風呂敷だ」
ハンナは、暖簾を片手で押さえた。
初夏の川風が、新しい暖簾を、ふわりと持ち上げる。
「人が広げた風呂敷の中身は、自分で確かめないとね」
「……手、入れてみる」
「ええ。湯加減を見るみたいに」
ハンナは、それだけ言って、厨房へ戻っていった。
小さな背中が、誰よりも、まっすぐだった。
夜になって、私は一人、三階のテラスに立った。
眼下に、三十室の灯り。源泉の湯気が建物を包み、夜空へのぼっていく。
昨夜は、ここで幸せが満ちていた。もう、これ以上のものはないと思えるほどに。
たった一日で、谷の景色は何も変わっていない。
変わったのは、私の見え方だ。
誉れか。
それとも。
手帳を開いた。追放の朝に持ち出した、革表紙の手帳。数字で始まり、途中から人の言葉で埋まっていった、私の武器だ。
ゆうべ書いた一行が、まだいちばん新しいページに残っていた。
『——預かった湯は、守る』
その下に、私は炭筆で、もう一行書き足した。
『カルム殿は、配分する人。私は——』
書きかけて、止めた。
私は、何だろう。
女将。それは、わかっている。けれど女将は、王国の制度を相手に何ができる。経営の数字は、こういう相手には、たぶん効かない。
その先の言葉が、まだ出てこない。
炭筆を置いて、谷を見渡した。
棚田。湯気。葉桜。三十室の灯り。
全部、預かったものだ。ローザから、ハンナから、ノアから、この谷のみんなから。
奪う繁栄か、分かち合う繁栄か。
甘い誉れの向こうに、まだ顔も知らない涸れた湯の影が、ちらついている。
それが私の取り越し苦労なら、それでいい。
でも、もし本当に——どこかで誰かの湯が、誰かの繁栄のために、いまも奪われ続けているのなら。
私はテラスの欄干に、そっと手を置いた。
川風が、葉桜を鳴らす。湯気が欄干を撫で、夜空へほどけていく。
欄干の隅に、昼間テオドールが置いていった御用達の目録が、まだ畳まれたまま残っていた。
王家の御紋の封蝋が、谷の灯りを受けて、赤く——静かに光っていた。
誉れか、それとも——。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
番外編「銀泉桜の頃」を経て、本作はいよいよ第八章「王国の湯を継ぐ者」——第二部に入ります。今日のお話は、その開幕の一話です。
第一部は、セラが「自分の宿」を作り上げるまでの物語でした。廃墟を建て直し、源泉を取り戻し、谷を蘇らせ、ノアと結ばれて。ひとつの夢が、確かに叶いました。けれど、夢を叶えた人が次に問われるのは、「みんなの湯を、どう守るか」なのだと思います。
今回登場した使者テオドール・カルムは、悪人ではありません。むしろ、誠実で、嘘をつかず、礼儀正しい人です。だからこそ、彼の語る「正しさ」は厄介で、セラは彼を、どこか他人とは思えませんでした。前世で二百軒を分析しながら、一軒も自分の手で作れなかった頃の自分の影を、彼の中に見たからです。「配分する人」と「預かる人」。同じ湯を見ていても、立つ場所が違う。その違いが、これからの戦いの軸になります。
ローザの遺言「湯は、奪うものではない。預かるものだ」。祝言の誓いに込めたあの言葉は、ここから、セラ自身の信念へと鍛えられていきます。新しい谷の、新しい戦いを、どうかこの先も見届けていただけたら嬉しいです。
それでは、また次回。




