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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第80話: 銀泉桜の祝言

 追放の朝と同じ刻限に、目が覚めた。


 まだ薄青い部屋の中で、天井の木目を見つめた。ガルドの漆喰。ノアの地脈が通った壁。指で触れると、ほのかに温かい。あの日と同じ早朝の冷えなのに、頬を撫でる空気の質が、まるで違った。

 窓を開けた。

 湯気が、白く谷を包んでいた。


 一年前、ルヴェール邸で開けた窓は、白梅の香りがした。荷物は着替えが三着と手帳だけ。誰も見送りには来なかった。

 今朝の窓の外には、谷がいた。


 棚田の水面に朝日が滑り、四十枚の鏡が一斉に光を返す。煙突から細い煙が上がる。渓流沿いに、トビアスの釣り教室の看板が白く光っている。

 銀泉桜は、もう散っていた。


 春に夜空を舞ったあの銀色は、初夏のいま、どこにもない。代わりに、葉桜の青い影が川風に揺れている。花は記憶の中にしかなかった。

 それでいい、と思った。

 今日、私はその記憶の下で、嫁ぐ。


 枕元に、布包みが置いてある。

 ほどくと、押し花が出てきた。春に拾って、本に挟んでおいた銀泉桜。色は淡く褪せ、花弁は紙のように薄い。けれど、形は崩れていなかった。

 ハンナが昨夜、そっと置いていったのだろう。


 「……ありがとう、ハンナさん」


 誰もいない部屋で、声に出した。

 左手の薬指で、銀の指輪が朝の光を小さく弾いた。銀泉草の彫り。ノアが私の寝ているあいだに、糸で寸法を測ったという指輪。

 その指で、押し花を一枚、そっと持ち上げた。


 今日は——祝言の日。




 昼が近づくと、銀泉楼はまた戦場になった。


 ガルドが大広間の梁を見上げ、目を細めている。


 「この梁な。じいさんが据えたんだ。百年保つ木を選んだ」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 「……今日くらいは、見栄えよく晴れてもらわねぇとな」


 布で梁を一拭きして、それから祝いの幕を吊るす段取りに移った。文句を言いながら、手は誰より丁寧だった。


 厨房では、ユーディットとリュカが腕まくりをしていた。

 硫黄と銀泉草の香りが、源泉蒸し室から廊下まで漂ってくる。包丁がまな板を叩くリズムと、鍋の低い唸り。二人のあいだに言葉はほとんどない。

 リュカの後ろに、痩せた小柄な少年が張りついていた。テオだ。父ヨハンのエプロンを継いだリュカの、そのまた弟子。


 「師匠、この桂剥き、これでいいっすか」


 「もっと薄く。光が透けるまで」


 リュカが手本を見せる。父に教わったように。ユーディットに叩き込まれたように。

 ユーディットが厨房の隅から、その背中を見ていた。何も言わない。ただ、味見の小皿に伸ばした二口目の手が、無言の祝福だった。


 ロビーでは、マリカが花を活けていた。

 その隣に、見慣れない仲居が二人。翡翠殿から谷へ移ってきた、テレーズとニナ。


 「マリカさん。この向き、合ってますか」


 ニナが不安げに花器を傾ける。


 「窓からの視線で決めて。お客様が最初に見る景色だから」


 マリカの声は、柔らかかった。

 かつて自分を縛った技術を、今は、人を喜ばせるためだけに使っている。テレーズが目を伏せて、小さく頷いた。


 全員が、この一日のために動いていた。

 私の、たった一度の祝言のために。




 葉桜の下に、祝言の席が設えられた。


 大広間ではなく、庭にした。理由は単純だった。ここからなら、谷が全部見える。

 白い布を敷いた長机が並び、銀泉草の小さな束が席ごとに添えてある。マリカの仕事だ。葉桜の枝が天蓋のように席の上にかかり、青い影が布の上で揺れている。

 その枝のあいだから、源泉の湯気がゆっくりとのぼっていく。


 谷の全員が、集まっていた。


 ヴァルターが麦わら帽子を脱いで、節くれだった手で胸に当てている。隣でフリッツが姿勢を正していた。

 トビアスが座布団を二枚重ね、「膝が痛ぇ」とぼやいた。


 「引退した身に、祝言は荷が重いぞ。……まあ、川の鱒も、今日は上等なのを選んどいたが」


 「結局いちばん張り切ってるじゃないですか」


 イルゼが笑って、座布団を一枚、トビアスの背に足した。


 「あら、それ私のですよ。……いいわ、今日くらい」


 エミールが眼鏡を拭き、妻に袖を引かれて席についた。

 ハンナが上座の隣に、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。左手の薬指に、ローザから譲られた銀の指輪が光っていた。


 ヘルマンが、いちばん後ろの席で立ち上がった。


 「女将さん! いや——きょうは、花嫁さんか!」


 日に焼けた顔に、人懐こい笑み。最初の客。あの雨の日に「泊めてくれ」と飛び込んできた行商人が、今日は谷の婚礼に立ち会っている。


 「一番乗りで来たぞ。仲間も連れてな」


 後ろの席で、行商仲間が手を振った。

 私は、言葉に詰まった。喉の奥が、もう熱い。




 祝言が、始まった。


 ノアが私の隣に立った。

 いつもの旅装ではなく、藍の正装に身を包んでいる。馴れないのが、肩のこわばりでわかった。髪は無造作なまま。けれど、その目だけは私を逸れなかった。


 「セラ」


 低い声で、私を呼んだ。


 「俺は、誓いの言葉を……三日かけて、組み立ててきた」


 「三日も?」


 「ああ。報告書なら一晩で書ける。なのに、これだけは」


 ノアが、少し俯いた。耳が赤い。この人は、照れると耳だけが正直になる。


 「……組み上がらなかった」


 葉桜が、さわ、と鳴った。

 ノアが顔を上げた。今度は、逸らさなかった。


 「だから、組み立てるのはやめた。——いま、思うことを言う」


 その一言で、私は理解した。

 ああ、この人はまた、完璧を捨てたのだ。リンドヴァルの井戸端で学んだことを、今日も選んだのだ。


 「お前は、自分の宿を作るのが夢だと言った。前世で叶えられなかった夢だと」


 ノアが、谷を見た。三十室の銀泉楼を。棚田を。葉桜を。


 「俺は、その夢を奪わない。隣で、一緒に作る」


 声が、わずかに震えた。


 「不器用で悪い。だが——間に合わせることだけは、もう間違えない。お前のことだけは一生、間に合わせる」


 葉桜の影が、彼の頬の上で揺れていた。




 私の番だった。


 息を吸った。集まった顔を、一人ずつ見た。

 ガルド。ユーディット。リュカ。マリカ。エミール。ヴァルター。フリッツ。トビアス。イルゼ。ヘルマン。

 そして、ハンナ。


 「私には、二つの人生があります」


 声が、思ったより通った。


 「前の人生で、私は二百軒の宿を見てきました。でも、自分の宿は一軒も作れなかった。それを抱えたまま、死にました」


 ノアが、静かに私を見ている。


 「だから今度こそ、と思って、ここへ来ました。廃墟と、枯れた源泉と、前世の夢だけを持って」


 手のひらに、押し花を握っていた。春の銀泉桜。色の褪せた、薄い花弁。


 「叶えたって、思っていたんです。暖簾を掲げたとき。これで夢は終わりだって」


 顔を上げた。


 「でも、ハンナさんが教えてくれました。——湯は、奪うものではない。預かるものだと」


 ハンナの肩が、わずかに動いた。割烹着の袖が、目元へ上がった。


 「私の夢は、私だけのものじゃなかった。ローザさんから、ハンナさんから、この谷のみんなから、預かったものでした」


 葉桜の下で、誰も口を開かなかった。

 沈黙が、谷の上にゆっくりと降りてくる。湯気の音だけが、耳の奥で鳴っていた。


 「だから、誓います」


 ノアを見た。深い緑の瞳に、葉桜の影が映っている。


 「この湯を、預かります。この谷を、預かります。——あなたの隣で、ずっと」


 言い切った。

 ノアが、息を呑むのがわかった。


 「世界で一番あたたかい宿を、二人で守る。それが、私の誓いです」




 ハンナが、立ち上がった。


 小さな体で、背筋をまっすぐ伸ばして。割烹着のまま、誰よりも凛として。


 「お嬢」


 声が、震えていた。


 「あんたの大風呂敷は、相変わらずだね」


 涙声だ。でも、口角は上がっている。


 「……でも、今日も、広げたぶんだけ中身がある」


 全員が、笑った。涙混じりの笑いが、葉桜の下に広がった。


 ハンナが、左手の指輪に触れた。ローザの形見の、銀の指輪。それから、空を見上げた。


 「ローザ様」


 皺の奥に、二十年分の涙と笑顔が、同居していた。


 「あなたの湯を、預かる人が——嫁ぎますよ」


 春に取っておいた銀泉桜の押し花を、私は宙へ撒いた。

 褪せた花弁が、葉桜の青い影の中を、ゆっくりと舞った。記憶の春が、初夏の谷に降りてくる。

 みんなが手のひらを差し出して、花弁を受けた。ガルドの傷だらけの手。リュカの大きな手。トビアスの節くれた手。イルゼの塩で荒れた指。


 「……銀泉桜だ」と、ヘルマンが花弁を一枚つまんで言った。「これを語りに、また街道を回るとするか。あの宿の女将が、嫁いだ日の話をな」


 「ヘルマンさんの語りは、いつも話を盛るから」


 マリカがそっと釘を刺すと、行商人は声を上げて笑った。


 ヴァルターが、麦わら帽子で受けた花弁を、そっと胸ポケットに収めた。


 「……黄金の階段にも、今年、水を張る」


 ぽつりと、それだけ言った。


 「親父」


 フリッツが、目元を拭って言った。


 「四十枚、全部、俺が手伝う」


 「ああ」


 短く、ヴァルターが頷いた。たった一言。けれど、二十年の不器用な父子の間に、初めて橋が架かったような声だった。




 席に着くと、料理が運ばれてきた。


 先付——銀泉草の白和え。初めてこの源泉に手を浸した日、湯気に混じっていた、あの銀色の草。

 椀物——全盛期を超えた源泉蒸し。霧茸を源泉の蒸気で蒸し、谷鱒の骨でひいた出汁。蓋を開けると、谷の匂いが立ちのぼる。

 造り——谷鱒の薄造り。トビアスの養殖から選んだ最高の一匹。紅い身が、皿の上で花弁のように開いている。

 そして、蕎麦。


 リュカが、自分で運んできた。


 「これ……俺と、テオで打ったやつっす」


 声が、少し上ずっていた。


 「桂剥き、五百十二回。——俺が親父に追いつくのにかかった回数っす。テオにはまだ無理っすけど」


 後ろで、テオが顔を真っ赤にしている。


 「で、でも、いつか追い抜くっす!」


 「言うようになったな、弟子」


 リュカが笑った。父ヨハンが、かつてそうしたように。

 ユーディットが、厨房の戸口に腕を組んで立っていた。蕎麦を一口、無言で啜る。それから、二口目に手が伸びた。


 「……まあ」


 ぼそりと言った。


 「悪くねぇな。二代がかりにしちゃ」


 リュカとテオが、同時に拳を握った。


 トビアスが、造りの谷鱒を一切れ口に運んで、唸った。


 「……この鱒は、わしが選んだ。今朝いちばん身の張ったやつをな」


 「引退したんじゃなかったんですか」


 イルゼが笑うと、老漁師は鼻を鳴らした。


 「花嫁に出す魚だぞ。引退も、今日だけは休みだ」


 その隣で、イルゼが甘味の霧山羊チーズを取り分けながら、ふと声を落とした。


 「お母さん、見てるかしら。……セラちゃんの祝言。あたしのチーズが、出てるよって」




 ガルドが、杯を掲げた。


 「女将殿」


 声が大きい。この人はいつもそうだ。でも、今日の声には、別の響きがあった。


 「乾杯の音頭は、あんたが取れ。——いや」


 言い直した。


 「あんたと、学者先生が、二人でな」


 全員の視線が、私とノアに集まった。


 「棟梁。一緒に取らない?」


 「馬鹿言え。音頭は主役が取るもんだ」


 ガルドが鼻を鳴らした。それから、低く付け足した。


 「……じいさんとおやじが建てた家で、嬢ちゃんが嫁ぐ。俺は、それを見られりゃ十分だ」


 私は杯を持って、立ち上がった。ノアも、隣でぎこちなく立った。

 谷を見渡す。葉桜。湯気。棚田。三十室の宿。そして、この一年を一緒に走ってくれた、全員の顔。


 「一年前、私はこの谷に、何も持たずに来ました」


 声が、また少し震えた。


 「今は——全部、あります」


 葉桜の下の、全員の顔を見渡した。

 前世で二百軒の宿を回ったとき、女将さんたちが客を迎えて必ず言っていた言葉がある。あの言葉を、最初の客ヘルマンに、一度だけ言えた。

 今度は、家族に言いたかった。


 「みんな——お帰りなさい。この谷へ」


 誰かが、洟をすすった。ヘルマンが、いちばん後ろで、声を上げて頷いた。


 ノアを見た。ノアが、小さく頷いた。

 全室に灯りが点った、あの春の朝に交わした言葉と、同じだった。


 「乾杯」


 ノアが、隣で短く言った。


 杯が、鳴った。

 葉桜が揺れ、湯気がのぼり、谷じゅうの笑い声が、初夏の空に溶けていった。




 夜が更けた。


 宴の後片付けが、ひとしきり済んだ頃。

 私とノアは、三階のテラスに立っていた。半年前、ここで手を繋いだ。あの夜と同じ場所だ。

 眼下に、三十室の灯り。源泉の湯気が建物を包み、灯りが湯気に滲んで、銀泉楼が柔らかく光っている。


 「……いい祝言だった」


 ノアが、ぽつりと言った。


 「うん」


 「お前の誓い。湯を預かる、ってところ」


 ノアが、谷を見たまま続けた。


 「あれは、お前にしか言えない言葉だ」


 私は、左手の指輪を、灯りにかざした。銀泉草の彫りが、谷の灯りを小さく映す。


 「ねえ、ノア」


 「ん」


 「あなた、誓いの言葉を三日かけて組み立てて、結局捨てたでしょう」


 「……ああ」


 「私もよ。十日かけて、全部捨てた」


 ノアが、ふっと笑った。声には出さず、肩だけで。


 「似た者夫婦だな」


 「ふふ。最初から、そうだったのかも」


 繋いだノアの手が、私の手を、少しだけ強く握った。

 半年前と同じ、冷たい指。けれど、触れた瞬間に——温かくなった。


 幸せが、満ちていた。

 もう、これ以上のものはないと思えるほどに。


 そのとき——玄関の鈴が、鳴った。




 銀の鈴の音だった。客が暖簾をくぐると揺れて鳴る、ガルドが取り付けた鈴。


 「お客様……? こんな時間に」


 マリカの声が、階下から上がってきた。私とノアは、顔を見合わせて、階段を下りた。


 玄関の、新しい暖簾の前に。

 見慣れない男が、一人、立っていた。


 旅装ではない。仕立ての良い外套に、王都の紋章を縫い取った肩章。腰には、封蝋を施した書状筒。

 日に焼けた行商人とは、まるで違う種類の人間だった。


 「夜分に、失礼いたします」


 男が、深く頭を下げた。


 「王都より参りました。陛下の使いの者にございます」


 書状筒を、両手で差し出した。

 封蝋に押された紋章を見て、エミールが眼鏡を押さえた。


 「これは……王室の、御紋……!」


 私は、書状を受け取った。けれど、開く前に、使者が口を開いた。


 「王室は、奇跡の湯を失いました」


 声が、夜の玄関に低く落ちた。


 「碧泉宮は……もう、湯が出ません。一滴も。陛下は、新たな御用達ごようたしを求めておられます」


 使者が、顔を上げた。


 「——銀泉楼を」


 葉桜の影が、暖簾の上で揺れた。

 御用達。王国の宿として、これ以上ない誉れ。後ろ盾も、名誉も、客足も、思いのままになる。

 前世の自分が、夢にも見なかった栄誉だった。前世の私なら、迷わず両手で受け取っていただろう。


 でも——。


 「ひとつ、お尋ねしても?」


 私は、書状を握ったまま言った。


 「碧泉宮は、なぜ枯れたのです」


 使者の目が、わずかに泳いだ。


 「……さあ。湯のことは、私には。ただ、ある日、ぱたりと止まったと」


 「ある日、ぱたりと」


 「左様で。古い湯には、よくあることだとか」


 よくあること。

 その言葉が、胸の奥で、小さな鈴のように鳴った。

 碧泉宮の湯が止まったのは、二十年盗まれていた魔力が、東脈アンカーの解除で断たれたからだ。私たちが断ったのだ。それを、この人は知らない。あるいは、知らされていない。


 「各地の湯を、お探しと聞きましたが」


 「ええ。いくつも当たりました。ですが……」


 使者が、言いにくそうに目を伏せた。


 「どこも、なぜか、近頃は出が悪いとかで。残ったのが、ここだけなのです」


 残ったのが、ここだけ。

 その一言を聞いた瞬間、別々の場所で拾った三つの欠片が、頭の中で、ひとりでに動き出した。


 ——ヘルマンが、谷へ戻って言ったことがある。

 「各地で同じ話を聞くんだ。昔うちの近くにも栄えた湯があった。今は涸れちまった、ってな」


 ——ディートリヒから、言伝が届いていた。

 地方の役所の書庫で、中央発の古い通達を見つけた、と。「湯の差配」。衰えた湯を、栄える湯へ回す——そういう制度の、痕跡。


 ——マリカが、王都から持ち帰ったものがある。

 翡翠殿の裏帳簿。顧客名簿を装った、魔力の供給先リスト。碧泉宮以外にも、宛先があった。


 涸れた湯。湯の差配。供給先リスト。

 三つが、葉桜の夜の下で、一本の線に繋がろうとしていた。


 ヴィクトール一人の悪事では、説明がつかない。

 各地の湯が、二十年前に、一斉に涸れた。それは、誰か一人の手では、起こせない。


 ノアが、隣で静かに息を吐いた。

 その横顔が、ふと、リンドヴァルを思っているように見えた。




 ハンナの声が、耳の奥で蘇った。


 「湯は、奪うものではない。預かるものだ」


 ローザの遺言。今朝、私が誓いに込めた言葉。

 それは——祝いの言葉だと思っていた。

 けれど、もしかしたら。

 これから始まる戦いの、主題そのものなのかもしれない。


 もし「湯の差配」が、まだ生きているのなら。

 いま、王国のどこかで、誰かの湯が、誰かの繁栄のために、奪われ続けているのなら。


 御用達の誘いは、誉れだ。

 その向こうに、奪われた湯の話が、待っている。


 私は、書状を、そっと閉じた。

 使者に、玄関の客間を案内するよう、マリカに目で頼んだ。

 みんなには、まだ何も言わなかった。今夜だけは、祝言の夜のまま、終わらせたかった。


 けれど、手帳を取り出していた。

 追放の朝に持ち出した、革表紙の手帳。数字で始まり、途中から人の言葉で埋まっていった、私の武器。

 炭筆で、新しいページに、一行だけ書いた。


 『湯の差配——本当に、ヴィクトール一人だったのか』


 その下に、もう一行。


 『——預かった湯は、守る』




 テラスに戻ると、葉桜が夜風に鳴っていた。


 眼下では、三十室の灯りが、一つも欠けずに灯り続けている。源泉の湯気が、欄干を撫でて、夜空へのぼっていく。

 ノアが、隣に来た。


 「……渡さなくていいのか。みんなに、あの話」


 「明日でいい」


 私は、左手の指輪を見た。銀泉草の彫りが、谷の灯りを小さく映している。


 「今夜は、祝言の夜だもの」


 ノアが、小さく頷いた。それから、私の手を握った。今度は、指輪ごと。


 銀泉楼を、王国一の御用達に。

 ——それは、誉れか。

 それとも、もう一つの戦いの、始まりか。


 葉桜の枝の向こうで、まだ見ぬ谷の、涸れた湯の音がした気がした。


 欄干の上に、玄関から届いたばかりの王室の書状が、置かれていた。

 封蝋の御紋が、谷の灯りを受けて、静かに——光っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


番外編「銀泉桜の頃」、これにて完結です。


本編の最終話で、セラは「世界で一番あたたかい宿」を作り上げました。けれど、ひとつだけ、ずっと先延ばしにしてきたものがありました。ノアとの恋です。番外編は、各キャラクターのその後を綴りながら、最後にその恋を結ぶための、八話でした。葉桜の下の祝言で、ようやく二人を夫婦にできて、書いている私も、肩の荷がひとつ下りた心地です。


季節は、正直に書きました。銀泉桜は春に散る花なので、初夏の祝言には咲いていません。だから、ハンナが春のうちに押し花を取っておいた——という形にしました。咲いている花より、押し花のほうが、この物語には似合う気がしたのです。失われたものを、それでも手元に残しておく。この谷が、ずっとそうしてきたように。


そして、お気づきの方もいるでしょう。ヘルマンの「涸れた湯」、ディートリヒの「湯の差配」、マリカの「裏帳簿」。番外編で撒いた三つの種が、祝言の夜に、一本の線として繋がりかけました。ローザの遺言「湯は、奪うものではない。預かるものだ」は、ここから始まる戦いの主題そのものです。


セラとノアの物語は、女将と地脈学者の物語から、「王国の湯のあり方」を問う物語へ——第八章「王国の湯を継ぐ者」へと続きます。ここまで谷を見守ってくださった皆さんと、その続きを歩けたら、これほど嬉しいことはありません。


それでは、また。第二部で、お会いしましょう。


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