第79話: 不器用な人
地脈の脈動は、手のひらで聴く。
俺は源泉の縁にしゃがみ、湯の流れる岩肌に右手を置いていた。指の腹に、低い拍動が伝わってくる。地の底で何かがゆっくりと脈を打つ、あの手応え。湯量は安定している。三脈すべて健やかだ。数字を取るまでもなく、手がそう告げていた。
手は嘘をつかない。
俺が一番信じてきたのは、いつも手のひらだった。
夜の源泉小屋に、誰もいない。
湯気が天井の梁にのぼり、岩のすき間で結露が一滴、また一滴と落ちる。その滴る音が、やけに大きく耳に残った。
「……セラ。話がある」
声に出してみた。
駄目だ。固い。報告書の冒頭みたいだ。
「お前と、これからも——」
途中で止まった。喉の奥が詰まる。こんな簡単なことが、どうして言えない。地脈の異常なら一晩で論文にできる。なのに、たった一人の女に向ける言葉が、組み上がらない。
手のひらの拍動が、少し速くなった気がした。それは地脈じゃない。俺自身の脈だ。
懐から、小さな布包みを出した。
銀の指輪。ガルドの伝手で町の鍛冶に頼んで、三日かかった。表に細く、銀泉草の葉を彫ってもらった。セラがいつも髪に挿している、あの草の形に。
手のひらに乗せると、ひやりと冷たい。
いい出来だと思う。寸法も合わせた。彫りの深さも、左右の対称も、何度も検めた。完璧に近い。
——完璧。
その言葉が、胸の奥で軋んだ。
俺は、完璧という言葉が嫌いだ。
いや。違う。怖いのだ。
——あれは、五年前のことだ。
リンドヴァルの井戸端で、俺は地面に手を置いていた。今と同じように。指の腹に伝わる地脈は、明らかに病んでいた。誰かが地に楔を打ち込んでいる。原因は特定できた。アンカーの位置も、抜き方も、頭の中にあった。
なのに俺は、報告書を書き始めた。証拠を揃え、図を引き、数式を立て、誰が読んでも文句のつけようがない、完璧な一冊を。
三月かかった。
その間に、井戸が涸れた。田が干上がった。家々の窓から、一つずつ灯りが消えていった。
報告書が完成した日に村へ戻ると——もう、誰もいなかった。
乾いた井戸の底に、俺は手を置いた。脈は、もうなかった。
——その井戸の石の冷たさが、今、指輪の冷たさに重なってくる。
俺は指輪を握りしめた。
怖いのは、これだ。
完璧な言葉を組み立てているあいだに——また、間に合わなくなるんじゃないか。
あの村は、俺が言葉を磨いているあいだに死んだ。俺が「もう少し」と思っているあいだに、灯りが消えた。
なら、今もそうかもしれない。俺がこの指輪の彫りに満足するまで待っているあいだに、何かが取り返しのつかない場所へ行ってしまうんじゃないか。
馬鹿げている。セラはすぐそこにいる。三階のテラスで、谷を見下ろしている。消えやしない。
わかっている。頭ではわかっている。
それでも、手のひらの脈が速い。
俺は立ち上がった。指輪を握ったまま。組み上がらない言葉を、まだ探しながら。
三階のテラスに、セラが立っていた。
夜風に蜂蜜色の髪を遊ばせて、谷を見下ろしている。眼下には全三十室の灯り。源泉の湯気が建物を包み、灯りが湯気に滲んで、銀泉楼が柔らかく光っていた。
半年前、ここで手を繋いだ。冷たかった俺の指が、繋いだ瞬間に温かくなった、あの場所だ。
銀泉桜は、もう散っていた。
あの夜、夜空に舞っていた銀色の花弁は、初夏の今はどこにもない。代わりに葉桜の青い影が、月明かりの下で揺れている。花は記憶の中にしかなかった。
それでいい、と思った。花の散ったあとも、ここに残るものの話を、俺はしに来た。
「ノア」
セラが振り返った。琥珀色の目に、谷の灯りが映っている。
「地脈の調整、終わった?」
「……ああ」
嘘だ。調整なんかしていない。ただ、言葉を組み立てに行って、失敗してきただけだ。
俺はセラの隣に立った。
肩が触れそうな距離。谷の灯りを二人で見下ろす。湯気の匂いが鼻先をかすめ、葉桜のざわめきが耳の奥に積もっていく。
言うなら、今だ。
懐の指輪が、布越しに重い。
「セラ。あー……」
声が、上ずった。
「お前は——いや。この一年で、銀泉楼は全盛期を超えた。湯量も、客足も、町の産業も、すべて数字が示している。これは、その……経営判断として」
経営判断。
言ってから、頭を抱えたくなった。何を言っているんだ、俺は。求婚を経営判断から始める男が、この世にいるか。
セラがきょとんと俺を見ていた。
「経営判断?」
「……違う」
「ふふ。じゃあ、なに?」
茶化す声じゃなかった。柔らかく、待っている声だ。彼女はもう、何かに気づいている。
「その……」
目を逸らした。葉桜の影が、足元で揺れている。耳が熱い。きっと赤くなっている。この耳だけは、昔から正直で困る。
「言いたいことが、あるんだ。ちゃんと」
「うん」
「ちょっと、待ってくれ。組み立てるから」
「待たない」
セラが、ふいに言った。
「ノアの言葉、組み上がるの待ってたら、葉桜が散っちゃう。——もう、散ってるけど」
組み立て直そうとした。
もっと適切な順序がある。まず前提を述べ、次に論理を展開し、結論を最後に置く。いつもそうしてきた。地脈の報告も、修復の提案も、すべてその順で——
——その間に、井戸の灯りが消えた。
不意に、あの村が胸をよぎった。
完璧な順序を組んでいるあいだに、間に合わなくなった村。手のひらの下で、脈が止まっていった大地。
俺は、また同じことをしている。
言葉を磨いている。順序を検めている。彫りの深さを確かめている。——そうやって、今この瞬間を、先送りにしている。
握った指輪が、手のひらの中で、もう温かくなっていた。
俺の手の熱で。
ふと、わかった。
完璧な報告書は、村を救わなかった。救えるのは、不完全でも今すぐ差し出す手だけだ。あの井戸端で、俺はそれを学んだはずだった。
なのに俺は、また完璧な言葉を待っている。
——もういい。
俺は、布包みを開いた。
銀の指輪が、月明かりに光る。セラが息を呑むのがわかった。隣で、空気が一瞬、止まった。
「セラ」
顔を上げた。今度は、目を逸らさなかった。
「俺は……いや。あー」
また詰まった。喉の奥で言葉がつかえる。いつもの癖で、視線が葉桜の影に逃げかけた。
逃がさなかった。目を、彼女に戻した。
「もう、報告書は完璧じゃなくていい」
声が震えた。構わなかった。
「——今、言う」
葉桜のざわめきが、ふっと遠のいた。谷の灯りも、湯気も、何もかもが背景に退いて、目の前にセラの顔だけが残った。琥珀色の目が、見開かれている。
「俺は昔、言葉を磨いているあいだに、守りたかったものを全部失った」
一言ずつ、置くように言った。
「完璧を待って、間に合わなかった。村が、消えた。——だから、お前には、間に合わせたい」
「ノア……」
「最後まで言わせてくれ」
遮るように、強く言った。それから、自分の声の大きさに気づいて、少し俯いた。
「……すまん。下手なんだ。順序も、めちゃくちゃで」
「いいよ」
セラの声が、優しかった。
「下手なまま、聞かせて」
俺は息を吸った。指輪を差し出す。手が震えていた。それでも、引っ込めなかった。
「俺と、ここで生きてくれ。この宿で。この谷で」
「……」
「お前の夢の続きを、隣で見ていたい。——いや、違う」
言い直した。
「隣で、一緒に作りたい」
言い切った。
みっともない求婚だった。詰まって、遮って、最後は言い直しだ。完璧からは、これ以上ないほど遠かった。
でも、間に合った。
セラは、すぐには答えなかった。
沈黙が、二人のあいだに降りてきた。夜気よりも重く、湯気よりも温かい沈黙が。葉桜の影が、彼女の頬の上で揺れている。
俺は待った。差し出した手を引っ込めずに。
脈が、耳の奥で鳴っていた。
やがて、セラの琥珀色の目から、涙がこぼれた。
一粒。二粒。頬を伝って、顎の先で光る。
セラが笑った。泣きながら、笑っていた。
「……ノアって」
声が、湿っている。
「ほんと、不器用な人」
「……悪かったな」
「ううん。違う」
セラが首を振った。涙が、また一粒落ちた。
「経営判断から始まって、途中で詰まって、私を遮って。——世界中で、あなただけよ。こんな求婚」
「……忘れてくれ、経営判断のところは」
「やだ。一生、覚えてる」
笑って、彼女は袖で目元を拭った。それから、急に真顔になって、俺をまっすぐ見た。物事を見定めるときの、あの目だ。
「ノア。一つだけ、確かめさせて」
「……なんだ」
「あなたは、完璧じゃない私で、いいの? 私、料理も建築も下手で、すぐ熱中して周りが見えなくなって、恋にもびっくりするくらい鈍くて」
「いい」
即答した。考える間もなかった。
「お前が、完璧じゃないところを、全部知ってる。その上で言ってる」
セラの目が、また潤んだ。
「……ずるい。そんなの、断れるわけ、ないじゃない」
セラが、俺の差し出した手に、自分の手を重ねた。
指輪を挟んで、二つの手のひらが触れ合う。ひやりと冷たい彼女の指。半年前と同じだ。けれど、重ねた瞬間に——温かくなった。
俺の手のひらが、地脈ではなく、彼女の脈を聴いていた。速い。俺と同じくらい、速い。
「私ね」
セラが、谷を見下ろした。三十室の灯りを。
「前世で、自分の宿を作るのが夢だった。一度も叶わなくて、それを抱えたまま死んだの」
「ああ」
「だからこの世界で銀泉楼を見つけて、もう夢中で。叶えたって、思ってた。ここで暖簾を掲げたとき——これで夢は終わりだって」
俺の手の中で、彼女の指が、指輪をそっと撫でた。
「でも、違ったみたい」
「違う?」
「うん」
顔を上げて、俺を見た。涙の跡が、灯りに光っている。
「私の夢、まだ続きがあるみたい」
俺は、指輪を彼女の左手の薬指に通した。
「……入った」
思わず、声が漏れた。
「寸法、ぴったり」とセラが目を丸くする。「ノア、いつ測ったの?」
「お前が寝てるあいだに。糸で」
「うわ。学者の本気、こわい」
寸法は、合っていた。何度も検めた甲斐があった。——いや。違う。たとえ合っていなくても、今夜、俺はこれを渡しただろう。直すのは後でいい。間に合わせることのほうが、ずっと大事だと、もう知っている。
銀泉草の彫りが、月明かりを受けて細く光った。
「これ、銀泉草?」
「ああ。お前がいつも、髪に挿してるやつだ」
セラが目を見開いた。それから指輪を、いつまでも見つめていた。空いた手で目元を拭って、もう一度笑う。
「ハンナさんに、なんて報告しよう」
「……あの人なら、とっくに知ってる気がする」
「あ。それ、わかる」
「『遅かったね』って、言われるぞ」
「ふふ。間違いない」
セラが、また少し泣いて、また笑った。
「ねえ、ノア。一つ、約束して」
「……なんだ」
「次に何か大事なこと言うときは。報告書、待たないで。——下手なまま、今すぐ言って」
「……善処する」
「善処、って」
「……わかった。言う」
夜風が谷を渡り、葉桜がさわ、と鳴った。源泉の湯気が、テラスの欄干を撫でて、夜空へのぼっていく。眼下では三十室の灯りが、一つも欠けることなく、温かく灯り続けていた。
俺はもう一度、彼女の手を握った。
今度は、指輪ごと。
テラスの欄干に、月明かりが差していた。
その光の中で、セラの左手の銀の指輪が、谷の灯りを小さく映して——静かに、光っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
番外編「銀泉桜の頃」、第七回。ついに、あの不器用な人の番です。
ノアは本編で全魔力を賭けてアンカーを解除し、行動では誰よりもセラを守ってきた人でした。けれど「言葉にする」ことだけは、ずっと後回しにしてきた。それはリンドヴァルの傷——完璧な報告書を書いているあいだに、守りたかった村を失った過去——が、彼の口を縛っていたからです。
だから今回は、彼が「完璧を待たない」と決める話にしたいと思っていました。経営判断から始まる世界一不器用な求婚も、順序のぐちゃぐちゃな告白も、全部わざとです。完璧な言葉より、間に合わせること。それを学んだ男が、震える手で指輪を差し出す——その一点だけを、まっすぐ書きたかった。
指輪に彫った銀泉草は、セラがいつも髪に挿している草です。ノアがこっそり寸法まで測っていたと思うと、書きながら少し笑ってしまいました。
次回、いよいよ最終話。第八回「銀泉桜の祝言」。谷総出の結婚式です。本編の食卓と灯りを、もう一度。どうか見届けてください。
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