第78話: 二代の女将
花は夜のうちに摘んでおく。
朝露を含んだまま手折るのが、いちばん日持ちする。ローザ様がそう言ったのは、もう何十年も前のことだ。あたしはその通りにしてきた。今朝もまだ暗いうちに庭へ下りた。銀泉草の白い小花。垣根の野薔薇。一束ずつ、指先で摘んだ。
露が手の甲を冷たく滑っていく。
摘んだ花を割烹着の前で抱える。茎の青い匂いと薄甘い花の匂いが、まだ眠たい鼻先まで立ちのぼってきた。あたしはこれをローザ様の匂いだと思っている。理屈じゃない。花を摘むたびにあの人を思い出す。だからそういうことになっているだけさ。
台所の隅で、線香を一束、油紙に包んだ。
左手の薬指の銀の指輪が、暗がりでわずかに光った。ローザ様の形見だ。指の節が太くなって、もう抜けやしない。抜くつもりもない。
「ハンナさん、おはようございます。……あら、もう支度を?」
まだ朝靄の残る玄関先で、セラのお嬢が声をかけてきた。
今日はこのお嬢を連れていくと決めていた。決めたのは、ゆうべのことだ。
「お嬢。今日は、ちょいと付き合っとくれ」
「どこへ?」
「墓だよ」
お嬢は一瞬きょとんとした。それから抱えたあたしの花束に目を落として、ああ、という顔をした。聡い子だ。一を言えば五を察する。だからあたしは、この子に話そうと思ったのだ。
「ローザさんの」
「そうさ」
あたしは玄関の上がり框に腰かけて、草履の鼻緒をすげ直した。古い指は、もう昔ほど早く動かない。
「十八年、あたしが一人で参ってきた墓だ。今年からは——あんたも参るといい」
墓は町外れの丘の上にある。
銀泉桜の老木が一本、墓地の入口に立っていた。花の季節はとうに過ぎている。今は青葉が朝日を透かして、地面にちらちらと揺れる影を落としていた。葉桜の下を、あたしとお嬢は並んで登った。
初夏の朝の坂道は、思ったより足にこたえる。だがあたしは杖を突かない。ローザ様のところへ行くときは、背筋を伸ばして行くと決めている。
「ハンナさん、ゆっくりでいいですよ」
「年寄り扱いするんじゃないよ。まだあんたより足腰は確かさ」
お嬢が、ふふ、と笑った。手には、あたしが持たせた水桶を提げている。
坂を登りきると、灰色の小さな墓石が朝の光の中に立っていた。
ベルクヴィスト家の墓だ。あたしと同じ姓。
ローザ様とあたしは遠い縁続きだった。血の繋がりはもうほとんど薄れていた。それでもあの人は、同じ姓を名乗るあたしを身内のように扱ってくれた。だからあたしは、この墓に入る。ローザ様の隣に。ずっと前から決まっている、あたしの最後の場所だ。
墓石は朝露に濡れて、しっとりと黒く沈んでいた。
あたしは膝を折って、まず古びた花を抜いた。ゆうべの雨で湿った茎が、ぬるりと指に張りつく。それを脇へ寄せて、新しい花を活ける。銀泉草の白と野薔薇の薄紅。ローザ様は派手な花よりこういう野の花を好んだ。
お嬢が桶の水を柄杓ですくって、墓石にそっとかけてくれた。
水が灰色の石をつたって流れ落ちる。乾いていた石の肌がみるみる濡れて、黒く艶を取り戻していく。まるで、生きている者の頬に色が戻るみたいに。
あたしは線香に火を点けた。
細い煙がまっすぐ立ちのぼった。それから朝の風に攫われ、横へ流れる。白檀の甘く焦げた匂いが鼻先をかすめた。
「ローザ様」
あたしは墓石に話しかけた。
「連れてきましたよ。あんたが待ってた人を。——遅くなって、すまなかったね」
風が葉桜を鳴らした。さわ、と。
返事の代わりみたいに、あたしには聴こえた。
お嬢はあたしの少し後ろで、静かに手を合わせていた。
長いことそうしていた。墓石に向かって何を語りかけているのか、あたしにはわからない。だが、お嬢の背中はいつもより小さく見えた。あの、廃墟を見て「最高の立地じゃない」と笑った娘だ。それが今は、会ったこともない人の墓の前で神妙に頭を垂れている。
やがて、お嬢が顔を上げた。
「ハンナさん。ローザさんって、どんな人だったんですか」
あたしは新しい線香に火を移しながら、少し考えた。
「……難しいことを訊くね」
「すみません。でも私、ローザさんの鍵を一年も持ち歩いて。日記も読んで。それなのに、あの人がどんな声で笑う人だったのか、知らないんです」
あたしは墓石に活けた花の角度を、指先で少し直した。
「笑い方かい」
「はい」
「……静かに笑う人だったよ。声を立てずに、口の端だけで、ふっとね。それでいて、目がいちばん先に笑う」
言いながら、あたしの胸の底にあの人の顔が浮かんだ。十八年経っても薄れない。
「叱るときは長かったけどね。掃除の角がどうの、暖簾の藍がどうの。あたしなんざ毎日叱られてたよ。だが、あの人に叱られると、不思議と悔しくなかった」
「どうして?」
「叱る前に、もうこっちの言い分を全部わかってる目をしてたからさ」
あたしは墓石の前に、ぺたりと座り込んだ。
膝が、ぎし、と鳴る。だが、もう立ち上がるつもりはなかった。今日はここで話すことがある。十八年、ずっと胸の奥に畳んでおいた話を。
「お嬢。隣にお座り」
お嬢は素直にあたしの隣へ膝を折った。令嬢のくせに、泥のつくのも構わずに。こういうところを、あたしはこの子の好いている。
「銀泉楼がいちばん栄えてた頃の話をしようか」
「聞きたいです」
「全三十室が、毎晩、灯で埋まってた。廊下を歩けば、どの部屋からも客の笑い声が漏れてくる。湯気が谷じゅうに立ちのぼって、夕暮れには銀泉楼の屋根が霧で霞んで見えたものさ。あの霧の匂いを、あたしは今でも忘れられない」
お嬢は目を細めて、谷のほうを見た。
今の銀泉楼も湯気を上げている。あの頃には及ばないが、確かに、宿は生きている。
「ローザ様はね、その三十室を、たった一人で背負ってた。仲居が二十人いたけどね、最後に責めを負うのはいつも女将だ。客が一人でも『来てよかった』と思わずに帰ったら、それは女将の責めなのさ。あの人は、そう思って生きてた」
「……重いですね」
「重いさ。だがね、お嬢」
あたしは墓石を見た。
「あの人は、それを重いと、一度も言わなかった」
風がまた葉桜を鳴らした。
線香の煙がその風に乗って、お嬢のほうへ流れていく。お嬢は煙を手で払いもせず、ただ目で追っていた。
「街道が変わって、客足が減り始めた頃のことだ」
あたしは声を落とした。
「みんな、もう駄目だと言い出した。湯の出も年々細っていく。番頭が辞め、仲居が暇を取り、一室また一室と灯が消えていった。あたしも内心は諦めかけてた。——だがね、ローザ様だけは違った」
「違った?」
「ある晩、二人で、暗い大浴場の縁に座ってた。湯がもう、ちょろちょろとしか出ない。あたしが『女将さん、もう潮時かもしれません』と言ったらね、ローザ様は湯に指を浸して、こう言ったんだよ」
あたしは目を閉じた。
あの夜の湯気の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
「『この泉はきっと、待っているのよ』——とね」
お嬢が息を呑む気配がした。
「待ってる?」
「ああ。『枯れたんじゃない。眠ってるだけ。いつか、この宿を心から愛してくれる人が来る。そのときのために、泉は力を溜めて待ってるのよ』——あたしは正直、あの人は気がふれたかと思ったよ。湯はどんどん細る一方なのに、何を待つもんかとね」
あたしは目を開けた。
「だが、お嬢。——あんたが来た」
お嬢は、何も言わなかった。
ただ、膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。指の関節が白くなるほど。
あたしはその手を見ないふりをして、続けた。
「ローザ様が亡くなる、ほんの数日前のことだ。床に臥せって、もう起き上がる力もなくてね。あたしを枕元に呼んで、痩せた手で鍵を握らせた。銀泉楼の、表玄関の鍵を」
あたしは自分の左手を、墓石にかざした。銀の指輪が朝日を弾く。
「『ハンナ。いつか、この宿を心から愛してくれる人が来る。その人にこの鍵を渡しておくれ』——それが、ローザ様の最期の言葉だった」
「……それを、十八年」
「ああ。十八年、預かってた」
あたしは、ふ、と笑った。我ながら、馬鹿な話だ。
「正直に言うとね、お嬢。あたしはもう、その人なんざ来やしないと思ってたよ。鍵だけ抱えて、霧亭の隅で婆さんになって。ローザ様すまない、あの人は来ませんでした——そう謝って、この墓に入るんだと思ってた」
ふと、墓石にかけた水に目がいった。もうすっかり乾いて、灰色に戻りかけている。その乾いた石の肌に、線香の灰がひとひら舞い落ちた。
「それが、来た。本当に、来やがった」
あたしは、お嬢のほうへ向き直った。
「お嬢。あたしは今日、あんたに女将の心得を渡しに来た」
お嬢の背筋が、すっと伸びた。
「あたしはもう七十二だ。いつローザ様の隣に行ってもおかしくない。だからまだ口が回るうちに、全部、渡しておきたいのさ」
「……はい」
「まず、掃除だ」
お嬢が少し意外そうな顔をした。心得というから、もっと大層な話が来ると思ったのだろう。
「掃除かい、と思ったろう。だがね、宿の値打ちは、客が泊まる部屋じゃ決まらない。客が見ない、廊下の角で決まるんだよ」
「角……」
「お客様はね、整った部屋には驚かない。整ってて当たり前だと思ってる。だが、ふと目を落とした廊下の角に塵ひとつないのを見たとき——ああ、この宿は見えないところまで手を抜かないんだ、とね。そこで初めて、心がほどける。安心して、靴を脱げる」
あたしは自分の手のひらを見た。長年の雑巾がけで皮の厚くなった、皺だらけの手だ。
「角を見な、お嬢。客が見ないところを、いちばん丁寧に。それが女将の仕事の、いちばん下の土台さ」
「……手帳に、書いていいですか」
あたしは、噴き出した。
「あんたって子は。墓の前でも、メモ魔かい」
お嬢はばつが悪そうに、懐から手帳を出しかけた手を止めた。
「いえ、その……忘れたくなくて」
「いいさ。書きな」
あたしは笑って手を振った。
お嬢は嬉しそうに手帳を開いて、墓前の地べたで何やら書きつけ始めた。鉛筆の先が紙の上を走る音が、かさかさと静かに鳴る。
ローザ様がこれを見たら、なんて言うかね。
——きっと、あの口の端だけの笑い方で、ふっと笑うんだろう。「面白い子を連れてきたわね、ハンナ」って。
「次は、人だ」
あたしが言うと、お嬢が顔を上げた。
「人?」
「宿は建物じゃない。あんたも、もうわかってるだろう」
お嬢はゆっくりと頷いた。手帳を持つ手が止まっている。
「——お客様が、『帰ってきた』と思える場所」
あたしは目を見開いた。
それは、あたしの口癖だ。いつかこの子に言って聞かせた言葉だ。それを、この子は自分の言葉みたいに、覚えていた。
「……覚えてたのかい」
「忘れるわけ、ないです」
あたしはしばらく、何も言えなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。線香の煙のせいで、目の縁が少し滲んだ。煙のせいだ。そういうことにしておく。
「そうさ。宿は、人が帰ってくる場所だ」
あたしは声を整えて、続けた。
「だがね、お嬢。心得の終いに、もう一つ、いちばん大事なのがある。これだけは——あたしが言うんじゃない。ローザ様の言葉だ」
お嬢の目が真剣になった。物事を見定めるときの、あの琥珀色の目だ。
あたしは墓石に向き直った。それからゆっくりと、十八年前のあの夜の声をなぞるように口にした。
「ローザ様は、湯のことをこう言ってた。——『湯は、奪うものではない。預かるものよ』」
風が、ぴたりと止んだ。
葉桜が鳴き止んで、丘の上がしんと静まった。沈黙が墓石の上に、そっと降りてくる。
お嬢はその言葉を、口の中で繰り返した。声には出さずに。唇だけがかすかに動いた。
「預かる、って」と、やがてお嬢が訊いた。「……どういう、意味でしょう」
あたしも正直、長いあいだ、その意味がよくわからなかった。
「あたしも若い頃は、わからなかったよ」
あたしは谷のほうを見た。朝靄が晴れて、銀泉楼の屋根が湯気を上げている。ここからでも見えた。
「ローザ様はね、湯を銀泉楼のものだと思ってなかった。谷のものでも女将のものでもない。——いっとき預かってるだけだ、と。地の底から湧いて、客を温めて、また地に還っていく。その途中をほんの少し、人が借りてるだけだ、と」
「借りてるだけ……」
「だから、汲み尽くしちゃならない。自分のものだと思って、根こそぎ奪っちゃならない。預かりものは、いつか返すものだからね。次に預かる者のために、そっと置いておくものなんだよ」
あたしは自分で言いながら、ふと胸を衝かれた。
——次に、預かる者のために。
そうか。ローザ様は湯のことを言いながら、本当はもっと先のことを言っていたのかもしれない。十八年前から、ずっと。
「……ローザ様は」と、あたしは声を落とした。「自分が預かったこの宿も湯も、いつか誰かに渡すつもりで生きてたんだね。だから枯れかけても、汲み尽くさなかった。待ってたんだ。預けられる、その人を」
お嬢は手帳を閉じた。
書かなかった。今度は、書かなかった。
ただその言葉を、胸の奥にまっすぐ仕舞い込むみたいに、目を伏せていた。
「ハンナさん。私、前世で——いえ」
お嬢は言い直した。
「私、ずっと、自分の宿を作るのが夢だったんです。自分の手で、自分の理想の宿を。それが叶わなかった。だからこの世界で銀泉楼を見つけて、もう夢中で。これは私の宿なんだって」
「ああ。それでいいんだよ」
「でも」と、お嬢は墓石を見た。「今、ローザさんの言葉を聞いて。——私のもの、じゃなかったんだって、思いました」
あたしは黙って、お嬢を見た。
「銀泉楼も湯も谷も。私がいっとき、預かってるだけ。次の誰かに渡すために。……そう思ったら、なんだか急に、足元が広くなった気がして」
お嬢の目に、うっすらと光るものがあった。
「私の夢、私だけのものだと思ってたのに。——なんだか、もっと大きなものの途中にいるみたいで」
あたしはしわがれた喉の奥から、ゆっくりと息を吐いた。
ローザ様。聞こえてるかい。あんたの言葉が今、ちゃんとこの子に届いたよ。
「お嬢」
あたしは左手の銀の指輪を、ゆっくりと撫でた。
「あたしはね、この鍵を渡したときから、肩の荷を半分下ろした気でいた。だが本当は、まだ下ろしきれてなかったんだ。ローザ様の言葉まで、ちゃんと渡さなきゃ——そう思って、ずっと抱えてた」
あたしは墓石に向かって、深く頭を下げた。
「ローザ様。渡しました。鍵も、心得も、あんたの言葉も。——全部この子に、渡しましたよ」
頭を下げたまま、あたしは長いこと動かなかった。
十八年だ。十八年、この丘に通って謝り続けてきた。あの人は来ませんでした、と。それが今日、ようやく違う言葉を墓前に手向けることができた。
来ました。あんたの待ってた人が、本当に来ました——と。
顔を上げると、葉桜の影が墓石の上でちらちらと揺れていた。
肩が、軽い。
二十年銀泉楼を背負い、十八年その記憶を一人で守ってきた。その重みが今朝、ようやくあたしの背中からほどけて落ちた。風に攫われて、どこかへ行ってしまった。
「さて」と、あたしは膝に手をついて立ち上がった。
「帰ろうか、お嬢。宿が待ってる」
「はい」
お嬢も立ち上がって、墓石にもう一度頭を下げた。それから、ふと思い出したように言った。
「ハンナさん。さっきの、ローザさんの言葉。——『湯は、奪うものではない。預かるもの』」
「ああ」
「あれ、なんだか……今の谷に、いちばん要る言葉な気がして」
あたしは坂を下りかけた足を止めた。
「今の谷に?」
「ええ。トビアスさんが、川の鱒が減ったって。イルゼさんが、山羊の乳が落ちたって。賑わいすぎて、谷が少し軋み始めてるんです。——みんな、谷の恵みをたくさんいただいてて」
お嬢の声が少し硬くなった。
「いただくのはいいことだと、思ってました。でも、ローザさんの言葉だと……それは、奪ってるのかもしれない」
あたしは何も言えなかった。
川のことも山羊のことも、あたしは詳しくない。ただ、お嬢の言うことがなぜか胸の底に、冷たく沈んでいった。
風が丘を渡った。
葉桜が、さわ、と鳴る。さっきまでの、返事のような優しい音じゃなかった。もっと低く、もっと長く、谷の奥のほうから何かが近づいてくるみたいな——そんな鳴り方だった。
あたしは墓石を振り返った。
乾きかけた灰色の石に、線香の煙が最後の一筋をゆらりと立てている。その煙が谷のほうへ、すうっと流れていった。まるでローザ様が谷を指さしているみたいに。
胸騒ぎ、というのとも、少し違う。
ただ、あたしの古い耳の奥で、十八年前のローザ様の声がもう一度鳴った気がした。
——湯は、預かるもの。
あのときあの人は、ただの女将の心得を言ったんじゃなかったのかもしれない。もっと大きな、谷ぜんたいの湯の話だ。あたしにはまだ名のつけられない、何か途方もないものの入口に立っていたのかもしれない。
「……ローザ様」
あたしは、小さく呟いた。
「あんた、何を見てたんだい」
返事はない。
ただ、葉桜がもう一度、低く鳴った。
あたしは、それ以上は考えなかった。考えても、わからない。あたしはただの、年老いた仲居だ。難しいことは、これからはお嬢が考える。あたしはもう、肩の荷を下ろしたのだから。
「帰ろう、お嬢」
「はい」
二人で葉桜の下を、坂を下りた。
丘の上に、ローザ様の墓だけが残された。
乾いた灰色の墓石の上で、線香の灰がひとひら、またひとひら——音もなく、こぼれ落ちていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
番外編「銀泉桜の頃」、第六回はハンナです。本編をずっと支えてくれた、あの口の悪い、誰より温かい元女将。彼女に、いつか役目を下ろさせてあげたいと、ずっと思っていました。
ハンナは、先代女将ローザの鍵を十八年も預かり続けた人です。本編EP11で、その鍵をセラに渡しました。でも、渡しきれていなかったものがまだあった。ローザの「言葉」です。鍵は物だから渡せる。けれど心得や信条は、語って相手の中に根づいて、初めて渡ったことになる。だから今回、墓前でようやくハンナは肩の荷を全部下ろせたのだと思います。
ローザとハンナが同じ姓なのは、本編からの設定です。血縁は薄いけれど、主従を超えて身内のように生きた二人。ハンナがローザの隣に眠ると決めているのも、書いていて胸が詰まりました。
そして、ローザの遺した「湯は、奪うものではない。預かるもの」。これは今の谷が向き合いはじめた問いと響き合っています。前話でトビアスとイルゼが気づいた「賑わいの代償」です。十八年前の女将は、もしかしたら、もっと先まで見ていたのかもしれません。
次は、いよいよ番外編のクライマックスへ。第七回は、あの不器用な人の番です。報告書ばかり書いてきた地脈学者が、今度こそ「完璧」を待たずに。——とだけ、匂わせておきます。
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