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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第77話: 谷がにぎわう日

 川の機嫌は音でわかる。


 わしは夜明け前の淵のほとりにしゃがんで流れの声を聴いていた。瀬の浅いところはさらさらと忙しなく喋る。岩を噛む深みは、ごぼり、ごぼりと低く唸る。その二つの声の間に、もう一つ聴き分けるべき音がある。鱒が水を裂いて餌を追う、あのぴしゃりというね音だ。


 今朝は、それが——少ない。


 水温は悪くない。指を浸せばわかる。雪解けの冷たさが抜けて、谷鱒たにますが動き出すちょうどいいぬるさだ。朝焼けの時間に鱒は上流へ向かう。三代続いた川漁師の家に生まれて、目を瞑っても知っていることだ。


 なのに、淵が静かすぎる。


 空が白み始めて、対岸の霧杉の梢に薄桃色の光が乗った。銀泉桜ぎんせんざくらは、もう散っている。花の代わりに青い葉が川面に影を落とす。その影の下を、本来なら銀色の魚影がよぎるはずなのだ。


 よぎらない。


 わしは膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。古傷が、ぎし、と鳴る。


 「……気のせいかね」


 声に出してみたが、川は答えない。気のせいで済めばいい。だが、五十年この川の声を聴いてきた耳が済まないと言っていた。




 日が昇りきる頃には、淵のほとりは子供の声でいっぱいになる。


 「じいさん先生! 来た!」


 「じいさん先生、おれの竿、糸が絡んだ!」


 わしは岩に腰を下ろしたまま片手を振った。


 「順番だ。順番。一人ずつ来い。慌てると糸はもっと絡む」


 谷の子が六人。宿場の子が二人。それに今日は、銀泉楼に泊まっている客の子供が三人。十一人もの小僧と嬢ちゃんがわしの周りで竿を握っている。多い。多すぎる。


 「先生、餌、もうなくなった」


 「川虫を獲ってこい。そこの石をひっくり返せば、いくらでもいる」


 「ひっくり返したけど、いない」


 わしは、ぴたりと動きを止めた。


 石をひっくり返せば川虫がいる。それはこの川では当たり前のことだった。当たり前すぎて、誰も疑わない。


 「……どの石を返した」


 「これと、これと、こっち。ぜんぶ」


 谷の子のひとり、八つになるカイが川辺の石を指さした。なるほど、確かに返してある。だが、虫がいない。


 わしは、よっこらせ、と腰を上げて別の石を返してやった。一匹、二匹——いる。いることはいる。だが、わしが子供の頃に返した石の下にはもっとわさわさといた。


 「いるだろう。ほら」


 「すくな!」


 「贅沢を言うな。一匹いれば、鱒は釣れる」


 言いながら、わしは胸の奥がひやりとした。




 「じいさん先生は、なんでそんなに川のこと知ってんの?」


 昼前、ひとしきり竿を出して、子供らが川辺に車座になって握り飯を食っているときだった。客の子の一人がわしを見上げて訊いた。王都から来たという、髪を綺麗に結った嬢ちゃんだ。


 「知ってるんじゃねぇ。聴いてるんだ」


 「聴く? 川を?」


 「そうだ。川は喋るからな。どこに魚がいるか、ちゃんと教えてくれる」


 「川、喋らないよ」


 「喋るさ。お前さんの耳が、まだ聴き方を知らんだけだ」


 嬢ちゃんは握り飯を頬張ったまま首を傾げた。ませた顔で、けれど目だけは子供らしく丸い。


 「どうやったら、聴けるの」


 「黙ることだ」


 「黙る?」


 「ああ。口を閉じて、じいっと、流れの音を聴く。さらさら鳴るところは浅い。ごぼごぼ鳴るところは深い。深いところに、でかいのがいる」


 嬢ちゃんは握り飯を置いて、本当に口を閉じた。耳を澄ますように首を傾げる。谷の子らも、つられて静かになった。


 川の音が、急に大きくなった気がした。


 しん、と人の声が引いた。その分だけ、瀬のささやきが、深みの唸りが、車座のただ中までせり上がってくる。沈黙が、流れの音で満ちていく。


 「……ほんとだ」と、嬢ちゃんが小さく言った。「あっち、低い音がする」


 「そうだ。そこが淵だ。筋がいいな、嬢ちゃん」


 わしは、にやりとした。教えるのは悪くねぇ。本当は、ずっとそう思っている。口には出さんが。


 ——だが、今日のわしの耳には、もう一つ聴こえていた。


 子供らが黙って聴き入った、その川の音の中に。撥ね音が、ない。深みは低く唸っているのに、その底を裂いて跳ねる鱒の音が聴こえてこない。


 淵はある。だが、淵のぬしが、いない。




 午後、わしは竿を畳んで養魚場へ寄った。


 三池のうち、復活させたのは一池だ。源泉の支流から温水を引けば冬でも稚魚が育つ。セラの嬢ちゃんが言い出した「温泉養殖」というやつだ。馬鹿馬鹿しいと笑ったが、やってみたらちゃんと育った。今は谷鱒が通年で銀泉楼の膳に上がっている。


 その池の縁にノアの先生が立っていた。


 「トビアス殿」


 「先生か。地脈計ちみゃくけいの番か」


 「ええ。水温と、流量を」


 先生は、相変わらず無駄口を叩かん男だ。だが、川と地脈の話になると妙に気が合う。水の話をする者同士というのは、言葉が少なくて済む。


 「先生。天然の鱒が、減ってる」


 わしは池の水面を見ながら言った。


 先生の手が計器の上で止まった。


 「……減っている、とは」


 「淵の撥ね音が薄い。川虫も少ねぇ。石を返しても、昔の半分も湧いてこねぇ」


 「源泉の魔力か」と、先生がすぐに言った。地脈のせいかと疑ったのだ。生真面目な男だ。


 「いや」と、わしは首を振った。「水温も、水量も、悪くねぇ。地脈の異変じゃねぇ。これは——もっと、わかりやすい話だ」


 「わかりやすい」


 「人が、獲りすぎてる」


 先生は、しばらく黙っていた。それから計器の数字に目を落としたまま低く言った。


 「釣り客が、増えた」


 「ああ。嬉しいことさ。銀泉楼が評判になって、谷に人が来る。子供らに釣りを教えて、宿の客が川で遊ぶ。みんな笑ってる。——けどな、先生」


 わしは池の縁にしゃがんで、養殖の鱒が水を裂くのを眺めた。こいつらは増える。人が育てるからだ。だが、川の鱒は違う。川が育てる。そして川は、人よりずっとゆっくりだ。


 「川の鱒は、こっちの都合じゃ増えねぇ。獲られた分が、すぐには戻らねぇんだ」




 先生は計器をしまって、わしの隣にしゃがんだ。長身の男が膝を折ると、ずいぶん背が低くなる。


 「セラに、伝えるべきか」


 「……どうかな」


 わしは顎を撫でた。


 「まだ、わしの耳がそう言ってるだけだ。数字じゃねぇ。嬢ちゃんは数字の人だ。耳の話を持っていって、信じるかね」


 「信じる」と、先生は即答した。「あいつは、数えられないものも数える。手帳に、人の言葉を書くようになった女だ」


 わしは、ちょっと笑った。先生がセラの嬢ちゃんの話をするとき、声がほんの少しだけ柔らかくなる。本人は気づいておらん。こういうのは、見ている年寄りのほうが先にわかる。


 「先生」


 「なんだ」


 「お前さんたち、いつ祝言を挙げるんだ」


 先生の手が、ぴたりと止まった。


 計器をしまいかけた指が宙で固まっている。耳の縁が、夕日のせいばかりとは思えない色に染まっていった。


 「……それは」


 「それは?」


 「今は、関係ない話だ」


 「ほう」


 わしは、それ以上は突かなかった。年寄りの楽しみは、若い者がうろたえる顔を黙って眺めることだ。先生は咳払いを一つして立ち上がった。逃げるように。


 「鱒の件は、俺からセラに話す」


 「頼む。耳の話だと、ちゃんと言ってくれ。地脈じゃねぇとな」


 「わかった」


 先生は養魚場を出ていった。その背中を見送りながら、わしは池の水面に目を戻した。


 養殖の鱒は、今日も元気に跳ねている。けれど、その向こうの、塀の外を流れる本物の川は——朝と同じように静かだった。




 同じ頃、丘の上のチーズ工房で、あたしは汗だくになっていた。


 「イルゼさーん! こっちの分、まだ?」


 「待ってて! 今、型から外すから!」


 あたしは布巾で額を拭って、また木型に向き直った。母さんのモールド。木でできた、丸い、小さな型。これに固めた乳を流し、布で漉し、重しを乗せて一晩寝かせる。そうしてできた白いチーズを、今こうして次から次へと外している。


 飛ぶように、売れる。


 売れすぎて、手が回らない。


 工房の前には、銀泉楼の客が列を作っている。チーズ作り体験を申し込んだ人、できあがったフロマージュを買いに来た人、ただ霧山羊きりやぎを見に来た人。みんな目を輝かせて、あたしのチーズを「美味しい」と言ってくれる。


 指先が塩で荒れて、ひりひりする。


 それでも、あたしは——嬉しかった。


 型から外したチーズの、つるりとした白い肌。指で触れると、ほんのり温かい。乳の中に、まだ山羊の体温が残っているような気がする。鼻を近づけると、ふわりと花の匂いがした。霧山羊の乳には、谷の花の香りが溶けている。母さんが「うちの乳は、花の味がするんだよ」と言っていた、あの香りだ。


 「お母さん」と、あたしは小さく呟いた。


 あたし、まだ覚えてたよ。あんたの型で、ちゃんとできてる。




 「イルゼさん、これ、ほんとに美味しいわ。王都でも食べたことない味」


 体験に来た貴婦人が、できたてのフロマージュを一口かじって目を丸くした。


 「あら、嬉しい。たくさん召し上がってね」


 「これ、どうやって作るの? お塩は? 寝かせる日数は?」


 「お塩はね、乳の重さの二分くらい。あんまり入れると、山羊の風味が消えちゃうのよ。寝かせるのは、フレッシュなら一晩。熟成させるなら、半月から——」


 しゃべりだすと、止まらない。あたしの悪い癖だ。チーズの話をしているときだけ、あたしは弱気じゃなくなる。母さんから叩き込まれた手順が、するすると口から出てくる。


 貴婦人は、感心したように頷いていた。


 「あなた、すごい職人さんなのね」


 「職人だなんて。ただの、母さんの真似っこよ」


 「ご謙遜を」


 あたしは笑って、新しいチーズを布で包んだ。よし、と小さく自分に言い聞かせて、次の客のほうへ向き直る。列は、まだ続いている。


 幸せだった。ほんとうに。


 諦めていた牧場が、こうして人で賑わうなんて。母さんの型が、飾り物じゃなくてちゃんと使われているなんて。


 ——だから、最初は気づかなかったのだ。丘の山羊たちが、いつもと様子が違うことに。




 夕方、客がはけて、あたしは搾乳のために放牧地へ上がった。


 桶を提げて、いつもの呼び方で呼ぶ。母さんから教わった、山羊を呼ぶ低い声。


 「おーい、おいで。おいで」


 いつもなら、銀灰色の山羊たちがめえめえ鳴きながら寄ってくる。あたしの手から塩を舐めて、おとなしく乳を出させてくれる。


 今日は——来ない。


 丘の向こうで、何頭かが固まってこちらを警戒するように立っている。耳をぴんと立てて、落ち着かない。一頭が神経質に前足で地面を掻いた。


 「どうしたの。あんたたち」


 あたしは桶を置いて、丘を登った。そして——足を止めた。


 放牧地が、踏み荒らされていた。


 柔らかかった草があちこち踏みつぶされて、土が剥き出しになっている。山羊が食む草のいちばん良い場所が、人の靴跡で潰されていた。昼間、ここまで山羊を見に上がってきた客たちの足跡だ。誰も悪気はない。可愛い山羊を、間近で見たかっただけ。


 でも、山羊は——知らない人間に囲まれていたのだ。一日じゅう。


 あたしは、いちばん年寄りの雌山羊に近づいて、そっと脇腹に触れた。乳の張りが、いつもよりずっと少ない。


 「……出てない」


 声が、自分でも驚くほど固かった。


 搾ってみても、桶を打つ乳の音が細い。いつもの、しゃっ、しゃっという小気味のいい音じゃない。途切れがちな、頼りない音だ。


 山羊は、繊細な生き物だ。落ち着かないと乳を出さない。それを、あたしはいちばんよく知っているはずだった。母さんに、何度も教わったのだから。




 「セラちゃん」


 その夜、あたしは銀泉楼の帳場にセラちゃんを訪ねた。


 セラちゃんは手帳を開いて、何か書きつけていたところだった。あたしを見ると、笑って手帳を閉じた。


 「イルゼさん。どうしたの、こんな時間に」


 「あのね……ちょっと、相談が」


 あたしは、言いよどんだ。言うべきか、迷った。だって、こんなに嬉しいことなのに。チーズが売れて、谷が賑わって、みんなが喜んでいるのに。その真ん中で、あたし一人が「困った」なんて言うのは、わがままな気がして。


 「お乳の出が、落ちたの」と、あたしは結局、言った。「山羊の」


 セラちゃんの顔から、笑みが引いた。すっと、目が鋭くなる。物事を見定めるときの、あの目だ。


 「いつから?」


 「ここ、何日か。放牧地が、踏み荒らされてて。お客さんが、山羊を見に上がってくるから……山羊が、落ち着かないみたいで」


 「踏み荒らされてる」と、セラちゃんは繰り返した。手帳を、また開く。


 「あのね、セラちゃん。お客さんを責めてるんじゃないのよ。みんな山羊が好きで、見たくて上がってくるだけで……あたし、それが嬉しくないわけじゃないの。ただ……」


 「ただ、山羊が困ってる」


 「……そう」


 あたしは、俯いた。


 「嬉しいことなのに。こんな、嬉しいことなのに……なんで、あたし、困ってるんだろうって」


 セラちゃんは、しばらく黙っていた。それから手帳に何か書きつけて、顔を上げた。


 「イルゼさん。それ、わがままじゃないわ」


 「でも」


 「困ってることは、ちゃんと困ってるって言っていいの。嬉しいことの隣で困るのは、おかしくない」


 あたしは、視界が滲んだ。笑いながら、はなをすすった。あたしは、泣くとき、いつも笑ってしまう。母さんの前でも、そうだった。


 「……ありがとう、セラちゃん」




 帰り道、あたしは丘へ寄って、もう一度、山羊たちを見た。


 夜の放牧地は、しんと静まっている。山羊たちは、踏み荒らされていない丘の奥のほうに身を寄せ合って眠っていた。月の光が、銀灰色の背中をぼんやりと白く照らしている。


 あたしは、柵にもたれて、その寝姿を眺めた。


 昔、母さんと二人で、よくこうして山羊を見た。母さんは「この子たちは、贅沢なんだよ」と言った。「いい草と、静かな場所と、知った顔の人間。それが揃わないと、いい乳は出さない。手間のかかる子たちさ」と。笑いながら、けれど誇らしそうに。


 手間のかかる子たち。


 あたしは、母さんのその言葉を、今になって噛みしめていた。


 賑わいは、ありがたい。人が来てくれるのは、夢みたいなことだ。でも——この子たちは、賑わいを知らない。この子たちが知っているのは、静かな草と、知った手のひらの、塩の味だけ。


 「ごめんね」と、あたしは小さく言った。


 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。山羊にか、母さんにか。それとも、嬉しさの底で「困った」と感じてしまった、あたし自身にか。


 月が、丘の上でゆっくりと傾いていった。




 その夜更け。


 わしは銀泉楼の縁側に座って、暗い谷を見ていた。


 昼間、先生にセラへ話を通してもらった。明日にでも、嬢ちゃんが川に来るだろう。耳の話を、ちゃんと聞いてくれるはずだ。先生が、そう言った。


 「夜分に、すまんね、トビアスさん」


 声がして振り向くと、嬢ちゃん——セラが、湯上がりの顔で立っていた。手に、湯気の立つ茶を二つ持っている。


 「眠れんのか、嬢ちゃん」


 「イルゼさんから、相談を受けて。それで、頭が冴えちゃって」


 セラはわしの隣に腰を下ろした。茶を一つ、わしに渡してくれる。温かい。指先が、ふたつぶん、ほぐれていく。


 「山羊の話か」


 「ええ。放牧地が荒れて、乳の出が落ちたって」


 「……川も、だ」


 わしは茶をすすった。


 「鱒が減ってる。獲りすぎだ。先生から、聞いたろう」


 「聞いた。耳の話だって」


 「ああ。数字には、まだ出てねぇ。けど、わしの耳には、もう聴こえてる」


 セラは茶碗を両手で包んで、しばらく谷を見ていた。月のない夜の谷は、川の音だけが低く流れている。


 「トビアスさん。私、嬉しかったの。谷に人が来て、みんなが笑って。これが、私のやりたかったことだって。——でも」


 「でも、川と山羊は、笑ってねぇ」


 セラの肩が、わずかに落ちた。


 わしは茶碗を縁側に置いて、暗い谷のほうを顎でしゃくった。


 「嬢ちゃん。この谷ってのはな、よく出来てる」


 「よく出来てる?」


 「ああ。川が鱒を育て、鱒が客を呼び、客が金を落とし、その金で人が暮らす。山羊が草を食み、草が乳を作り、乳がチーズになって、また客が来る。湯が湧いて、人が浸かって、また湯を使う。——ぜんぶ、繋がって、回ってる。よく出来た仕組みだ」


 「……うん」


 「だがな」


 わしは、川の音に耳を澄ました。


 瀬の囁き。深みの唸り。そして、聴こえない撥ね音。


 「よく出来てるが——無限じゃねぇ」


 セラが、わしを見た。


 「川は、獲られた分を、すぐには返さねぇ。草は、踏まれた分を、すぐには生やさねぇ。湯だって、汲んだ分を、すぐには湧かせねぇ。みんな、人より、ずっとゆっくりなんだ。——回ってるように見えて、ほんとは、少しずつ、すり減ってる」


 谷は、答えない。ただ、川が低く流れているだけだ。


 セラは茶碗を握りしめて、長いこと何も言わなかった。その沈黙が、二人の間に、静かに積もっていった。


 やがて嬢ちゃんは、湯上がりの膝の上に手帳を広げた。数字ではなく、人の言葉と、川と山羊のことを書きつける、あの手帳を。月明かりもないのに、書こうとして、書けずに、また閉じた。


 「……考えなきゃ、いけないことが、できたみたい」と、嬢ちゃんは言った。


 「ああ。だが、今夜じゃねぇ」


 わしは立ち上がった。膝が、ぎし、と鳴る。


 「今夜は寝ろ、嬢ちゃん。川も山羊も、一晩で涸れやしねぇ。まだ、間に合う。間に合ううちに、気づいたんだ。それでいい」


 わしは釣り竿を一本、縁側から取り上げた。今日、子供らに使わせて戻ってきた竿だ。穂先に、まだ細い糸がついている。


 明日も、子供らは「じいさん先生」と呼んで川に来るだろう。教えてやらにゃならん。魚の釣り方だけじゃねぇ。川の声の、聴き方を。そして——獲りすぎちゃならん、ってことを。


 縁側の隅に、その竿を立てかけた。


 穂先の糸が、夜風にかすかに揺れている。月のない谷の闇のなかで、その細い糸だけが、ほの白く——揺れていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


番外編「銀泉桜の頃」、第五回はトビアスとイルゼです。本編で谷の漁業と畜産を蘇らせた二人を、いつか「賑わいの真ん中」に立たせてやりたいと思っていました。


ずっと、この二人には幸せな日常を書いてあげたかったんです。「じいさん先生」と慕われるトビアス。母の型で作るチーズが飛ぶように売れるイルゼ。諦めていた夢が、人で賑わう——それは、本編であれだけ頑張った二人への、ささやかなご褒美のつもりでした。


でも、書いているうちに、谷が少しだけ、きしみ始めました。釣り客が増えて鱒が減り、山羊を見たい人が放牧地を踏み、乳の出が落ちる。誰も悪くないんです。みんな、谷が好きで、山羊が可愛くて、川で遊びたいだけ。なのに、好かれすぎたものが、少しずつ、すり減っていく。


トビアスの「よく出来てるが、無限じゃねぇ」という一言は、この谷がこれから向き合う、大きな問いの入口です。成功には、代償がある。それでも、間に合ううちに気づけたなら——きっと、まだ、大丈夫。そう信じて、二人に立っていてもらいました。


次は、いよいよ二代の女将。ハンナがローザの墓前で、セラに女将の心得を継ぐ話を。


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