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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第62話: 包囲網——四本の矢を、一つの弓に

 四つの証拠が揃った——包囲する。


 手帳を開いた。新しいページに、大きく書いた。


 『対ヴィクトール最終戦略——包囲網』


 ペンを走らせる指先が震えている。たかぶりだ。恐怖ではない。前世でコンサルタントをしていた頃、大型案件の前夜に感じていたのと同じ、全てのピースが揃いつつあるときの、あの感覚。


 執務室のテーブルには証拠が並んでいる。ディートリヒさんの書簡の束。ノアの地脈データ。マリカさんがまとめた翡翠殿の内部資料。そしてローザさんの日記。


 四つの矢を、一つの弓につがえる。




 昼過ぎ。声をかけて回った全員が、執務室に集まった。


 最初に来たのはノアだった。帳場で地脈計測器の校正をしていた手を止め、テーブルの上の書類を一瞥すると、窓際に寄りかかって腕を組んだ。何も言わない。ただ、深い緑の瞳がじっと書類の束を見下ろしている。手帳が外套のポケットから半分覗いている。論文の構成でも考えていたのだろう。


 次にマリカさんが入ってきた。仲居の仕事着のまま、帳場から直行してきたらしい。ノアに軽く会釈し、椅子に背筋を伸ばして座った。手を膝の上で組む。その所作が美しい。翡翠殿で磨かれた人は、座るだけで空気が変わる。濃紺の目が、テーブルの証拠類を静かに見つめている。


 ディートリヒさんが最後の椅子を引いた。昨日とは別人のような顔をしている。目の下の隈は消えていないが、目つきが違う。鎖を断ち切った人の目だ。ただ、椅子に腰を下ろすとき、セラたちとの距離をわずかに測るような仕草が見えた。十年間、この席の反対側に座っていた人だ。昨日まで敵だった。その緊張は、当然だった。


 ハンナさんがお茶を人数分、お盆に載せて入ってきた。銀泉草の香りが部屋にふわりと広がる。湯呑みを一つずつ丁寧にテーブルに置き、ディートリヒさんの前にも、迷いなく置いた。自分も端の椅子に腰を下ろす。


 ディートリヒさんが湯呑みを見て、一瞬だけ目を細めた。


 「揃いましたね」


 私は立ったまま、テーブルの上の書類を見渡した。


 前世で二百軒の旅館を分析してきた。経営危機、不正会計、訴訟案件、いくつもの修羅場を潜り抜けた。だがこれほど完璧に証拠が揃った布陣は初めてだ。手帳を握る指に力がこもる。


 「ここにあるのは、二十年間この町を蝕んできた不正の証拠です。一つずつ整理させてください」


 まず、ディートリヒさんの書簡の束に手を置いた。


 「第一の矢。ディートリヒさんが十年間保管してきた指示書と命令書。侯爵家の封蝋と署名入りの原本です」


 分厚い紙束の重みが掌に伝わる。十年分の命令が、この中に詰まっている。


 「街道ルート変更の工作、税務査定の不正操作、領地再査定の捏造、そして——地脈操作の維持装置に関する直接の命令」


 ノアが窓際から一歩踏み出し、低い声で補足した。


 「法的証拠能力は極めて高い。最新の命令書には『手段は問わない』と書かれている。地脈導管術——王国法第十二章『地脈保全令』で明確に禁じられた禁術の使用を、侯爵自らが命じた証拠だ」


 ノアがセラとアイコンタクトを交わしてから、ディートリヒさんに目を移した。


 「十年間、これを保管し続けていた。並の覚悟じゃない」


 ディートリヒさんが目を伏せた。右手の指が、膝の上で微かに握り込まれている。


 「命令書は全て原本です。封蝋も残っています。……十年間、一通も処分できなかった」


 その命令を受け取っていたのは自分だ、そう言いたげな沈黙が続いた。けれど、握り込んだ拳を、ゆっくりと開いた。もう隠さない、という意志だと思った。


 次に、ノアの手帳の横に積まれたデータの束。


 「第二の矢。ノアの学術データ。地脈操作の魔法陣の分析結果、維持装置の構造記録、地脈流量の経年変化——二年間の実測値」


 噛み砕いて言い直した。温泉のお湯の流れを地図にしたようなものだ。どこで、誰が、お湯を盗んでいたかが一目でわかる。


 「学術的に地脈操作が『自然現象ではない』ことを証明できる」


 「碧泉宮の泉質データも取ってある」ノアが付け加えた。データの束の一枚を引き出す。指先に迷いがない。「碧泉宮の温泉の魔力パターンと、ミストヴァレーから抜かれた地脈の魔力パターンが一致する。つまり——碧泉宮の『奇跡の湯』は、この谷から盗まれた魔力でできている」


 マリカさんの指が膝の上で微かに動いた。碧泉宮の正体を、誰よりも近くで見てきた人だ。あの湯に浸かる貴族たちの笑顔が、この谷の犠牲の上に成り立っていたことを——今、改めて噛み締めている顔だった。


 マリカさんの資料に手を伸ばした。


 「第三の矢。マリカさんの翡翠殿情報。支配人を通じた貴族の弱み収集、碧泉宮への資金の流れ、情報操作の実態——侯爵がどうやって政治的な力を維持してきたか、その仕組みの全体像を示せます」


 ここで補足した。翡翠殿が単なる高級旅館ではなく、侯爵の情報収集拠点だったことの意味を。


 「翡翠殿の客層は王国の上級貴族です。碧泉宮で保養する客の取引情報、政治的な弱み、家族関係——それを把握している人間が証言すれば、侯爵の政治基盤そのものが揺らぐ」


 マリカさんが小さく頷いた。表情は硬いが、目に迷いはない。あの翡翠殿で過ごした十一年間が、今は武器になる。


 最後に、ローザさんの日記を手に取った。使い込まれた革の表紙が温かい。


 「第四の矢。ローザさんの日記。二十年前に見慣れない術師が地下に出入りしていた記録。源泉の弱体化との時系列の一致。——これで、不正が二十年前にまで遡ることを立証できます」


 テーブルの上を見渡した。四つの証拠の束が、冬の日差しの中に並んでいる。


 「正面からでは侯爵に勝てない」


 私は言った。


 「政治力も資金力も、格が違います。十年前にディートリヒさんを嵌めたように、証人を潰すことも、証拠を封じることもできる人です」


 ディートリヒさんが微かに顔を歪めた。身をもって知っている人の反応だった。ハンナさんがお茶の湯気越しにディートリヒさんを見て、小さく頷いた。あんたの痛みはわかるよ、と言うような頷きだった。


 「——だから、包囲する」


 前世で何度もクライアントに使った言い方を借りた。


 「矢が一本なら折られる。でも四本束ねれば折れない。四方から同時に射れば、どこから先に防いでいいかわからなくなる。逃げ場を塞ぎます」


 手帳に書き出しながら、作戦を伝えた。


 「ノアは学術都市エルデンハイムの地脈学会に論文を提出する。学術的な裏付けを固めて。学会が『人為的な操作だ』と公式に認めれば、法廷での証拠能力が格段に上がる」


 ノアが頷いた。「論文は仕上がっている。あとは提出するだけだ」


 「マリカさんは王都で翡翠殿の支配人——ゲルハルトさんに接触してください。金の流れを知っている人を証人に引き込めれば、侯爵の懐を丸裸にできます」


 マリカさんの目が一瞬揺れた。でも、すぐに戻った。


 「エミールさんには辺境総督府に陳情書を提出してもらいます。行政が動けば、侯爵も無視できない」


 「そして私は、法的な訴訟準備を進める」


 全員を見た。一人ずつ目を合わせた。


 「学会と総督府と法廷が同時に動く。三方から火が上がれば、どれか一つを消しても残り二つが燃え広がる。侯爵閣下が個別に潰す暇はない」


 ディートリヒさんが口を開いた。声は事務的なのに、どこか熱を帯びている。


 「侯爵閣下の最大の弱点は——合法の仮面です」


 全員の視線がディートリヒさんに集まった。


 「十年間、全てを『正当な手続き』で行ってきました。書類上は何一つ逸脱していない。街道ルートの変更も、税務査定の引き上げも、領地再査定の提案も——形式的には合法です。それが侯爵閣下の流儀であり、侯爵閣下を守ってきた鎧でもある」


 ディートリヒさんの声は淡々としていた。十年間、その仮面を内側から見続けてきた人の分析だった。けれど、その淡々さの奥に、私には聞こえた。十年間自分もその仮面を被らされてきた男の、押し殺した怒り。


 「しかし仮面が剥がれれば、味方は一斉に離れます。侯爵閣下の周囲にいる貴族たちは利害で繋がっているだけだ。碧泉宮の利権がなくなれば、あの方を守る理由もなくなる」


 「なぜ——仮面が機能し続けたのでしょう」


 私は問いかけた。


 ディートリヒさんが一瞬、息を詰めた。それから、静かに答えた。


 「地脈保全令は明確に禁術を禁じています。しかし、取り締まりの仕組みが追いついていない。地脈操作の痕跡を検出できる学者は王国に数えるほどしかいない。侯爵閣下はそれを知っていた。術師への報酬も街道工作の賄賂も、全て翡翠殿の会計に紛れ込ませている。表の帳簿は完璧です。——私が十年間、そう仕立ててきたのですから」


 ノアが腕を組み直した。「つまり、禁術の認定は法律上存在しても、証拠を揃えられる人間がいなかった。だから合法の仮面が剥がれなかった」


 「そういうことです」ディートリヒさんが頷いた。「しかし今は——ノアさんの学術データがある。地脈学会の公式見解が出れば、禁術認定の空白を埋められる」


 ハンナさんがお茶をすすった。灰色の目が鋭くなっている。


 「特に」とディートリヒさんは続けた。「地脈操作は王国法で禁じられている。単なる政治工作や経済的な不正とは次元が違う。禁術の使用が立証されれば——侯爵位の剥奪も有り得ます」


 部屋が静かになった。重い言葉だった。侯爵位の剥奪。一つの大貴族家の終焉。


 ノアが窓の外に目を向けた。源泉の湯気が薄く立ち昇っている。この町の二十年間の痛みが、そこに映っている。


 「……大丈夫ですか、ハイネ殿」


 訊いた。ディートリヒさんがこの戦いに身を投じるということは、ヴィクトール卿を完全に敵に回すということだ。昨日までの主を、法廷で告発する側に立つ。


 「はい」


 短い答えだった。けれど、震えていなかった。薄い灰色の瞳に、覚悟の色があった。十年間積もった氷を、一つずつ溶かしていくような、静かで確かな熱。




 作戦の細部を詰めた後、ノアとディートリヒさんとハンナさんが席を立った。


 ノアは帳場で出発準備を始めると言い、ディートリヒさんは証拠書類の時系列整理に取りかかると言った。ハンナさんは「夕飯の支度があるからね」と湯呑みを集めて出ていった。


 マリカさんだけが残った。二人きりになった。マリカさんがお茶の湯気を見つめている。


 「マリカさん」


 「……はい」


 「ゲルハルトさんのこと、もう少し聞かせてもらえますか」


 マリカさんの指がカップの縁をなぞった。


 「ゲルハルト・ヴェーバー。翡翠殿の支配人です。侯爵閣下の片腕として——情報収集の実務を取り仕切ってきた人」


 「完全な悪人……ではない、と以前おっしゃっていましたね」


 「ええ」


 マリカさんの目が遠くなった。


 「私が翡翠殿を辞めた日のことを、今でも覚えています。裏口から出ようとしたら——ゲルハルトさんが立っていた」


 声が少し低くなった。


 「普段は感情を見せない人です。支配人として完璧な仮面を被っている。でもあの日は——目が、赤かった」


 マリカさんがお茶を一口飲んだ。手がわずかに震えていた。


 「『逃げられるなら、逃げろ。俺はもう逃げられない』——そう言いました。背中を向けて、厨房に戻っていった。追いかけては来なかった」


 私は黙って聞いていた。ディートリヒさんと同じだ。侯爵の鎖に繋がれた人が、もう一人いる。


 「あの人も、嵌められたんだと思います。ディートリヒさんと同じように。侯爵閣下に弱みを握られて、逃げ場をなくして。でもゲルハルトさんは——翡翠殿を守ることで、そこで働く人たちを守っていた。矛盾した人です」


 「……あなたは、恨んでいますか」


 マリカさんが首を振った。


 「恨んではいません。あの人が情報収集に私を使ったのは事実です。けれど、接客の技術を教えてくれたのも、あの人です。私が花形になれたのは、ゲルハルトさんの指導があったから」


 マリカさんが顔を上げた。いつもの冷静な表情。でも、その奥に、決意の光があった。


 「翡翠殿の支配人は、碧泉宮の資金の流れを全て把握しています。地脈操作の術師への報酬、街道ルート変更の賄賂、政治工作の費用——金の流れは、嘘をつけません」


 「あの人が証言してくれれば——」


 「包囲網の最後の一角が埋まります」


 マリカさんが立ち上がった。椅子を引く所作が、迷いなく美しかった。


 「あの人に、もう一度会います」


 「……怖くないですか」


 問いかけた。王都に戻るということは、マリカさんにとって二年前に逃げ出した場所に戻るということだ。


 マリカさんが微笑んだ。翡翠殿で磨いた完璧な笑顔ではない。不格好で、だからこそ本物の笑顔だった。


 「怖いです」


 マリカさんが一度、目を伏せた。それからまっすぐ顔を上げた。


 「でも——あの人が最後に言った言葉を、二年間ずっと抱えてきました。『俺はもう逃げられない』と。あの言葉を、嘘にしたいんです」


 「……嘘に?」


 「逃げられない、なんて嘘だって証明したい。今度は、逃げるためじゃなく」


 私を見た。濃紺の目に涙はない。ただ、揺るがない光がある。


 「逃がすために、行きます。あの人を——侯爵閣下の鎖から」




 夜。宿泊客が寝静まった頃。


 帳場で翌日の準備をしていると、ハンナさんがお盆に湯呑みを二つ載せてやってきた。銀泉草の香りがする温かいお茶。


 「お嬢。一服しな」


 「ありがとうございます、ハンナさん」


 帳場の隅に並んで腰を下ろした。源泉から立ち上る湯気が窓の向こうに見える。冬の夜だった。


 ハンナさんがお茶をすすり、少し間を置いてから言った。


 「ローザ様の日記——最後のページ、読んだかい」


 「ええ。『地下に見慣れぬ者たちが来た。何かが変わろうとしている』。あの記述で、二十年前の術師の出入りを証明できます」


 「その次のページだよ」


 「……次の?」


 ハンナさんがエプロンのポケットから、日記を取り出した。いつから持ち歩いていたのだろう。使い込まれた革の表紙が、ハンナさんの手の中で温かそうに見えた。


 「あたしも、今朝まで気づかなかった。ページがくっついてたんだよ。湿気でね。今朝、お茶をこぼしかけて——それで剥がれた」


 日記を開いて、私に渡した。最後のページの、さらに裏。隠れていたもう一枚。


 ローザさんの文字は震えていた。体調がもう悪かったのだろう。それでも、一文字一文字を刻むように書いてある。


 『この宿は、大地の恵みで成り立っている』


 『源泉が弱まっている。地下で何が起きているのか——私にはわからない』


 『けれど、わかることがある。この恵みを奪う者がいるということ』


 『その恵みを奪う者がいるなら——戦わなければ』


 『私にはもう、時間がない。この宿を守れる人が、いつか来てくれることを——信じるしかない』


 日記から顔を上げられなかった。


 視界が滲んだ。


 「ローザさんも……戦おうとしていたんですね」


 声が掠れた。日記の文字が涙で歪む。ローザさんは知っていた。源泉が人為的に奪われていることに気づいていた。けれど、体が動かなかった。一人では何もできなかった。


 ローザさんが源泉の異変に気づいたのは二十年前。ヴィクトール卿がディートリヒさんを取り込んだのは、その二年後だ。ローザさんが亡くなったのを見届けてから、侯爵は次の駒を手に入れた。声を上げる人間がいなくなった谷で、支配の網を完成させた。


 二十年前のローザさんの気づきと、十年前のディートリヒさんの陥落。その時系列が、私の中で一つの線になった。


 ハンナさんが隣で、静かに言った。


 「間に合わなかっただけさ」


 お茶を一口。灰色の目が、窓の外の湯気を見つめている。


 「ローザ様は戦えなかった。体がもたなかった。でもあの人は信じてた——いつか、この宿を守れる人が来るって」


 ハンナさんが私を見た。灰色の目が、穏やかだった。二十年間、この町を見守り続けた人の目だ。


 「お嬢。あんたは——間に合う」


 日記を胸に抱いた。ローザさんの想いが、革の表紙越しに伝わってくる気がした。二十年前に戦えなかった女将の無念。二十年間この町を見守り続けたハンナさんの忍耐。そして——今、この手の中にある四つの証拠。


 「……間に合わせます。絶対に」


 ハンナさんが小さく笑った。


 「大風呂敷は相変わらずだね。でも、あんたの大風呂敷は、いつもちゃんと広がるから」




 深夜。執務室に戻り、手帳に向かった。


 明日の行動計画を書き出す。


 『ノア → 学術都市エルデンハイム。地脈学会に論文を提出。学術的裏付けを固める』

 『マリカ → 王都グランシュタット。翡翠殿の支配人ゲルハルトに接触。証人として引き込む』

 『エミール → 辺境総督府に陳情書提出。行政からの圧力を作る』

 『ディートリヒ → 法廷証言の準備。十年分の証拠書類を時系列に整理』

 『私 → 訴訟準備。法的な攻撃手順を組み立てる』


 銀泉楼はハンナさんとユーディットさんとリュカとガルドさんに任せる。


 ——全ての矢が揃ったとき、一斉に放つ。


 ペンが止まった。窓の外を見た。冬の夜空に星が瞬いている。源泉の湯気が谷をうっすらと包んでいる。


 この町を守るために、明日、王都に発つ。


 手帳の端に、小さく書き足した。


 『ローザさん。あなたの戦いを、引き継ぎます』


 その下に。


 『明日、王都に発つ。——全員で、勝ちに行く』




 翌朝。玄関で旅支度を整えていると、ノアが隣に来た。


 「セラ」


 「ん?」


 「俺はエルデンハイムに直接向かう。学会には論文だけじゃなく、維持装置の実物データも持っていく。検証チームの派遣を要請するつもりだ」


 「……ノア。気をつけてね」


 「お前こそ」


 ノアが目を逸らした。耳がわずかに赤い。


 「王都では——無茶するなよ」


 「私が?」


 「お前以外に誰がするんだ」


 笑ってしまった。ノアが不機嫌そうに、でも口元だけ柔らかくして、外套の襟を直した。


 「法廷で待ち合わせだ。俺は——データで戦う」


 「うん。——ありがとう」


 ノアが頷いて、先に出ていった。学術都市への馬車は早朝に出る。


 その背中を見送ってから、マリカさんの方を向いた。


 マリカさんが旅装束のまま、玄関に立っている。黒髪を低い位置でまとめ、地味な外套を羽織っている。けれど、背筋が伸びている。所作の一つ一つが美しい。王都の高級旅館で磨かれた人の立ち姿だった。


 「マリカさん。準備はいいですか」


 「はい」


 マリカさんが私を見た。濃紺の目に、静かな覚悟があった。


 「セラさん。私が銀泉楼に来た日のことを覚えていますか」


 「ええ。霧亭でハンナさんを手伝っていた——」


 「逃げてきたんです。翡翠殿から、王都から、自分の過去から。ここなら誰にも見つからないと思って」


 マリカさんが微笑んだ。


 「でも——見つかりました。セラさんに。この宿に」


 「マリカさん……」


 「今度は、逃げません。——行きましょう」


 玄関を出た。冬の朝の空気が頬を刺した。


 振り返ると、ハンナさんが帳場から私たちを見ていた。白髪を後ろでまとめ、割烹着の袖をまくっている。いつもの姿。


 「お嬢」


 ハンナさんが言った。


 「勝ってきな」



最後まで読んでいただきありがとうございました。


今回は作戦会議の回ですが、書いていて一番心に残ったのは、戦略の話ではなくて——マリカの「逃がすために行く」という一言でした。


翡翠殿を辞めたマリカが、支配人ゲルハルトの「逃げられるなら、逃げろ」という言葉を長く胸に抱えていた。あの日逃げた自分が、今度は「逃がす側」になって戻る。同じ場所に、違う意味で帰る。この物語の登場人物たちは、みんなどこかで「戻る」ことをしているんだな、と書きながら気づかされました。


もう一つ。ローザの日記の、湿気でくっついていた隠れたページ。地味な仕掛けですが、ローザが源泉の異変に気づいた時期と、ヴィクトールがディートリヒを取り込んだ時期——その間の二年の沈黙に、侯爵の周到さがにじんでいます。ハンナさんの「間に合わなかっただけさ」は、彼女自身にも向けた言葉だと思います。


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