第61話: 十年の鎖——ディートリヒの決断
町を殺せ——ヴィクトール卿の書簡には、そう書いてあった。
封蝋を割った指先が、読み進めるうちに震え始めた。
宿の小さな机の上に、書簡を広げた。
宿泊先は街道沿いの古い旅籠だ。ミストヴァレーに来るたび使っている部屋。壁が薄く、隣室の客の寝息まで聞こえる。十年間、ここを定宿にしてきた。ヴィクトール卿の書簡を読むには、誰にも見られない場所が必要だったから。
蝋燭の灯りの下、羊皮紙の文字を追う。
『碧泉宮の泉質低下が看過できない水準に達している。東脈の維持装置を増強せよ。必要な工作員は手配する。期限は一ヶ月。手段は問わない』
——手段は問わない。
この一行が意味するものを、俺は知っている。
東脈のアンカーを増強する。それは地脈からの吸い上げを強化するということだ。実行すれば、銀泉楼の源泉は再び枯れる。棚田の地下水脈まで干上がる。農業も漁業も壊滅する。
——町が死ぬ。
命令の文面の裏に、いつもと違うものが透けている。焦り。侯爵閣下は焦っている。三本の地脈のうち、碧泉宮を支える北脈のアンカーが壊されたことに気づいたのだ。「奇跡の湯」が、ただのぬるい湯に戻りつつある。あの方にとって碧泉宮は利権の心臓部だ。貴族を招き、弱みを握り、政治工作の道具にしてきた場所。
それが脅かされている。だから、何でもする。その「何でも」に、俺が使われる。
書簡を置いた。指先が震えている。
窓の外を見た。まだ夜明け前だった。暗い空の東端がうっすらと白んでいる。
十年前の秋のことを、思い出す。
あの頃の俺は王国商務省の下級官僚だった。辺境を巡回し、帳簿を確認し、税務の不正がないか調べる。地味な仕事だったが、嫌いではなかった。規則通りに動けば町の経済がちゃんと回る。それが俺の誇りだった。
三十二歳の秋。巡回を終えて王都に戻った俺を、上官が呼び出した。
「ディートリヒ君。アシュフォード侯爵閣下がお会いになりたいそうだ」
侯爵邸の書斎に通された。
「座りたまえ」
ヴィクトール卿は穏やかに微笑んでいた。四十代半ばの痩身に白髪交じりの頭。目だけが笑っていなかった。
「君の巡回報告書を読んだ。丁寧な仕事だ。特に、この辺境の税収記録の分析は素晴らしい」
褒められている。だが、背筋が冷えた。あの報告書は商務省の内部文書だ。
「ところで。君の口座に、見慣れない入金があるようだが」
息が止まった。
「十五万銀貨。出所不明の振り込みが三件。これは、私が調べたものではないよ。たまたま、経理担当から耳に入ったのだが」
身に覚えがなかった。横領など、したことがない。
「誤解です」
「もちろん、私はそう信じているよ。だが、会計監査が入れば、証拠が証拠として見えてしまう」
一枚の紙を机に置いた。俺の口座の入出金明細。三件の不審な入金。覚えのない金。
仕組まれた。そう気づいたとき、もう遅かった。
「協力してくれれば、不問にする。巡回を続けてくれればいい。ただ、少しだけ……私の目と耳になってくれたまえ」
あの日、俺は頷いた。頷くしかなかった。
それから十年。書類で町を殺した。
営業許可を遅らせ、税務査定を不当に高くし、供給業者に圧力をかけた。ミストヴァレーの復興の芽が出るたび、俺がそれを摘み取った。
合法の範囲内。口頭での「助言」。書面に残らない指示。
だが、俺は残していた。
最初の一通から。
嵌められたあの日、侯爵閣下から受け取った最初の指示書を、俺は処分しなかった。以来、十年分の書簡を全て保管してきた。ヴィクトール卿が俺に宛てた指示書。侯爵家の封蝋と署名入りの原本だ。そして、俺が起草した報告書の控え。
「保険」のつもりだった。だが本当は、いつかこの鎖を断ち切る日が来ると、心のどこかでわかっていたのかもしれない。
「……俺は、いつからこんな人間になった」
声に出した。誰もいない部屋だ。壁の薄い旅籠で、声だけが消えた。
窓の外。朝日が昇り始めていた。
ミストヴァレーの棚田が見えた。朝露に濡れた水面が、朝日に照らされて銀色に輝いている。あの棚田を復活させたのは、セラフィーナ嬢と、この町の人々だ。
収穫祭の夜を思い出した。提灯の灯りの中で、町の人々が手を取り合って踊っている。子供たちが走り回っている。笑い声が谷に響いていた。
——あれは、本物だった。
セラフィーナ嬢の言葉が脳裏に蘇る。
「あなたが本当に戦うべき相手は、別にいる」
「希望を見せるから残酷だ」——あの日、俺はそう答えた。
だが今、手の中には新しい命令書がある。町を殺せ、と書いてある。
——もう、嘘はつけない。
書簡の束を丁寧に革の鞄に入れた。十年分の重さが、鞄を膨らませた。ヴィクトール卿への返答は、書かない。代わりに、鞄の留め金をしっかりと閉めた。
朝。銀泉楼のフロントで清掃日誌をつけていると、玄関の引き戸が開いた。
「ハイネ殿……?」
ディートリヒさんが立っていた。灰色の制服に銀のバッジ。砂色の短髪。いつもと同じ——けれど、何かが違った。
目の下に深い隈がある。一晩中眠れなかったのだろう。革の書類鞄を、白い指関節が浮き出るほど強く握りしめている。そして、目。あの事務的な壁がない。薄い灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
「セラフィーナ嬢。——お時間を、いただけますか」
何かを決めた人の声だった。
「もちろんです。こちらへ」
執務室に案内した。二人きりの部屋。窓から冬の日差しが差し込んでいる。
ディートリヒさんが椅子に座った。いつもなら長い前置きがある。規則ですの、手続き上ですのと、言葉で武装してから本題に入る人だ。
でも今日は、鞄の留め金を開けた。
中から、紙の束を取り出した。黄ばんだものもあれば、まだ新しいものもある。封蝋の跡がついた羊皮紙。書簡。指示書。
机の上に、重ねた。
「これは、十年分の——侯爵閣下の指示の記録です」
息を呑んだ。
「街道ルート変更の工作。税務査定の不正操作。領地再査定の捏造。そして、地脈操作の維持装置に関する命令書」
「……これは写しですか? それとも——」
「原本です」
ディートリヒさんの声が硬く響いた。
「侯爵閣下が私に宛てた書簡の全てです。封蝋も署名もそのまま残っています。加えて、私が起草した報告書の控えも」
「いつから、これを?」
「最初の一通からです」
声が震えた。事務的な壁が、完全に崩れていた。
「十年前、嵌められた日に——私は最初の指示書を受け取りました。その日から一通も捨てていない。いつかこの日が来ると……いえ——来てほしいと、ずっと願っていたのだと思います」
「……」
「私は十年間、間違ったことをしてきました。営業許可を遅らせ、税を不当に引き上げ、この町が立ち直る芽を、摘んできた」
指先が震えている。でも、言葉は止まらなかった。
「昨夜、新しい命令書が届きました。東脈の維持装置を増強せよ、と。実行すれば、源泉は枯れ、棚田は干上がる。この町が死にます」
「……それで、決断を」
「はい」
ディートリヒさんが顔を上げた。薄い灰色の目が、初めて、まっすぐに私を見た。十年分の痛みを抱えた、裸の目だった。
「遅すぎたかもしれません。でも、これ以上、あの方の手先で町を壊すことは。私にはもう……できない」
沈黙が流れた。窓から差し込む光が、机の上の書類の束を照らしている。十年分の罪と、十年分の勇気が、紙の山に凝縮されていた。
——立ち上がった。ディートリヒさんの前に回り、深く頭を下げた。
「ハイネ殿。——ありがとうございます。あなたの勇気を、私は忘れません」
「……っ」
息を吸う音が聞こえた。
「頭を——上げてください。私は、感謝される側の人間では——」
「今この瞬間から、あなたはそうです」
顔を上げた。ディートリヒさんの目を見た。
「十年前、あなたは嵌められた。でも、十年間、証拠を残し続けた。それは、いつかこの日が来ると信じていたからでしょう」
ディートリヒさんの唇が震えた。何か言おうとして——言葉にならなかった。
だから、私が言った。
「さあ、一緒に戦いましょう」
手を差し出した。長い間があった。
ディートリヒさんが、その手を取った。冷たい手だった。痩せた、書類を捌き続けてきた手。でも、握る力は確かだった。
ディートリヒさんが帰った後、すぐにノアを呼んだ。
執務室のテーブルに広げた書類の束を見て、ノアが目を見開いた。
「これは……」
「十年分の指示書と命令書よ。アシュフォード侯爵がディートリヒさんに送り続けてきたもの」
ノアが一枚一枚、手に取って読んでいく。表情が、硬くなる。
「街道ルート変更の政治工作。税務査定の操作。地脈操作の維持装置に関する命令……しかも原本か。侯爵家の封蝋が全てに残っている」
「法的な証拠能力は、どう見る?」
「充分だ。封蝋と署名が一致すれば、王都中央法院でも通用する。これだけ揃っていれば、偽造の抗弁は通らない」
ノアが最後の一枚、昨夜届いた命令書を手に取った。
「『東脈の維持装置を増強せよ。手段は問わない』……地脈導管術——王国法第十二章『地脈保全令』で明確に禁じられた禁術の使用を命じている」
「ええ。最新の命令書が、最も決定的よ」
ノアが書類を置き、私を見た。
「三脈のうち、北脈は解放済みだ。西脈の回復も進んでいる。源泉はすでに50%まで戻した」
「残るは——」
「東脈だけだ。ここを解放すれば、銀泉楼は全盛期に戻る。王都中央法院に持ち込むなら、この命令書が決定打になる」
「源泉だけじゃないわ。棚田の地下水脈も戻る」
「ああ。ヴァルターとフリッツが喜ぶな」
ノアの口元がわずかに緩んだ。
手帳を開いた。新しいページに書き込む。
『手札5:ディートリヒの証言+10年分の文書証拠(原本)、確保完了』
その下に。
『証拠がある。証人がいる。——次は、これを武器に変える』
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「世界で一番あたたかい宿」、最終章の幕開けです。ディートリヒの視点を書くのは久しぶりでしたが、間に流れた時間のぶんだけ、彼の中で何かが静かに動いていました。書いてみると「最初の一通から捨てなかった」男の十年間が立ち上がってきて、自分でも息が詰まりました。
ヴィクトール侯爵の短い指示——「手段は問わない」——が、ディートリヒにとっての最後の一線。町を殺す命令を受けたとき、「できない」と言えるかどうか。十年間言えなかったその一言が、たった一人の女将が見せた希望のせいで、するりとこぼれ落ちてしまった。
収穫祭の夜にディートリヒが遠くから見ていた——あの場面は、ずっと前から仕込んでいた小さな種でした。あのとき彼はいたんです、あの場に。
☆ブックマーク・評価・感想をいただけると更新の励みになります!




