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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第60話: 反撃の狼煙

 手帳に、新しいページを開いた。


 「対ヴィクトール戦略——フェーズ2:包囲」


 女将の手帳に、再び数字が並ぶ。だが今度は、数字の隣に、人の名前が書かれていた。




 源泉復活から三日。


 銀泉楼は営業を再開した。


 源泉は全盛期の五割程度だとノアは言う。東脈のアンカーがまだ残っているから、完全な回復には遠い。だが泉質は、以前より力強かった。


 「北脈が本来の流量で流れ始めたことで、西脈との混合比率が変わった。結果として泉質が向上している」


 ノアが地脈計測器のデータを見ながら説明した。まだ顔色は万全ではないけれど、足で立てるようになっている。学者は学問を語ると回復が早いらしい。


 宿泊予約が戻り始めていた。


 「源泉が蘇ったと聞いて——」


 「前より湯が良くなったって、本当ですか?」


 近隣の町から、商人や旅人がぽつぽつと訪れてくる。まだ少ない。それでも、ゼロじゃない。


 フロントに立つマリカさんの接客が、以前にも増して冴えていた。客の表情を読み、部屋に案内し、浴場への道順を案内する一連の動きに、一切の無駄がない。


 「お湯加減はいかがでしたか?」


 浴場から出てきた商人に声をかけるマリカさんの微笑みは、本物だった。




 応接間に全員を集めた。


 ノア、ハンナさん、ガルド、マリカさん、ユーディット、リュカ。銀泉楼の全スタッフだ。


 手帳を開いた。


 「みんな、聞いて。源泉は戻った。でも、ここからが本当の戦いです」


 全員の顔を見回した。


 「ヴィクトール侯爵を——法的に追い詰める。そのための手札を整理します」


 壁に紙を貼った。前世のコンサル時代に何百回とやったプレゼンの要領で、戦略を図にする。


 「フェーズ1は完了しました。情報収集。碧泉宮の偵察で地脈操作の実態を確認し、ローザさんの日記で歴史的な証拠を得た」


 指で紙の上を辿る。


 「フェーズ2。包囲。ヴィクトール侯爵を追い詰めるための手札を揃えます。今、私たちが持っている手札は——五つ」


 一つずつ指を折った。


 「一つ。北脈のアンカーの破片。黒曜石に地脈導管術の術式が刻まれている。物的証拠」


 「二つ。ローザさんの日記。二十年前に地脈操作を記録した歴史的証拠」


 「三つ。ノアの地脈分析データ。地脈が人為的に操作された科学的証明。学術的証拠」


 ノアが頷いた。「地脈学会に提出できる水準のデータは揃っている」


 「四つ。マリカさんの証言。翡翠殿を通じた情報操作の内幕」


 マリカさんが静かに目を伏せた。過去の傷に触れることになる。それでも、濃紺の目は逃げていなかった。


 「そして五つ目——ディートリヒ・ハイネの証言。これが最後のピースです」


 部屋が静まった。


 ディートリヒの名前を出した瞬間、ハンナさんの目が鋭くなった。ガルドが腕を組んだ。エミールさんを十年間書類で脅し続けた男の名前だ。


 「手札の一から四は、状況証拠として強い。でも、ヴィクトール侯爵本人との直接的な繋がりを証明するには、内部からの証言が必要です」


 「あの男が味方になるのか?」


 ガルドの声が硬い。


 「わからない。でも、可能性はある」


 マリカさんが口を開いた。


 「ディートリヒ殿の初期の報告書を読みました。赴任当初のものは、丁寧で、町のことを真剣に考えている文章でした」


 「途中から変わったんです。冷たく、事務的に。何かがあった——何かに、屈した」


 ノアが言った。「横領の濡れ衣だろう。ヴィクトール卿の常套手段だ。弱みを作って取り込む」


 「だから、私が会います。女将として」


 「嬢ちゃん、本気か」


 「本気よ、棟梁。お茶でも飲みながら、お話しするだけ」


 ガルドが鼻を鳴らした。「しょうがねぇな」と言いかけて——黙った。もう反対しても無駄だと、何十回目かで学んだのだろう。




 ディートリヒを銀泉楼に招いた。


 ちょうど四半期ごとの巡回でミストヴァレーに来ていた。いつも通り、革の書類鞄を提げて。


 「お茶でもいかがですか」


 応接間に通した。


 ディートリヒは立ち止まった。灰色の制服に銀のバッジ。姿勢の良い痩身。薄い灰色の目が、応接間を一瞬で見回した。警戒している。


 「これは……公式の場ではありませんね?」


 「ええ。女将として、お客様をおもてなししたいだけです」


 マリカさんが茶を運んできた。磁器の茶碗に、銀泉草を煎じた香り茶。ユーディットが焼いた小さな菓子が添えてある。


 ディートリヒが椅子に座った。背筋をまっすぐに保ったまま、書類鞄を膝の上に置いている。手放さない。それが彼の武器であり、盾だから。


 茶を一口飲んだ。


 表情が——ほんの一瞬だけ、緩んだ。


 「……旨い茶だ」


 本心の声だった。いつもの事務的な口調とは違う、素の声。


 「ハイネ殿。一つだけ聞いてもいいですか」


 「……何でしょう」


 警戒が戻った。灰色の目が細くなる。


 「あなたは——なぜ官僚になったのですか」


 ディートリヒが凍った。


 茶碗を持つ手が止まった。薄い灰色の目が——一瞬だけ、揺れた。


 「……なぜ、そんなことを」


 「あなたの報告書を読みました。初期のものは、丁寧で、誠実で、町のことを本当に考えている文章でした」


 声を抑えた。責めるつもりはない。ただ、見たままを言った。


 「途中から変わった。冷たく、事務的になった。——何があったんですか」


 ディートリヒの手が震えた。茶碗を静かに皿に戻す。磁器がかちりと鳴った。


 長い沈黙。


 応接間の窓から冬の日差しが差し込んでいた。埃が光の中で舞っている。


 「ハイネ殿。私は、あなたの敵ではありません」


 ディートリヒの目を見た。まっすぐに。


 「——あなたが本当に戦うべき相手は、別にいる」


 灰色の目が、わずかに広がった。


 「……それは」


 「考えてください。結論を急ぎません」


 椅子から立ち上がった。


 「——またお茶を飲みに来てください。いつでも」


 ディートリヒが立ち上がった。書類鞄を握りしめている。白い指関節が浮き出るほどに。


 扉に手をかけたとき——振り返った。


 「セラフィーナ嬢」


 「はい」


 「あなたは——残酷な人だ」


 予想していなかった言葉だった。


 「希望を見せるから。あきらめかけていた人間に、希望を見せるから」


 声が——かすれていた。事務的な壁が、一瞬だけ剥がれた音だった。


 ディートリヒが扉を閉めた。その手が、微かに震えていた。




 ディートリヒが去った後、マリカさんが報告に来た。


 「碧泉宮の動向について、情報が入りました」


 応接間で、マリカさんとノアと三人で座った。


 「碧泉宮の湯温が下がっています。北脈のアンカーが壊されたことで、碧泉宮側への魔力供給が減少しているようです」


 やはり、影響が出ている。


 「ヴィクトール侯爵は気づいているはずです。地脈操作の効果が弱まれば、碧泉宮の看板である"奇跡の湯"が——」


 「偽物に戻る」


 ノアが言い切った。


 「碧泉宮の泉質はもともと平凡だ。地脈操作で他地域の魔力を引き込んでいたから"奇跡"と呼ばれていた。それが失われれば——ただのぬるい温泉だ」


 ヴィクトール侯爵は、黙っているはずがない。


 「それともう一つ」


 マリカさんが続けた。


 「碧泉宮の顧客名簿にあった貴族の一人——ヴァイス伯爵が、ヴィクトール侯爵と対立関係にあります」


 「ヴァイス伯爵は王国議会の法務委員会の委員長です。この方に証拠を渡せれば——」


 法務委員会。地脈操作は王国法第十二章で明確に禁じられている禁術だ。法務委員会の委員長が動けば、王室も無視できない。


 ノアが付け加えた。


 「地脈学会にもデータを提出する準備はできている。学術的に地脈操作が証明されれば、政治的にも追い詰められる」


 手帳に書き込んだ。


 『手札1-4:物的証拠、歴史的証拠、学術的証拠、証言。手札5:ディートリヒの決断待ち。提出先:ヴァイス伯爵(法務委員会)+地脈学会』


 手札は揃いつつある。あとは、ディートリヒさんの決断。


 そして、ヴィクトール侯爵が先手を打ってくる前に、こちらの包囲を完成させなければならない。




 夜。


 銀泉楼のテラスに出た。


 冬の夜空が広がっていた。星が無数に瞬いている。大浴場の煙突から、温かい湯気が立ち昇り、冬の星空に溶けていく。


 源泉が戻った証だ。あの煙突から湯気が出るのを見るのは、初めてだった。いつも冷たい煙突が、今は白い息を吐いている。


 足音がした。


 ノアだった。外套を羽織って、テラスに出てきた。まだ足取りが慎重だ。魔力の消耗は三日経っても完全には回復していない。


 「まだ起きていたのか」


 「手帳を書いてたら、こんな時間に」


 隣に並んだ。テラスの手すりに二人で寄りかかる。


 銀嶺連山が月明かりに照らされていた。白い山脈の稜線が、夜空に浮かんでいる。あの向こうに、碧泉宮がある。


 「まだ半分だね」


 呟いた。


 源泉は半分。手札は揃いかけているけれど、まだ完成していない。ヴィクトール侯爵が動き出す前に、間に合うかどうか。


 「ああ。だが——もう半分は取り戻した」


 ノアの声が低く、穏やかだった。


 「半年前、お前がこの廃墟を見て"最高の物件じゃない"と笑ったとき、正直、頭がおかしいと思った」


 「……それ、言ったことある」


 「何度でも言う。あれは頭がおかしい」


 ノアが笑った。小さく、でも確かに。この人が笑うようになったのは、いつからだろう。


 「でも、今はわかる。お前の目には、俺に見えないものが見えている」


 ノアの手が、手すりの上で、私の手に触れた。


 指先が重なる。冷たい冬の空気の中で——ノアの手だけが温かかった。


 心臓が跳ねた。でも——手を引かなかった。ノアも引かなかった。


 「次は、決着だな」


 ノアが言った。


 「うん。みんなで、終わらせる」


 銀泉楼の煙突から、温かい煙が上がっている。嵐は去った。だが——もう一つの嵐が来る。


 それでも、灯は消えない。


 手帳の最後のページに、一行だけ書いた。


 『源泉は半分戻った。残り半分と、ヴィクトールとの決着は、これから』



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「嵐の中の灯」、お付き合いいただきありがとうございました。源泉の危機から始まり、ローザの遺志を継ぎ、地の底で地脈を取り戻し、告白があり、温泉が帰ってきた——激動の道のりでした。


ディートリヒにお茶を出すシーンは、書いていて筆が一番乗った場面のひとつです。殴らない、脅さない、ただ本当のことを言って、相手に考える時間を渡す——セラのやり方が、ようやく形になったように感じました。「希望を見せるから残酷だ」というディートリヒの台詞には、彼の十年間が凝縮されています。


次は、ヴィクトール侯爵との最終決戦の幕開け。東脈のアンカー、ディートリヒの決断、法廷での対決——全てが一つに収束していきます。


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