第59話: 帰ってきた温泉
翌朝。大浴場の蛇口に、ハンナさんが手を当てていた。
まだ冷たい。何も出てこない。
「……まだか」
白い髪が揺れた。目を閉じて、蛇口の鉄に指を押し当てている。
ローザ様。もう少しだけ——。
ノアの部屋に粥を運んだ。
客室の一つをノアの部屋にしている。窓から冬の朝日が差し込み、布団の中のノアの顔を照らしていた。
顔色は昨夜よりましだった。唇に少し色が戻っている。でもまだ白い。
「起きてる?」
「……起きてる」
布団からかすれた声がした。目だけがこちらを向く。深い緑の目——いつもの鋭さが戻りかけている。
枕元に盆を置いた。湯気の立つ粥と、漬物。ユーディットが今朝一番に炊いてくれたものだ。
「まだ動くな。昨日の消耗は大きい」
「……わかってる」
ノアが上半身を起こした。動作がぎこちない。両腕にまだ力が入らないのだ。
粥の椀を渡した。ノアが匙を取る。一口、口に運ぶ。
「……粥が旨い」
「ユーディットに言ってくれる?」
ノアが小さく笑った。
その笑顔を見て——昨夜のことを思い出した。黄金色の光の中で言われた言葉。「好きだ」。
顔が熱くなった。
ノアも気づいたのか、目を逸らした。匙で粥をかき混ぜている。食べるでもなく、ただかき混ぜている。
「……ノア」
「……何だ」
「昨日の——」
「帰ったらちゃんと言う、と言った」
遮られた。
「今はまだ帰ってない。——この粥を全部食べてから帰る」
粥を食べ始めた。黙々と。耳が赤い。
私も黙った。
窓の外で、冬の鳥が鳴いていた。
午前中はノアの枕元で過ごした。
手帳を開いて、復旧後の計画を書き出す。源泉が戻ったら何をするか。優先順位を整理する。でも頭が上手く回らない。隣でノアが寝息を立てていると、数字が頭に入ってこない。
こんなの、前世では一度もなかった。
宮原咲良は三十四年間、仕事中にぼんやりしたことなど一度もなかったのに。
——恋って、こんなに仕事の邪魔になるものなの。
手帳に「経営と恋愛の両立」と書きかけて、慌てて消した。
午後。
大浴場に行った。
ハンナさんがまだそこにいた。朝からずっと——蛇口に手を当てたまま。
割烹着の膝が濡れている。冷たい石の床に座り込んで、蛇口の鉄管に指先を押し当てている。
「ハンナさん、お昼ごはん——」
「いらない」
即答だった。振り向きもしない。
「ここにいる。ローザ様の湯が出るまで、あたしはここにいる」
声が硬い。白い髪の下の灰色の目が——蛇口だけを見つめていた。
何も言えなかった。ハンナさんの隣に座った。石の床が冷たい。
午後の日差しが、高い窓から浴場に差し込んでいる。空の浴槽が白い光に照らされている。湯のない浴場は、がらんとしていて、寂しかった。
一分。五分。十分。
何も起きない。蛇口は沈黙している。
ハンナさんの指先が——わずかに動いた。
「……お嬢」
「はい」
「震えてる」
「え?」
「蛇口が——震えてる」
ハンナさんの声が変わった。固かった声に、かすかな震えが混じっている。
蛇口に耳を近づけた。
聞こえた。
鉄管の奥から、低い振動。遠い、遠い地の底から、何かが昇ってくる音。
ゴボ、と空気が出た。
蛇口が震えた。ガタガタと、管全体が振動する。
ゴボゴボ——と空気が押し出され、そして——
水が出た。
茶色く濁った水が、蛇口から吐き出された。最初は泥混じりの冷たい水。それがすぐに透明になり、微かに、白濁していく。
銀泉楼の泉質。乳白色の硫黄泉。
指先で触れた。
温かい。
「温かい……!」
声が裏返った。手が震える。温泉の温もりが指先から腕に伝わっていく。生きている水だ。地の底で二十年間絞られていた地脈が目覚めて、昇ってきた水。
ハンナさんが蛇口を握りしめていた。両手で。温泉水が指の間から溢れて、割烹着の袖を濡らしていく。
「湯だ……! 湯が出てる!」
ハンナさんの声が——叫びだった。喉から絞り出すような、二十年分の声だった。
「お嬢——! 湯だよ——!」
涙が溢れていた。皺の刻まれた頬を伝い、温泉水と混じって落ちていく。銀の指輪が温泉の湯気の中で光っていた。
私も泣いていた。声を上げて泣いた。大浴場に二人の声が反響した。
蛇口から温泉が溢れ続けた。
浴槽に湯が溜まっていく。白い湯気が立ち昇る。天井に結露した水滴がきらきらと光り始めた。
銀泉草の香り。微かに甘い、地脈の魔力の匂い。鼻を抜ける硫黄と、温泉成分の、あの独特の香り。
前世の記憶が蘇る。日本中の温泉を見てきた。何百カ所も。でも、こんなに嬉しかった源泉は、一つもなかった。
駆けつけた。
リュカが最初だった。「源泉が出た」という叫びを聞いて、廊下を走ってきた。
「マジっすか!? マジだ——湯が出てる!」
ユーディットが厨房から飛んできた。手にまだ菜箸を持ったまま。
「嘘だろ……本当に出てるじゃないか」
マリカさんが静かに入ってきた。浴場の湯気の中で、初めて見るような表情をしていた。口元がほんの少し緩んでいる。
ガルドが最後に来た。壁を手で触りながら。
「この振動——本物だ。地脈が管を通って昇ってきてやがる」
壁を叩いた。ごん、ごん。力強い反響。
「配管が歌ってるぜ。百年前の初代の管が——まだ生きてた」
ノアだけが来なかった。まだ動けないのだ。でも、窓からこちらを見ている気配がした。
町にも変化が波及した。
棚田のヴァルターさんが走ってきた。あの寡黙な老農夫が、走って。
「水温が上がってる……! 棚田の水路に温かい水が流れ込んでる!」
東脈はまだ絞られている。でも北脈が解放されたことで、谷全体の地脈バランスが変わり始めているのだ。棚田の地下水路にも、その恩恵が届いている。
養魚場のトビアスさんが銀泉楼に顔を出した。
「谷鱒がうるさいんだ。水温が上がって、冬眠から目覚めちまったみたいでな」
顔中の皺をくしゃくしゃにして笑っていた。「引退した」が口癖のこの老漁師が、嬉しそうに。
イルゼさんは山から降りてきた。
「山羊たちが落ち着いたのよ。地脈の温もりが牧場にも届いてるみたい。冬なのに、草が、少し青くなってる」
源泉は一つの蛇口から出た水だ。でもその源は谷全体の地脈であり、谷のあらゆる生命に繋がっている。
手帳に書いた。
『源泉復活。町全体に波及。サプライチェーンが回り始めた』
前世の言葉で書いてしまった。でも、合っている。温泉という資源が戻ったことで、食材の生産が回復し、町全体の循環が動き出す。
夜。銀泉楼の大広間で、宴が開かれた。
「源泉復活の宴」と、リュカが墨で紙に書いた。字はお世辞にも上手くないけれど、勢いだけはある。
ユーディットとリュカが腕を振るった。
テーブルに料理が並ぶ。全て谷の食材だ。でも今夜は、特別なものがある。
「源泉蒸し。復活第一号だ」
ユーディットが蒸し器の蓋を開けた。
白い蒸気が立ち昇った。その中に、銀泉草の香り。温泉の蒸気で蒸された谷鱒が、皿の上で湯気を纏っている。
蓋を開けた瞬間、大広間に歓声が上がった。
箸を入れた。身がほろりと崩れる。口に入れると、温泉の旨味が、魚の身に深く染みている。硫黄の風味が脂の甘みと溶け合い、舌の上で広がっていく。
「これだ。これが銀泉楼の味だ」
ユーディットの声が静かだった。料理の話をするとき、この人はいつも静かになる。旨いものの前では、言葉より先に二口目に手が伸びるタイプなのに、今夜は違った。源泉蒸しを見つめる目が、潤んでいた。
「女将さん。この蒸し器、ずっと埃を被ってたんだ。使える日が来ないかと——ずっと」
もう一品。
ハンナさんが運んできた温泉粥。源泉水で炊いた米に、温泉卵を落としたもの。
黄身がとろりと流れ出して、粥の表面に金色の筋を描いた。
「お嬢。ローザ様が一番好きだった料理だよ」
ハンナさんの声が穏やかだった。もう泣いてはいなかった。目は赤いけれど、笑っていた。
匙で一口。
とろとろの米に温泉の旨味が染み込み、卵の黄身のまろやかさが全体を包んでいる。塩気は控えめで、温泉の成分だけが、自然な味つけをしている。
前世でも今世でも食べたことのない——やさしい味だった。
「……おいしい」
それしか言えなかった。語彙が足りない。コンサルタントの分析力が、この味の前では何の役にも立たない。
みんなで食卓を囲んだ。
ノアも来ていた。まだ足元がおぼつかないけれど、ガルドに肩を貸されて大広間まで歩いてきた。
「しょうがねぇな。先生、あんた軽すぎるぞ。飯ちゃんと食ってんのか」
「……余計なお世話だ」
いつものやり取り。でも二人の声には、以前にはなかった温かさがあった。地の底で一緒に戦った三人の間に生まれた、信頼。
エミールさんが立ち上がった。杯を持って。
「皆さん。——言葉が見つかりません」
眼鏡を直す手が震えている。
「セラフィーナさん。ありがとうございます。この町を——諦めなかったから」
深々と頭を下げた。町長が、二十歳の女将に。
イルゼさんが「泣いちゃだめよエミール」と笑いながら、自分も泣いていた。トビアスさんは酒を一気に煽って「引退した身だが、旨い酒だ」と呟いた。ヴァルターさんは黙って頷いただけだった。でもその目は、穏やかだった。
リュカが「乾杯っす!」と叫び、ガルドが「小僧、声がでかい」と文句を言いながら杯を上げた。
笑い声が戻ってきた。銀泉楼の大広間に。
ハンナさんが酒を飲んでいた。ぐいぐいと。七十二歳とは思えない飲みっぷりだ。
そして——歌い始めた。
低い、かすれた声。聞いたことのない旋律。ミストヴァレーの古い歌なのだと、マリカさんが教えてくれた。
「源泉の歌よ。昔、源泉が湧くたびに歌った祝い歌」
ハンナさんの歌声が大広間に響いた。酒で赤くなった頬。銀の指輪が揺れる。ローザさんと一緒に歌ったこともあるのだろう。二十年間封じていた歌を、今夜解き放っている。
宴が終わりかけた頃。
ノアが私の隣に座っていた。いつの間にか、自然と隣に。肩がほんの少し触れている。
ガルドがにやにやしているのが見えた。マリカさんは微笑んでいる。ハンナさんが「若いっていいねぇ」と酒を煽った。
全員気づいてる。
顔が熱い。でも、離れなかった。ノアも離れなかった。
「セラ」
ノアが小声で言った。周りに聞こえないように。
「源泉は戻ったが——全盛期の半分くらいだ。東脈のアンカーがまだ残っている」
——やっぱり、仕事の話か。
少しだけ、がっかりした。自分でも意外だった。前世の宮原咲良なら「よし、次のフェーズだ」と即座に頭を切り替えたはずなのに。
「それに——アンカーが壊されたことは、ヴィクトール侯爵にも伝わっているはずだ。あれだけの魔力干渉が消えれば、碧泉宮の湯にも影響が出る」
「わかってる」
手帳を握りしめた。
「これで終わりじゃない。東脈のアンカーと——ヴィクトール侯爵との決着が残ってる」
ノアが頷いた。
「……でも今夜だけは、喜ぼう」
そう言って——笑った。
ノアが目を細めた。「……そうだな」
大広間にハンナさんの歌声が響いている。リュカの笑い声。ユーディットとガルドの言い合い。マリカさんとイルゼさんの穏やかな会話。
みんなの声が、温かかった。
窓の外に、冬の銀嶺連山が見えた。月明かりに照らされた白い山脈。あの向こうに、ヴィクトール侯爵の碧泉宮がある。
手帳の新しいページを開いた。
『源泉は半分戻った。残り半分と——ヴィクトールとの決着は、これから』
最後まで読んでいただきありがとうございました。
源泉復活のシーンを書いている時、現実の温泉に入りたくなりました。蛇口から最初に茶色い水が出て、それが透明になり、白濁していく——あの瞬間を五感で掴みたくて、何度も書き直した一場面でした。
ハンナは最初に走ってくるタイプではなく、「蛇口に手を当ててずっと待っているタイプ」。その立ち姿そのものが、この人の二十年間だったのだと思います。
温泉粥の味は、言語化が本当に難しかったです。「おいしい」以外に言葉が見つからないセラの気持ちが、書いている自分にもそのまま降りてきました。
次は、ヴィクトール侯爵への反撃が動き出す日。お楽しみに。
☆ブックマーク・評価・感想をいただけると更新の励みになります!




