第58話: ノアの告白
石柱に刻まれた術式が、ノアの指先に反応して光った。
青い光が洞窟を満たす。壁面の結晶が共鳴し、空間全体が脈打つように明滅した。
地脈が——震えている。
「第一層。暗号化された防護術式。構造を読むのに時間がかかる」
ノアが石柱の前に膝をつき、両手をかざしていた。青い光が指先から石柱の表面に流れ込み、刻まれた術式の回路を一つずつ辿っている。
額に汗が浮いていた。さっき西脈のアンカーを壊したときよりも、はるかに集中している。
私は隣で、灯りを保持していた。ノアの探査魔法の光球では足りない部分を、小さな魔力灯で照らす。大したことはできない。けれど、ノアの手元を照らすことなら、私にもできる。
ガルドが洞窟の入口に立って、周囲を見張っていた。壁を叩く音が一定のリズムで聞こえてくる。構造の安全を確認し続けているのだ。
「第一層——解除」
ノアの声が低く、硬い。石柱の表面を走っていた青い光が一段消えた。三層のうちの一つ。
「第二層に入る。——これは暗号化が複雑だ。時間がかかる」
「どれくらい?」
「わからない。やってみないと」
ノアの指が宙に走った。目には見えない術式の回路を手繰っている。時折、指先が止まる。行き止まりに当たったのだ。別のルートを探し、また手繰り始める。
五分。十分。
壁から落ちる水滴の音だけが、時間を刻んでいた。
ノアの呼吸が荒くなっていく。魔力が削られているのが、隣にいるだけでわかった。背中から微かに発散する魔力の色が、薄くなっている。
「先生、急いでくれ」
ガルドが入口から声を飛ばした。壁を叩く音が変わっている。
「壁が軋んでる。さっきの揺れで構造が弱ってやがる。長くは持たない」
ノアは答えなかった。全ての意識を術式の解読に注いでいる。
私は手帳を握りしめた。前世のホテルの機械室を思い出していた。配管が破裂しかけたあの夜。現場スタッフが必死で修理する間、私にできたのは——邪魔にならない場所で、灯りを持って照らし続けることだけだった。
今も同じだ。
でも、あのときと一つだけ違う。私は今、ここにいたいと思っている。役に立つかどうかじゃない。ノアの隣にいたいから、ここにいる。
「——第二層、解除」
ノアの声がかすれた。石柱の光がまた一段消える。残りは一つ。
最後の層。
「第三層に入る」
ノアが手をかざした瞬間——石柱が脈打った。
地脈が反応した。足元の岩が振動し、壁面の結晶が一斉に明滅する。
揺れた。
今までの比じゃない。洞窟全体が横に揺さぶられた。天井から岩が剥がれ、膝まで溜まっていた温泉水に波が立つ。
ガルドが叫んだ。
「やべぇ! 天井が——」
見上げた。天井に亀裂が走っている。三階建ての高さのある洞窟の天井が——崩れ始めていた。
岩塊が落ちてくる。人の胴体ほどの大きさの岩が、私たちの真上から——
ノアが右手を上げた。
青い光が手のひらから放射状に広がり、落下する岩を空中で止めた。建築魔法。岩に魔力を浸透させ、固定する。
一つ。二つ。三つ。天井の広い範囲が崩壊しかけている。ノアの右手が、それを全て支えていた。
左手は——まだ石柱の術式に触れている。
片手で天井を支え、もう片手で術式を解除し続けている。
「ノア!」
「——動くな」
ノアの声が低い。歯を食いしばっている。こめかみの血管が浮き出ていた。両腕が震えている——二つの高度な魔法を同時に制御する負荷が、体を軋ませているのだ。
「もういい、撤退しよう!」
「——あと、一つ。最後の層だ」
「死んだら意味がないでしょう!」
声が裏返った。涙がこみ上げてくる。天井を支えるノアの右手から青い光が明滅している。魔力が限界に近い。
ノアが——私を見た。
深い緑の目。汗と塵で汚れた顔。額の血管。震える腕。それでも——その目だけは、揺るがなかった。
「死なない。お前が隣にいる限り——死なない」
心臓が止まった。
一瞬だけ。でも確かに止まった。
ノアが左手に全魔力を集中させた。指先から放たれた光が石柱に叩き込まれる。青い光が赤に変わり——石柱全体が振動した。
「——解除ッ!」
閃光。
目を閉じた。白い光が瞼の裏を焼く。衝撃波が体を叩いた。温泉水が跳ね上がり、頬に冷たい飛沫がかかる。
そして——静寂。
石柱に亀裂が入っていた。
黒曜石の表面に蜘蛛の巣のような細い線が走り——次の瞬間、音もなく砕けた。破片が温泉水に落ち、小さな水花を上げる。
二十年間、北脈の魔力を吸い上げ続けた装置が——終わった。
そして、洞窟が変わった。
壁面の光が変わっていく。青白い、冷たい光が、温かい黄金色に。地脈の本来の色だ。ノアが以前そう教えてくれた。健全な地脈は黄金色に光る、と。
足元から——温もりが伝わってきた。
膝まで溜まっていた冷たい温泉水が、少しずつ温かくなっていく。死んでいた水が——生き返っていく。
壁面から新しい水が染み出した。最初は数滴。やがて細い流れになり、岩を伝って落ちてくる。温かい。生きている水だ。
「……成功した」
ノアの声が、かすれて聞こえた。
「北脈が——解放された」
振り返った。
ノアが石壁にもたれかかっていた。
座り込んでいる。立てないのだ。両腕がだらりと垂れ、手が膝の上に落ちている。顔は真っ白で、唇に色がない。呼吸が浅く、速い。
全魔力を使い果たした体。
それでも、目は開いていた。深い緑の目が、黄金色の光を映して、微かに笑っていた。
駆け寄った。ノアの隣に座り込んだ。膝が温泉水に浸かる。温かい。
「ありがとう、ノア」
声が震えた。涙が頬を伝った。
「——やったね」
ノアが目を細めた。答える力もないのだろう。小さく頷いただけだった。
しばらく、二人で座っていた。
洞窟が黄金色の光で満ちている。壁面の結晶がその光を反射し、無数の星のように煌めいていた。温泉水の流れる音が、穏やかに響いている。
ガルドが入口付近で壁を叩いていた。構造の確認だ。時折「持つな……」と呟く声が聞こえる。こちらに来ないのは——気を遣っているのかもしれない。
ノアの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。まだ顔色は悪い。でも、さっきの死にそうな白さではなくなった。
「セラ」
名前を呼ばれた。
ノアの声だった。低くて、かすれていて——震えていた。
「……何?」
横を向いた。ノアは石壁にもたれかかったまま、前を見ていた。黄金色の光が横顔を照らしている。
「俺は——お前を、守りたい」
心臓が跳ねた。
「……守る?」
「地脈学者としてじゃない。この町の住人としてでもない」
ノアが——ゆっくりと、こちらを向いた。
深い緑の目が、まっすぐに私を見ていた。いつもの観察者の目じゃない。冷静な分析の目でもない。もっと——むき出しの、怖いくらいに正直な目だった。
「——俺個人として」
黄金色の光が脈打った。地脈の鼓動に合わせて、洞窟全体が明るくなったり暗くなったりしている。
「リンドヴァルで町を救えなかったとき——もう誰かのために戦うのはやめようと思った」
リンドヴァル。ノアが以前、一度だけ口にした地名だ。地脈異変を発見しながら、完璧な証拠を揃えることに拘るうちに町が衰退し、住民が離散した場所。ノアのトラウマの始まりの場所。
「知識はあった。データもあった。町を救う方法は見えていた。だが俺は、完璧な証拠を揃えることに拘った。報告書を書き終えた日に村に戻ったら——もう誰もいなかった」
ノアの声が低い。痛みを押し殺したような、硬い声だった。
「お前は違う」
目が合った。逸らさなかった。
「お前は人を動かす。数字だけじゃなく——心で。あの広場で町の全員を立ち上がらせた。俺には絶対にできないことだ」
「でもお前に会って——また戦いたくなった。お前の夢を、隣で見ていたいと思った」
ノアの手が——膝の上で、拳を握っていた。声は震えているのに、目は逸らさない。不器用な人だ。感情を言葉にすることが、術式の解読よりずっと難しいのだろう。
「俺は——お前が好きだ、セラ」
温泉水の流れる音が聞こえた。地脈の光が脈打った。それ以外の音が、全部消えた。
長い沈黙だった。
好き。
前世でも今世でも、その言葉を面と向かって言われたことがなかった。
宮原咲良は三十四年間、仕事だけで走り切った。恋愛に興味がなかったわけじゃない。ただ——考える暇がなかった。旅館の再建に没頭しているうちに、気がつけば三十を過ぎ、三十四で死んだ。
セラフィーナになってからも同じだった。追放されて、銀泉楼を見つけて、再建に夢中になって——恋愛のことなんて考える余裕がなかった。
でも。
ノアの隣にいるとき、不思議と安心する。この人がいれば大丈夫だと思える。冷静で、博識で、皮肉屋で、不愛想で——でも誰よりも誠実で、嘘をつかなくて、行動で示してくれる人。
それが好きということなのか、私にはわからない。
でも——一つだけ、わかることがある。
「……ノア」
声が出た。思ったより小さくて、自分でも驚いた。
「私ね、前世でも今世でも、恋愛だけは全然わからなかった」
ノアが黙って聞いている。
「でも一つだけわかることがある。あなたがいなかったら、この宿は作れなかった」
手帳を握りしめた。ここに書き溜めた全ての計画、全ての数字——その全部が、ノアの知識なしには成り立たなかった。
「あなたの隣にいると、怖いことも怖くなくなる」
さっきの崩落のときも。ヴィクトール侯爵の脅しを受けたときも。源泉が止まったときも。ノアがいたから——立っていられた。
「それが好きってことなら——うん。私も、好き」
言った。
言ってしまった。
顔が熱い。耳まで熱い。黄金色の光のせいじゃなくて——間違いなく、赤くなっている。
ノアが目を逸らした。
こちらを見ていた深い緑の目が、ふいに横を向いた。耳が赤い。暗い藍色の髪の隙間から見える耳が——真っ赤だった。
「……そうか」
それだけ。
「"そうか"って! もうちょっと何かないの!?」
思わず声が大きくなった。洞窟に反響する。
ノアが咳払いした。
「……うるさい。今は動けないんだ」
壁にもたれかかったまま、こちらを見ずに言った。
「帰ったら——ちゃんと言う」
——帰ったら、って何を。
聞きたかったけど、聞けなかった。ノアの横顔が、黄金色の光に照らされて——今まで見たことがないくらい、穏やかだったから。
温泉水が足元で流れていた。温かい水が、二人の間を静かに通り過ぎていく。地脈が取り戻した温もりが、ここまで届いている。
「おーい」
ガルドの声が洞窟に響いた。
「いちゃついてる場合か! 帰るぞ!」
入口の方から歩いてくるガルドの顔が——にやにやしていた。壁を叩くふりをしながら、こちらの様子をずっと窺っていたに違いない。
「い、いちゃついてません!」
声が裏返った。顔が燃えるように熱い。
ガルドが鼻を鳴らした。
「学者先生。嬢ちゃんを泣かせたら、俺のげんのうが飛ぶからな」
ノアが真っ赤な耳のまま、壁から体を起こそうとした。——立てない。膝が折れる。
私はノアの腕に肩を差し入れた。体を支える。ノアが一瞬硬直して——力を抜いた。
「……すまない」
「いいから。立って」
重い。ノアの体重が肩にかかる。でも嫌じゃなかった。
ガルドが反対側からノアの腕を取った。「しょうがねぇな」といつもの台詞を吐きながら——穏やかな目をしていた。
三人で、源泉回廊を歩き始めた。
来た道を戻る。壁面が黄金色に輝いている。北脈の魔力が流れ始めた証だ。足元の温泉水が——行きよりも、温かくなっていた。
大浴場の隠し入口から地上に出たとき、冬の冷気が肌を刺した。
夕方だった。朝に潜って、丸一日が経っている。
ハンナさんが大浴場で待っていた。割烹着の裾が濡れている。ずっとここで待っていたのだ。
「おかえり」
一言。それだけ。
でもその声が震えていた。
「ただいま、ハンナさん。——源泉、取り戻した」
ハンナさんの灰色の目が大きく見開かれた。左手薬指の銀の指輪が——朝と同じように光った。
大浴場の蛇口に目を向けた。まだ何も出ていない。
「地脈が地上に届くまで時間がかかる」
ノアが私とガルドに支えられたまま、かすれた声で言った。
「北脈は解放した。あとは——待つだけだ」
ハンナさんが蛇口に手を当てた。冷たい鉄の感触が伝わっているはずだ。
でも——微かに。ほんの微かに。
蛇口の奥から、振動が伝わってきている。地の底で目覚めた北脈が、地上へ向かって昇ってきている。
「……まだか」
ハンナさんが呟いた。
蛇口に手を当てたまま、目を閉じた。
ローザ様。もう少しだけ——。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ノアの告白を書く手が震えました。リンドヴァルで全てを失い、二度と誰かのために戦わないと決めた男が、それでも「守りたい」と口にする——ここに辿り着くまでの長い長い距離が、書いている自分にも重く伸し掛かっていました。
セラの返し方が、この子らしいなと。恋愛を分析しようとして、でも分析じゃ追いつかなくて、結局短い一言しか出てこなかった。前世の宮原咲良さんも、きっとそういう人だったんだろうと思います。
次は、源泉がついに地上に届く朝。お楽しみに。
☆ブックマーク・評価・感想をいただけると更新の励みになります!




