表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/87

第58話: ノアの告白

 石柱に刻まれた術式が、ノアの指先に反応して光った。


 青い光が洞窟を満たす。壁面の結晶が共鳴し、空間全体が脈打つように明滅した。


 地脈が——震えている。




 「第一層。暗号化された防護術式。構造を読むのに時間がかかる」


 ノアが石柱の前に膝をつき、両手をかざしていた。青い光が指先から石柱の表面に流れ込み、刻まれた術式の回路を一つずつ辿っている。


 額に汗が浮いていた。さっき西脈のアンカーを壊したときよりも、はるかに集中している。


 私は隣で、灯りを保持していた。ノアの探査魔法の光球では足りない部分を、小さな魔力灯で照らす。大したことはできない。けれど、ノアの手元を照らすことなら、私にもできる。


 ガルドが洞窟の入口に立って、周囲を見張っていた。壁を叩く音が一定のリズムで聞こえてくる。構造の安全を確認し続けているのだ。


 「第一層——解除」


 ノアの声が低く、硬い。石柱の表面を走っていた青い光が一段消えた。三層のうちの一つ。


 「第二層に入る。——これは暗号化が複雑だ。時間がかかる」


 「どれくらい?」


 「わからない。やってみないと」


 ノアの指が宙に走った。目には見えない術式の回路を手繰っている。時折、指先が止まる。行き止まりに当たったのだ。別のルートを探し、また手繰り始める。


 五分。十分。


 壁から落ちる水滴の音だけが、時間を刻んでいた。


 ノアの呼吸が荒くなっていく。魔力が削られているのが、隣にいるだけでわかった。背中から微かに発散する魔力の色が、薄くなっている。


 「先生、急いでくれ」


 ガルドが入口から声を飛ばした。壁を叩く音が変わっている。


 「壁が軋んでる。さっきの揺れで構造が弱ってやがる。長くは持たない」


 ノアは答えなかった。全ての意識を術式の解読に注いでいる。


 私は手帳を握りしめた。前世のホテルの機械室を思い出していた。配管が破裂しかけたあの夜。現場スタッフが必死で修理する間、私にできたのは——邪魔にならない場所で、灯りを持って照らし続けることだけだった。


 今も同じだ。


 でも、あのときと一つだけ違う。私は今、ここにいたいと思っている。役に立つかどうかじゃない。ノアの隣にいたいから、ここにいる。


 「——第二層、解除」


 ノアの声がかすれた。石柱の光がまた一段消える。残りは一つ。


 最後の層。




 「第三層に入る」


 ノアが手をかざした瞬間——石柱が脈打った。


 地脈が反応した。足元の岩が振動し、壁面の結晶が一斉に明滅する。


 揺れた。


 今までの比じゃない。洞窟全体が横に揺さぶられた。天井から岩が剥がれ、膝まで溜まっていた温泉水に波が立つ。


 ガルドが叫んだ。


 「やべぇ! 天井が——」


 見上げた。天井に亀裂が走っている。三階建ての高さのある洞窟の天井が——崩れ始めていた。


 岩塊が落ちてくる。人の胴体ほどの大きさの岩が、私たちの真上から——


 ノアが右手を上げた。


 青い光が手のひらから放射状に広がり、落下する岩を空中で止めた。建築魔法。岩に魔力を浸透させ、固定する。


 一つ。二つ。三つ。天井の広い範囲が崩壊しかけている。ノアの右手が、それを全て支えていた。


 左手は——まだ石柱の術式に触れている。


 片手で天井を支え、もう片手で術式を解除し続けている。


 「ノア!」


 「——動くな」


 ノアの声が低い。歯を食いしばっている。こめかみの血管が浮き出ていた。両腕が震えている——二つの高度な魔法を同時に制御する負荷が、体を軋ませているのだ。


 「もういい、撤退しよう!」


 「——あと、一つ。最後の層だ」


 「死んだら意味がないでしょう!」


 声が裏返った。涙がこみ上げてくる。天井を支えるノアの右手から青い光が明滅している。魔力が限界に近い。


 ノアが——私を見た。


 深い緑の目。汗と塵で汚れた顔。額の血管。震える腕。それでも——その目だけは、揺るがなかった。


 「死なない。お前が隣にいる限り——死なない」


 心臓が止まった。


 一瞬だけ。でも確かに止まった。


 ノアが左手に全魔力を集中させた。指先から放たれた光が石柱に叩き込まれる。青い光が赤に変わり——石柱全体が振動した。


 「——解除ッ!」


 閃光。


 目を閉じた。白い光が瞼の裏を焼く。衝撃波が体を叩いた。温泉水が跳ね上がり、頬に冷たい飛沫がかかる。


 そして——静寂。




 石柱に亀裂が入っていた。


 黒曜石の表面に蜘蛛の巣のような細い線が走り——次の瞬間、音もなく砕けた。破片が温泉水に落ち、小さな水花を上げる。


 二十年間、北脈の魔力を吸い上げ続けた装置が——終わった。


 そして、洞窟が変わった。


 壁面の光が変わっていく。青白い、冷たい光が、温かい黄金色に。地脈の本来の色だ。ノアが以前そう教えてくれた。健全な地脈は黄金色に光る、と。


 足元から——温もりが伝わってきた。


 膝まで溜まっていた冷たい温泉水が、少しずつ温かくなっていく。死んでいた水が——生き返っていく。


 壁面から新しい水が染み出した。最初は数滴。やがて細い流れになり、岩を伝って落ちてくる。温かい。生きている水だ。


 「……成功した」


 ノアの声が、かすれて聞こえた。


 「北脈が——解放された」


 振り返った。


 ノアが石壁にもたれかかっていた。


 座り込んでいる。立てないのだ。両腕がだらりと垂れ、手が膝の上に落ちている。顔は真っ白で、唇に色がない。呼吸が浅く、速い。


 全魔力を使い果たした体。


 それでも、目は開いていた。深い緑の目が、黄金色の光を映して、微かに笑っていた。


 駆け寄った。ノアの隣に座り込んだ。膝が温泉水に浸かる。温かい。


 「ありがとう、ノア」


 声が震えた。涙が頬を伝った。


 「——やったね」


 ノアが目を細めた。答える力もないのだろう。小さく頷いただけだった。




 しばらく、二人で座っていた。


 洞窟が黄金色の光で満ちている。壁面の結晶がその光を反射し、無数の星のように煌めいていた。温泉水の流れる音が、穏やかに響いている。


 ガルドが入口付近で壁を叩いていた。構造の確認だ。時折「持つな……」と呟く声が聞こえる。こちらに来ないのは——気を遣っているのかもしれない。


 ノアの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。まだ顔色は悪い。でも、さっきの死にそうな白さではなくなった。


 「セラ」


 名前を呼ばれた。


 ノアの声だった。低くて、かすれていて——震えていた。


 「……何?」


 横を向いた。ノアは石壁にもたれかかったまま、前を見ていた。黄金色の光が横顔を照らしている。


 「俺は——お前を、守りたい」


 心臓が跳ねた。


 「……守る?」


 「地脈学者としてじゃない。この町の住人としてでもない」


 ノアが——ゆっくりと、こちらを向いた。


 深い緑の目が、まっすぐに私を見ていた。いつもの観察者の目じゃない。冷静な分析の目でもない。もっと——むき出しの、怖いくらいに正直な目だった。


 「——俺個人として」


 黄金色の光が脈打った。地脈の鼓動に合わせて、洞窟全体が明るくなったり暗くなったりしている。


 「リンドヴァルで町を救えなかったとき——もう誰かのために戦うのはやめようと思った」


 リンドヴァル。ノアが以前、一度だけ口にした地名だ。地脈異変を発見しながら、完璧な証拠を揃えることに拘るうちに町が衰退し、住民が離散した場所。ノアのトラウマの始まりの場所。


 「知識はあった。データもあった。町を救う方法は見えていた。だが俺は、完璧な証拠を揃えることに拘った。報告書を書き終えた日に村に戻ったら——もう誰もいなかった」


 ノアの声が低い。痛みを押し殺したような、硬い声だった。


 「お前は違う」


 目が合った。逸らさなかった。


 「お前は人を動かす。数字だけじゃなく——心で。あの広場で町の全員を立ち上がらせた。俺には絶対にできないことだ」


 「でもお前に会って——また戦いたくなった。お前の夢を、隣で見ていたいと思った」


 ノアの手が——膝の上で、拳を握っていた。声は震えているのに、目は逸らさない。不器用な人だ。感情を言葉にすることが、術式の解読よりずっと難しいのだろう。


 「俺は——お前が好きだ、セラ」


 温泉水の流れる音が聞こえた。地脈の光が脈打った。それ以外の音が、全部消えた。


 長い沈黙だった。




 好き。


 前世でも今世でも、その言葉を面と向かって言われたことがなかった。


 宮原咲良は三十四年間、仕事だけで走り切った。恋愛に興味がなかったわけじゃない。ただ——考える暇がなかった。旅館の再建に没頭しているうちに、気がつけば三十を過ぎ、三十四で死んだ。


 セラフィーナになってからも同じだった。追放されて、銀泉楼を見つけて、再建に夢中になって——恋愛のことなんて考える余裕がなかった。


 でも。


 ノアの隣にいるとき、不思議と安心する。この人がいれば大丈夫だと思える。冷静で、博識で、皮肉屋で、不愛想で——でも誰よりも誠実で、嘘をつかなくて、行動で示してくれる人。


 それが好きということなのか、私にはわからない。


 でも——一つだけ、わかることがある。


 「……ノア」


 声が出た。思ったより小さくて、自分でも驚いた。


 「私ね、前世でも今世でも、恋愛だけは全然わからなかった」


 ノアが黙って聞いている。


 「でも一つだけわかることがある。あなたがいなかったら、この宿は作れなかった」


 手帳を握りしめた。ここに書き溜めた全ての計画、全ての数字——その全部が、ノアの知識なしには成り立たなかった。


 「あなたの隣にいると、怖いことも怖くなくなる」


 さっきの崩落のときも。ヴィクトール侯爵の脅しを受けたときも。源泉が止まったときも。ノアがいたから——立っていられた。


 「それが好きってことなら——うん。私も、好き」


 言った。


 言ってしまった。


 顔が熱い。耳まで熱い。黄金色の光のせいじゃなくて——間違いなく、赤くなっている。


 ノアが目を逸らした。


 こちらを見ていた深い緑の目が、ふいに横を向いた。耳が赤い。暗い藍色の髪の隙間から見える耳が——真っ赤だった。


 「……そうか」


 それだけ。


 「"そうか"って! もうちょっと何かないの!?」


 思わず声が大きくなった。洞窟に反響する。


 ノアが咳払いした。


 「……うるさい。今は動けないんだ」


 壁にもたれかかったまま、こちらを見ずに言った。


 「帰ったら——ちゃんと言う」


 ——帰ったら、って何を。


 聞きたかったけど、聞けなかった。ノアの横顔が、黄金色の光に照らされて——今まで見たことがないくらい、穏やかだったから。


 温泉水が足元で流れていた。温かい水が、二人の間を静かに通り過ぎていく。地脈が取り戻した温もりが、ここまで届いている。




 「おーい」


 ガルドの声が洞窟に響いた。


 「いちゃついてる場合か! 帰るぞ!」


 入口の方から歩いてくるガルドの顔が——にやにやしていた。壁を叩くふりをしながら、こちらの様子をずっと窺っていたに違いない。


 「い、いちゃついてません!」


 声が裏返った。顔が燃えるように熱い。


 ガルドが鼻を鳴らした。


 「学者先生。嬢ちゃんを泣かせたら、俺のげんのうが飛ぶからな」


 ノアが真っ赤な耳のまま、壁から体を起こそうとした。——立てない。膝が折れる。


 私はノアの腕に肩を差し入れた。体を支える。ノアが一瞬硬直して——力を抜いた。


 「……すまない」


 「いいから。立って」


 重い。ノアの体重が肩にかかる。でも嫌じゃなかった。


 ガルドが反対側からノアの腕を取った。「しょうがねぇな」といつもの台詞を吐きながら——穏やかな目をしていた。


 三人で、源泉回廊を歩き始めた。


 来た道を戻る。壁面が黄金色に輝いている。北脈の魔力が流れ始めた証だ。足元の温泉水が——行きよりも、温かくなっていた。




 大浴場の隠し入口から地上に出たとき、冬の冷気が肌を刺した。


 夕方だった。朝に潜って、丸一日が経っている。


 ハンナさんが大浴場で待っていた。割烹着の裾が濡れている。ずっとここで待っていたのだ。


 「おかえり」


 一言。それだけ。


 でもその声が震えていた。


 「ただいま、ハンナさん。——源泉、取り戻した」


 ハンナさんの灰色の目が大きく見開かれた。左手薬指の銀の指輪が——朝と同じように光った。


 大浴場の蛇口に目を向けた。まだ何も出ていない。


 「地脈が地上に届くまで時間がかかる」


 ノアが私とガルドに支えられたまま、かすれた声で言った。


 「北脈は解放した。あとは——待つだけだ」


 ハンナさんが蛇口に手を当てた。冷たい鉄の感触が伝わっているはずだ。


 でも——微かに。ほんの微かに。


 蛇口の奥から、振動が伝わってきている。地の底で目覚めた北脈が、地上へ向かって昇ってきている。


 「……まだか」


 ハンナさんが呟いた。


 蛇口に手を当てたまま、目を閉じた。


 ローザ様。もう少しだけ——。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ノアの告白を書く手が震えました。リンドヴァルで全てを失い、二度と誰かのために戦わないと決めた男が、それでも「守りたい」と口にする——ここに辿り着くまでの長い長い距離が、書いている自分にも重く伸し掛かっていました。


セラの返し方が、この子らしいなと。恋愛を分析しようとして、でも分析じゃ追いつかなくて、結局短い一言しか出てこなかった。前世の宮原咲良さんも、きっとそういう人だったんだろうと思います。


次は、源泉がついに地上に届く朝。お楽しみに。


☆ブックマーク・評価・感想をいただけると更新の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ