第57話: 源泉回廊へ
大浴場の奥の岩壁に、ガルドが手を当てた。
「ここだ。じいさんが言ってた"源泉の道"。百年前に掘られた回廊の入口」
節くれだった手が壁面を撫でる。長年の温泉成分で白く結晶化した岩壁に、かすかな切れ目がある。人の手で整えられた線だ。
ノアが壁の切れ目に魔力を流した。青白い光が岩の隙間に染み込み、奥へ走っていく。
低い振動。
石が、動いた。
冷たい風が吹き出した。
暗闇の奥から、地の底の息吹のような風が浴場に流れ込む。温泉成分の匂い。鉄と硫黄。そして微かに甘い——地脈の魔力の匂いだ。
隠されていた入口が姿を現した。大人一人がやっと通れる幅の石段が、闇の中へ降りている。段の角は丸く摩耗していた。百年間、誰にも使われず、それでもまだ、形を保っている。
「じいさんが子供の頃に一度だけ入ったことがあると言ってた。"地脈の腹の中みたいだった"って。正直、本当にあるとは半信半疑だったがな」
ガルドが腕を組んで入口を睨んだ。職人の目だ。石の組み方、天井の高さ、壁の厚みを一瞬で見定めている。
「構造は堅い。初代はいい仕事してる。——行けるぜ」
「三人で行く」
私が言うと、ノアが頷いた。
「地脈の分析は俺でなければできない」
ガルドが鼻を鳴らした。「構造を知ってるのは俺だ。崩れそうな場所は壁を叩けばわかる」
「じゃあ私は——」
「お前が行かないと、意味がないだろう」
ノアが低い声で言った。深い緑の目が、一瞬だけ柔らかくなった。
そうだ。私は女将だ。源泉を取り戻すのは、私の仕事だ。
出発前に、ハンナさんが来た。
割烹着の前ポケットから、布に包んだものを三つ取り出す。おにぎりだ。銀泉草の葉で巻いた塩むすび。
「腹が減ったら食べな」
三人に一つずつ手渡して——そして、私の目を見た。
「帰ってきたら温かい飯を出す。——必ず帰っておいで」
「行ってきます、ハンナさん」
ハンナさんの手が、一瞬だけ私の手を握った。銀の指輪が冷たかった。
石段を降りた。
一段ごとに空気が変わる。地上の冬の冷気が薄れ、湿った温もりに包まれていく。壁面は温泉成分の結晶で白く覆われ、ノアの探査魔法の青白い光を受けて微かに煌めいた。
天井から水滴がぽたぽたと落ちる。一定のリズムで——地脈の鼓動のように。
「初代はこの通路を使って、地下の源泉を管理していたんだ」
ガルドが壁を手で触りながら先導する。職人の手が、百年前の先人の仕事を読み取っていく。
「石の組み方が丁寧だ。この弧を描くアーチ構造——荷重を分散させてる。大した棟梁だったんだな、初代は」
ノアが後方から灯りを照らしていた。探査魔法の光球が浮遊し、回廊全体を青白く照らし出す。
「空気は温かい。地脈の残留熱がまだある。だが——不安定だ。流れが脈動している」
通路は緩やかに下り続けた。壁の結晶が厚くなり、天井が低くなっていく。やがて、人工的な石組みが終わり、荒削りな岩肌が現れた。
「ここから先は自然洞窟だ」
ガルドが立ち止まった。
「じいさんは"地脈の腹の中"と呼んでいた」
自然洞窟に入ると、地形が一変した。
通路が狭くなった。頭を低くして進まなければならない。足元に温泉水が浅く流れている。ぬるい。でもまだ温かい。西脈の残りの魔力が、この水を温めているのだ。
岩の形が有機的だった。何万年もかけて水が削った曲線。鍾乳石が天井から垂れ下がり、ノアの魔法の光を反射して青く光る。
「地脈の流れが感じられる。北脈のアンカーに近づいている」
ノアが地脈計測器を手に、壁面に手を当てた。計測器の針が微かに振れる。
「流れは弱い。だが、まだ死んではいない」
足元の温泉水の流れを見た。前世の記憶が蘇る。宮原咲良として、何十回と見てきた温泉の配管。湯の流れには必ず法則がある。
「この岩の配置——温泉の配管と同じ構造だわ。自然にできたものだけど、湯の流れる道は決まっている。流れを追えば道に迷わない」
ノアが少しだけ目を見開いた。「……お前、地下水脈の水理学まで知っているのか」
「前世の仕事で嫌というほど配管図面を見たの」
ガルドが壁を叩いた。ごん、ごん。と低い音と——こん。と高い音。
「この壁は生きてる。反響が違う——向こう側に空洞がある。通路はこっちだ」
三人の得意分野が、こんなところで噛み合っている。私は少し笑った。地の底で、妙に心強い。
一時間ほど進んだところで——揺れた。
足元が震えた。壁から粉塵が落ちる。天井の鍾乳石がきしむ音を立てた。
「止まれ!」
ガルドが叫んだ。
二度目の揺れ。今度は大きい。地脈が不安定になっている——ノアが言っていた脈動だ。アンカーに流れを絞られた地脈が、行き場を失って暴れている。
天井の岩が——割れた。
人の頭ほどの岩塊が、真上から落ちてくる。
ノアが片手を上げた。
青い光が手のひらから放射状に広がり、落ちかけた岩を——空中で止めた。建築魔法。岩に魔力を浸透させ、固定する。
「……っ」
ノアの額に汗が噴き出した。一つじゃない。二つ、三つ——天井の広い範囲がひび割れている。ノアの魔法が天井全体を支えていた。
「先生! 無理するな!」
「——黙ってろ。今、手を離したら全員潰れる」
ノアの声が低く、硬い。腕が震えている。青い光が脈動する——彼の魔力が急速に消耗している証だ。
十秒。二十秒。揺れが収まった。天井の岩が安定し、ノアが建築魔法で固定した箇所が自然に噛み合った。
ノアが手を下ろした。壁にもたれかかる。息が荒い。
「ノア、大丈夫?」
「……大丈夫だ。行ける」
ガルドが横から覗き込んだ。「嘘つけ。顔が白い」
「……少し、休む」
ノアが壁際に座り込んだ。
私はハンナさんのおにぎりを取り出した。
布を開くと、銀泉草の葉の青い香りが広がった。塩むすび。三角形ではなく——俵型。ハンナさんの握り方だ。
「食べよう。ここで少し休もう」
三人で岩の上に座った。地の底の暗闇の中、ノアの魔法の光だけが淡く灯っている。
おにぎりを頬張った。冷たくなっている。でも噛むと、米の甘みが口に広がった。ヴァルターさんの棚田の米だ。地脈の恵みを受けて育った銀霧穂。
「……旨い」
ガルドが短く言った。
「ハンナ殿の握り方は、力加減が絶妙だ」
ノアが壁にもたれかかったまま、一口ずつ噛みしめている。色のない声だったけれど、旨いと認めている声だった。
笑ってしまった。
「こんなところでピクニックみたいね」
ノアが目だけでこちらを見た。
「……お前は、どこでも笑えるな」
呆れたように。でも——少しだけ、救われた顔をしていた。
おにぎりを食べ終えて、ノアの顔色を確認した。まだ白い。でもさっきよりはましだ。
「行けるか」
ガルドが聞いた。
ノアが立ち上がった。壁から手を離す。足元がふらつく——一瞬だけ。すぐに立て直した。
「行ける」
今度は嘘じゃなかった。
さらに進むと、回廊が分岐した。
三方向に道が分かれている。ローザさんのスケッチと一致する。「北脈」「東脈」「西脈」——それぞれの地脈のアンカーに続く道。
北脈の道を選ぼうとしたとき——ノアが足を止めた。
「待て」
地脈計測器の針が激しく振れている。北脈の方角ではなく——西脈の道の方角を指していた。
「おかしい。西脈にはアンカーがないはずだ。唯一の生存脈だった」
ノアの目が鋭くなった。研究者の目だ。
「だが、計測器が異常値を示している。西脈の方角に、北脈と同じ型の魔力干渉パターンがある」
背筋が冷えた。
「まさか——」
「新しいアンカーが設置されている」
ノアの声が硬い。
「20年前のものじゃない。新しい。おそらく、数週間前だ」
西脈。最後の生存脈。あれが止まったから、源泉が完全に枯れた。自然に弱まったのだと思っていた——違う。ヴィクトール侯爵が、新たに術師を送り込んでアンカーを設置したのだ。
拳を握りしめた。
「ノア。西脈のアンカーも壊せる?」
「見てみないとわからない。新しい術式なら、解読に時間がかかる」
ガルドが唸った。「二つも壊すのか。先生の体が保つのか」
ノアが沈黙した。保つかどうかわからない、という沈黙だった。
「先に西脈を見る。源泉が止まった直接の原因はこっちだ。西脈のアンカーを壊せば——少なくとも、源泉は最低限戻る」
「それから北脈か」
「ああ。両方壊す。今日中に」
ノアの目が——覚悟を決めた目だった。
西脈の道を進んだ。
他の通路に比べて、空気が冷たい。地脈の温もりが消えている。生存脈だったはずの西脈が——死にかけている証だ。
五分ほど歩くと、小さな洞窟に出た。
中央に——石柱があった。
北脈のアンカーと同じ黒曜石の柱。だが、表面が違う。術式の刻印が新しく、インクがまだ乾いていないかのように鮮明だ。高さは膝丈ほど。急いで設置された小型のもの。
「急造品だ」
ノアが石柱を観察した。手で触れずに、計測器を近づけて分析する。
「術式の設計は雑だが、効果は十分出ている。西脈の流れを七割以上絞っている」
「壊せる?」
「壊せる。急造品だから防護術式も最低限だ。——だが、その分エネルギーが暴れやすい。慎重にやる」
ノアが石柱の前に膝をついた。
手をかざす。青い光が指先から石柱に流れ込む。術式の構造を読み取っているのだ。
五分。十分。
ノアの指が動いた。術式の回路を一つずつ——切断していく。
石柱の光が明滅した。脈打つように。抵抗している。
「——解除」
ぱきん、と乾いた音がした。石柱に亀裂が走り——崩れた。黒曜石の破片が床に散らばる。
その瞬間、足元から温もりが戻った。
壁面から、薄い水膜が染み出してくる。温かい。生きている水だ。
「……西脈が動き始めた」
ノアが息を吐いた。消耗している。でも——成功した。
分岐点に戻った。
次は北脈だ。
北脈の通路は、西脈とは比べものにならないほど深く、長かった。壁面の結晶が厚みを増し、天井が高くなっていく。空気が濃い。地脈の魔力が可視化されるほど、壁が青白く発光していた。
回廊の最深部。広い洞窟に出た。
天井は三階建ての建物ほどの高さがある。壁面全体が地脈の光で淡く輝き、水晶の内部にいるような錯覚を覚える。足元に温泉水が膝まで溜まっている——冷たい。北脈が絞られているから、温められていないのだ。
洞窟の中央に——それはあった。
黒曜石の石柱。人の腰ほどの高さ。表面に複雑な術式が刻まれ、青い光を脈打つように放っている。二十年間、北脈の魔力を吸い上げ続けてきた装置。
西脈の急造品とは格が違った。
石柱の周囲に、幾何学的な紋様が床に描かれている。防護術式だ。以前偵察した時に確認していた——触れれば警報が鳴る仕掛け。
「これだ」
ノアが静かに言った。
「二十年間、北脈の魔力を吸い上げ続けている装置。術式の層が——三層。解除には時間がかかる」
ノアが私とガルドを見た。
「防護術式を解除してからアンカーを壊す。集中が途切れたら終わりだ。——セラ、ガルド、周囲を見張ってくれ」
石柱に手をかざした。青い光がノアの指先から放射状に広がり、防護術式の紋様に触れた。
紋様が反応する。光が脈打ち、洞窟全体が振動した。
ノアの目が——研究者の目になった。全ての感覚を術式の解読に集中させている。
「第一層——解読開始」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
源泉回廊の描写を書くにあたって、実際の温泉の地下構造をかなり調べました。温泉成分で白く結晶化した壁面、地脈の残留熱で温かい空気、天井から落ちる水滴——現実の温泉坑道にある風景が、地の底の旅の手触りを支えてくれました。
地の底でのおにぎりシーン。ハンナのおにぎりが俵型なのは、銀泉楼の全盛期、ローザ様に出していた形がそのまま手に残っているから。五十年分の手の記憶は、冷たくなっても消えないものだと思います。
次は、ノアが全魔力を賭けて北脈のアンカーに挑む夜。お楽しみに。
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