第56話: 町の灯
「助けてください」
セラフィーナが、頭を下げていた。
町の広場に集まった五十人の前で。深く、深く。
一人で決めたことだった。
ローザさんの日記を読み終えた朝、ノアとガルドと作戦を練った。ノアが静かに頷いてくれたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。この人がいる。それだけで、退けないと思えた。マリカさんに碧泉宮の警戒を頼んで、準備は整った。源泉回廊の入口も見つかった。明日にでも潜れる。
でも、何かが足りなかった。
手帳を開いて、考えた。「女将」と書いたページの下に、書き足した文字。
『源泉を、取り戻す』
そのために何が必要か。三人で地下に潜る技術? ノアの術式解析? ガルドの回廊知識?
違う。
足りないのは、この町の人たちだ。
源泉を取り戻した後のことを、考えていなかった。アンカーを壊せたとしても、碧泉宮は黙っていない。ヴィクトール侯爵は必ず報復する。領地再査定の圧力は消えない。その嵐の中で旅館を守り、町を守り、人を守るには——
私一人では、無理だ。
咲良も同じ壁にぶつかってきた。提案して、報告書を綴じて、次の案件へ。二百軒の旅館を見てきたけれど、「自分の宿」を最後まで守り切ったことは、一度もなかった。
今度は違う。今度は自分が当事者だ。
だから——頭を下げなくては。
ハンナさんに相談したら、一言で返ってきた。
「やっと気づいたかい」
町民の召集はエミールさんに頼んだ。
「せ、セラフィーナさん、そんな急に……」
「お願いします、町長さん。明日の朝までに、話を聞いてもらいたいんです」
エミールさんは眼鏡を三回直して、「わ、わかりました」と頷いた。
広場は銀泉楼の正面、町の中心にある石畳の空間だ。収穫祭の会場にもなった場所。あの日は笑顔と歓声で溢れていた。
今は違う。
五十人ほどの町民が集まっていた。八十七人の町で五十人。多くはない。それでも来てくれた。寒い冬の朝に、わざわざ来てくれた。
顔を見回した。ヴァルターさんが腕を組んで奥に立っている。トビアスさんが釣り竿を杖がわりに、膝を庇いながら来てくれていた。イルゼさんがエプロンのまま。フリッツが妻のリーゼルと並んで、娘のアンナを肩車している。
不安な顔。怪訝な顔。「何が始まるんだ」という目。源泉が止まって三日。町に疲弊が広がっている。出ていこうかと話している家族もいると聞いた。
ノアが右斜め後ろに立っていた。ガルドが左に。マリカさんとユーディットが少し離れた場所に。リュカがユーディットの横で、不安そうにこちらを見ている。
ハンナさんが広場の入口で、壁に背を預けて立っていた。腕を組んで。「あたしは見てるよ」という顔で。
深呼吸をした。
手帳を閉じた。今日は数字もデータも要らない。コンサルタントの言葉じゃなく——女将の言葉で話す。
「みなさん。今日は、謝りに来ました」
声が広場に響いた。自分で思ったより、震えていた。
「——そして、お願いしに来ました」
五十人の目が私を見ている。
「源泉が止まったこと、町に影響が出ていること——全部、私の力不足です」
ざわめきが起きた。「そんなことない」と誰かが言った。でも私は続けた。
「半年前、この町に来ました。銀泉楼を建て直せば、町も蘇ると信じていました。数字で計算して、戦略を立てて、一つずつ形にしていけば——勝てると思っていた」
手帳を握りしめた。何百ページも書き込んだ、私の武器。
「けれど、間違いでした。数字だけでは——コンサルタントの戦略だけでは、この町を守れない」
声が割れた。唇を噛んで、続けた。
「だからお願いします」
頭を下げた。深く。視界が石畳だけになった。冬の冷気が首筋を撫でる。
「力を、貸してください」
沈黙が広場を包んだ。五十人の息遣いだけが聞こえる。
「この町は——みなさんの町です。私はよそ者です。半年前に来たばかりの、追い出された令嬢です」
顔を上げた。涙が頬を伝っていた。拭わなかった。
「それでも、この町を愛しています。銀泉楼を愛しています。ここで生きていきたい。みなさんと一緒に」
声が震えた。でも止めなかった。
「ローザさんという方がいました。十八年前に亡くなった、銀泉楼の三代目の女将です。ローザさんは、源泉が弱くなっている原因を知っていました。地下に装置がある。それを壊せば源泉は戻る。でも——」
息を吸った。
「一人ではできなかった。病の体で、一人で地下に降りて、装置を見つけたのに——壊せなかった。日記に『悔しい』と書いていました。たった一言です。でも、その一語に——十八年分の無念が詰まっていた」
ヴァルターさんの顔が動いた。腕を組んだまま、目だけが私を見ている。
「ここで諦めたら、十八年前と同じことが繰り返される。ローザさんが守れなかったものが——永遠に失われる」
広場の空気が変わった。不安や怪訝さとは違う何かが、静かに広がっていく。
「お願いします。私たちに——源泉を取り戻すための時間をください。アンカーを壊す準備はできています。でも、その間、この町を守ってくれる人が必要です。旅館を支えてくれる人が。碧泉宮の報復に立ち向かってくれる人が」
全員の顔を見た。一人ずつ。
「私一人では——この町を守れません。みんなの力が、必要です」
沈黙が続いた。
長い沈黙だった。冬の風が広場を吹き抜け、誰かの上着の裾がはためいた。
出ていこうとしている人が何人かいた。足を動かしかけて、それでも、まだ立っている。
エミールさんが、広場の前列にいた。
神経質に眼鏡を直している。三回、四回。いつもの癖。けれど、その手が、止まった。
エミールさんが一歩前に出た。
声が震えていた。でも、目は震えていなかった。
「……私は、十五年間、逃げていました」
町民の視線がエミールさんに集まった。
「この町の町長でありながら。街道のルート変更の裏に何があるか、知っていました。源泉がおかしくなった原因も、薄々は——でも、相手が侯爵だから。中央の貴族だから。声を上げることもできず、ただ——町が痩せていくのを見ていた」
エミールさんの声が、少しずつ大きくなっていった。
「だが、もう逃げたくない」
眼鏡を外した。裸眼のまま、町民を見た。十五年間、レンズ越しにしか見られなかった人たちの顔を。
「セラフィーナさんは半年で、この町を蘇らせてくれました。棚田に水が戻った。養魚場に魚が帰った。チーズが作れるようになった。銀泉楼に客が来た」
声が裏返った。構わず続けた。
「収穫祭を——思い出してください。あの日、みんな笑っていた。あの笑いは嘘じゃなかった。この町にはまだ力がある。まだ——笑える」
涙が眼鏡を外した目から零れた。
「私は——この町の町長として、戦います。皆さんも、一緒に戦ってくれませんか」
沈黙を破ったのは、最も口数の少ない男だった。
ヴァルターさんが腕を解いた。節くれだった大きな手が、一度だけ膝を叩いた。
「棚田はわしが守る」
短い。けれど、重い。
「来春も米を作る。約束する」
その一言が、堤防の最初の亀裂になった。
トビアスさんが釣り竿を杖に、一歩前に出た。膝が軋む音が聞こえた。
「わしの川は渡さん。魚は、冷たい水でも生きる。わしもだ」
イルゼさんが両手でエプロンを握りしめた。笑いながら、泣いていた。
「お母さんのチーズを守るためなら、何でもするわ」
フリッツが妻を見た。リーゼルが小さく頷いた。肩車のアンナが「パパ、がんばれー」と声を上げた。
「アンナをこの町で育てるって決めたんだ。——出ていかない」
リュカが一歩前に出た。父のエプロンが冬風にはためいた。
「親父の味を、ここで作り続ける。俺はここにいるっす」
声が次々に上がった。堤防の亀裂が広がっていく。
ガルドが鼻を鳴らした。
「じいさんの旅館は壊させねぇ」
ユーディットが腕を組んだまま、短く言い放った。
「あたしの厨房は、湯がなくても火がつく。飯は止めない」
マリカさんが背筋を伸ばした。濃紺の目に、静かな炎が灯っていた。
「私は——もう逃げません。この町で、私の接客を取り戻します」
そしてハンナさんが、壁から背を離した。ゆっくりと広場の中心に歩いてきた。
白い髪が冬の光に透けている。左手薬指のローザさんの銀の指輪が光った。
「ローザ様の宿を守る。それがあたしの仕事だよ」
一呼吸おいて、微かに笑った。
「……五十年前からね」
誰からともなく——声が上がった。
「私たちの町は、私たちで守る」
一人の声だったのか、複数だったのか。もうわからなかった。
広場に拍手が広がった。最初はまばらで、すぐに大きくなった。冬の空気を震わせるほどの、温かい拍手。
涙を流す人がいた。隣の人と手を握り合っている人がいた。フリッツの肩車のアンナが、意味もわからず拍手をしていた。小さな手がぱちぱちと鳴る。
私は顔を上げた。頭を下げたまま、ずっと石畳を見ていた視界が——五十の顔で埋まった。
「……ありがとう」
声にならなかった。唇だけが動いた。
もう一度、声を絞り出した。
「——ありがとうございます」
銀泉楼の応接間に戻って、作戦会議を開いた。
テーブルの上にローザさんの日記を広げた。メモのページ、地脈の図、源泉回廊のスケッチ。
「源泉回廊を通って、北脈のアンカーを解除する」
全員を見回した。声はもう震えていなかった。
「ノアと私が行く」
ノアが頷いた。深い緑の目が私を見ている。「俺がいなければ術式の解析ができない」
ガルドが腕を組んだ。「回廊の構造はじいさんから聞いている。案内は俺がする。三人だ」
マリカさんが発言した。「碧泉宮の動きを監視します。王都の人脈で情報を取ります。アンカーが壊れれば、ヴィクトール侯爵は必ず気づく——その前に、証拠を固めなければなりません」
エミールさんが眼鏡をかけ直した。さっきとは違う、まっすぐな仕草だった。
「町の防衛は私が引き受けます。ディートリヒが来ても、もう怯えない」
ユーディットが言った。「厨房は止めない。湯がなくても飯は出す。あんたたちが帰ってくるまで、宿を回す」
リュカが拳を握った。「俺もやるっす。師匠の代わりは無理だけど——でもやる」
ハンナさんが静かに言った。
「宿を守る。火を絶やさない。お嬢が帰ってくる場所を——温めておくよ」
胸が詰まった。
「明日の朝、源泉回廊に入ります。——全員、お願いします」
全員が頷いた。
夜になった。
銀泉楼の大浴場。源泉が止まって空になった湯船の前に、私とノアが立っていた。
浴場の奥の岩壁。ガルドが言っていた。この壁の向こうに、百年前に掘られた管理通路がある。
石に手を当てた。冷たい。けれど、掌の奥に、微かな振動を感じる。
地脈の鼓動だ。弱々しいけれど、まだ脈打っている。
「聞こえる?」
ノアが隣で石壁に手を当てた。
「ああ。微弱だが、北脈の残留波動だ。回廊は生きている」
壁の向こうの闇を見つめた。ローザさんが一人で降りた道。病の体で、暗闇の中を。
「ローザさん」
声に出して呼んだ。返事はない。けれど、地脈の振動が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
「明日——行きます」
ノアが何も言わずに横に立っていた。その沈黙が、何よりも心強かった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「助けてください」の一言を書くまでに、セラのキャラクターシートを何度も読み返しました。前世のコンサルタント・宮原咲良は数多の旅館を見てきたのに、一度も自分で「助けて」と言えなかった人。頭を下げられるようになったことが、セラにとっての大きな変化なのだと思います。
エミールが眼鏡を外す場面は、書いている最中に降りてきました。長らくレンズ越しにしか町を見られなかった男が、裸眼で町民を見る。あの瞬間がエミールにとっての分水嶺だったと思います。
次回もどうぞお楽しみに。
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