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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第55話: ローザの日記

 「この日記には——ローザ様が最後に何を知り、何を恐れ、何を守ろうとしたか、全部書いてある」


 ハンナさんが革表紙の古い日記を、両手で掲げた。


 二十年の埃が、朝日の中で舞った。




 おにぎりを食べ終えた後のことだった。


 ハンナさんが囲炉裏から立ち上がって、「ちょっと来な」とだけ言った。割烹着の裾を払い、廊下を東棟の奥へ進んでいく。


 私は黙ってついていった。


 銀泉楼の東棟。普段は使わない一角に、物置として封じられた小さな部屋がある。秋にローザさんの隠し金庫を見つけた場所だ。


 ハンナさんが鍵を開けた。軋んだ音とともに、埃っぽい空気が流れ出す。朝日が小さな窓から差し込み、積み重ねられた古い帳簿の山を照らしていた。


 奥の壁に据えつけられた鉄の金庫。あの日、私たちはここからローザさんの日記を見つけた。でも——表紙を開いただけだった。碧泉宮の偵察や源泉の危機に追われて、全容を読む暇がなかった。


 ハンナさんが金庫の前にしゃがみ込み、革表紙の日記を取り出した。


 そして掲げた。両手で、大切に。


 「あたしはね、二十年間——この日記を開けられなかった」


 声が静かだった。いつものぶっきらぼうさが消えている。


 「一人で読む勇気がなかったんだよ。ローザ様の字を見たら、きっと——もう立てなくなると思ってた」


 左手薬指の銀の指輪が、朝日を受けて光った。ローザさんから譲られた形見。


 「でも今なら読める。お嬢がいるから」


 ハンナさんが私を見た。灰色の目が穏やかで——少しだけ潤んでいた。


 「一緒に読んでおくれ」


 頷いた。声が出なかったから、ただ頷いた。




 隠し部屋の床に並んで座った。冬の朝の冷気が石の床から伝わってくる。


 ハンナさんが日記を開く。古い革がきしんだ。黄ばんだ紙に、丁寧な筆跡が並んでいる。


 ローザさんの字だ。穏やかで、芯がある。書いた人の人柄がそのまま滲んでいるような——温かい文字。


 ハンナさんが声に出して読み始めた。


 「『銀泉楼は繁盛している。今月の宿泊者は三百人を超えた。源泉は力強く湧いている』」


 十五年目の記録。銀泉楼の全盛期だ。ハンナさんの声が少しだけ弾む。


 「『ヴァルターの棚田が豊作で、新米をお客様にお出ししたら大好評だった。来年はもっと仕入れよう。ハンナが仲居頭になってから接客の質が格段に上がった。この宿の宝だ』」


 ハンナさんの喉が鳴った。読む声が、一瞬だけ震えた。


 「……先に進むよ」


 ページが繰られる。紙の色が少しずつ変わっていく。インクが褪せ、筆圧が弱くなっていく——ローザさんの体が衰えていった証だ。


 十七年目。


 「『源泉の温度が微かに下がった。気のせいだろうか。ハンナに聞いても、いつも通りだと言う。でもわたしの手は覚えている。この湯はもう少し熱かったはず』」


 ハンナさんの手が止まった。


 「……あたしは気づかなかったんだよ。ローザ様が一人で心配してたなんて」


 「ハンナさんのせいじゃないです」


 「わかってる。わかってるけどさ」


 唇を引き結んで、続きを読んだ。


 十八年目。


 「『見慣れない男たちが谷に来ている。術師風の者が二人、霧峰山に出入りしている。エミールに聞いたが知らないと言う。街道のルート変更が決まったという噂もある。嫌な予感がする』」


 十九年目。ローザさんの字が急いでいる。


 「『源泉が確実に弱くなっている。湯量が半分になった。あの術師たちは消えたが、地下に何かを残した気配がある。わたし一人で地下を調べたが、暗くて奥まで入れなかった。体が——もう、思うように動かない』」


 一人で、地下を。


 病に蝕まれた体で、誰にも頼れず、一人で源泉の地下に降りたのか。


 胸が軋んだ。手帳を握る手に力がこもった。


 二十年目——最後の年。


 ハンナさんの声が低く、かすれた。


 「『調べた。地下に装置がある。地脈の流れを曲げる術式——誰がこんなことを。銀嶺連山の向こう、王都の方角に魔力が引かれている。この装置を壊せば、源泉は戻る。でも——わたしの体では壊せない。壊し方もわからない。悔しい』」


 悔しい。


 その三文字が、他の何より重かった。


 ローザさんは知っていた。二十年前の時点で、地脈操作の存在に気づいていた。原因を突き止め、解決策も見えていた。なのに——体がついていかなかった。


 「最後の——ページだよ」


 ハンナさんの手が震えていた。




 『この日記を読む人へ。


  わたしはもう長くない。体が言うことを聞かない。


  でもこの宿は死なせない。銀泉楼は、この谷の灯だから。


  地下に装置がある。壊せば源泉は戻る。


  でもわたし一人では壊せなかった。


  いつか——この宿を心から愛してくれる人が来たら、その人に託す。


  ハンナ、鍵を預けておくれ。


  あの人が来るまで、待っていてね』




 ハンナさんが日記を閉じた。


 しばらく、何も言えなかった。


 埃が朝日の中で金色に舞っている。古い紙とインクの匂い。二十年の沈黙を破った言葉が、小さな部屋の空気に染み渡っていた。


 ハンナさんの肩が震えている。白い髪が揺れた。


 「ローザ様……」


 声にならない声だった。


 「二十年待ちましたよ。来ましたよ——あの人が」


 涙が、皺の刻まれた頬を伝った。ハンナさんは拭わなかった。そのまま涙を流しながら、日記の表紙を撫でた。長い指が革の上を滑る。半生を連れ添った主人の遺品を——ようやく、手放せる日が来たのだと言うように。


 私は日記を両手で受け取った。革表紙の冷たさが指先から伝わってくる。でも、その奥に温もりがあった。ローザさんが最後の力を振り絞って書いた言葉の——温もり。


 「ローザさんも知っていたんですね。一人で戦おうとして——間に合わなかった」


 涙が落ちた。でも昨夜のように声を上げては泣かなかった。静かに、流れるままにした。


 「でも私には仲間がいる」


 ハンナさんが顔を上げた。涙の痕が光る頬で——笑っていた。


 「ローザさんが一人でできなかったことを、みんなでやります」




 日記の最終ページを過ぎると、余白に別の記述があった。


 ローザさんの筆跡だが少し乱れている。急いで書いたメモだ。


 『地脈は三本。北脈、東脈、西脈。それぞれに装置があるはず。北脈の装置は霧峰山の中腹。東脈は棚田の地下水路。西脈は——わからない』


 そして最後のページの裏表紙に、小さなスケッチが描かれていた。


 線画の地図。銀泉楼の大浴場から地下に降りる通路が描かれている。通路は枝分かれし、それぞれの先に「北脈」「東脈」「西脈」と書き添えられていた。


 地図の上端に、ローザさんの字で一言。


 『源泉回廊げんせんかいろう




 日記を持って応接間に走った。


 ノアとガルドを呼んだ。マリカさんも来た。


 テーブルに日記を広げて、ローザさんのメモとスケッチを見せた。


 ノアの深い緑の目が鋭くなった。地脈計測器を握る手に力がこもっている。


 「ローザ殿の調査は正確だ。北脈のアンカーの位置は、俺が実地で確認した座標と一致する」


 指先がスケッチの東脈の線を辿った。


 「東脈も——棚田の地下水路の分岐点か。そして、この源泉回廊が本物なら、地上から山を越えずにアンカーに到達できる」


 声に久しぶりの熱がこもっていた。昨夜、冷たい浴槽の底で私の隣に座っていた人と同じ人には思えないほどの——研究者の目だった。


 ガルドが腕を組んでスケッチを覗き込んだ。


 「……じいさんから聞いたことがある。銀泉楼の地下に、昔の源泉管理用の回廊があるってな」


 「入口はどこ?」


 「大浴場の奥だ。岩壁に隠されてるはずだ。百年前に初代が掘った管理通路で、じいさんが子供の頃に一度入ったことがあると——『地脈の腹の中みたいだった』って言ってた」


 マリカさんが静かに口を開いた。


 「セラさん。碧泉宮の動きも注視すべきです。アンカーを壊したら、ヴィクトール侯爵はすぐに気づきます。碧泉宮の湯が弱まるわけですから」


 「わかってる。だからこそ今しかない。源泉が止まったまま冬を越したら——町が保たない」


 全員の顔を見回した。


 応接間の入口に、ハンナさんが立っていた。まだ目が赤い。でも背筋はまっすぐだ。


 ノアを見た。ガルドを見た。マリカさんを見た。ハンナさんを見た。


 「ローザさんが見つけた道を辿る。源泉回廊を通って、北脈のアンカーを壊しに行く」


 ノアが頷いた。


 「準備に一日くれ。術式の最終解析をする。回廊の状態次第では、建築魔法の備えも要る」


 ガルドが鼻を鳴らした。


 「しょうがねぇな。回廊の案内は俺がする。じいさんの話をちゃんと聞いといて良かったぜ」


 「二人だけで行かせはしません。碧泉宮への警戒は私が」


 マリカさんの濃紺の目が、静かな覚悟を湛えていた。


 ハンナさんが言った。


 「行っておいで、お嬢。帰ってきたら温かい飯を出す。——必ず帰っておいで」


 その声は命令ではなかった。祈りだった。二十年間、ローザさんの代わりに宿を守り続けた女性の——祈り。


 手帳を開いた。


 「女将」と書いたページの下に、新しい文字を書き足した。


 『源泉を、取り戻す』


 窓の外に、冬の霧峰山が見えた。白い山頂が朝日に照らされて、微かに赤みを帯びている。


 あの山の中腹に、北脈のアンカーがある。ローザさんが辿り着けなかった場所に——私たちは行く。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ローザの最後のページを書いている時、自分の手も震えました。一人で病の体を引きずって地下に降り、装置を見つけたのに壊せなかった——「悔しい」の三文字に、ローザの二十年間の全てが凝縮されています。


ハンナが二十年間日記を開けなかったのは、読めばローザの遺志を知ってしまうから。知れば動かなければならない。でも七十二歳の自分にはその力がない——その無力感こそが、日記を封じていた本当の鍵でした。セラが来て初めて、鍵を開ける理由ができた。


次話、いよいよ源泉回廊に潜ります。お楽しみに。


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