第63話: 王都へ——それぞれの戦場
一年前、追い出されるように王都を出た。何も持っていなかった。
今日、冬の朝に、取り返しに行く。
朝霧が銀泉楼の屋根を包んでいた。玄関口に馬車が三台、白い息を吐く馬たちの鼻先を街道に向けて並んでいる。一台目にはマリカさんと私。二台目にはエミールさんとハイネ殿。そして三台目——鼻先を街道の反対方向、銀嶺連山の東へ向けた馬車。学術都市エルデンハイム行き。ノアの馬車だ。
息が白い。手帳を握る指先が冷たかった。
銀泉楼の玄関に、残る者たちが並んでいる。
棟梁が腕を組んだまま、鉄色の目で馬車を見ている。
「行ってこい。帰ってきたら、もう五室は直しておいてやる」
ユーディットさんが腰に手を当てて、いつもの不敵な表情で言った。
「女将さんが帰ってくる頃には、新メニュー三品追加してやる。冬の食材が入ってきてんだ、腕が鳴る」
リュカが一歩前に出た。
「行ってらっしゃいっす! 俺、修行しときます! 師匠に追いつくんで!」
ユーディットさんがリュカの後頭部をぱしんと叩いた。
「追いつくとか百年早い。でもまあ——気合いは悪くない」
リュカが照れたように笑う。その笑顔が眩しかった。一年前には、廃屋の裏で一人きりで料理の練習をしていた少年が、今は、師匠の隣に堂々と立っている。
最後に、ハンナさんが帳場から出てきた。
白髪を後ろでまとめ、割烹着の袖をまくったいつもの姿。銀泉楼の玄関に立つと、小柄な体なのに建物と一体になるような存在感がある。五十年この町にいる人の重みだ。
ハンナさんが私の前に立った。灰色の目で、真っ直ぐに見てきた。
何も言わなかった。さっき交わした短い言葉で、もう十分だった。
——ローザさんが二十年前、この同じ玄関に立っていたことがある。あの日記にあった。『源泉が弱まっている。この恵みを奪う者がいるなら——戦わなければ』。ローザさんは声を上げようとした。けれど——証拠がなかった。味方がいなかった。一人で戦おうとして、体を壊した。
ハンナさんは、その全部を見ていた。ローザさんが戦い、倒れ、旅館が閉じ、町が枯れていく二十年を、この場所で、見続けてきた。
ハンナさんの手が伸びて、私の外套の襟元を直した。小さな手だった。割烹着の袖口から覗く左手の薬指に、ローザさんから譲られた銀の指輪が、朝の光を受けてかすかに光った。
「——必ず」
深く、深く頭を下げた。顔を上げたとき、ハンナさんの灰色の目が光っていた。泣いてはいない。でも——堪えている。
ノアが三台目の馬車の前に立っていた。外套の襟を直しながら、深い緑の瞳に、静かな力がこもっている。外套のポケットから手帳が覗いていた。二年分のデータが詰まった、あの手帳。
打ち合わせはもう済んでいる。「法廷で待ち合わせだ。俺は——データで戦う」。ノアのあの一言が、まだ耳に残っていた。
その一言に、ノアの全てが詰まっている。五年前、リンドヴァル村で学会も動けず、データも揃わず、ただ廃村を見届けることしかできなかった悔い。あの日から二年間、ミストヴァレーで黙々とデータを積み上げてきた。今度は、違う。
ノアが馬車に乗り込む直前に振り返り、私を見た。
何か言おうとして——言わなかった。代わりに手帳のポケットを軽く叩いた。データは全部ある、という合図だと思った。それから、もう一度だけ、口元を緩めた。小さく、不器用に。
ノアの馬車が、朝霧の中を東に向かって走り出した。銀嶺連山の稜線が霧に溶けている。学術都市エルデンハイムは、あの山を越えた先にある。
背中が見えなくなるまで見送った。朝霧が馬車を飲み込んで、白い静寂だけが残った。
一台目の馬車に乗り込んだ。マリカさんが窓際に座っている。黒髪を低い位置でまとめ、地味な外套を羽織っている。けれど背筋は完璧に伸びていて、窓からの冬の陽が横顔を照らしていた。
馬車が動き出す。銀泉楼が、ゆっくりと後ろに遠ざかっていく。
しばらく、二人とも黙っていた。馬車の車輪が石畳の街道を刻む音だけが響く。窓の外には冬枯れの街道と、銀嶺連山から降りてきた霧の帯。木立は葉を落とし、裸の枝が灰色の空に黒い線を引いている。
マリカさんが、ぽつりと言った。
「セラさん。王都は……一年ぶりですか」
「私は追放されてから初めてです。マリカさんは?」
「二年ぶり。逃げ出して以来」
マリカさんが窓の外を見つめた。濃紺の目に、景色が映っている。
「……今度は、逃げるためじゃなく」
「ええ。今度は、取り返すために」
マリカさんが小さく笑った。完璧な笑顔ではない。少し不格好で、だから本物だった。
「セラさんに出会えて、よかった」
「私も。——あなたがいなかったら、この戦いは始まらなかった」
マリカさんの翡翠殿での十一年間。あの場所で磨かれた技と、あの場所で負わされた傷。その両方が、今、武器になる。
「ゲルハルトさんに会ったら、最初に何と言いますか」
マリカさんが膝の上で手を組んだ。組んだ指に、ぐっと力がこもる。でも、声は落ち着いていた。
「『お久しぶりです』とは言わないつもりです。——『助けに来ました』と」
私は頷いた。その言葉には、二年間の重みがある。二年前、ゲルハルトさんは「逃げろ」と言ってマリカさんを送り出した。あのとき、逃げる側と残る側、二人の間にあったのは、諦めだったのだろう。今マリカさんが届けようとしているのは、諦めの反対側にある言葉だ。
十日の旅路だった。荒れた峠道を馬車が揺れ、街道の宿場で夜を重ね、丘陵地帯を越えて——十一日目の昼過ぎ、王都グランシュタットの城壁が見えた。
灰色の石壁。その上に連なる尖塔。冬の午後の陽を受けて、城壁が鈍く光っている。城門に向かう街道には行商人の馬車や荷馬車がひっきりなしに行き交い、人の声と馬蹄の響きが遠くまで届いていた。
一年前。
あの城壁を、馬車の後ろの窓から見た。追い出されるように王都を出て、振り返ることもできずに。何も持っていなかった。権利書と、着の身着のままの服と、前世の記憶だけ。あの日は春だった。桜に似た花が街道脇に咲いていて、涙で霞んで見えた。
今。
同じ城壁を、馬車の正面の窓から見ている。季節は冬に変わっている。
隣にはマリカさんがいる。後ろの馬車にはエミールさんとハイネ殿がいる。東の空の向こうでは、ノアが学会に向かっている。銀泉楼には、ハンナさんと棟梁とユーディットさんとリュカが、私たちの宿を守っている。
鞄の中には、四つの証拠がある。
手帳の中には、戦略がある。
胸の中には、町の八十七人の想いがある。
同じ景色なのに、全部違う。
マリカさんが窓の外を見て、低い声で言った。
「……大きい街ですね。一年離れていたら、こんなに大きかったかと驚きます」
「ええ。でも、ミストヴァレーの方が——広い気がする」
「それは——」
「人の想いの分だけ」
マリカさんが微笑んだ。今度の笑顔は、翡翠殿で磨いた完璧な笑顔だった。でもその奥に、本物の光がある。
「では、参りましょう。セラさん」
「ええ。——参りましょう」
城門をくぐった。石のアーチが馬車の天蓋を圧するように迫り、一瞬だけ暗くなる。抜けた先には——王都の喧騒。石畳を叩く無数の靴音、市場の呼び売りの声、馬車の轍の軋み、焼きたてのパンの匂い、鍛冶屋の煤の匂い、冬の陽に温められた石壁の匂い。全部がいっぺんに押し寄せてきた。
ミストヴァレーの霧の中の静けさとは、別の世界だ。
王都の安宿に荷を降ろし、四人で手筈を最終確認した。
部屋は二階の端、窓から東区の屋根並みが見える狭い一室だった。壁は白漆喰が一部剥がれ、木の床は軋む。銀泉楼に比べたら、掃除のしがいがある、とだけ思った。
「マリカさんは翡翠殿へ。ゲルハルトさんに接触してください」
「はい。裏口から入ります。あの時間帯なら——支配人は厨房の帳簿を締めている頃です」
「エミールさんは辺境総督府へ。陳情書を提出してください」
エミールさんが眼鏡を直した。手の中で、陳情書の端が汗を吸って波打っている。
「は、はい。陳情書は三通用意しました。宛先は辺境総督、調査委員会、記録室。どこかで握りつぶされても、残りが通るように」
——さすが十五年の行政経験だ。書類の多重提出を自分で思いついている。一年前の、「でも……しかし……」と言い淀んでいたエミールさんとは別人だった。
ハイネ殿が事務的な口調で補足した。
「辺境総督府の受付は、午後三時を過ぎると書記官が帰り始めます。それまでに提出してください。受理番号を必ず控えること。——記録室は地下一階です。入口がわかりにくいので、正面階段を降りて左に進んでください」
「わかりました」
エミールさんが頷く。覚悟を決めた後のエミールさんは、意外としっかりした目をする。薄い青色の瞳に、静かな炎が灯っている。
「私は訴訟準備を進めます。ハイネ殿には証拠書類の時系列整理をお願いします」
「承知しました。午後には完了させます。——なお、指示書の日付と辺境総督府の巡回記録を照合することで、侯爵閣下が直接関与していた時期の特定が可能です。法廷では有効な補強材料になります」
十年間、書類で人を追い詰める側にいた人だ。その技術が、今度は、正しい方向に使われる。
「では——各自、動いてください」
全員が頷いた。
部屋を出る直前、マリカさんが振り返った。
「セラさん」
「はい」
「夜、戻ったら——結果を報告します。良い報告ができるよう、努力します」
完璧な所作で一礼し、廊下に消えた。背筋の伸びた後ろ姿が、冬の陽射しに一瞬だけ光った。
翡翠殿の裏口は、二年前と変わらなかった。
マリカは外套のフードを目深に被り、従業員通用口の脇に立っていた。心臓が激しく鳴っている。手のひらに汗が滲む。
碧泉宮の敷地内、翡翠殿の裏手。大理石の本棟からは離れた、使用人棟の横の目立たない一角。煉瓦の壁に木の扉。錠前は変わっていない。扉の角の塗装が剥げているのも——二年前のままだった。
二年前、この同じ通用口から逃げ出した。深夜、荷物一つだけ持って。振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだったから。
今日は——振り返らない。前を向いて、入る。
厨房から漏れる灯りが見えた。帳簿締めの時間だ。支配人は几帳面な人だった。毎日同じ時刻に同じ場所で同じ作業をする。それは二年前も、きっと今も変わっていない。
通用口の扉を叩いた。三回。間を置いて、二回。
翡翠殿の従業員が仲間に知らせるときの合図。体が覚えていた。十一年間、何千回と叩いたリズム。
扉が開いた。
厨房の灯りを背に、一人の男が立っていた。五十代半ば。灰色の髪を丁寧に撫でつけ、黒い上着に銀のカフスボタン。翡翠殿の支配人、ゲルハルト・ヴェーバー。
ゲルハルトがマリカを見て——立ち止まった。
数秒の沈黙。冬の風が通用口を吹き抜ける。厨房の奥から鍋が触れ合う音と、かすかに油の香りが漂ってくる。
「……マリカ」
低い声だった。驚きと、困惑と、それから——何か別のもの。名前を呼ぶ声が、かすかに震えていた。
「まさか、戻ってきたのか」
マリカは背筋を伸ばした。翡翠殿で十一年間叩き込まれた所作が、自然と体を整える。でも、今の自分は、翡翠殿の花形仲居ではない。銀泉楼の仲居頭だ。
「ゲルハルトさん。お久しぶりです」
そう言うつもりはなかったのに、口から出た。二年間の空白が、礼儀正しい挨拶を勝手に選んでいた。
「——いいえ。言い直します」
マリカは一歩踏み出した。
「逃げるためではありません。——あなたを助けに来ました」
ゲルハルトの灰色の目が揺れた。唇が一瞬開き、また閉じた。支配人の仮面が、ほんの一瞬だけ、ずれた。
「……馬鹿な」
低い声が廊下に落ちた。
「侯爵閣下を敵に回す気か。お前に何ができる」
「もう回しています」
マリカは答えた。声は震えなかった。銀泉楼の帳場で、何十人もの客を迎えてきた声だ。
「証拠は四つ揃いました。ディートリヒ・ハイネ殿の十年分の指示書。地脈学者の学術データ。ローザ・ベルクヴィスト女将の二十年前の日記。そして、私の証言」
ゲルハルトの目が細くなった。
「……お前が証言する、と」
「はい。翡翠殿での十一年間。私が見たこと、聞いたこと、させられたこと、その全てを、法廷で語ります」
沈黙が落ちた。ゲルハルトが腕を組んだ。仮面が戻っている。支配人の、感情を読ませない顔。
「あとは、あなたが証言してくれるかどうか」
マリカは言った。
「金の流れを知っているのは、あなたです。碧泉宮の建設資金、地脈操作の術師への報酬、街道ルート変更の賄賂。全ての帳簿が、あなたの頭の中にある」
ゲルハルトが目を伏せた。長い沈黙。
通用口の外で、冬の風が枯れ葉を転がしている。
「……二年前」
ゲルハルトが低い声で言った。
「お前が逃げるとき、俺は言ったな。『逃げられるなら、逃げろ。俺はもう逃げられない』と」
「覚えています。——二年間、ずっと」
「あの言葉は本心だった。今も変わらない。俺には家族がいる。翡翠殿の従業員もいる。侯爵閣下を裏切れば——」
「守れます」
マリカは遮った。
「ゲルハルトさん。あなたが証言すれば、侯爵閣下は失脚します。失脚すれば、あなたへの報復もない。翡翠殿の従業員も、あなたの家族も、鎖から解かれる」
ゲルハルトの指が、腕組みの中で微かに動いた。
「……考える時間をくれ」
「いつまでですか」
「明日の朝。——ここに来い。同じ時間に」
マリカは頷いた。
踵を返す前に——もう一言だけ、添えた。
「ゲルハルトさん。あの日、あなたが『逃げろ』と言ってくれなかったら、私は今ここにいません。銀泉楼にも辿り着けなかった。——あなたが、私を逃がしてくれたんです」
ゲルハルトが顔を上げた。仮面の奥で、何かが揺れていた。灰色の目が、一瞬だけ赤くなった。
マリカは一礼し、通用口を出た。
冬の空に、最初の星が一つ、光っていた。
辺境総督府は王都の東区にある。灰色の石造りの重々しい建物で、正面に王家の紋章が掲げられている。石段は磨り減って中央が窪んでいる。何百年もの間、陳情する人々の足が削ったのだろう。
エミールは、その正門の前で立ち止まっていた。
手の中の陳情書が、汗で湿っている。三通。同じ内容を三部。宛先だけが違う。
十五年間、町長をしてきた。書類は何百枚と書いた。でも——中央に物申す書類は、一度も書いたことがなかった。
怖かったのだ。
相手は侯爵だ。中央の大貴族だ。辺境の小さな町の町長が逆らって、何ができる。そう思って、十五年間——目を伏せてきた。街道ルート変更の不自然さに気づきながら。あの日、エルデン街道の経路変更の通達が来たとき、町役場で一人、通達書を何度も読み返した。文面は行政的に完璧だった。けれど、理由が薄かった。「交通効率の最適化のため」。たったそれだけで、二百年続いた街道のルートが変わるのか。おかしいと思った。思っただけで、何もしなかった。
源泉が枯れていくのを見ながら。人が出ていくのを、泣きながら見送りながら。
足が動かない。
石段の前で、エミールの膝が震えていた。
——セラフィーナさんの顔が浮かんだ。
あの人は、廃墟を見て「最高の物件」と笑った。侯爵の金貨五千枚を一秒で断った。五十人の前で頭を下げて「助けてください」と言った。
ハンナさんの声が聞こえた気がした。
『勝ってきな』
エミールは、眼鏡を外した。レンズを丁寧に拭いた。かけ直した。
世界が、少しだけ鮮明になった。
石段を登った。磨り減った石の窪みに、自分の靴が嵌まった。何百年分の陳情者たちの足跡に、今日、自分の足跡が重なる。
受付の書記官が顔を上げた。若い男だった。退屈そうな目でエミールを見ている。
「ご用件は」
エミールは陳情書を差し出した。差し出した腕が、肘から先で小刻みに揺れていた。それでも、引っ込めなかった。
「ミストヴァレー町長、エミール・ヴァイスと申します」
声がかすれた。咳払いをして、もう一度。
「——二十年間に及ぶ、地脈操作による被害を報告いたします。アシュフォード侯爵閣下による、ミストヴァレーの源泉および地下水脈への人為的干渉。街道ルート変更の政治工作。税務査定の不正操作。それらの証拠一式を、陳情書と共に提出いたします」
書記官の退屈そうな目が、途中から真剣になった。ペンを置き、陳情書に手を伸ばし、中身を読み始めた。
ページをめくるたびに、書記官の眉が上がっていく。
「……大きな話ですね」
書記官が呟いた。
「調査委員会に回します。——受理番号を発行いたしますので、少々お待ちください」
受理された。
エミールの膝から力が抜けそうになった。受付の椅子に手をついて、必死に堪えた。
受理番号を記した紙を受け取った。手が震えている。でも、嬉しい震えだった。
辺境総督府の石段を降りながら、エミールは冬の空を見上げた。
やった。
やったぞ。
十五年間、逃げ続けた。「でも」「しかし」と言い訳して、何もしなかった。
今日——初めて、逃げなかった。
眼鏡の奥で、視界が滲んだ。石段の途中で立ち止まり、空を見上げた。冬の空は高く、澄んでいた。ミストヴァレーの空と同じ青さだった。
セラフィーナさん。ハンナさん。ノアさん。みんな。
私は——逃げなかった。
同じ頃。学術都市エルデンハイム。
石造りの尖塔が立ち並ぶ学問の街。王立学院の分校、各種学会の本部、研究機関の建物が、狭い路地を挟んで密集している。通りを歩く人間の半数が本を抱え、残り半数が議論をしながら歩いている。路地に面した古書店からは紙とインクの匂いが漏れ、どこかの講義室から講師の朗々とした声が聞こえる。石畳の上を学生たちの足音が忙しく行き交い、この街全体が、一つの巨大な書斎のようだった。
ノアは地脈学会本部の受付で論文を提出した。
「ミストヴァレー地脈異変に関する実証的研究——人為的地脈導管の検出と分析」
革表紙に綴じた論文の束。二年間の現地調査データ。維持装置の構造記録。地脈流量の経年変化グラフ。碧泉宮の泉質データとの魔力パターン比較。全て揃っている。
受付の学会職員が論文を受け取り、最初の数ページをめくった。
顔色が変わった。
「少々お待ちください」
職員が奥に消え、数分後、白髪の老人が現れた。地脈学会の副会長、ルートヴィヒ・グリンデル。ノアが王立学院時代に講義を受けた教授だ。かつて「地脈異変論」の講義で、「データなき主張は仮説以前である」と繰り返し語っていた人。
グリンデル教授がノアを見て、目を細めた。
「ヴェステルンド君か。久しぶりだな。——これは、お前が書いたのか」
「はい。二年間、現地に滞在して収集したデータです」
グリンデル教授が論文を手に取り、ページをめくり始めた。読む速度が、途中から遅くなった。何度もページを戻し、グラフと本文を見比べている。老いた指が、地脈流量のグラフの上を何度も往復する。
「……ヴェステルンド君」
教授が顔を上げた。学者の目が、鋭くなっている。
「これが事実なら、王国始まって以来の大事件だぞ。人為的な地脈導管術の現物を確認したと——」
「事実です」
ノアは端的に答えた。
「維持装置の現物を確認済みです。北脈と西脈のアンカーは既に解除しましたが、東脈のアンカーは意図的に残しています——証拠保全のために」
グリンデル教授の白い眉が跳ね上がった。
「解除した? お前が? 地脈導管術のアンカーを?」
「北脈は三層防護術式でした。解除に全魔力を使い果たしましたが——成功しています。解除前後の地脈流量データもここに」
追加資料を差し出した。グリンデル教授がそれを受け取り、数値を目で追い、低い声で唸った。
「解除前後で地脈流量が二・四倍。……自然回復では説明できない数値だ」
「はい。だから人為的操作だと結論しています。碧泉宮の魔力パターンとの一致データもあります。流出先は特定済みです」
グリンデル教授が論文を閉じた。老学者の目が、真剣そのものだった。
「緊急審査にかける。学会の理事全員を招集する」
ノアが一瞬、目を見開いた。緊急審査——通常の論文審査が数ヶ月かかるところを、数日に短縮する例外的な手続きだ。
「加えて、検証チームを編成してミストヴァレーに派遣する。東脈のアンカーの現物確認が必要だ」
「ありがとうございます。——一つ、お願いがあります」
「なんだ」
「この論文の内容が、外部——特にアシュフォード侯爵の関係者に漏れないよう、情報管理を徹底していただきたい。法的な手続きが並行して進んでいます」
グリンデル教授が頷いた。
「わかった。理事会は非公開で開催する。——ヴェステルンド君」
「はい」
教授は老いた目を細め、ノアを正面から見た。
「よくやった。お前は学院時代から地脈異変の研究に執着していたな。五年前のリンドヴァル村の報告書も読んだ。あの時は、学会も動けなかった。データが足りなかった。政治的な圧力もあった」
ノアの指が、わずかに強張った。リンドヴァル。あの名前を聞くと、まだ、胸の奥が軋む。あの村の最後の住民が荷馬車に家財を積んで去っていく背中を、ただ見送ることしかできなかった日。データが足りなかった。学会は「証拠不十分」と結論した。あの日から、自分に誓った。次は、動かしようのないデータを揃えると。
「今度は違う。データが揃っている。証人もいる。——学会として、動くべき時だ」
グリンデル教授が手を差し出した。老いた手だが、握力は強かった。ノアがその手を握った。
「教授。リンドヴァルの件を覚えていてくれたのですか」
「忘れるものか。あの報告書を『証拠不十分』で棄却した時の——学会の判断を、私は悔いている。今度こそ正しい判断をする。それが、あの村への償いでもある」
学会の薄暗い廊下を歩きながら、ノアは手帳を開いた。論文提出、完了。検証チーム派遣、確定。
——あとは、セラに報せる。
夜。王都の安宿。
窓の外には王都の夜景が広がっている。魔導灯の数がミストヴァレーとは桁違いだ。橙色と白色の灯りが石造りの家並みを照らし、遠くに王城の尖塔が闇に浮かんでいる。街路を行く人々の笑い声や、酒場から流れる音楽が、二階の窓まで登ってくる。一年前は、この灯りの中の一つが私の家だった。
今は——違う。私の家は、霧の中にある。
マリカさんが報告してくれた。ゲルハルトの反応。「考える時間をくれ」。拒否ではない。迷っている。まだ望みはある。
エミールさんが報告してくれた。陳情書が受理されたこと。受理番号を三つ。声が上ずっていた。眼鏡の奥の目が、泣いた跡のように赤かった。けれど、背筋は伸びていた。
ハイネ殿が証拠書類の時系列整理を終えた。十年分の指示書が、日付順に並べ替えられている。法廷に出しても通用する精度だと言った。加えて、ヴィクトール卿が地脈操作に最も深く関与していた時期が、碧泉宮の建設初期と、五年前のリンドヴァル村が廃村になった時期に集中しているという分析結果も出た。
全員が、自分の役目を果たしている。
手帳を開いて、今日の結果を書き出した。
『マリカ → ゲルハルト接触。返事は明朝。希望あり』
『エミール → 陳情書受理。受理番号三通確保。調査委員会に回付』
『ディートリヒ → 証拠整理完了。法廷提出可能な状態。時期分析も追加』
『ノア → 』
ここで止まった。ノアからはまだ報せがない。学術都市エルデンハイムは王都から馬車で一日。伝書が届くのは今夜か、明朝か——
こんこん。
扉を叩く音ではなかった。窓だ。
窓の外に、小さな鳥が止まっていた。灰色の翼に銀の脚環。——伝書鳩だ。地脈学会の紋章が刻まれた脚環。ノアからだ。
窓を開けて、鳩の脚から小さな紙片を外した。ノアの几帳面な文字。
読んだ。
一度、読み返した。
手帳に書き写した。
『学会が動いた。緊急審査決定。検証チームのミストヴァレー派遣も確定。
——だが、ヴィクトール卿にも伝わっている可能性がある。学会の理事の中に、侯爵と繋がりのある人間がいないとは言い切れない。
気をつけろ。
ノア』
紙片を手帳に挟んだ。
窓の外を見た。王都の夜空には星がほとんど見えない。灯りが多すぎるのだ。ミストヴァレーなら、満天の星が見えるのに。
学会が動いた。これで三方のうち二方が始動した。残りはゲルハルトの返事。
でも——ノアの最後の一行が引っかかる。
ヴィクトール卿にも伝わっている可能性がある。
侯爵は、待つ人間ではない。知れば、動く。合法の仮面を被って、あるいは仮面を脱ぎ捨てて。碧泉宮の年間利益は金貨にして数万枚。それだけの利権を守るためなら、侯爵は何をするか。
安宿の薄い壁の向こうで、酒場の客が笑っている。何も知らない人たちの、平和な夜だ。
手帳を閉じた。
——ふと、街路の角に人影が見えた。外套のフードを目深に被った男が、安宿の正面を見上げている。冬の夜に立ち止まる理由は——。
目を凝らした。男が動いた。街路の闇に溶けるように、角を曲がって消えた。
見間違いかもしれない。王都には人が多い。たまたま立ち止まった通行人かもしれない。
——でも。
ヴィクトール卿の情報網は、翡翠殿を通じて王都の隅々にまで張り巡らされている。セラフィーナ・ルヴェールが王都に戻ったという情報が、既に碧泉宮に届いていてもおかしくない。
窓の鍵を締めた。手帳を握りしめた。
明日、ゲルハルトの答えが出る。包囲網の最後の一枚が嵌まるか——それとも。
眠れない夜になりそうだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「出発と到着」の回。書いていて一番印象に残ったのは、同じ王都の城壁を、セラが「追放の朝」と「反撃の日」で二度見るところ。同じ景色を違う目で見る——というのは、この物語の通奏低音かもしれません。マリカもまた、同じ翡翠殿の通用口を「逃げる日」と「戻る日」で二度くぐっています。
エミールの辺境総督府の場面は、実は書くのに一番時間がかかりました。長く逃げ続けた人が、初めて「逃げなかった」と自分に言える瞬間。派手な見せ場ではないけれど、この物語で描きたかった「普通の人の覚悟」が、ここに静かに息づいています。
ノアの学会提出シーンに登場したグリンデル教授は、ノアの王立学院時代の恩師という設定。かつて動けなかった学会側にも、ずっと残っていた悔いがあった——そう思って書きました。
ゲルハルトの「考える時間をくれ」が、明朝どうなるか。翡翠殿の支配人の決断が、この包囲網の最後のピースになります。
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